ブログ - 20200411のエントリ
今回のコロナ禍で、わたしは、坂口安吾、太宰治、檀一雄など無頼派と呼ばれる作家たちに興味がわいてきた。もとより、小説家と呼ばれる人々は、反抗的であり、反体制派であり、社会のはぐれものであり、その視点がなければ芸術は産まれないのである。が、わたしは彼らが太平洋戦争の悲惨な敗北の中から大地を持ち上げるようにして勃興させたそのエネルギーと精神状況に、コロナ禍を重ね合わせたくなった。悲惨な敗北というのは人が殺された悲しさ、あるいは、家がなくなったという物質的なものだけではない。それまで信じていた天皇制、幸福感、文化、個人的信条などが一気に崩壊したのである。わたしは、今回のコロナ禍で、、自分を含め,人々の人間中心主義、競争原理、デジタル信仰、利便性、快楽、幸福感などの価値観が崩れ、それが大きな不安をもたらし、何を信じれば良いのかわからない、その精神状況を考えてみたいのである。
無頼派たちはどのようにその時代と向き合ったのか?安吾は、(ハクチ)?差別用語になったのか?漢字に変換できない,では主人公がハクチ女の手を握って空爆から逃れ、戦火の中を逃げ回る物語である。彼女はそれでありながらどんな男にも体をまかせる女、という重要な伏線がはじめに書かれているのである。米軍の戦闘機に爆撃され、命からがら逃げる中で、娼婦とセックスにふけるという人間の欲望、この赤裸々な部分が読者に迫ってくる傑作である。それを淡々とした書き方で書いていることがまた、すごいし、戦争に対する考えや感情などは一切排除している作者の態度にまた、驚かされる。書かないことによって、現している、これが小説の神髄なのである。
太宰治は、小説の中で、自分は恥ずかしい人生を生きてきました、産まれてきてすみません、自分は人間失格です、と書くことによって、作者の目線をすごく低くし、自在に書ける特質を得た。また、時代への視線をまったく外し、戦争のことなど一言も書いていないのだ。酷い戦況下において、卑小な自己にどこまでもこだわる、その凄さを、見せてくれる。
さて、このコロナ禍の中で、現代の作家と呼ばれる方々がどのように、自己の作品と取り組まれるのか見ものであり、そこで彼らと時代の本性がむきだされるのではないか?と思う。
それに、無名の物書きのわたしですが、心は一応、無頼派なのです。