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このブログの一つ前に、植物は近親交配をさけるために、一つの茎から出たおしべとめしべは受粉しないと書いているが、それから連想することがあった。近親交配をすれば生命力が弱り、劣性遺伝を繰り返すようになることを植物は知っているからであろう。花はなぜ美しいのか?ということもブログに書いているが、美しくなければ蜂も蝶も寄って来ないからである。そこで、結論を言えば動物も植物も人と同じく、考えたりk、感じたりすることができるということである。
広い屋敷の草刈りをほぼ毎日やっているが、そこでもいろんな発見をする。近頃は外来種のツユクサがはびこり手を焼いている。草刈り機で一振りでは切れず、茎は長くのび、その上、あちこちで根を張っている。草刈り機の刃に絡みついて離れない。
そして、おどろくことに国産のツユクサもそうであるが、切っても枯れないのである。水分をたっぷり体に蓄え、数か月でも持ちこたえる。さらに切られた茎から根を出して、地面にふたたび張っていく。刈った草を一か所のまとめておかないと数か月たてば元の木阿弥になってしまう。他の植物や動物ではとうていできないことをやっている。カヤやヤブガラシであれば一回刈れば数か月はもつのであるが、そのツユクサが前面を占領してしまえば大変なことになる。草まみれの家になってしまうであろう。
猫の動画をスマフォでよく見るが、アヒルの子供が親猫のあとについて行く光景が出て、わたしは熱心に見ている。普通であれば猫はアヒルを食い殺すのであるが、その子供をかわいがるなんて信じられなかった。
聖書に妖精や聖霊、霊の世界が出てくるがあれは本当のことだと思う。命はみな、兄弟姉妹なのである。
カラオケを歌うことは、老後の人生の中の大きな楽しみの一つです。十一月に、岡垣サンリーアイで歌うことになり、少し緊張しています。三度目の出場で、文化祭の一つのイベントで、出場は無料です。
何を歌おうか?と迷っていますが、(命くれない)にしようかと思っています。歌いやすいし、歌詞の内容も気に入っています。(産まれる前から結ばれていた。そんな気がする紅の花・・)という言葉は日頃考えていた男女関係にすごく通じるのです。
77年の人生の中で、自分の出来事も含め、いろんな男女の関係を見てきましたが、結びつきは生まれる前からきまっていた、というよりもともと一つであったものが分離してしまい、まわりまわって(よりをもどす)ことではないか?と考えていたのです。聖書の創世記の書き出しの部分においても、男のあばら骨から取り出されて女が産まれた、と書いてあるように、もとは一身同体であったのです。異性を求める必要もなかったのです。植物の世界にも見られるように、雄と雌が一つの株で生きていたのです。ところが一つの株のオスとメスは交配が出来なくなり、遠く離れた雌雄を求め、結ばれる仕組みに変わってしまったのです。そうすれば自然い運動能力が発達するからです。これは神の働きかもしれません。
人間世界においてもいくら努力しても結ばれないけど、ふとしたきっかけで結ばれ、離れなくなってしまうケースがあります。ところがうまくいかず、他人がいるる前でも彼らは大声で喧嘩をし、あるいは三十年間も家庭内離婚の状態にありながら別れない場合があります。これらは、生まれる前から結ばれていた、にちがいありません。
元のさやの中に納まったのだから、ある意味では幸福なのかもしれません。
七百坪の敷地の草刈りは一年中刈っても終わらず、始めの場所に戻ってしまった。そこの草の方が刈りやすく、少しでも成果を見せてくれるからである。残りは外来種のツユクサで一振りで刈れない厄介者である。また刈るわけであるがいつのなるのかわかりはしない。年中にはかたずけたい思いである。
椅子に座って、そんな事を考えていると、涼しい秋風が頬に寄せ、慰めてくれるように思えた。父母は亡くなり、一人ぽっちの屋敷で労をねぎらってくれる者はいない。地獄の釜茹でように暑かった夏がよぎり、秋風の優しさに思わず涙した。
札幌首切り事件、イスラエル戦争、台風災害、米野菜の不作、兵庫県知事の事件、など人間世界は相変わらず、混乱したが我が家は栗だけが順調に実をつけ、家計を助けてくれた。落ちてしまってそろそろ終わりを迎えそうであるが、体を開いて身を落とす栗をみると、心が温まる。栗は与えることによって、実を広がせ、生きているのである。
自分と同年配の者達は入院したり、杖をついて歩くようになったりしているが、まだ自分は二本の脚で歩ける。膝が痛むが一万歩も歩くカート作業もこなしている。
椅子に座った自分の背後では、使い古した鎌が草の中に転がっている。
(野垂れし鎌や刃先覗かす)
である。
今、世間で騒がれている斎藤・元・兵庫県知事の出来事と彼の対応の仕方を知ると、理解出来ないまたは不思議であると言う気がする。部下が彼の内部通報を知られて解職という報復を受け、悩みの末、自殺までしているのに元知事は次回の知事選に出るという。彼はその責任を取って失職し、県議会では議員全員からの不信任案を突き付けられたのにである。
自分は彼の言動に反発をおぼえながら、良い悪いは別にして彼の言動を理解出来ると考え、世間では度々起こっていることでもあることに気づいた。
結論を出すと、蚊帳の内と外という立場の違いである。知事のパワハラや仕事上の不始末が内部通報されたのだが、それは彼にとっては一緒に仕事をしてきた仲間の密告・裏切りであり、断じて許せず、死のうが生きようが知ったことではないのである。世間が騒いでもそれは蚊帳の外での出来事であるし、自分は仕事を一生懸命してきているではないか?と考え、蚊帳の中に籠っている。蚊に直接刺されることはない。
世間で事件が起こる場合はほとんどこの立場の違いからであり、それは平行宇宙の世界で交わることは少ない。こんな私であっても過去の出来事を振り返ると、四十年後の今になって、あれは自分い責任がある・・・、と思うことがいくつも出てくるのである。
教会に行って、花を花瓶に活けようとしたら、それは水揚げした方が良いわよ、と信者の女が言った。水揚げ?と言う珍しい言葉を耳にして、芸子に旦那がつくことだと思い返しながら、日本語の微妙さを考えた。花のよっては切ると水の吸い上げが悪くなるので、茎に斜めの切り目を入れて表面積を広くし吸い上げやすいようにしてあげるのである。
高校で習った物理学を思い出しながら、高い木が上の方まで水を吸い上げ、葉を実らせることに気づいた。誰の力で上の方まで吸い上げられるのだろうか?表面張力という言葉に思いつき、重力だとわかった。重力と言う日頃目に見えない力があるから、人は歩くことができ、いろんな行動ができるのである。重力のない宇宙では歩くことは出きず、浮かんだままである。
重力は誰がつくっているのであろうか?
考えると、
それは天地を造った(神)という言葉しか返ってこなかった。神という全知全能者を出さなければ、自然界の解決はつかない。不思議な力ですべての物や生命体に普遍的に作用している。
ペレシート バーラ エロヒーム エト ハーシャーマイーム ベエト ハアレツ
教会で、信者たちが合唱し、礼拝がはじまった。
花瓶に生けたヒマワリは水を吸い、元気になって建っていた。
(はじめに神は天と地を創造された)のである。
あの頃は金の取り立てのような集金業務をやっていたせいで、金まわりが良かった。月に百万円の給料をもらうこともあった。それに、株式投資でも儲けていた。
それに、若かった。ソープランドに、ほぼ毎週、通った。当時は博多の東中州にある店であった。初めて入る店だったので店長に、良い女をお願いします、というと少し助平ったらしい顔をして紹介してくれたのをおぼえている。
若い女が現れ、可愛い感じであった。エレベーターにのると、二人だけになりすでに興奮していた。自然に抱き合い、キスをした。風俗店にエレベータが多いのはムードを盛り上げるためではないか?と後に考えた。
部屋に入り、女の腰に手を回していると、当時としては珍しい黒のテイーバックをはいていて、それ見るとさらに興奮した。それから、ベットでたっぷり愛撫を重ねた。
そして、いざ挿入しようとした時、避妊具をつけて!と女は言った。
それはじゅうぶんいわかっていたが、女の体の奥に直接射精したかった。快楽の世界にそのまま行きたかった。押さえがたい欲望であった。
お願い、つけてよ!
女はまた言ったが、そのまま挿入して射精した。
三日後に陰部が痛み、性病をうつされたことがわかった。病院に通った。
現在、77歳になって、風俗店に行くことはないが、その出来事を時どき、思い出す。そして、札幌ススキの首切り事件と重ねてしまうのである。あれは、男がゴムをつけずに射精をしたことが原因であるが、それにしてもそれが首を切り落とすことまで発展したと言うのが信じられない。男の目玉をくりぬいて瓶に入れて眺めていたともいう。全く信じられない。性交をしたことで心は少しも結ばれていなかったのか?男は物としての対象でしかなかったのか?そんなことを考えるのは自分だけであろうか?
あの時、ソープランドの女は、店を後にして別れる時に、涙を流していた。あの涙は彼女の頼みをきいてくれなかった悔しさだったのか?性病うつしてしまうことへとの不安・心配であったのか?
そんなことをいまだに考え、思い迷っている。
罪深い人生の名残である。
メルトダウンになった毎日である。まさに原発から溶けだした核物質のように何もする気が起こらず、長椅子に横たわり、扇風機から出る暖気に当たり、死んでいる。台風がくれる雨に期待していたが福岡から逸れるだけで、雨は一か月以上ふっていない。ピーマンもしし唐も枯れかけ、草刈りに追われて放置していた。昨日、スーパーでピーマンの値段を見ると、なんと一個が百円であった。この流れが他の野菜に広がりそうである。カボスもレモンも柿も発育不良である。梅の実もビワもダメであった。
どうせあと何年かしか生きない身であるから早く死んだ方が良いのであるが、自分みたいな老人ばかりが増えていきそうである。循環がないから社会が力を失っている。安楽死を早く認めるべきであるが、政治家は選挙の票を気にして言い出さない。タンス預金ため込んだ者達が放置され、金もタンスの中で眠っている。本来であれば金も高い所から低い所に流れてエネルギ――になるはずである。
政治家やマスコミはは大きな問題点を出すべきであるのに、斎藤知事のスキャンダルにあるようにちまちました出来事を毎日飽きることなく報道している。大事なことは置き去りにされ、いつ地震になって大雪崩を起こすか怖くなってしまう。
自然界は規則正しく循環しているに人間社会はいつまでも滞ってしまっている。希望は崩壊の次に来る再生にしかないのであろうか?
おとといの日曜日は、シルバー人材センターの四人の仲間たちとカラオケボックスに行って歌った。初めての店であったが、午前十時から午後五時まで一人20曲も歌って、一人が850円であった。歌い疲れるまでマイクを握り、皆プロ並みの歌い方で楽しかった。
昨日の火曜日はスーパーで、カート整理をした。火曜日のポイントデーと売り出しが重なって、カートが足りないくらいになったらしいが、自分と交代した13時ころは少し暇になっていた。レジの方に歩いていると前からカラオケ同好会の・子が歩いて来て、顔を見合わせると、満面に笑顔を見せた。あなたって、本当に個性的な人ですね、と言ってくれ、彼女の持ち歌が好きになってCDを借りて歌っている仲であった。若い頃は美人で鳴らしたに違いない人であったが、老いても美貌は変わらず、あれだけの笑顔を見せてくれた女は近頃いなかった。夫がそばにいたので長話は出来なかったから、ふりかえって橙色のスカート姿を見ていた。
今日は配食の日なので弁当を配るのである。日曜日にカラオケを歌った仲間が来るので、栗を持って行ってやる。二日後はカラオケ同好会の日で歌い、三日後の日曜日は教会で礼拝をする。それ以外は草取りをするか部屋で扇風機にかかりながら、長椅子に横たわっている。
けっこう動いているようであるが、それでも時間を持て余し、昨夜は夢の中でNHKの集金をしてきた。
毎日、暑い日がつづき、これが涼しくなって秋が来るなんて信じられないが、今年の四月頃までは暑い夏が来るなんて信じられない思いであったのだ。人間の想いや感情なんていい加減で、まわりに振り回されているだけである。
ただ、(目覚めても目覚めぬも布団の中の独りかな)、だけは変わらない。
十年前、NHk集金の仕事をやめて、近所の大学の公開講座に通ったことがあった。東京での若い頃のキャンパスを思い出しながら、なんと静かになったことか?とおもった。マイクでのアジ演説もなければ部活の勧誘光景もなく、ただ留学生の姿が目に付いた。
物理学をもう一度勉強したかったのであった。(基礎物理学)という課目を選択した。理数系は不得意であったが、哲学には興味があり、その両者の関連に興味があった。高校時代に学んだ物理、数学、化学なども学科を思い出しながら、学んでいくと、やはり数式の持つ力を思い知らされた。たとえば、E=MC(二乗)など真理を突く数式がたくさんある。
ある時、教授に質問した。E=MC(二乗)の真理はわかりますが、(人が年老いて肥えながら体力が落ちるにおはなぜですか?)という質問であった。教授はしばらく考えていたが、(それは専門外なのでわかりません)とこたえた。
そこ言葉を心に残しながら、正直に答えてくれた、と考えた。
それから教会に通ってキリスト教を学びながら、あるlことに思いついたのである。科学は物質世界の出来事が対象であり、精神や霊を持った生命の世界の事ではない、ということである。重いものを持ち上げる場合、一人より二人の方が力が出る、と考えるが、そうではない。一人であっても火事場の力を出せば二人分の力が出るのである。物理学ではその世界のことは無関心であり、専門外なのである。
そのように考えると教授の言った言葉は真理を突いていた。
教会では霊の世界の話が中心であり、物理化学など登場はしない。どちらも自分たちの世界にしか関心がなく、無関心である。ここで両者が統一できなければいつまでも平行線をたどるだけである。統一できた時、それが本物の真理になるのである。
8月の末から我が家のクリは落ちはじめ、日課が一つ増えた。拾って、水洗いし、袋詰めして、店に出すことだ。去年は千個ほど、落ち、一個二十円で出した。今年もそれくらい出そうである。日に三度は栗畑を回って、火箸に挟んで採るが、腰が痛くなってくる。空のクリは集めて、後日燃やす。
三十年前は自分は古い家に住んでいて、母は新築した今の家で一人住まいをしていた。近所の団地に住む三人の男性に畑を作ってもらい、お茶を飲んでもらいながら談笑していたが彼らが去ってからは一人ぽっちになってしまった。
栗が出る頃になると電話をかけて来て、栗拾いに来るように伝えて来たが、わたしは仕事と家庭で忙しく、母の言葉を忘れていたのである。男の子が二人産まれ、妻もいた。
ある時、母は年金を下ろして病院に行くから送迎をしてくれ、と言った。記憶には残っていたが他の件が忙しく忘れていた。
そして、ある日、集金の仕事でバイクで回っていると、電話がかかって来た。ヘルパーの者ですが、お母さんが亡くなりましたと言う。ついにその日が来たか?と冷めた気分で当面の集金先を終え、母の家にいった。警察と医者が来ていて、刑事から調べられた。母の死体は死後四日たっていて、顔がむくみ別人の顔になっていた。
それが三十年前の事である。
それから、四本のクリの木はまったく手入れもしないのに毎年、実をつけてくれる。自分は前の家を取り壊して、今の家に住むようになった。妻子は出て行き、一人ぽっちの生活である。母と同じ状態になった。
一個が二十円になるので栗の木は十円銅貨のようなものだ。金のなる木である。
すみからすみまで栗を探す。やぶの中にかくれ、落ち葉の中に埋もれていることもある。
そんな時、母の声が聞こえてくる。・・ちゃん!栗がいっぱい落ちとるばい!早う、取りに来んね!
自分は地べたに這いつくばりながら、火箸で栗を挟んで採る。
もうすぐ、母の元に行くであろう。