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渋柿を四十個ほど採って、教会で売り、その金を献金した。まだ三十個くらい残っているがそれは小さいので自宅で吊るし柿にしようと考えた。いつも不思議に思うのはなぜ柿には渋柿と甘柿があるのか?ということである。ネットで調べるともともとは全部が渋柿であったのに鎌倉時代に突然変異で渋柿ができたと載っている。なぜなのか?と考えた。もともとは動物や人に食べられないために全部が渋柿であったがそれでは放置されて落ちた柿だけしか増えないことになる。そこで急遽考えを変えて、おいしい甘柿に変身して誰にでも食べられて種を拡散しようとしたのではないか?そう考えると理解できるが、植物だってどのように増やしていけばいいかという本能があるということである。
人間社会に置き換えてみると、戦争ばかりしている国が方針を変えて、どの国とでも付き合える友好国になれるということではないか?北朝鮮やロシア、イランよ少しは渋柿の生き方を学びなさい。
ところが、満月に甘くなっても新月にはまた渋くなるという。
柿の気持ち誰か教えてください!
十日に一度は産直店に行って、もみ殻を置いてくる。月に四十個ほど売れて金になる。産直店の向かいには精米所があって、もみ殻はタダです、自由に持って行ってください、と板戸に書いている。倉庫に入ってもみ殻を袋に詰め、産直店に運ぶ。そのことを知らない人はわたしのもみ殻を買ってくれる。年金生活者にとってありがたい収入であり、十年以上こんなことをしている。産直店に行くと、玉ねぎの苗、五十本が800円で売っていたので、買い、畑に植えた。すると、雨が降ってきて、水をめぐんでくれた。まるで予定調和説のようなじゅんかんであるが、すべてはこんな風にはいかない。雨のない酷暑がつづき、果実の木は枯れかかっている。だが、水をやれば玉ねぎはきちんとそだち、来年の春には美味しい玉ねぎはカレーの具になっているはずである。
人の世もこんな具合に循環し、そのことのわかる人が増えれば良いと思う。相手に良いことをしてあげれば良いことになって帰って来るし、悪いことをすれば悪いことになって帰って来る。
昨日は、渋柿を収穫した。以前住んでいた家を解体し、その地に毎年できるのであるが、肥料もやらずしかも百年もたつのに毎年びしょなりになる不思議な柿である。実もげんこつ以上に大きい。ところが今年は酷暑のせいでいつもの十分の一くらい、百個ほどの量である。八月は一度も雨が降らず、水溶液の状態で養分をとる植物にとっては飢餓状態なのであった。竹の子、梅、ビワ、柿、レモン、カボスとすべての果実はどの農家も全滅状態でスーパーの店頭にも見かけることが少なくなっている。酷暑にかかわらず、毎日果実に水をやっていた農家だけが収穫できているようである。この状態が続けば終の食べるものがなくなってしまう。
そこで、こんな句が思い浮かんだのである。動物は互いの命を食べ合っているのに植物たちは逆に食べられ、大事にされることによって命を維持している何と不思議な生命ではないか?動物は植物から進化した、と習った記憶があったので調べてみるとそうではなかった。そんな関係はないという。同時に、水や太陽光や肥料をとって生きているのである。
だがそれを人間生活に置き換えてみると、考えさせられることが多い。ウクライナ戦争、イラン戦争など毎日のニュースには嫌気がする。共倒れすると言われながらいつまでやる気なんだろうか?あまりにも幼い考えに振り回されているとしか言えない。相手から奪うのではなく、相手に分け与えることで互いに大事にされる、そのことでつながりあっていくことはできないのであろうか?と思う。ほとんどの国の関係はそのやりかたで成り立っているのに数か国がそれから外れているのである。それは互いの捉え方にボタンの掛け違いが起こっているからであり、それがいつまでも根を張っているからである。
来年の五月には八十歳になるのだが、だらだら生き延びて実感がない。いつ倒れてもおかしくない。歩き方もよちよち歩きで散歩などしていると後ろから来た歩行者にあっという間に追いに抜かれてしまう。通常人の半分ほどのスピードである。足の甲の打撲箇所が時々痛む。墓石がこぼれて以来、お墓に行く気がなくなった。
アルバイトは週に一度だけになったが七百坪の土地を維持・管理するのは大変である。昨日も草刈り機で草を刈った。一か月後にはまた生えているであろう。嫌になるが、草に自分が生かしてもらっていると考える。すべてのものと人と人とはもたれあいの関係である。
万年床で布団は敷きっぱなしであるが、こんな句が生まれた。
かけ布団夢を遺してたたみけり
俳句です。昨日、庭の草むしりをし、熱中していました。ふと、目の前を見ると、曼殊沙華が固まって咲いていて、その見事な、赤色に心打たれました。まるで、血を見るような想いでした。
短歌です。
短歌です。レア中村。
毎日、ニュースを見るたびに、イラン戦争、ホルムズ海峡、トランプ発言、ウクライナ戦争の記事に目が行く。少額であるが株式投資をやっているのでそれらの記事が株価に反映するからであるが、三年近くも毎日気にすることになると、頭までおかしくなりそうである。あれだけの犠牲者を出しながら、まだやり続けていると同時に周辺諸国まで引き込まれ始めているのである。もうやめた、という言葉がなぜ出てこないのか?と思うと同時に戦争の動機を考え込んでしまう。単なる国と国との利害関係が原因であるが、人や国が滅びるまでやるとは、人間だけの世界であろう。動物たちはそこまではやらない。
振り返って自分の日常生活をみてみるとささいなことで相手を嫌いう憎んでいることがある。ささいなことが大きくなると、警察を呼ぶ、裁判にかけるなど闘いになるのである。
自分も知らないうちに戦争病にかかったのである。
先日もこんなことがあった。男の友達がいるが、猫をたくさん飼っている。わたしの女の友達が、子供がいないので猫が欲しいといい、わたしは男の友達に伝えて、猫をもらうことにした。女友だちは大喜びであった。ところが半年後に、夫が猫を抱いていて階段から落ち、骨折して入院した。じつは彼女は猫が好きではなく、夫が大好きだったのでゆずってもらったのであった。彼女は猫の面倒を看切らないので、返すことにした。返しのであるが、男友達の妻が、去勢手術をしていないではないか?と言い始めた。そして、ラインメールに、わたしがいい加減な男だと言い始めた。わたしは怒った。去勢術をしない状態でもらったのになぜ、手術をして返さねばならないのか?メールに返信しようと考えたがこんな女にそんなことを書いても問題が大きくなるばかりと思い、黙っていた、と同時に男友達とも口を利かなくなった。
先日、病院で男友達と偶然、出会い、やあ、と言ったがそのまま背を向けた。
これはこれで終わることのできることであるが、相手を叩たりしていれば、戦争に発展するであろう。戦争病はまわりに菌を増え始めさせている。
若いころ、二人の女と同時に付き合っていた時があった。一人の女はアパートの隣の部屋に住み、もう一人は週に一度、通ってきていた。一人が隣部屋で聞き耳を立てているときに、もう一人と交わったこともあったが、思い出すと何とも言えない頃であった。ところが、一人の女が生理がなくなったと言い、もう一人も同じことを言い始めた。驚きながら避妊には気を付けていたはずであった、と考えた。どうしていいのか?わからず仕事をしていた。ところが、二人の女は病院に行って調べてもらい、想像妊娠であることが分かり、わたしはほっとした。妊娠が本当であれば結婚していたであろうが、二人と結婚するわけにはいかない。二人の女の子の面倒を看る余裕などなかった。
この出来事で考えるのは現実と妄想・想像が重なり合っていたということである。二人の女はわたしの子が欲しくて、あるいは妊娠することを恐れ、そんな状態になったのである。矛盾と対立が重なり、拮抗していたのである。こんな状況は日常生活の中にもよくある。シュレーディンガーの猫、の話である。
聖書の(創世記)の記述の中に、神は男のあばら骨を切り取り、それで女を造ったという箇所がある。ということはそれまで一つの体であったということだ。人間の胎児も受精から出産前まで性別がなく、それは一つである。私の考えでは出産によって両性が男と女に分離され、別々に生きるようになったのではないか、そのように考えるとすっきりわかる。男女の恋愛においても相思相愛ですぐに成り立つ場合となかなか成り立たない場合があることは確かである。わたしも女に持てず苦労しているが、分離された連れ合いとさえ出会えば結ばれることは簡単であろう。出会わなくても赤い糸で結ばれているのである。
単性であればコピーによって増えていき、簡単であるがすべてが同じ体と心を持った場合、ある病気が流行ると全滅してしまう。多様な生命であれば生き残るものも出る。そこで、神は男と女とに分離し、多様な生をつくったのであろう。だが、それは争いを産み、戦争に至ることにさえなった。競争を産み強くなって、神が(生きよ)(増えよ)というように生命は繁栄していった。繁栄と混乱が生まれ、神の出番となった。時々、こんなカップルが良く結ばれたな?という場面い出会うことがあるが、それももともと一つであったのが再会して結ばれたと考えるとわかりやすい。
