ブログ - 202005のエントリ

有楽町で逢いましょう。

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日記
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nakamura 2020-5-28 6:25

  十八歳の頃は、大学受験に失敗し、就職もせず、不安定な時期であった。両親が嫌いだったので、家を出て東京に行った。そこにはドモリの矯正所があって、人生が変わる期待感があった。

 有楽町のレストランでボーイの仕事を始めた。しゃべる必要のない仕事で、ウエイトレスもたくさんいて楽しかったが、自分がひどい田舎者であることに気づいた。洋食を出す時、スプーン、ナイフ、フォークなどの道具を選べず、ウエイトレルにやってもらわねばならなかった。田舎で洋食などは、一度も食べたことがなかったのである。だが、トラブルも起こさず、ぶじにつとめを終えた。

 それから、矯正所に通う生活がはじまり、有意義な生活であった。十七歳の女の子と親しくなった。新潟の女で、雪のように白い肌をしていた。銀座をぶらつこうと、二人で手をつないで歩いていた。日劇の前に、五木ひろしショウの看板が出ていた。当時、彼は人気の絶頂期で、二人は看板に見とれるだけで、幸福になった。

 ところが、金がなくて、入れない、のであった。

 二人で、立ちすくんでいると、(どうしたの?ここに券を持ってるから、入らない?)、と男の声がかかってきた。(ダフ屋だから、金を払わなくてはいけないだろう?いくらかな?)と考えていたが、男は(お金はいらないよ。ぼく、みる予定だったけど、みれなくなったから、二人でみてらっしゃい)と言って、二枚の入場券を渡し、去って行った。

 一瞬、呆気に取られていたが、看板の中の、本物の五木ひろしのステージを観ることになった。

 ライブの世界は、すごい、の一言であった。

 東京生活の中で、一番いい思い出である。

 

夜汽車。

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日記
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nakamura 2020-5-26 8:22

  どんないきさつかわからないが、いつの間にか、汽車のホームに立っているのがわかった。跨線橋の古びた板壁と階段が、そばに見えた。

 全体的に暗い、モノクロ調の景色であった。

 汽車はとまって、客を待っていたが、どうやら自分だけのようで、ホームにはだれひとり、いなかった。車内には座席もつり革も見えず、がらんとした板間に薄日のさす、貨車であった。頑丈な鉄で体をまもった旧タイプの車輌。

 発車の時刻が来たのだろう、制服姿の運転手が頭の車両に見えた。

 不思議なことに、三両だけの汽車であった。

 制服姿の車掌が後部車両から現れ、自分に寄って来て、紙の包を渡した。開いてみると住宅地図をコピーしたものであった。自分に、行先を探し、確認するように無言のうちに示した。行先は(・浜)というまったく知らない地域であった。自分は彼に千円を払い、彼は受け取った。

 わたしは、自分一人が乗り、地図を開きながら、もう戻れないところに行くことがわかった、汽車は音もなく進みはじめた。

 

 この夢は自分の現在の心境をすごく反映して、淋しいものであるが、異次元宇宙のどこかで進行している。今度、その夢の続きの中に戻れるであろうか?その時はもう、この世にはいない。

幸福と不幸の重なり合い。

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日記
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nakamura 2020-5-25 10:34

  人は自分の幸福や不幸をどのようにして決めるのだろうか?

 それはたぶん、他人との比較、幸福だった頃との比較であろうが、その判断は主観的になってしまいがちである。自分は不幸だと考えていても他人の目では、なんでそんなことに悩んでいるの?あなたはお金持もちで、家庭にも恵まれ、健康だし、幸福じゃないですか?と言われる場合などおうおうにしてあるものである。 

 私の場合もそうである。近頃は右ひざが少し痛んで、歩き方が不安定になる場合が出てきて、歩けなくなるんじゃないか?と不安になり、生活費も底をつき始め、今年は梅の実とビワがまったくならず、チップ農法もうまくいかず、八方ふさがりに近くなってきて、ウツの日がつづいている。

 働いている頃は収入も多く、女もいて、健康だったし、楽しかったように思えるが、それだけの危険と隣り合わせであった。バイクにのってNHKの集金の仕事をしていたので、事故を起こすことの恐怖、客先とのトラブルで首になる恐怖、女との不倫が会社にばれる恐怖、など不幸は裏腹に幸福としっかり重なり合っていたのである。重なり合っただけで表にはでず、陽性でもあり、陰性でもあったことが今はわかる。

 退職した今は、事故の恐怖も、首になる恐怖も、女との不倫もなく、生活費が底をつく恐怖しかないが、恥を忍んで保護をもらうかもしれない。死ねばすべてが御破算でチャラになる。

 こんなわたしにとってコロナは疫病神ではなく、幸福の神なのである。

コロナと精神界。

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nakamura 2020-5-20 9:18

  昨日、通りがかりに,友達の家に寄った。彼も、通りがかりに私の家に寄って、長話をする仲であるが、近頃一か月間もそれが絶えていた。玄関先で椅子に座って話し始めると、マスクをはめ、コロナのせいで、訪問を自粛していたという。用心するにこしたことはないが、そこまで慎重になることはないだろう、そんなガラじゃなかろうが?というと、M県の実家に帰りたいが、兄貴から、北九州ナンバーの車を見たら、ガラスを叩き割られるかもしれんから帰って来るな!と言われたという。

 テレビでそんなことがある、と出ていたが、そこまでとは?と考えてしまった。閉鎖や封鎖であればわかるが、看護婦の接近を拒んだり、その子供の接近を拒んだり、自粛体制で開いている店やパチンコ店の窓ガラスに店を閉めろ!などと落書きする行為、それは明らかに戦時中の村八分や差別の精神の復活である。日本人の排他性がコロナによってあぶりだされたのである。だが、反対に、感染者の続出で大変な仕事になった病院に弁当をタダで配達する会社や個人もいるのである。

 マスコミはコロナ禍について、経済への害、十万円の給付金、ワクチンの開発、など現実的な面を取り上げるばかりで、宗教や心理学者など、精神界のとらえ方や考えを一度も出さない。それはどうしてであろうか?マスコミが現実面を重視するのはわかるがあまりにも偏っていると思う。

 俺なんか、いつ死んでも良い、と思ってるから、コロナなんてちっとも怖くない、とその友達に言ってやったが、こんな人間もいて、そんなとらえ方をしているのである。それが、良い悪いではなく、そんなレアな考えもあることを知ることも大事ではないか?

陰性でもあり陽性でもある。

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日記
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nakamura 2020-5-16 4:13

  今回のコロナ禍において、陰性でもあり陽性でもある、という、診断結果がでたが、それは不可解な判断だと言える。従来の病気であれば白黒がはっきりし、そんなあいまいな判断が出たことはなかった。医療業界の権威に関わる表現であるはずで、根拠を示すべきである。ネットで調べると、検査の精度が高くなくて、陰性と出た人が後に陽性と判断されたとのっている。

 ここでわたしはあることを思い出し、関連付け、総合してみたが、それによるとある世界が見えてきたのである。以前のブログにも書いていることでもあるが、量子力学の解釈・判断のやりかたである。

   ・量子コンピューターにおいて、0でもあり1でもあるという次元を活用し、現実に、飛躍的な処理能力を産んでいる。

   ・シュレディンガーの猫では、毒ガスの出る箱に閉じ込められた猫は、生きてもいるし、死んでもいる、という解釈・判断をしている。

   ・多次元解釈の中で、時空とは過去・現在・未来は混じり合った(潜伏した)状態である、と解釈している。

   ・人間の胎児は初期においては男でもあり女でもある、中性状態である。現在は、性的少数者が認められ、性の混交分野ができ、性の区別があいまいになってきている。

 上記の事とコロナの陰性でもあり陽性でもある、と言う事を関連付けてみると、不思議な一致をみるのである。(潜伏)というとらえ方であり、それをを用いるとかなり、わかってくる。検査の精度が低かった、ことが理由である、とネットには書かれているが、じつは、その時は陰性であったが、数日間先の未来の陽性を潜伏させ、症状が混じり合っていたのではないか?0でもあり、1でもあるというのも潜伏・混交状態ではないか?シュレディンガーの猫の場合でも、生と死が潜伏し、混交しているのではないか?過去現在未来はそれぞれが潜伏した状態ではないか?

 このような潜伏の概念を現実生活に取り込んでみると、理解がすすみ、ものごとの姿がかなりはっきり見え、それまで間違った先入観に支配されていたことがわかる。自分は今、生きているのか?と自問した場合、生きてもいるし、死んでもいる、と答えてみるとどうであろうか?今は、生きているが数十年先には死んでいる。・・十年前は、産まれていなかったから死んでいた、ただ、今は生きてる状態である、などと、他人にしゃべればまちがいなく、頭がおかしい、と言われるにちがいない。が、それは人が従来の判断方法から外れることをすごく恐れているからにしかすぎない。

 今は幸福ですか?金持ちですか?と問われた場合でも、そのように判断してみると、個人や社会の現状が真実としてみえてくるにちがいない。人間世界は、コロナ後はもっと考え方を変えて、知性を発達させるべきである。

   

さて、コロナは何を考えているか?

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日記
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nakamura 2020-5-14 10:04

  今日で緊急事態宣言が解除され、コロナ禍はひとまず落ち着いたように見えるが、油断は出来ないし、コロナについてもっと考えねばならないことがある。コロナが生物と無生物の間に位置し、あるいは物質であるなどということが間違いであったと認め、捉え方を変えねばならない。特に、生物学会はそのように分類していたことがミスであり、生物学の基本を変えなければならないと判断すべきである。

 コロナは生命体であり、同時に考える力や意識などを人間以上に持っているのである。そのように捉えなければコロナの本質はみえないし、今後の対処法もまちがったものになる。人間たちが寿命をのばし健康になったから、その分、病気が増え、力を増したのである。反転対称形の原理である。物理学でも真理になっているように、エボナイト棒を擦ればその両端に+と-が静電誘導され、その量は等価である、ということである。つまり、コロナや病気を絶滅させることは出来ないし、絶滅させたとすれば今度は違うものが出てくる、その原理である。対立することで現象学的に人間は存在できているのである。

 コロナは今回の作戦を大成功と考えており、次は何年後にどんな形で臨むか?じゅうぶんに考えを巡らしている。人類もそれを読んで、三密、消毒、対抗薬などの効果を省み、次の手を考えている。これによってコロナと人類は意思の疎通をし、会話をしているのである。話は変わるが、わたしはバイクのカブに三十年間、のっている。相手は優れた機械だと思っていたが、心ある機械だと判断するようになった。機械であればいつも同じ唸りで走ると考えていたが、満足げな唸りであったり、悲し気な唸りになったり、変わるのである。そこで、わたしとカブは気持ちを交え、いっししょに走っていることが良くわかるのである。

  亡くなられた方は気の毒だが、 コロナも生きる、人類も生きる、共存共栄の気持ちで臨むしかないのではないか?相手を認め、相手にも認めてもらう、その生き方しかできないのではないか?

腹がへったらご飯食べに来ませんか?

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日記
執筆 : 
nakamura 2020-5-12 10:49

  コロナ禍が私たちに不安を与え、ウツにするのは、それが私たちの本当の姿をあぶり出したからである。弱い人間存在、不安定な社会、まだ終息を迎え切らない国家体制の統制力の弱さ、マスコミ報道の不正確さ、医療業界の対応の不完全さなど、あげればきりがないが、コロナはそれらの本当の姿を裸にしてくれた。

 国家体制の破局となれば旧体制の概念は壊れ、新体制の哲学が自然に導かれるのであるが、現体制の復興に終わりそうな雲行きである。コロナによってGNPやGDPが下がり、終息すれば数十%まで回復するという不完全な観点・分析ばかりである。GNPやGDP、学歴、偏差値、指標の数値がどれだけ実態を反映しているか?幸福や不幸の度合いをどれだけ反映しているか?などの視点は欠如し、壊れかけている不正確な機械を温存し、そのまま使おうとする姿勢である。であれば、また、同じことを繰り返すのではないか?という指摘はない。

 このホームページの巻頭に書いている(腹がへったらご飯食べに来ませんか?)は二十年前にわたしが書いたものであるが、その時から私の考えはまったくブレていない。逆にこのコロナ禍において輝いている、と自負する。家庭、社会、国家を支えるのは、この助け合いの精神である。これがあれば、独裁体制でも金権主義体制、封建体制でもわたしたちは生きていけるし、それがなくなればどんな体制であっても崩壊する。

 日本には主導者はおらず、利権と利益供与で造られた砂山が壊れないだけである。次に出る為政者はこのことが分かり、正論を言える人物であるだろうし、そうでなければ自然崩壊するしかない。そして、横やりを入れてま混ぜ返そうとするチャチャ族に、どっちが正しいか、みんなの前で議論しようじゃないか、と言える人間である。

 コロナ禍の時代はそんな人物を必然的に産むにちがいない。

コロナが私たちに教えてくれること。

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日記
執筆 : 
nakamura 2020-5-5 16:40

  コロナを敵としてとらえるばかりでなく、学問として、現象学的にもとらえるべきだと思う。コロナによって人類は大騒ぎをし、果ては殺される事態も発生していて、そんなとらえ方は不謹慎だと言われる御仁もいるだろうが、自身の姿に目覚めさせられることも知った方が良い。

 徳川家康の箴言に次のような言葉がある。

 勝つことばかり知りて負けることを知らざれば害その身に至る。

 これまで人類はその誕生期を除いて、(自然)に勝ち続き、負けることを知らなかった。だから、自然破壊を平気でやり、快楽と利便性に溺れてきたが、今回のコロナ禍で少しは目覚めたように思える。が、識者たちは人間中心主義者ばかりで、どうすれば感染を防げるか復興できるか、しか書かない。イノシシは人間の自然破壊によって食べる物がなくなって山から追い出され、野菜畑を荒らさざるを得なくなったのであるし、人間が森を破壊したのでコロナは山から追い出されたのである。

 目に見えないコロナに振り回さたことは何だったのか? 

 人間が巨視的な視点を失い、細部の対処ばかりに目が向いている、そのことが人類の知性の失敗で、今回コロナに振り回されている原因なのである。医学を例にとるなら、健康とは何なのか?病気とは何なのか?と言う哲学的総論から入るべきで、そしてどうすれば病気にかからないか?を命題にすべきなのに、体の構造や病気の種類、治し方の各論に目を向けてばかりで、肝心な使命を見失っている。この傾向はすべてのジャンルが抱え、コロナのように潜伏させてきてしまった。それはそれぞれの業界が利益重視と絡み、資本主義から離れられなくなっているのが原因である。政治を含め、すべてが金中心に回っている。週刊誌に、飲んではいけない薬、と書かれている睡眠導入剤・サイレースを医者は平気で処方して、わたしに永い間、飲ませてきた、それが良い例である。

 美観に振り回されて、農薬漬けの野菜をたべていることをすっかり忘れていた。

 例に出せば際限がないが、いろんな問題を数百年も、潜伏させてきたのではないか?

 すべてが振出しの、その初心に立ち戻らなければ、コロナ禍はいつまでもつづくことになる。

目でダイレクトに見る時。

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日記
執筆 : 
nakamura 2020-5-3 17:22

  今日は、雨降りの一日であった。酒のつまみを買いに出かけたが、通りにはいつも見られる老女、老男の姿もなく、世界の消滅した感があった。コロナのせいであるが、寂しく想った。

 そこで、このホームページの日記も力を入れて書くと、閲覧者数がすごく伸びることを思い出し、Kさんのことを書こうと考えた。このホームページの小説(銀ラメのハイヒール)に登場する人でもあるが、自分との感情の行き違いから疎遠になってしまった。今、どうしているか知らないが、わたしの思想に多大な影響を与えてくれた人であり、今も、このHPを読んでくれているかもしれない。

 彼はリラックス法として、幽体離脱を実践していた。すごく疲れた時に、目を閉じ、体から意識を抜け出させようとすると、抜け出、目を閉じている自分の顔を見てる、と言った。水の中の像のようにグニャグニャして見えたと言った。そこで、彼が(脳を通さないのですごくリアルに見えた)と言った言葉が印象に残っている。普通、わたしたちは目で見て、脳で判断するが、脳をとおらなかったらどうなるのであろうか?脳には幼い頃から植え付けられた一般常識があり、それがフイルターになっているから、本当の姿を見てさせてはくれない。 

 事物が変な見え方をすると、脳は錯覚や幻覚として処理するのである。

 夢の場合は、脳が眠っているからダイレクトに見る,つまり常識を外してみるわけであるから、子供の精神のように純粋な形で見えるのである。若い頃、夢精をするのはそれが現実以上に現実感をもっているからである。事実を知るためには既成概念に毒された脳はじゃまであり、カメラの方が正確なのである。

 話は跳ぶが、自分は十年前に、心臓のバイパス手術を受けた。麻酔を打たれ、十二時間、死んでいたのである。集中治療室で目覚め、観察室に移されたのであるが、迷妄状態は残っていた。病室の右半分では看護婦が行ったり来たりし、おかしなことに、左半分のドアの方には、公民館の中が現れ出、受付の小窓が見え、掲示板に盆踊りやソフトボール試合の予告が張り出されていたのである。

 これはおかしいな?と脳が考えると公民館の掲示板は消え、いつもの観察室の廊下に変わった。現の状態に脳の思考が入り、常識が入ったのである。

 その出来事を自分なりに分析してみると、麻酔が残り、脳の半分は死に半分が生きていたのでもある。現在と過去が分離し、それぞれの世界が進行の形で現れたのである。入院する前、NHKの受信料集金の仕事をしていたわたしは三か月前に宗像市池田を訪れ、受信料の調査と契約で回ったのであった。そこは母の実家があり、幼い頃、預けられて、長い間、生活したのですごく懐かしかった。その時に公民館で、受信料の説明会を設ければ良い、と考えたのであった。

 それが願望として残り、現実と重なったのである。視界の右側では看護婦が行ったり来たりしていた。

 現実と過去は、因果関係を持って続いているのではなく、それぞれ独立して平行状態で流れている、Kさんは、よく言ったので、思い出される。過去は虚数のように存在しているのである。分化ではなく、それぞれが存在感を持っていて流れ、重なり合う、量子力学の理論である。虚数は実数ではないが、存在として用いることによって難解な問題を証明することができる。

 神も虚数ではないか?影も虚数ではないか?あの世も虚数ではないか?コロナも人類発展の虚数ではないか?など、かってに想像していくと、我々には未知の分野がすごく残っていることが分かる。

 そこで、コロナ禍は大きな刺激を与え、きっかけを作ってくれたのである。コロナは人間たちの数百万倍の速さで進化していると言うから人間は負けてはいられない。

 いずれにしても、コロナ後の世界はまったくちがう考え方が登場するに違いないし、そうでなければこの世の救いは見いだせない。我々はコロナに追われるだけ、まだ、この世をじゅうぶんに理解していないのである。

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