ブログ - 202004のエントリ
今日のニュースで、中国の専門家の意見が載っていた。
コロナに対するワクチンや治療薬が出来上がる6月頃、コロナ禍は北半球では沈静化するだろう。だが、北半球に夏が訪れ、南半球に冬が訪れる頃、生き残ったコロナは南半球の人々の体にとりつき、繁殖し、破壊していくのではないか?
メディアに大局的な意見が出ることは珍しく、感染者の数が何人になったとか、緊急宣言が出されたとか、休業店の保証がいくらだとか、それはそれで大事なことであるが、目の先のことが多すぎて、私たちは振り回されて、コロナの動きの姿がなかなか見えないものであるから、このような記事は貴重なものである。
その記事で、考えたことがある。以前から考えていることであるが、コロナ・ウイルスは人間と同じ知性を持っており、人間の考えや動きを察知していて、それの先手を打って動いているのではないか?そう考えれば納得のいくことが多いし、これからのコロナ・ウイルス対策も、将棋盤のコマを見るように見えてくるのではないか?
人間は地球上に生きている、そのことで資本主義を発達させて自然破壊を行ってきた。数十年後には食糧もなくなり、人類は絶滅するであろう。スエーデンのグレタさんが地球温暖化反対して立ち上がり、たった一人のストライキを始めた。それらが最近の記事であったが、その期を同じくするようにコロナが暴れはじめたのである。(動的平衡)である。自然破壊のベクトルは人間破壊(復讐)のリアクションになって矛先を変え、等量のエネルギーを発揮し始めたのである。どちらも反転すれば対称形になるのである。人間は、もう後戻りはできない、行きつくところまで行って、絶滅するしかないのであろうか?
人生の半分以上を勉学に費やした人間は、そんなことであってはならない。ウイルスは人間とは違う形で、学んでいることは確かであるから、(人類の英知)はそれを超えるべきである。ーデジタルから次の時代が待っているのはずである。それを模索すべきである。
今回のコロナ禍で、わたしは、坂口安吾、太宰治、檀一雄など無頼派と呼ばれる作家たちに興味がわいてきた。もとより、小説家と呼ばれる人々は、反抗的であり、反体制派であり、社会のはぐれものであり、その視点がなければ芸術は産まれないのである。が、わたしは彼らが太平洋戦争の悲惨な敗北の中から大地を持ち上げるようにして勃興させたそのエネルギーと精神状況に、コロナ禍を重ね合わせたくなった。悲惨な敗北というのは人が殺された悲しさ、あるいは、家がなくなったという物質的なものだけではない。それまで信じていた天皇制、幸福感、文化、個人的信条などが一気に崩壊したのである。わたしは、今回のコロナ禍で、、自分を含め,人々の人間中心主義、競争原理、デジタル信仰、利便性、快楽、幸福感などの価値観が崩れ、それが大きな不安をもたらし、何を信じれば良いのかわからない、その精神状況を考えてみたいのである。
無頼派たちはどのようにその時代と向き合ったのか?安吾は、(ハクチ)?差別用語になったのか?漢字に変換できない,では主人公がハクチ女の手を握って空爆から逃れ、戦火の中を逃げ回る物語である。彼女はそれでありながらどんな男にも体をまかせる女、という重要な伏線がはじめに書かれているのである。米軍の戦闘機に爆撃され、命からがら逃げる中で、娼婦とセックスにふけるという人間の欲望、この赤裸々な部分が読者に迫ってくる傑作である。それを淡々とした書き方で書いていることがまた、すごいし、戦争に対する考えや感情などは一切排除している作者の態度にまた、驚かされる。書かないことによって、現している、これが小説の神髄なのである。
太宰治は、小説の中で、自分は恥ずかしい人生を生きてきました、産まれてきてすみません、自分は人間失格です、と書くことによって、作者の目線をすごく低くし、自在に書ける特質を得た。また、時代への視線をまったく外し、戦争のことなど一言も書いていないのだ。酷い戦況下において、卑小な自己にどこまでもこだわる、その凄さを、見せてくれる。
さて、このコロナ禍の中で、現代の作家と呼ばれる方々がどのように、自己の作品と取り組まれるのか見ものであり、そこで彼らと時代の本性がむきだされるのではないか?と思う。
それに、無名の物書きのわたしですが、心は一応、無頼派なのです。
コロナという目に見えないウイルスによって、人類はおびえ、明日はわが身か?と戦々恐々の昨今である。コロナに殺されてもいいと、高をくくっていた自分さえ、幼稚園児たちが楽し気に騒ぎながら、となりの者と手をつないで歩いている姿を見て、涙した、今朝であった。産直店にバイクで出荷に行き、帰り道に出会った。散歩だったのであろうが、引率の先生に連れられて、あっけらかんとした顔であった。子供らにとってコロナは遠い世界のことにちがいなく、怖いもの知らずの年齢なのであるが、自分達はその歳にもうもどることはできない。
冷静に考えてみると、自分達は目に見えないものの力によって、産まれ、死んでいくのであるが、そのことを真面目に考えたことはなかったのである。仏教では、色即是空、といって、形あるものは、空、であると説き、キリスト教でも、見えるものではなく見えないものに価値がある、と説いている。人間の知る世界は微小なのであり、感じ取れないもののほうが圧倒的に多いのである。例えば、電波である。受信機と言う超能力機械によって人や物の姿を見、声や音を聴くことができるが、それがなければ電波は見えず、ないのに等しい。霊感とか超能力とか異次元世界などは実際に存在しても感知できないから、無いに等しいのであったが、今回のコロナ禍によって、見えないものの力の凄まじさと実態がはっきりわかったのである。日頃、身を潜めていたウイルスがあっというまに世界の支配者になろうとしているのである。
不要な外出禁止、出会いの禁止など、緊急事態宣言によって、多くの人々は引きこもりの生活に陥っているが、こんな時こそ、目に見えない世界を知り、コロナの出現の意味など、考え、デジタルによって失った世界に目を向けてみるべきではないだろうか?宗教や文学、絵画や映画など、アナログの世界にもどり、心を安らかにして、コロナと対話をしてみようではないか。
毎日毎日、コロナ禍のニュースで、多くの人は疲れ始めている。私だってそうであるが、視点を変えればこれ不可解な現象であることに気づく。スマフォの威力だとか、デジタルのすごさだとか、偏差値がどうだとか御託を並べながら、顕微鏡でしか見えないウイルスに振り回されている実態はどのように分析し、定義づければ良いのか、多くの識者たちは思い迷っているに違いない。誰も確信的な意見を持ち合わせていない。そこに、どうしてもデジタルの敗北を見てしまう。過去のウイルス禍において、どのような流れで動いていき、終息したのか?なぜ、それを分析して予測しないのか?本来は法則が見えてき、それに基づいて対策が打たれるはずである。すべてのウイルス禍は終息している、あるいは潜行して生き延びたのである。それなのに、決定的なとらえ方を何にすえれば良いのか?その基軸がないのである。
これはデジタルの最大の欠点である。
私自身の考えでは、人口の何パーセントが感染したかの段階で、発病して増加するかどうかの傾向がみえ、それから先は天井まですすむか、あるいは減少に転じると読んでいる。天井まではすすまないことは人間はコロナにとっての餌であるからである。その分岐点をとらえ、明確な判断を下すべきである。
話は変わるが、自分の部屋の柱時計の時間がおくれるようになって、位置を壁から机の上に変えた。すごく見にくくなって、スマフォの数字で時間を見るようになった。それはアナログからデジタルへの移行であるが、時間が全体的な視点で見えなくなった。
これは、コロナ禍におけるデジタルの敗北なのである。
前のブログと重なるところが多いけど、もう一度、確認もかねて書いてみます。人類は長い間、二元論に支配されてきた。光と陰、神とサタン、男と女、幸福と不幸、精神と物質など日常生活においての考え方さえ、常識という権威になって、そのもとに置かれていたが、今回のコロナ禍において、わたしは目から鱗が落ちた気持ちになった。それはコロナが生物と非生物の中間に属し、物質だととらえる学者もいるという、新聞報道であった。つまり、独立しては生きていけず、寄生しなくては繁殖できない、生命でもない非生命でもないというとらえかたである。
これは二元論ではもう説明がつかないのである。量子力学の、1でもあり、0でもある、それらが重なり合っているという考え方でしかとらえきれない。シュレディンガーの猫、というたとえ話は量子力学の中では有名なものであり、毒ガスの噴射する箱の中に猫を入れている、猫は生きているか?死んでいるか?を問われて、生きてもいるし死んでもいる、という禅問答のような答えを出しているのである。胎児は最初の頃は中性の状態であるが、数か月後に男か女かの生殖器が現れて、どちらかになるのであるが、男女の割合がほぼ同じになるという不思議な原理がある。
コロナだけではないが、ウイルスそのものは生命でもあり、物質でもあるのではないか?人間が肉体という物質で出来ていながら、精神ももっているのと同じくして。
今回のコロナ禍において、哲学者や評論家はもっと考え方を変えていかねばならない。