ブログ - 20130924のエントリ
(処女)や(童貞)と同じくこの言葉も死語になってしまい、今では懐かしく感じます。明治時代以降、あれだけ(貞操)が重大視され殺人事件にまで発展することがあったのにいつのまにか消え、変わって(セクハラ)がマスコミを席巻しています。(貞操)って何だったんでしょうか?なぜ消えたんでしょうか?これにきちんと答えきれる評論家はいないでしょう。
わたしたちはいつの時代にもUFOや宇宙人などといったわけのわからないものに振り回されるのですね。1970年、1980年代であればそれらも貞操も(集団幻想)で片付けられたかもしれません。
(不純異性交遊)をヤフーで検索すると、18歳未満の者が性行為をするのは刺激が強すぎるから慎むべきという意味合いにとれ、それはそれで理解できますが、わたしが笑いを抑えられないのは、ではひるがえって(純粋異性交遊)とはなにを意味するのか?ということなのです。そこにこの言葉を考え出した方の迷いがうかがえます。性行為をするにあたって純粋な心理状態か不純な心理状態かを問題にしてるのでしょうが、それは愛情があっての行為かたんに性欲を満たすだけのものかということになります。これを掘り下げていくと性欲は愛情から生まれるのか単なる生理的現象なのかということになり、人間の精神と肉体(物質)の問題になりますが性欲はそのどちらからでも発生し左右されることはありません。それを理解すれば(不純)という言葉は場違いでまさに(不適格)な言葉です。
(セクハラ)という言葉にテーマを持っていくと、セクハラを受けた者が相手に愛情をもっていればセクハラにはならず、逆に愛情の表現になり喜ばれるのです。不思議なものですね。受けた者は男でも女でも同じです。
不純異性交遊もセクハラも人間の心を問題にしてる点では共通しています。
前のブロッグで(恋愛は化学反応である)(元素は物質になって安定する)という題で書いていますが、精神は物質の反応であると主張してるように(不純)も(セクハラ)も当人の肉体の元素のなせるわざにすぎません。被害者は気の毒だと思いますが、物質エネルギーの放出であるかぎり、この世からなくなることはありません。
安部政権による憲法9条の改正、消費税の導入など時代は変わりつつあるが、(天皇制)については政治家もマスコミも国民も口にすることはない。万系一世、神聖にして犯すべからずものという認識なのだろうかそれとも空気のように当たり前でなくてはならないものという認識なのだろうか、わたしのような希少な者からみればわからない。新聞やテレビが一度でもその聖域にふれてみればどんな反応が出るか面白いと考えるのだが、どこもやってみようとはしない。タブーに触れることを恐れているのである。戦後長きにわたって左翼の俎上にのってきたにもかかわらず新左翼消滅、右翼消滅の時世の中で天皇制の論議も消滅してしまった。
皇族たちに人権をあたえるためにはその身分が消滅しなければならない。
かれらの苦悩・ストレスはわれわれには想像もつかないものである。街の中を自由に歩くことも出来ない、旅行を気軽にすることも出来ない、酒場に入ることもできない。これだけ人権(?)を奪われた者をわたしたちは知らないし、生まれてから市民が当たり前に与えられた自由を持たない人種をわたしたちは知らない。かれらはそのことを訴えることも出来ないのである。天皇の人間宣言があったからには、皇室に問うて人権を回復したいかどうかはっきりしてもらうべきではないか?それが良心的というものである。かれらは働かなくても飯が食えるから恵まれてると考える国民は少なくなっている。なぜなら、生活保護制度によって飢え死にする者は少なくなっているからである。