ブログ - 20130903のエントリ
二日前、藤圭子が東京のマンションから飛び降り、自殺した。
若くして絶頂をきわめた者の不幸をそこに、わたしは感じた。天才的な芸術家や芸能人は若くして才能を開花させてしまい、後はその花が散るのを待つしかない。(散る桜、残る桜も散る桜)の名スピーチを残し、送別会で仲間の心を打ち、その夜に亡くなった定年退職者が会社にいた。翌日に訃報が会社からファックスで流れてきた。心筋梗塞で亡くなったということだった。驚いていると次の日に本人からのお礼の葉書が家についた。送別会に出ていただいてありがとうございます。退職後もお付き合いのほどよろしくお願いします、という内容だった。時間のずれだったのだが、またおどろいた。
こんなショックを彼女の死にわたしは覚え、(夢は夜開く)の歌がわたしの脳裏に流れるのだった。(15、16、17と私の人生辛かった)の言葉がわたしの青春に鳥肌を立て、今でも胸を痛める。
(一から十までバカでした)これはまったくわたしの人生であり、現在もそうなのです。
(赤く咲くのはケシの花 白く咲くのはユリの花 どう咲きゃいいのさこのわたし)としんみり陰にこもって歌い、あの自殺がその咲き方だったのかと短絡させるとあまりにも辛い。
絶頂を極めることは最高の幸福であるが、同時にそのレベルにひとしい不幸と重なり合っている。
66才になって絶頂をきわめるどころか、ただ生きながらえているわたしにはすでに(どう咲きゃ良いのさこのわたし)などという言葉はないし、いつまでも夢を見ていればいいし、見る楽しみが残されているわけである。消化そして昇華しきれなかった青春がいつまでもあるのだ(笑い)。