ブログ - 20130914のエントリ
あれはおよそ50年前のこと、わたしが19歳、三島由紀夫が35歳の時であった。箱根山で首吊り自殺を思いとどまったわたしと、東大卒で大蔵省に入局し作家生活に入った彼とがすれちがった2、3時間であった。わたしは精神の破綻から立ち直ろうとしていたが、彼はわたしの存在に気づきもしなかった。わたしは時代の寵児が東京・後楽園ヘルスジムに出てきてベンチ・プレスの椅子に座り、殺気のようなオーラを放っていた夜を忘れはしない。わたしよりはるかに小柄な彼がじっと前を見たまま黙然し、暗く殺風景な地下室の中でどんな想いにふけっていたか今では想像できる。脆弱さと繊細さ過敏さを筋肉のよろいでおおうことに成功した男、他方はおおいはじめた男、どちらも世間的な輝きの点では極端な開きがあっても内実と気質は似ていたし、わたしは似ていることが相手の感性を照応(彼が文学表現でよく使う言葉)させ、気分が通じることに警戒と危険を覚えていた。
そこでわたしと知り合った若者が彼のそばに寄り、(先生の作品は読ませてもらってます)と声をかけたが、三島は軽くうなずいたまま、視線を変えはしなかった。つぎの夜はカメラのフラッシュが何本も放たれ、彼はその下でバーベルを持ち上げていた。その光景は彼の写真集になって肉体美に集大成された。5年後に彼は市谷の自衛隊官舎で割腹自殺をし、その近くにある法政大学に通っていたわたしは新聞紙面でその冗談みたいな事件を知り、訝しくとらえたのだった。
(一撃必殺)の世界を経験したわたしは文学書を読み漁り、彼の思想に追随する日があった。彼の行為、つまり肉体を極限にまで鍛え上げることで感性の繊細さをみがき保護する修養は自己破壊と攻撃の可逆反応を生み、極限にまで発展させた。自己の肉体を叩き鞭打つ衝動は剣を突き立てて切り刻む行為に快感と陶酔に導き、拒むことは出来なかった。
それが切腹行為であり、彼の作品の中にひんぱんに出てくる自死への願望であった。