ブログ - 20130921のエントリ
このタイトルに感応する人は団塊世代でしょう。青春を1970年、1980年代におくった人で左翼思想に興味を抱いた人でしょうが、当時は(革命的)という言葉がすごく格好良く今でもわたしの胸にはすがすがしく響きます。
平岡正明氏が書いた本がこのタイトルでした。
法律や憲法は公平性があり社会生活を営みやすくすることを前提につくられていますが、実質は社会を支配している体制側の利益を優先しているのです。それに反する行為、法律をおかすことは体制に反することつまり(革命的)であるということです。ふつう犯罪を犯すことは道義的な意味で捉えられますが、このタイトルは政治的にとらえているところが新鮮です。また道義という思想は儒教に由来していて、これは国家に奉仕する学問つまり御用学なのです。
犯罪は動機は別にして、それを犯すことは体制にぶつかると同時に自己に植えつけられた道義・道徳を犯すことでショッキングなことです。先日、ある知人が大声で嘆いていました。暴走族がさわいで夜眠れないとしつこく言うのです。彼はその前に、駅前広場で若者が喫煙してることに腹を立て、一人一人を叱り付けていました。工事現場を回っては現場監督に住民に騒音の了解を得たかとか、ダンプの運転手には車を停めている時にはエンジンを切れ、吸殻のポイ捨てはするな、など注意してまわっていました。
わたしは彼に言いました。
上から見下ろすような視線でものを言ってはいけないよ。喫煙する若者には、(おれも昔は吸っていたけどねえ)という言い方で相手の目線と同じにしなければいけない、あなたは少しおかしい。極端なことを言うと、砂漠の中を走る時に交通ルールが必要か?あれは便宜的につくられてるに過ぎないんだ。
その言葉に彼は怒って、部屋から出て行きました。
彼の気持ちはわかりますが、この世のルールや決まりごとは全体ではなく一部の者達の利益になるようにつくられているのです。それを犯すことは善悪の問題ばかりではなく、革命的な意味でもあるのです。
わたしは犯罪者を単なる善悪の視点から診ることはありません。
もっと広い視点で見ます、自分も含めて。