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若いころの夢にはよく女が登場していたが、不能になった今、女は登場しなくなった。それは当然のことであろうが、ここ二、三年の夢はタイトルのとおりで、NHKの受信料の集金をしていた頃が、舞い戻っている。決まって、見知らぬ土地への不安となにがしかの期待感がこもっていて、追体験していることがわかる。あの頃は住宅地図とけ契約リルトを持って、バイクで大牟田や久留米、大川、柳川のビジネスホテルに泊まって、見知らぬ未契約先を訪れたものであった。振り返ると貴重な体験であった。
数えきれないほどの体験をした。生活者たちと金のことで交わり、教えらたり、発見したりまさに冒険であった。それは夢となって昇華し、ふとした何気ない景色が現れたりするのである。無意味としか言えない景色が自分の心を打つことがある。なぜ心に残っているかわからないが残っているのである。ふとした家の物陰、通り道、野草など・・・。
なぜこんなことを書いているのか?といえば、サムエルベケットの短編、(鎮痛剤)を読んだからである。彼の小説は変わっているというより、こんなことをよく小説にするな?と不思議な気持ちになるからである。
わたしがいくつの時に死んだか忘れた。どう考えても年とって死んだことはまちがいなさそうだ。九十歳ぐらいかな、それにしても長生きしたもんだ。(白水社刊・鎮痛剤)
死んでいればいくつの時に死んだかなんてわかるはずはないのに、作者はそんなリアリティは無視しているのである。こんな文章で書けるのだな、と感じ入ってしまう。
次は(追い出された男)である。書き出しを要約すると、階段を上ろうとして、最初に置いた段を一段目と呼ぶべきか?二段目と呼ぶべきか?迷う場面から作品は入るのであるが、それは当然一段目であるはずであるが読んでいる方はその迷いが正しいような錯覚に落ちてしまうのである。頭がおかしくなる感じがする。
ベケットはノーベル文学賞をもらっているが、天才であることはまちがいない。もしかすると、自分もまちがっていえば、天才なのかもしれない。先ほどの自分の夢を作品にしてみたい。
神とは,あらゆる時代、そしてあらゆる国に存在する普遍的な存在である。人が超人的な力に頼り救いを求めるのは本能的ともいえるが、近代の個人主義の教育をうけて以来、自己に頼ることが当たり前になってしまった。
信仰に入っておよそ十年にしかならないわたしは最近、神はもしかするとドッペルゲンガー的な存在ではないか?と思うようになった。ウイキペディアによればドッペルゲンガーとは自分自身の姿を自分で見る幻覚の一種で(自己像幻視)とも呼ばれる現象である。自分とそっくりの姿をした分身。第二の自我、生霊の類。と、ある。それは仏教でいう大宇宙、小宇宙という言葉とも重なり、自在に変幻するものでもある。神とは生命体の中に住んでいて、生命力の本尊となって成長を助け、危険が生ずれば注意信号を出し、本尊として死ぬまで見守ってくれるものである。仏教でいう成仏とは信仰に励み、そのはてにたどりつく境地であり、そこで本当に仏・神になれるのである。
断っておきますが、ここでは仏教とキリスト教の垣根を越えて書いていくことをお許しください。
キリスト教では人は神の子であるが、決して人は神になることは出来ず、そこで住むことさえできはしない区別がもうけられている。だが、仏教のように信仰に励めば仏になることができると言われる方が救いがあるように思える。神も仏も実はどちらもドッペルゲンガーで、同じものだと考える。ともかく、手を合わせて謙虚になって誰をも、愛と涅槃で包めるようになれば人生はすごく変わっていくことは間違いない。わたしもなんとかそのように考えることができるようになりました。
人は神を求め、救いを求めて生きており、それが引き絞られた姿がドッペルゲンガーとして、神の姿になって現れているのである。だから、それは自分自身の姿でもある。けっきょく自分に祈っていることでもあり、他力は自力なのである。
週に二日ほど、大手スーパーのカート整理をやっているが、不思議なことにそれが冒険じみたものになっていることがわかってきた。16時から19時まですることが多いので、その時間までは屋敷の草刈りも散歩もせずに休んでいる。リクライニング式の座椅子に寝ころんで、スマフォで株式取引をやったり、ニュースをみたり、エロビデオを観たりしている。
バイクで出勤するのでタイヤの具合をまず見、自分の体が三時間の間、まっすぐ歩けるかどうかも点検する。バイクは方向指示器が出ず、ガソリンのメーターも出ないので気を付けなければならない。走行距離が十万キロを超えているがエンジンの調子はまったく衰えない。カブは本当にすごいバイクである。
狭くて大型トラックがよく走る道を、時々脇道にバイクを停めてやり過ごしてやりながら走る。10分ほどでえ店の搬入口について、アスクをし、名札を付けて中に入る。時間まで駐車場のベンチで休み、交代者と変わって、仕事にかかる。まっすぐ歩けてはいるが時体が左右にか傾き、股関節に筋肉痛が出る。連続して出るようになったら歩けなくなり、事情を話して病院に行かなければならなくなる。今のところ、連続した痛みは出ていない。
昨日は開始の40分前に店に入ったが、カートの空きが15台くらいしかなく、なくなればお客さんがカートを使えなくなる。いつもは前任者がきちんとやってくれているのであるがいなかった。フリーで回っている店長、店次長、お偉いさんの姿もなかった。自分は16時からなのでその前の時間は仕事をしてはいけないと考え、事情をレジの女に、伝えると調理の男が二人出て来て、カートを駐車場から運び始めた。それで間に合った。自分は16時になって仕事をはじめ、19時までぶじにやり終えた。
帰宅の時間になると元気が出て、違う店に寄って、半額の寿司を買い込み自宅で食べた。美味しかった。冒険を終えた安心があった。
大手スーパーでカート整理のバイトをやっているが、一昨日、こんなことがあった。これまで週に二日のしごとであったが、今月から週に一日くらいに減らされる、とリーダーから電話があったのである。給料が半減するので驚き、店次長に理由を聞いたところ、お客さんの来店数も昨年の三分の一くらいに減り、従業員だけでカート整理は出来るからだという。確かに来店数が減り、仕事が楽になったと思っていたらこんなしわ寄せがやって来た。
店次長はまだ三十代に見える男で、以前の店次長より良心的であったので良い印象を持っていた。(それはわかりますが、働く者の立場は考えてくれないのですか?)と問うてみた。すると、そこまでは考えません。仕事が暇になれば出勤数が減るのは当然です、と言う返事であった。驚いて、仕事は心でするものなのですよ。と言うと、わたしにも心はあります。本当は従業員だけですることもできるのですがそれは思い止まりました。と言う。
シルバーの紹介なのでそこに相談しても、金を出しrている発注者の言うままなのです。と応える。労働者として認めないので、仕事中に車にカートをぶつけても個人負担なのである。シルバーの会員たちは高齢者が多いのでがまんしてやっているのが実情である。
なぜ、こんなブログを書いているかと言えば、今日のヤフーのニュースに管理職の仕事はaiが出来ると書いてあったからである。店次長には、わたしはこうも言った。わたしたちもこの店で食材を買っています。消費者なのですよ、と。店次長はうなづいていたが、その大手スーパーは数万坪のたんぼに大きな建物を建てているせいで経営の大変さはわかるが・・・・・。こんな場合、aiはどのように判断するであろうか?まちがいなく、心のない判断をし、暇になれば切るのは当然だということになる。人間であればそれがどんな波及効果を与えるのか?考えることができるが・・・。
昨日、現県会議員の男がやってきた。彼は以前、町会議員をやっていてよく知ったいたので、来年の四月には県会議員、町会議員の選挙があることを思い出した。10年前、わたしが海老津駅南開発反対運動をやっていた時、彼は開発賛成派であったのであまり信頼を持ってはいなかった。彼は例のごとく名刺を出し、後援会の男と現町会議員の男をそばにたずさえていた。
政治論議に入った。今の政治・社会は中心点を失っている。コロナ騒ぎ、ウクライナ戦争、統一教会問題、ワールドカップと次々に話題を振りまき、視聴率を稼ぎ、対策を練り、そんなことをしていたら、今度は環境破壊をテーマにするだろう。要するに永遠のモグラたたきを繰り返すだけで政治家とマスコミが潤うだけになっている。もし世の中から問題が消えたとするならば政治家もマスコミも警察官も必要が無くなってしまう。中心点と優先順位をはっきりさせることが政治に求められているのである。
中心点とは、自然の命、である。誰も否定出来はしない。自然の命は人の命でもあるのだ。
そんなことを喋っていると三人はうなずいていたが、わたしは彼らの腹の中を考えていた。彼らはどんな政治をやるかではなく何を喋れば当選するかしか考えていないのである。それは政治家になるにはまず大事なことである。でもすべての政治家はその罠にはまり、誰もが同じことを繰り返して、けっきょくは何も変わらなかったということが多い。
わたしは(自然の命)という政党を結成し、最後の闘いをしてみたいと思っていた。すべてを自然の命を中心に考え、経済成長率があがっても戦争が起こってもそのでどれだけ自然が破壊されたかを持ち出して、良いことだったのか?悪いことであったのか?の判断をするのである。
次に町政についてしゃべった。
非課税者への給付金の案内が来ていた。給付金は生活困窮者の自分にとってありがたいことであるが、受けた分は税金で取り返されるであろう。いつもの朝三暮四である。そこで疑問があったので、申込用紙の二枚目にマイナンバーカードと通帳のコピーを張り付けるようになっているが?と、町に問い合わせると二回目の給付のかたはそれは必要ありませんと電話でこたえた。それなら、なぜそれを書かないのか?というとすみませんと応えた。ところが次の日には、この前の仕込み用紙は令和四年の一月一日までと書いていましたが、五年の一月一日まででしたと書き送って来たのであった。その費用もだいぶかかったはずである。そこで県会議員の男に言ったのである。町政を民間会社に入札で与えろ!公務員でなければ仕事をしてはいけないわけではないだろう?民間会社であっても福祉の仕事もしているから菅と民の壁を取り除け、と。
三人は後ろ姿を見せて帰って行ったのであった。
聖書を勉強し始めて5年になり、素晴らしい経典に出会ったと喜んでいる。同時に自分の考えとは異なる部分もでてきて、さらに好奇心をわかせている。興味を持ったきっかけは十年前に心臓のバイパス手術をうけて成功し、臓器の動きに関心を持ったからであった。手足の筋肉は自分の意志で動いているのに心臓をはじめとする内臓は自分の意志とは関わりなく動き続ける。誰があやつり、動かしているのか?と考えてがわからなかった。そこで聖書の創世記の文章に出会った。その初めの部分に神がすべての生命をつくり、産めよ、生きよ、繁栄しろ!と告げており、生きるために不随意筋を動かしているのは神であると考え、性は繁栄の必須条件だと思った。
ところが日本では性に対するタブーが強く、性教育も不十分である。セクハラに過敏になっていることもあって手を付ける者も少なくなった。特に若い者はどのように性をとらえて良いのか?わからず、パパ活や乱交などが隠れて流行り、梅毒の感染者の数も戦後最高の数値になっている。政府も文部科学省も手を付けることが出来ず、メディアも有識者たちも遠巻きをしている状態である。
わたしも75歳まで生きて性に大いに関わり、生命であることも悦びをうけてきたのでいろんなことを考える。オナニーで射精が出来るようになるまで、簡単ではなかったが、大学生のある時、初めて(夢精はしていた)射精が出来た時の感動は一生忘れない。それから、何人かの女と交わり、性の神秘界に足を踏み入れたわけであるが、その隠された世界はとても広く深く、まるで神の世界のようでもある。
射精をする時間は数秒間であるが、誰がこの仕組みをつくったのか?と考えるとやはり神しかいない。男も女もこの絶頂感を求めて、命をかけるのである。それは神の世界に一瞬はいったごとく素晴らしい。男と女が頑張ったあげくに与えられた褒美である。神の祝福である。大切にして感謝をしながら生きて行かねばならない。射精は自分でコントロールできるようになるが、それまでは不意に訪れる天啓のようなものである。
今回のウクライナ戦争をみると、原因は土地争いであることがわかる。プーチンに言わせるともともとロシアの領土であったものをウクライナに奪われたから取り返すということであるが、考えるともっと根の深い部分がひそんでいる。それは自分のものいう所有への執着である。歴史的にみてもそれは不変んであるし、世界の戦争を振り返ってみると、ほとんどが領土への執着心である。取られたから取り返すということが多い。イスラエルであっても、2000年前に自分たちの領土であったものをアラブに盗られたと言って、数十年にわたる戦争をへて取り返したのである。今、自分が住んでる土地が千年前はおれの土地であったから返せ!なんて言われたらどんな気持ちになるであろうか?
じつは30年前、わたしが持ち山で竹の子掘りをしようとしたら、まったく見知らない男が掘っていた。驚いて理由を聞きくと、これは俺の山だとこたえた。ふざけるな!警察に行って話を付けようというと、彼は去っていった。それから何年か後に土地台帳を調べることがあって、調べてみると、明治時代に曾祖父が知り合いの借金のために担保権を設定していたのがわかり、あの男の言ったことは間違ってなかったことがわかった。
所有者のはっきりしない山はどこにもある。そこに小屋を建てたり、石を積み上げたりして自分の持山だと長年言い続ければ所有権が発生するのである。土地とはそんなものである。
だが、今回のウクライナ戦争は第二次大戦以来、被害の規模において第三次世界大戦にも近いと言われる。毎日のニュースを見るにつけ、そのとおりだと思う。プーチンに言いたいのはロシアの一割ほどの領土のために10万人もの戦死者や数百万人の国外脱出者を出し、経済封鎖をされ、世界の鼻つまみものにされてまで取り返そうとするのか?ということである。当事者はその視点はまったく欠け落ちてるのであるが、ある程度の知性の持ち主であればそろそろわかってもいい頃ではないか!
渋柿の収穫が終わり、一息ついているが、畑に入ればやり残していることがたくさん見える。まず何からやるべきか?と考えてみると、草刈り、枝落とし、ギンナンの収穫、畑づくりなどいくらでもある。先日、買って来た肥料五袋の移動から始めた。台車に載せて裏口から小屋まで運ぶが距離は百メートルもある。草の茂ったデコボコ道をヨボヨボしながら押して行った。小屋の中の五個の桶に肥料を入れた。その前に、小屋の前に繁った草を剪定ばさみで切っていった。
部屋に戻って小休止していると、作業服や軍手にヒッツキ虫(コセンダングサ)のとげがたくさん刺さっているではないか!上り口に戻って一本一本を取り落としていった。二百本以上はあった。毎年であう棘なのに今年もしぶとく生きてきたな・・、もうすぐ一年がたつぞ、と感心するが,簡単には取れずなかなかしぶとい。上り口に落としていったそれをほうきで掃いて地面に返した。おまえはこうして人の衣服について移動し、繁殖していくんだな!コロナみたいに・・。コロナはまた勢いを取り戻し、八波が来ると人は怖がっているが、おまえはコロナに劣らず元気だな・・・。三ミリほどの棘の姿をよく見ると、先が槍の刃みたいで凹みもあって外れないようにできている。風の飛んで移動する種などいろいろあるがその中でもこのコセンダングサはなかなか攻撃的で賢い。動物の毛に張り付くことは🅂出来ず、人が衣服をまとわなかった頃には繁殖しにくかったが人が衣服を着るようになって格子状の人の衣服に取りついて移動することを知ったのである。どのようにして知ったのだろうか?神の教えなのか進化なのか?お前たちには知性があるにちがいない!人の行動や心を読みこんでいるのである。動物や鳥の毛にはひっつくことはできない。服に刺さって人が痛がって取り外して落とす。それでおまえは移動したことになるのだ。棘は付着と攻撃と二つの作用を持っていることになる。
すべての生命は人に劣らない知性をもっているのである。人はその中の一員でしかない。ウクライナ戦争が終わってどうなるかわからないが、長年築き上げた人の知性はヒッツキ虫にも劣っていたことがわかるかもしれない。
今日は家から一歩も外に出なかった。昨日、カート整理のバイトを3時間やったことと、一昨日の柿千切りの仕事で膝と腰が痛くなっていたからである。これくらいの労働で体が動かなくなっている。情けないがどうしようもない。
午前中は81歳の老婆が来て、畑を作ってくれた。先日、通りがかりに、遊んでる畑はないですか?と声をかけてきたので、うちので良かったら、と頼んだのであった。荒れた畑の隅を耕して、花を育てようとしているが、元気のいい明るい婆ちゃんである。自分も一緒に畑をしようと考えたが、体が重く動く気がしなかった。部屋の中で、株価の動きやエロビデオを観て過ごしたが、気分がよくはなかった。
吊るし柿頬を寄せ合う窓辺かな
という、句をつくってみた。栗が千個もなって、売り、3万円も稼いだかと考えていると今度は柿の豊作である。10個で400円で売れ、3万円は稼げそうである。それ以外にビワ、梅、ギンナン、花、レモンなどすべて母が植え、子供たちに残してくれたのである。それを摘み取り、売って、食いつないでいる自分。この歳になって母の凄さがわかってきた。畑も果実も母の体である、と思う。小説の方は書いては投げ出し、書いては投げ出しをしていたが、(乳垂の園)という題で今度こそは書き上げれそうである。
わたしは75歳になって、なんとか空気を読める男になったが、現在、空気を読めないことは適応障害と捉えられている節がある。発達障害という言葉もあり、これが障害者の中に追い込まれている風潮であれば、問題である。まわりに同調することは空気を読めて健全なのであろうか?政治や思想、学問の分野で異質な考えを持つことはその世界の発展のためには必要なことなのである。
確かに空気を読めなくて困っている人はいるし、自分も大学生のころまで他者の心が読めなくて困ることがあった。だから自分の異質性を捨てていったのであるが、振り返ればそこには貴重なものがあったのである。その時は評価できなかっただけである。今、捨てたものを拾い直し、小説の中に生かそうとっしているのでもある。
空気を読めないことは悪いことではない。今、芸能や音楽、絵画、小説などが活気を失ってしまっているがそれは空気を読める人間ばかりが多いからである。