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次の日の朝、スイカ畑に行ってみると、そこはロシア軍に攻撃されたウクライナの戦場みたいになっていた。15個のスイカにナベ、洗面器、植木鉢、バケツなどをかぶせていたのだが、4個ほどがめくられ、実が食われていた。実はスプーンでこすり取ったようにきれいにえぐられていた。熟していない白い実は割られたままで食われていなかった。ショックでしばらく放心していたが、どうするか?と考えた。
カラスはそれらの容器をひっくりかえしたのである。では、昨年のように容器の上に石やブロックをのせてやろう・・・。ところが昨年は、カラスではなくアナグマが入ってきて、二枚のブロックを外し、食べたのであった。それを考えると、もうどうしようもないかな?これからネットでスイカ畑を覆うには日数もかかる・・。
とりあえず、残った11個の上に石やブロックをのせて、弁当配りのアルバイトにでかけた。
仕事を始める前、ロビーでTさんに会った。彼もスイカを植え、わたしがすすめた警報機を取り付けている。出来事を話すと、それはスイカの実のまわりに低い棒を三本立て、釣り糸で囲んでやればカラスは糸で羽を切られると思って近寄らない、おれは今そうしていてカラスは寄ってこない、という。
帰宅して三箇所ほどそうしてみた。
今朝、それらも残りのスイカも食われていなかった。
自分の結論はこういうことなのです。男と女の結びつきは相手が優しかったとか、美人であったとかではなく、本来一つのものであった存在が二つに割れてしまい、世間で過ごしているうちに偶然出会い、元の鞘に収まり、一つになったということなのです。割れ鍋に綴じ蓋の関係なのです。聖書の創世記には、男が一人でいるのは不自由で寂しいだろうと神は思い、その肋骨をとって女に変えた、と書いてあります。それは一つであったものが二つになったということではないですか?それに人間の胎児は、受精して何ヶ月かは男でもない女でもない中性であり、しばらくして男か女の胚珠が出てきて決めるのです。また、男女の比率はほぼ同じなのも不思議ですね。それに、世の中にはフタナリといって男と女の性器を持っている人もいます。生命は本来、両性具有なのです。単細胞生物であったものが雌雄に別れてしまったのです。
その不倫の男と女は本来、一つだったのですが、相手を間違えて結婚してしまっていたのです。ところが、職場で片割れ(差別用語であれば削除します)に出会ってしまい、元の鞘に収まろうとしているのです。
そんなことを考えながら、書きかけの小説(醜い花はいない)はテーマを変え、(二人で一人)という作品に仕上げようと考えています。
また、母親から電話がありました。彼女は強い不眠症で朝の9時頃にしか起きないのに、6時ころに娘から電話がかかってきた。ー昨夜は眠れなかった。男のことを考えると、死にたくなったーという。母親はー職場に乗り込んで、男とかたをつけてやる。警察に全てをぶちまけて男を首にしてやる!ーと叫ぶように言いましたが、彼女は足腰が弱って杖をついて歩く状態なのです。
すると、娘はそんな事をしたら、あの人が可愛そうなのでしないでくれ!と応えたそうです。
その老婦人とはプラトニックな関係であるが、1時間も2時間も、長電話がかかってくることがある。わたしは孤独なので電話がかかってくることは嬉しいし、聞くことも小説を読むように面白い。
最近,彼女の一人娘の不倫話が多くなり、夜の9時ころまで耳をかたむけていることがある。
娘には夫と大学生の息子、中学生の娘がいて、経済的にも恵まれているのだが、息子の学費のために働き始めた。そこで上司であった男に仕事を親切に教えてもらい、深い関係になったのである。ここまでは別に珍しいことではないのだが、そこから男と女の関係が激しくなり、わたしは老婦人の話に注目するようになった。
娘の職場の出入り口に野良猫が住み着くようになっていた。以前から餌をやり、社員たちにもなついていたのだが、そこは国道に近いので車に轢かれては可愛そうだと思い、娘はわたしの家に仮住まいさせることを考え、男と二人でやってきた。娘とはわたしが母親の家に野菜を持って行っていることで顔見知りであった。美人でスタイルが良い。彼女の男とは初対面であったが、普通の男のように見えた。三人は世間話を交えた。その時は、猫の仮住まいのことに同意したのだが、後になって逃げたらどうするか?病気になったらどうするか?と考えるようになり、けっきょくは母親の口を通して、断ることにした。
それはそれで片付いたが、男は娘に結婚指輪をプレゼントし、三年後には結婚する約束をしたのであった。仕事が終わると、二人は近くの公園で落ち合い、逢瀬を重ねた。
ところが、親しくなると同時に二人の性格がむき出しになっていった。
娘が仕事上のことで他の男と親しげにしていると、そんなことをするな!、と言い、男が顧客の女と親しげにしていると女は嫉妬し、人前で感情をむき出すようになったのである。死ね!殺してやる!おたがいに大声で非難しあい、車から突き落とそうとしたりしたこともあった。たがいに独占欲が強すぎるのである。二人とも、別れる!と言いながら、同じ職場なので離れることはできない。男はあと2年で定年退職なので、それまでの辛抱だ、と、母は娘にいうがやめても下働きをそこでするかもしれなかった。
わたしはこの話を電話で聴きながら、アメリカ映画(危険な情事)を思い出した。愛し合っている男女がしだいに憎みあい、最後は殺してしまうストーリーであった。愛と憎しみは愛憎と言われるように二項対立であり、いつでも手のひらを返す、という常識的なことが真理であることがわかったのである。
娘と男は付き合い始めて3年になるが、娘は彼女の家にはあまり帰らず、仕事が終わると母の家によって夕食を食べ、男との長話をしている。母は悩み、その内容を自分に逐次、電話してくるのである。
わたしは昔の女関係を思い出しながら、男と女の気持ちを考え、真理を探そうとするが、なかなか難しいし、何をアドバイスしてやったら良いのかわからなくなることがあり、行き着くところまで行かないと解決しないですよ、と無責任な事を言ってしまう。今度、教会の女牧師にどうしたら良いのか?たずねてみようとも考えた。
(別れぬ理由)という日本小説のタイトルが思い出されるようになった。その二人は、なぜ別れられないのか?と尋ねられても答えられないであろう。自分は身近な男女の体験をとおして、なんとかわかりそうになった。
ここからは次のブログに書きます。
スイカ畑の草をむしるのが楽しい毎日になった。25株ほど植えたのだが、2ヶ月がたって成長し、コブシくらいの大きさになっている。草の中から顔を出すと、見つけた!と喜びが出る。
そばの木から、ギャーとカラスが小声でないて、見つけたぞ、おれにも食わせろ!と言わんばかりで、心配がわいた。昨年はカラスとアナグマに食われて、半分くらいしか収穫ができなかった。
今年は大玉スイカも植えているので、まだ熟れてはいないだろう。カラスは熟れてからしか食わない。竹の子山で切った竹を持ってきて、網でフェンスを張ってやろう・・。そう考えながら、顔を出したスイカに草をかぶせてやった。
ところが、次の日の朝、三個のスイカは赤い果肉をむき出して転がっていた。
ショックに襲われた。
小玉スイカがピンク色になって熟していたのである。
さて、どうしようか?竹の棒を立ててネットを張るには2,3日はかかる。
だが、竹の子山にイノシシよけの警報機を2個取り付けていたが、不作で持って帰っていた。
それを取り出して、スイカ畑に取り付けた。体温を感知すると、サイレン、狼の声、豚の鳴き声、銃の発泡音、人の怒鳴り声など盛りだくさんの声がおそってくる。自分も襲われる気分になる。
次の日の朝、おそるおそる近づいてみた。
一羽の親ガラスが椅子に立って畑を見ている、ではないか!
よく観察すると、そばに警報機が取り付けてあって、スイカがぶじに転がり、カラスは考えているようであった・・。
その日も草をむしりながらかくれていたスイカを見つけ、計13個が成長を待っていることを知った。
自分が動くたびに警報機は威嚇音を鳴らしてくれたが、昨年のアナグマは憶えているからここに来るにちがいない。やはり、フェンスを張るべきだろうか?軽のポンコツ車でとりに行くのは山道が怖い・・。
すると、モンシロチョウが楽しげに蜜を吸いに来たのである。
そうだ、フェンスを張ると、蝶が入れず、受粉ができなくなるのだ・・・。
とりあえず、このままにしておこう。
それから、二三日無事であったが、十個以上のスイカが無事に店頭に出せるだろうか?と心配が、残った。警報機が鳴ると、アナグマは逃げるが同時にスイカが食われているかもしれない・・・。
野菜づくりは大変であるし、自然の摂理もすごいものである。蝶はたんに飛んでいるのではない。蜜を吸い、花に交配してやって生命を育てているのである。そんなこともわかった。
ここでは暴力が良いのか?悪いのか?という観点を外して書きます。
今、東京の大学で、一撃必殺の世界にいたときのことを小説に書き始めました。六十年後にして、やっとあのときの体験を突き放して作品化できるという気持ちです。単なる体育会のリンチではないか、と言われればそうであるが、三十年間も悪夢にうなされたのです。
砂利道を、拳立てし、両足を持たれて歩かされ、血まみれになった。その拳骨で樫のマキワラを叩き、軟骨を潰した。その練習よりも、練習後にベランダに整列させられ、みぞおちを一人一人の二年坊から殴られた恐怖と痛みは数千回の悪夢に変わって襲い続けたのです。
当時は、強くなりたい、と考えて後楽園ヘルスジムのボディビルにも通っていた。三島由紀夫も練習に来ていて、肉体美を見せ、多くのカメラマンからフラッシュを浴びていた。
空手では、強くなるために体を棒や拳骨で叩く訓練もしていた。最初は痛かったが、そのうち、それが快感に変わるのでした。六角棒で、締めた腹や腰、腿や腕を叩く。すると鍛えられた筋肉の方が強く、六角棒が折れてしまうのでした。
叩かれることは痛いことでもあったが、しだいに快感に可逆反応してしまう。血尿がでるほどの訓練であったが、全身が高揚すると精神もそれにはまり、日本刀の刃先のように収斂され、極地に達した。すると、体を傷つけたい欲望が産まれ、死を熱望していたのであった。攻撃と被虐が一体化していた。サドとマゾの行為の意味がわかった。あれは単なる暴力行為ではない。
三島由紀夫を見て、五年後だっったと思うが、大学前の千鳥ヶ淵の歩道を歩いていて、号外のチラシを貰った。なんと、すぐそばの市ヶ谷自衛隊基地で三島が割腹自殺をしたというのであった。嘘だろう?なにかの間違いだ、と考えていたがテレビや新聞で報道され、事実だとわかった。
三島とは直接話したことはなかった。作品「金閣寺」にどもりの住職が登場し、あまりにリアルに気持ちや症状が書かれていたので、自分のどもりを見破られると警戒していたからである。
割腹自殺と書かれているが、そうではない彼の心理が読めてきた。攻撃から自虐、自己破壊へと転化し、快感に酔いしれたにちがいない。限りなく進み、それは死であった。
三島は自己を(死)によって完結させたのである。
みごと、と言うしかない。
これを小説に書いてみたいのです。
はっきり記憶しているだけで、これまで五回ほど死を免れたことがあった。一度目は十八歳のとき、すべてに失敗して自殺をはかったのだが、それにも失敗したのであった。小学校の時から受験戦争にかり出され、がんばったが最終的に第二志望の大学に落ちた。どもりの矯正所に通ったが治らない。自律神経失調にかかり、頭はぼんやりして、燃え尽きていた。どうすれば良いのかわからない。やけになって、修学旅行の良い思い出のあった箱根の山を彷徨していた。そこで予定していたとおり、睡眠薬とウイスキーを飲み、トイレの中で首をつろうとしたが、睡眠薬もウイスキーも効かず、ロープに中に首を入れてる自分を知って、虚しくなった。
二度目は東京で、土方のバイトをしていて、建設中のビルの十階から脚を踏み外して落下しそうになった。片手を出し、仮場の鉄パイプを握って這い上がった。そして、次は地下鉄工事であったが、ダンプの荷台に乗っていてそこから地下に落ちそうになったが、体を支えて助かった。
次は、集金の仕事で、バイクで走っていた。道の左側は草むらになっていたので地面だと勘違いし、左足踏もうとしたが土手になっていて転がり落ちた。幸いゆるい斜面であったので、這い上がりバイクごと持ち上げた。
次は、ある女が、男と決着をつけにやってきた。が、男は出払っていて、戻ってくるまでわたしと同居する羽目になった。男が戻ってくると言った寒い夜、女と電気コタツをはさんで向き合っていた。寒いやろう?こっちに来ない?という言葉に女は寄ってきて抱き合った。数十分後に男は帰ってきて、俺の女に手を出しやがって!と叫んだ。その前にわたしは女と体を離し、衣服をつけさせていた。性交渉まではすすんでいなかった。あと、数分遅れれば性交渉に入っていて、わたしは殴り殺されていたかもしれなかった。
次は心臓のカテーテル治療してもらって、二度、失敗し、治療が終わりました、と言われて、夕食をとっていた。そこで心筋梗塞を起こした。十人ほどのスタッフが呼び集められて、緊急治療をして助かったが、夜中であれば手術ができずに死んでいた。
この五件を振り返ってみると、間一髪のところで(死ななかった)のである。助けられたのである。
なぜであろうか?
単なる偶然なのか?
なにかの誰かの意思が働いていたのか?
と、考えるのである。
そこで神はすべての生命を生かし、幸福に導いてくださる、という言葉を思い出せば、つじつまが合う。だが、五件の事例にであって死んでいたかもしれないし、死んだ事例もあるはずである。その境目は何にあるのか?
わたしは特別に信仰深いものではないし、立派な人間でもないが、75歳まで死ななかったのは不思議である。どうしても、そこに神の気配を感じてしまう。
キリスト教でも、死は罰である、と言い、永遠の命が神から与えられていたはずだった、と記しており、現代社会も長生きをほめ、人々もそれを望んでいる。すでに尊厳死はどこかに追いやられ、メディアはウクライナ戦争による破壊のすさまじさと死の悲劇を報道し続け、生きていることと命のありがたさを訴え続けている。それは大事なことであるとわたしは考える。だが、一方、どこかがおかしいと考える。今、わたしは生きているが十年先には死んでいるとが確実であるし、十年前は心筋梗塞を起こして、あと三時間で死ぬはずだったのである。
今、わたしは生きている、のではない。生きてもいるし死んでもいるのであり、その両方が重なり合っているに過ぎない。二者択一ではなく、すべては重なり合っているに過ぎないのである。サイコロを振ったときのようにどちらかが出ているにすぎない。
常に、背中合わせの状態なのである。金持ち、貧乏、美顔、醜い顔、健康、病気、晴れ、雨などすべて二律背反なのであるが、それに気づくものはおらず、今がよければすべてが良いみたいな錯覚の中で生きている。事態が悪くなって初めて、一過性の中で生きていたことがわかる。わたしも人生を振り返ればそれに気づくことばかりである。
逆のことを考えることも大事である。死ぬことはいけなくて、死なない人生が良いのか?と考えればそう簡単な結論は出せない。死なない人生を想像してみよう。いつまでも変わりばえのない生活が」永遠に続き、終わりはない・・・・。としたらそれは地獄である。ある男は精神病院の閉鎖病棟に40年も入院し、外出もできない。体は健康なのに、暴力をふるう恐れがあるので退院を許されない。だが、生活にも病気にも困ることはなく、ほとんどすべてが保証されているようなものである。だが、わたしは国民年金の生活で、働けなくなれば生活が破綻する恐怖に怯えている。
どちらの生活が、まし、なのか?
ではない。
どちらも同じなのである。
その男も自分も数十年先にはこの世から消える運命がある以上、等価であるに過ぎない。ご破算であり、次の人生に生き返るだけである。ウクライナ戦争をロシアがあれだけ破壊した以上、戦争が終われば新しい国に生まれ変わるだけである。
あらゆる観念や現象は二項対立の枠におさえられており、わたしたちはその中で生活する以外はない。美しい、醜いとか、気持ちいいとか気持ち悪いとか、高価とか低価とか、頭が良いとか悪いなどそのカテゴリーから自由になれる者はいない。天気でさえ、晴れようが雲ろうが自然なはずなのに、良い天気、悪い天気と毎日言われ、たえず評価されている時代である。資本主義が自由競争を生み、繁栄していく中でこの構造はますます強固になっていくばかりで、金儲け主義に引っ張られるだけである。ウクライナ戦争だって軍需産業があやつっているようなものである。孤独で貧乏な老人であるわたしなど、すべての評価基準から外れ、カスみたいなものであろう。
高評価を受ける者はいい気分であるが、低評価を受ける者は自殺さえしてしまう。鼻や唇の形が少し違うだけで判定が変わり、世間の目は見逃そうとはしない。近頃の眉目秀麗現象には圧倒される。道を歩く男や女テレビに現れる彼らが揃いも揃って、弓形の濃い眉毛、ぱっtりした目なのである。それはこの二、三年のうちにかわってしまったのであるから、異常としか言いようがない。
二項対立から外れた世界に生きることができれば、世の中はもっと希望に満ちるはずである。老いてはいるけど心は若い、学校の成績はわるいけどすごく勘が良い、醜い女だけど心が優しく、そこに色気を感じる、貧乏だけど働いていて生きがいがある、など違う見方をすればいろんな発見ができるのである。いろんな顔や生き方に価値を見つけることができるのである。が、教育の分野でそれを取り入れようとする気配はない。一流大学出の公務員が采配を振っているのであるから期待するほうが無理である。
そのうち、二項対立から序列をつけるようになって点数までつけるようになるかもしれない。それだけではなく、差異や格差は悪いから平等でなければならないという主義が時代に取り組まれてしまっている。男と女のちがいなどあってはならず、女も働き、男も子育てをする、そして、男らしさ、女らしさも許されない。職場でそのことを口に出すだけでセクハラで訴えられるのである。
何という時代だ!などと口に出せば白眼視される。なんという時代に生きているんだ!わたしはここで声を大にして言いたい。差異や格差があるからエネルギーが生まれるのである。それらがなくなれば月のl表面みたいになにもない砂漠になってしまうしかない。
今日の日曜礼拝はいつもどおり行われた。祈祷の時間になると、10人ほどの信者たちは頭を垂れ、ながながと祈り、罪の許しを乞い、声を震わせた。わたしもそれにつられながら、兄弟姉妹たちの表情を見ていたがかれらのような高ぶりはしなかった。聖書を開いてまだ五年にもならないぶんざいである。が、考えることは多い。あまりにもレベルの高い書物なので興味深い反面、太刀打ちできそうにない。
(キリスト教にとって性とはなんなのか?)と、考えてみた。端的に言うと、それは永遠の罪なのである。神が禁じていたにもかかわらず、善悪の木の実を食べてしまい、それゆえ楽園から追放され、死ぬ運命を与えられ、蛇のようにのたうって生きることになったのである。やがて、キリストの母であるマリアが夫との性交ではなく、精霊の力で処女懐胎をした。キリストはこっそりと厩で産まれたが、すでに他宗派たちに狙われていた。キリストは成長すると、自分は神の子だと言って宣教を始めた。そのために捕らえられ、磔で処刑されたが、彼は自ら殺されること選び、人類の原罪を贖おうとした。
この流れではマリアが人間の種ではなく神の種を宿したということで、原罪を逃れさせようとしている。
だが、人間は性交をしてでなければ増えることができない。それは永遠に罪を増やすことでしかなく、
贖罪を成し遂げられない限り、とめることができないのである。現在、ウクライナ戦争で殺し合いを続ける人類の罰を見るのはわたしだけであろうか?
他方、科学の分野に目を向けてみよう。2千年前に、光あれ、という神の言葉のもとに宇宙が誕生し、人類が産まれ、世界が発展していった。それから二千年後の今、科学はやっと神の予言にちかづき、宇宙の究明に迫っている。ホーキンス博士は宇宙は始まりも終わりもないと結論づけ、量子力学は、生きてもいるし死んでもいる、1でもないし0でもあるという領域を発見し、すそのを広げていっているのである。
これはやがて、罪でもあるし罪でもない、という新しい境地を発見し、人類を救済し、発展させるの違いない。
すべての事象の観念は重なり合っており、その時の観測者の意識によって捉え方が変わり、どのようにでも判断される、と書いてみよう。これは量子力学の二重スリット現象の実験に現されており、わたしはそれにヒントを得て問題提起している。小さな穴を開け、そこに光の粒を通すと波になって干渉波ができるというのがスリット現象であるが、その光の粒は観測者がいるときには一粒しか通らず、いないと二粒が同時にすり抜けるのである。なぜなのか?それは書かれていないので自分で判断することになるが、観測者の質量は光の粒の数億倍なのでその時の観念が二粒が同時に通り抜けることはありえないという考えなので、念力みたいに、それに圧倒されて意識が動きを反映させるのであろう。
そして、光は波でもあり粒でもある、と量子力学は定義づけているし、それでなければ結論が出ないのである。科学においても真理は一つでしかありえないはずなのにこんな結論を出さざるを得なかったのであり、これは真理を否定する画期的な考え方である。
ここで、(生きてもいるし死んでもいるー2)のタイトルに戻ると、あらゆる出来事や事象を二者択一式に捉え表現している現代世界はそれ故にいろんな問題にぶっつかっていつもモグラ叩きを繰り返すばかりである。同じ間違いを繰り返し続けており、それは基本概念絶えずがぐらついているからである。世界は前進しているようで実は(動的平衡)の状態で、ただ単なる上下運動を単に繰り返しているにすぎない。良いか?悪いか?の二者択一式の思考を外して、良くもあり悪くもあり、という俯瞰の観念に戻るべきである。
人生が因果関係のくりかえしだとすれば、あの出来事は良かったか?悪かったのか?は死ぬ直前にしかわからない。それではもう遅い。せめて、良かったことでもあるし悪かったことでもあり、生きるという経験を与えてくれた神に感謝を捧げるようになれれば幸福ではないか・・・。わたしにもあなたにも数限りない経験があり、これからもしていくことになるだろうが神の試練だと考えたい・・。