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あらゆる観念や現象は二項対立の枠におさえられており、わたしたちはその中で生活する以外はない。美しい、醜いとか、気持ちいいとか気持ち悪いとか、高価とか低価とか、頭が良いとか悪いなどそのカテゴリーから自由になれる者はいない。天気でさえ、晴れようが雲ろうが自然なはずなのに、良い天気、悪い天気と毎日言われ、たえず評価されている時代である。資本主義が自由競争を生み、繁栄していく中でこの構造はますます強固になっていくばかりで、金儲け主義に引っ張られるだけである。ウクライナ戦争だって軍需産業があやつっているようなものである。孤独で貧乏な老人であるわたしなど、すべての評価基準から外れ、カスみたいなものであろう。
高評価を受ける者はいい気分であるが、低評価を受ける者は自殺さえしてしまう。鼻や唇の形が少し違うだけで判定が変わり、世間の目は見逃そうとはしない。近頃の眉目秀麗現象には圧倒される。道を歩く男や女テレビに現れる彼らが揃いも揃って、弓形の濃い眉毛、ぱっtりした目なのである。それはこの二、三年のうちにかわってしまったのであるから、異常としか言いようがない。
二項対立から外れた世界に生きることができれば、世の中はもっと希望に満ちるはずである。老いてはいるけど心は若い、学校の成績はわるいけどすごく勘が良い、醜い女だけど心が優しく、そこに色気を感じる、貧乏だけど働いていて生きがいがある、など違う見方をすればいろんな発見ができるのである。いろんな顔や生き方に価値を見つけることができるのである。が、教育の分野でそれを取り入れようとする気配はない。一流大学出の公務員が采配を振っているのであるから期待するほうが無理である。
そのうち、二項対立から序列をつけるようになって点数までつけるようになるかもしれない。それだけではなく、差異や格差は悪いから平等でなければならないという主義が時代に取り組まれてしまっている。男と女のちがいなどあってはならず、女も働き、男も子育てをする、そして、男らしさ、女らしさも許されない。職場でそのことを口に出すだけでセクハラで訴えられるのである。
何という時代だ!などと口に出せば白眼視される。なんという時代に生きているんだ!わたしはここで声を大にして言いたい。差異や格差があるからエネルギーが生まれるのである。それらがなくなれば月のl表面みたいになにもない砂漠になってしまうしかない。
今日の日曜礼拝はいつもどおり行われた。祈祷の時間になると、10人ほどの信者たちは頭を垂れ、ながながと祈り、罪の許しを乞い、声を震わせた。わたしもそれにつられながら、兄弟姉妹たちの表情を見ていたがかれらのような高ぶりはしなかった。聖書を開いてまだ五年にもならないぶんざいである。が、考えることは多い。あまりにもレベルの高い書物なので興味深い反面、太刀打ちできそうにない。
(キリスト教にとって性とはなんなのか?)と、考えてみた。端的に言うと、それは永遠の罪なのである。神が禁じていたにもかかわらず、善悪の木の実を食べてしまい、それゆえ楽園から追放され、死ぬ運命を与えられ、蛇のようにのたうって生きることになったのである。やがて、キリストの母であるマリアが夫との性交ではなく、精霊の力で処女懐胎をした。キリストはこっそりと厩で産まれたが、すでに他宗派たちに狙われていた。キリストは成長すると、自分は神の子だと言って宣教を始めた。そのために捕らえられ、磔で処刑されたが、彼は自ら殺されること選び、人類の原罪を贖おうとした。
この流れではマリアが人間の種ではなく神の種を宿したということで、原罪を逃れさせようとしている。
だが、人間は性交をしてでなければ増えることができない。それは永遠に罪を増やすことでしかなく、
贖罪を成し遂げられない限り、とめることができないのである。現在、ウクライナ戦争で殺し合いを続ける人類の罰を見るのはわたしだけであろうか?
他方、科学の分野に目を向けてみよう。2千年前に、光あれ、という神の言葉のもとに宇宙が誕生し、人類が産まれ、世界が発展していった。それから二千年後の今、科学はやっと神の予言にちかづき、宇宙の究明に迫っている。ホーキンス博士は宇宙は始まりも終わりもないと結論づけ、量子力学は、生きてもいるし死んでもいる、1でもないし0でもあるという領域を発見し、すそのを広げていっているのである。
これはやがて、罪でもあるし罪でもない、という新しい境地を発見し、人類を救済し、発展させるの違いない。
すべての事象の観念は重なり合っており、その時の観測者の意識によって捉え方が変わり、どのようにでも判断される、と書いてみよう。これは量子力学の二重スリット現象の実験に現されており、わたしはそれにヒントを得て問題提起している。小さな穴を開け、そこに光の粒を通すと波になって干渉波ができるというのがスリット現象であるが、その光の粒は観測者がいるときには一粒しか通らず、いないと二粒が同時にすり抜けるのである。なぜなのか?それは書かれていないので自分で判断することになるが、観測者の質量は光の粒の数億倍なのでその時の観念が二粒が同時に通り抜けることはありえないという考えなので、念力みたいに、それに圧倒されて意識が動きを反映させるのであろう。
そして、光は波でもあり粒でもある、と量子力学は定義づけているし、それでなければ結論が出ないのである。科学においても真理は一つでしかありえないはずなのにこんな結論を出さざるを得なかったのであり、これは真理を否定する画期的な考え方である。
ここで、(生きてもいるし死んでもいるー2)のタイトルに戻ると、あらゆる出来事や事象を二者択一式に捉え表現している現代世界はそれ故にいろんな問題にぶっつかっていつもモグラ叩きを繰り返すばかりである。同じ間違いを繰り返し続けており、それは基本概念絶えずがぐらついているからである。世界は前進しているようで実は(動的平衡)の状態で、ただ単なる上下運動を単に繰り返しているにすぎない。良いか?悪いか?の二者択一式の思考を外して、良くもあり悪くもあり、という俯瞰の観念に戻るべきである。
人生が因果関係のくりかえしだとすれば、あの出来事は良かったか?悪かったのか?は死ぬ直前にしかわからない。それではもう遅い。せめて、良かったことでもあるし悪かったことでもあり、生きるという経験を与えてくれた神に感謝を捧げるようになれれば幸福ではないか・・・。わたしにもあなたにも数限りない経験があり、これからもしていくことになるだろうが神の試練だと考えたい・・。
近頃、神に祈ることを忘れたように、手を組むことが少なくなった。信仰が少なくなったわけではなく、(科学者はなぜ神を信じるのか)という本を読み、神について考えてもいる。科学者たちは聖書を神話として読み、祈っているようで科学との矛盾を考えてはいないようである。
話しは飛ぶが、毎朝、目がさめ、起き上がるのが苦痛で、いやになる。このまま目がさめず、仮死状態でいたいと願っている。その状態は死んでもいるし、生きてもいる、という(シュレディンガーの猫)の理論に似ている。毒ガスの発射する箱の中に猫を閉じ込めていて、猫は生きているか死んでいるか?と問われ、生きてもいるし死んでもいる、と応えたという有名な話であるが,自分はこれを哲学的に考える。けれども、私達の日頃の生活は良いのか?悪いのか?の二者択一的であり、そうでなければ日常生活は送れないが、突き詰めて考えればすべての事象は(塞翁が馬)であり、良いことと判断すれば良いことであり悪いことと判断すれば悪いことなのである。観測者の判断が入るまでは両者は重なっている状態なのである。
昨日は一週間ぶりにスーパーのカート整理のバイトをした。四時間休憩なしなのとお客さんの人混みを縫うような動きをしなければならないので疲れ、めまいを起こしそうになる。足腰も弱っているので倒れればすぐに解雇である。
だが、終業が近づくと元気が出てくるのである。これをやり終えれば開放されるし、二日間は自由になる。そして、今日は開放日で、なにをしてもいい日である。嫌なことが過ぎれば天気模様も変わるのである。
ヤドカリとイソギンチャクの共生関係は小学校でも習ったことであるが、そこには一つの法則・原理みたいなものが潜んでいる。イソギンチャクは岩に張り付いていて、移動することができない。ヤドカリは移動は自由にできるが、餌をとることが得意ではない。獲物の動きが素早いから追いつけないので、死んだものしか食べれないのである。
そこでいつのまにかイソギンチャクはヤドカリの体の上にすみかをつくり、移動するようになった。そのかわり、イソギンチャクは食べ残しを落とし、ヤドカリにプレゼントするのである。ここで移動するものと移動できないものの共生の仕組みが必要に応じて発生した。
世の中の仕組みをながめてみると、この共生関係はいたるところに原理として働いている。割れ鍋に綴じ蓋という夫婦の関係もそうである。夫婦の一方に欠点があれば他方はそれを補うようになり、夫婦関係の仕組みが出来上がる。
また、金持ちと貧乏人の場合もそうである。貧乏になれば生活保護や福祉の世話になるしかないが、その金は税金という形で金持ちが出すことになっており、貧乏人は無税である。
これは生き物の世界ばかりでなく、物質の世界でもそうである。車のエンジンに使われるキャブレータは負圧と高圧の差異を利用して、車が坂道にかかると濃い燃料が自然に送られるようになっている。また、エボナイト棒をこすれば電気が発生し、両端の電気の量は異なっており、その差異が電力になっている。
今の世の中は差異を否定し、平等でなければいけないという考えであるが、そうはいかない。たとえ、平等になったとしても新たな違いが発生するし、差異はエネルギーの基なのである。
地球の誕生を考えてみよう。太陽の一部であった地球はその回転に吹き飛ばされるようにして分離した。はじめの頃は高熱の塊であったが、厚い雲がかかり、太陽の光を遮断した。地球は冷えていったがその暖気と冷気の差異によって霧が生まれ、水ができた。そこに温度の差ができ、霧を生み、地表の低い所に水がたまって溝になった。川になり、海になった。微生物が生まれ成長し、進化していった。
差異が地球の構造をつくり、生命が生まれたのである。
ここで聖書を持ち出してみたい。光あれ、と神が告げて太陽が顔を出し、昼と夜ができた。神は昼と夜を分けた・・・、とある。四季も生まれた。聖書の(創世記)には地球誕生のことも書かれていて、科学的解釈と符合している。
差異のない世界では、エネルギーも生命も生まれない。
砂漠がそうである。山も川もできず、砂丘は崩れて平地になるだけである。生命もほとんど生まれない。
今は差異を神経質になって否定しているが、このままでは砂漠みたいになって、消滅せざるをえない。差異の起こすエネルギー、その価値を見直さなければならない時代である。
書く予定
わたしは不幸者である。家庭はなく、友人はおらず、貧乏で体は老化を始め、動かなくなりつつある。ただ、好奇心が強く、探究心はある。それが心の支えみたいなものである。
キリスト教の信者たちはすべて、神が愛してくださる、わたしたちを支えてくださると言うが、十年前まではその言葉が信じられなかった。まず、(愛)などという言葉は日本に古くからあるものではなく、西欧から入ってきたものであり、どこか安っぽく胡散臭い。それを大人が口にすることじたい、そして男女関係ならともかく日常生活の中で口に出すことに口はばったい気がしたのである。
神は地上のすべての生き物をつくり、繁栄させた、と聖書のに記してある。現代の科学でも生命を作ることはできないし、生命の構造自体も解き明かしてはいない。美味しいものを食べるとなぜ幸福感に満ち、変なものを食べると吐き出して健康をまもってくれるのか?など、謎と不思議さをたくさん残したままである。そこで全知全能の神とその愛を持ち出せば謎は解ける。
神の愛があるから、すべての生き物は生きることが出来る、というのは真理であろう。
では、なぜ、障害を持って生きるのが苦しい者ができるのか?神はすべてを健常者にして幸福にしてあげれば良いではないか?
このことを考えたが、答えは見つからなかった。
だが、貧しきも者は幸いなり、悩めるものは幸いなり、という警句が思い浮かんだ。なぜなら、神の救いが待っている、と書いてある。
金持ちには神の救いはいらないとは言えないが、貧乏であるからこそ救いが待っているのである。これは哲学的に考えても正しい。動的平衡である。
もし、生命に雌雄の分化がなく、単細胞のままであればすべての生命が同じ構造なのだから、障害などという言葉さえうまれないはずであるが、そうではなく、神は雌雄の分化をさせたのである。それはなぜなのか?結果的に色んな種類ができて多様性をうみ、一種が感染症で滅んでも違う種が生き残るようになったのである。
聖書には、神は神に似せて男を作り、その体の肋骨から女を作った、と書いているが、それ以前の状態はしるしていない。雌雄同体だったのか中性だったのかわからないが、単細胞の状態で増えていたとすれば生物の進化として符号するのである。
今の世の中は精神界が基盤を失い、すごく不安定な状況である。こんな世の中に生きているだけで気が狂ってしまうといっても過言ではない。女らしさ、というだけでどこかのチャチャ族が騒ぎ、もしわたしが有名人であれば谷底へ突き落とされるであろうが、幸いなことに有名人ではないので無礼が許されるのである。
わたしは性の分野においても、レアである。小学校上学年の頃の写真があるが、テーブルに向かって横座りをし、カメラの方を流し目で見ているのである。あぐらをかかず、女座りをしているのだ。あぐらをかくことは知っていたのになぜそんな座り方をしたのかわからないが、写真を撮ったものは海水浴にいっしょに行った身内である。
幼少の頃、父や母が仕事に出ている時、引き出しやタンスの中をしらべることが楽しみでもあった。父の引き出しの中からはエロ雑誌が出てきて、どこかに遊郭の女達が下半身裸で現れていたし、母のタンスからは化粧道具とともに見慣れないゴムが出てきて、後にそれがペッサリーと呼ばれる避妊具であることがわかった。婦人公論という雑誌はセックスのやり方や避妊のやり方などがいつも詳しく書かれていて、それでわたしは性教育を受けたのであった。口紅を見つけて唇に塗り、その顔を鏡でながめてうっとりしたこともあった。
オナニーで射精が出来るようになったのは大学生の頃で、その絶頂感は歴史的な出来事であった。けっきょく、こすり続けることでイッたのであるがなんとも言えない経験をした。ついには尻の穴にキュウリを入れてこすり、右手はペニスをこするということまでするようになった。
高校に入ると、おまえは女みたいだ、と言われたが同性愛に誘われることはなかった。東京で大学生活を始めると、男から誘われたことはあったが、女がこれだけたくさんいるのに男とやることはないと考えた。悪友から三百円でさせてくれる女を紹介され、五年間ほど通った。楽しい思い出になった。
ガラス工場で臨時工の仕事を始めた時、そこにいた新卒の男を好きになった。田舎から出てきたばっかりの初さを持っていて、時々、背後から抱きしめてやったがそれ以上には進まなかった。
ここで振り返ってみると、わたしは男でもあり、女でもあることがわかる。
つまり、男とか女とかの性別にとらわれるのではなく、その人の人間性なのである。
聖書の(創世記)の一節はキリスト教の命題に当たるのもので、人間の原罪をあらわしている。エデンの園でなに不自由なく生きていけるはずであった人類は、神が食べるなと告げていた果実を食べたがために楽園から追放され、額に汗していきるしかないようになり、おまけに死ぬ運命まで与えられてしまった。
それは(禁断の木の実)、(善悪の木の実)とも言われているが、何を象徴しているのか断定できず、さまざまな解釈が出されている。
ここでわたしは自分の説を書いてみたいが、それはいろんな説の中の一つになっているかもしれない。(善悪の木の実)とは(知恵の木の実)とも言われ、人間の知性のことを言っているのである。類人猿にちかかった人間が木から降り、自分で考えて生きるようになった。それまでは本能にそって生きていたのに、自我に目覚め、利己主義を生み、自然に反する生き方をするようになった。生きるための戦いは戦争にまで発展し、現在のウクライナ戦争に見られるように、核兵器を使い生物滅亡の危機さえ生んでいる。猿の状態で生きていればこんなことはなかった。
自分に頼ってはいけません、という言葉を放っている宗派があり、最初はびっくりさせられた。これまで自分の考えと意思で生きてきたのになんと言うのか?わけがわからなかったが、今はわかってきた。神に頼って生きろ、ということである。
毎朝、目を覚ますと、今日も命を与えてくださましてありがとうございます。この生命は神のものです、お預けいたします。自由にお使いください、と祈るようになった。
人は神の子なのだから、神の意志と自分の意志が一つになればいいのである。これはむずかしそうなことだが、よく考えれば、神が日頃の生き方を指示してくれているのがわかる。わたしは農作業を終えて、夕食前に酒を飲んでいた。それが美味しく、毎晩、飲んでいた。ところが朝方、胃のむかつきをおぼえるようになって、控えるようになった。
神が、飲み過ぎだよ!と注意してくれたのである!
自分の意思ではなく、神の意志が働いたのである。
家の駐車場に車を入れる時、いつも怖い思いをする。坂道をのぼってバックで入れるのだが、カーブになっているので、石垣にこすってしまいそうになる。昨日は後輪がスリップしてのぼれなくなった。少し前進して、バックするとなんとかのぼれた。
スリップさせたのは積もった八重椿の固まりであった。先月まで咲き誇っていたのに落ちて枯れ、たぶん脂分をふくんでタイヤをスリップさせたのであろう。
昨日、知り合いの老婆から電話がかかってきた。電話をかけてくるにのはこの人しか、いなくった。友人も知り合いも二人の息子(生きているかどうかもしらない)もかけて来ず、いつも連休が憂鬱なのは取り残された自分の姿を見せつけられるからである。
(昨夜、あなたの夢を見たのよ。もみ殻が売れず、体調も悪く困っている、と私に言ったのよ)
(それはそのとおりだけど、その話はこの前の電話の時にしたんじゃなかったかな?)
(そう?でも、あなたのことを考えているのに電話もくれない・・)
(電話をしようと考えていたけど、あなたの息子や孫たちが連休に来てると思って、遠慮していたんだ)
というと、彼女は、(母の日)に息子たちが高価なものをプレゼントしてくれたことをしゃべりはじめ、子持ちの娘との口論もしゃべった。
金持ちでのだくさんでわたしとは大違いの生活であるが、それだけの悩みも持っている。わたしは子供はいないのと同様であるから、金をせびられることも難題を持ち込まれることもないが、彼女の娘への悩みは気が狂うほど大きく、不眠症になり、足腰も弱くなって家に中で杖をついて歩いている。一人住まいだから倒れればすぐにかけつけてくれる者もいない。わたしと同じである。
彼女は二十年前に夫をなくしてから、何人かの男とつきあったが、誰とも結ばれなかった。活発な女性で誰にでも気前よく物をあげる人である。自分が食べない前に人に食べさせるので絶えず人の出入りがあり、電話で話もしているのに、寂しがり屋なのである。
一年前に最愛の男をガンでなくし、一人ぽっちである。
その彼女が、あなたの夢を見た、といって電話をかけてきた・・。
この老い楽の恋はどうなることやら・・?