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コオロギの声が庭から聞こえ、涼しい風が入ってくる今、夏が終わる気がしてきた。なんとも長い夏であった。コロナの猛襲、ウクライナ戦争の継続、統一教会・霊感商法問題と世の中が騒ぎ、自分にとっては(眼下の敵)との戦いが終わったのであった。
あれから、薄い網ネットでスイカを包んでいたがそれを破られ、食べられた。それで、洗濯のときに使うネットの強いのが100円均一で売っていたので,それで五個のスイカを包んでみた。チャックを閉めた。翌日は来なかった。次の日、驚いた。ネットのファスナーのチャックが開けられていたのだ。アナグマは大きな爪で器用に開き、これを見ろ、と言わんばかりにスイカを食べ、その破片を当たりにばらまいていた。が、食べたのは一個だけであった。さて、困った、と考えながら、一案を考えた。ファスナーを閉じ、チャックの穴と本体にに針金を通し、結んでみた。四個のスイカである。
翌日は来なかった。奴は毎日食べるわけではなく、二三日おきに食べることがわかった。
すると、3日後に、食べられていた。なんと、閉じていたファスナー本体がきれいに開かれていたのであった。引き破ったわけではなく手品でもするようにきれいに開いた。どうして開けたのか?考えてみたがわからない。
そこで残りの三個のファスナーを閉め、綴じ目の三箇所に針金を通し巻きつけ、閉めた。
ネットはすごく丈夫に作ってあるし、針金の巻き目は外せはしないであろう・・、と考えた。
次の日、食べられていなかった。安心したが、油断はできない、また食べられるかも知れない・・・?と考えた。
その次の日からスイカはネットの中で大きくなっていった。アナグマは来なくなった。やつは開けることをあきらめたのか他に食べるものを見つけたのかも知れなかった。庭のクリも大きくなっている。8月の末であるから、スイカはもう成長しなくなる、これで終わりにしようと思い、奥様に電話して、アナグマに引っかかれたスイカがあるけど要らない?と電話で聞くてバイキンが移るかもしれないので要らないという。それで自分で食べることにした。熟させるために縁台で3,4日陽に当てた。中玉くらいのサイズであるが、眺めていると自分の家族のように見えた。唐草模様の着物を着て、本当に可愛いかった。
縁台にまな板と包丁を持ってきて、割ってみた。鮮血を吹き出さんばかりにして体を開いた。まるで大地の鮮血であった!
ゆっくりと味わいながらスプーンで食べていった。無上の美味しさであった!
こんな美味しいものを食べたからには死んでもいいと思った。四分の一を食べ、残りは冷蔵庫に入れた。それから毎日、畑の草刈りをした後に極上の味を味わった。最後に残っていた2個を奥様の持っていくと、一個は熟していなかったがもう一個は美味しく、わたしの食べたのと同じように鮮血の色だったと、言った。
人生最大の楽しみができなくなって、悲しい気分である。ほろ酔い加減で立つのは立つが、(勃起)には至らないのである。だから、妄想だけで我慢している。
誰がこんな嫌がらせをしたのか?なんのためにしたのか?と、考えてみると、思考の意外な発展が出てきた。その前に、誰がなんのために勃起のしくみをつくったのか?と考えてみた。それは人類繁栄のため、いや生命繁栄のためであり、聖書の創世記の箇所に2千年前に書き記してあり、まったくの真理である。でも、食欲の次に並ぶ人生の楽しみであるがそれに比例しての苦悩も抱えこむことになってしまった。楽しみが消えれば苦悩も消えることなのである。解放されることである。
自分の意志で勃起するのではないしできるのでもない。では誰の力なのか?と考えれば仕組みを作った者としか言いようがない。神の力である。すべての不随意筋、つまり、心臓、肺、胃腸などの筋肉と同じく意志の力ではないのである。それは自分の意志で生きているのではないことなのである。神の意志といっても過言ではない。死ぬ時はやはり、神の思し召しなのである。
もうお前の役目は終わったから、幕を閉じなさい・・・。
神は言っているがいつ、どのようにしてかまでは教えてくれない。でも何人かの者には死ぬ時がわかるらしい。
それまで、(人間業)を続けるしかない。ますます小さくなっていく楽しみだって残っている。今日は弁当配り似日で、三十件ほどの老人たちと会うことにそこに自分老い先の姿が待っている。
昨日、草刈り機をかつぎ、長袖のつなぎを着て、草刈りを始めた。すると、五分もしないうちに体が動かなくなった。午前九時、暑さはすでに高まり、日の出とともに伸び盛った草は夜露を汗にして放出している。歩くことはできるのに草刈りの動作はフリーズしてしまった。一旦やめて、家に帰り、どうしたものか?と考えた。草刈りをして金をもらっている。地主はお盆には様子を見に帰ってくると言っていた。もう何日かすればそこを訪れ、草刈りを終えていなければ4万円の金は出さないでああろう。4万円はおれにとって大金である。
車を出して、現場に戻った。
先日、二百坪のほぼ半分を刈り終えているのであと半分が残っている。三十センチほどのカヤばかりなので刈りやすい。刈り始めて十分もすると体が動かなくなる。少しやっては休み、少しやっては休みしながら、半分を刈り終え、帰宅して、昼食をとる。一時間半も休む。
スマフォで持ち株を見ると、下がっている。買えば下がり、売れば上がる、不思議な世界であるが、それにそのとおりはまり込む自分もおかしな男である。まるで自分の人生を見るようである。
今日で草刈りをやり終えれば、あとはお墓の掃除と墓参りだけが残ることになる。毎年毎年、三十年間もつづけてきたが、限界が訪れ始めている。体が動かなくなったら、どうなるのだろうか?
今だけを考えろ・・・・。どうなるものでもない。そうやって世の中は動きみな、生きてきた。心配するのは人間だけである。
さて、来年の今頃はこのブログに顔を出しているだろうか?
風俗女も含めると、これまで50十人近い女と体を交えたが、75歳になっても(愛と性欲)の関係ははっきりとはわからない。ほとんどの男性もそうであろうし、女であっても性欲だけで体をまかせることはある。だから、愛してもいないのに深い関係になってしまい、後悔するのである。
愛があれば男女関係はうまくいくようであるが、そうとは限らない。ある例では、男が違う女と仕事上付き合うことになり、愛人の女に嫉妬が生まれ、相手に笑顔を見せただけで逆上することがあった。男と女の関係はすごくむずかしい。
好きでもない女に性欲をおぼえることがあり、好きなのに性欲が出ない場合もあるし、性欲など関係なく楽しく付き合う例もある。その方が長続きして、良いのかもしれない。あなたと体を交えれば関係は終わりよ・・、と何人かの女は私に言ったがある程度うなづける。
色気があるとか優しいとかいうよりも、そばにいるだけで満ち足りる、という相手が一番良いと思うが、あと何年先かの死期を意識して、そんな女に出会えるかどうかわからない。そんなことより、今日もご飯がおいしく食べられた、元気に歩けたことの方が大事になってくる・・・。
昨日の夕方、スイカ畑の6個の子供スイカをネットで包んだ。球根を保存する簡易なネットであるが、これで包んでおけばアナグマも気安くは食えず、苦労し、もしかすると食うのをやめるのではないか?と考えてからであった。
さきほど、結果を見に行ってみると、6個とも食われておらず、1個だけかぶせていたザルが外されていた。アナグマは来たのである。だが、これで奴が食わなくなったとは思わない。たぶん、この6個で、スイカは終わるであろうが、実をつけたスイカは9月まで成長し、それまで奴は訪れてくるに違いない。
通っている教会の牧師にアナグマ被害について話をすると、福島では動物用の畑と人間用の畑を両方作っているところがある、というメールかえってきた。自分の畑はビワ、柿、梅、クリ、カボスなどたくさん茂っていて手入れする時間がなく、カラスやカメムシ、カナブンなどが食べ放題である。消毒や殺虫剤はまかない。
昔は、種を蒔く時に、一粒は鳥さんのため、二粒はモグラのため、三つ目は人のためと言いながらまいていたとという。その話を思い出しながら、現代は自分もふくめてすべての考えが人間中心になっていると思った。それが環境破壊をまねき、さらに、この暑さの中でエアコンを使いすぎて、熱中症になり、治すためにエアコンを使いなさいとどこか狂ったような発言を平気でしている。
自分もアナグマにスイカを食われて悩んでいるのである。自己中心者である。生活は苦しくなるが、アナグマに食わせてやろう、なんならペットにしてやってもいいではないか?と空想するだけで実行まではしないのである。
ウクライナ戦争、コロナ感染者の異常な増加、猛暑、異常気象など人間世界は崩壊し始めている。そろそろ自己中心・人間中心などこそ変えるべきではないか・・・・。
一昨日、午前4時半に起き出して、敷地内のスイカ畑に行き、敵を待った。片手にスコップの柄を握り、現れれば槍のように突き刺す構えであった。とりあえず、椅子に腰をおろして、敵の通り道を塞ぐ形で、西側の田んぼに体を向けていた。敵は線路向こうの金毘羅山から町道を歩いてやってき、敷地内のブロック塀を上ってくる・・。
あたりは暗く、スイカの玉も見えなかった。10分ほどたち、何かの気配が田んぼの方に感じられた。おれは立ち上がった。何かが寄ってきている・・・、野生動物特有の存在感とでも言うべきものが感じられた。が、姿は見えない。足元のそばでひょろ長い生き物が感じられた。ウーウーと唸っていた。俺の姿を知り、敵だと見破ったに違いない。スコップを振り上げ、先を投げつけた・・・。敵はそばの草薮の中に消えた・・・。敵の体の、筋肉の感触が、残っていた。
一度あんな目にあったら、二度と来ない、そう考えていた。
ところが、昨日やってきて、一個を血まみれにして食っていた。
ショック!
これだと、毎晩、寝ずの番をしなければならない。スイカの報告を援助者に電話しているが、その話を聞かされて奥様も精神的にまいりはじめている。
ヘミングウエイの(老人と海)を思い出した。魚を釣りきらなくなった老人がやっとのおもいで、遠海に行き、カジキマグラオを釣り上げる。が、帰路にかかって、サメに少しづつ食われはじめ、すべて食われてしまう有名な小説である。
その状況によく似ているから自分の体験を書いてみようと思い、図書館から借りてきた。
お盆までにあと5個くらいのスイカしか残っていないので、全部、食われたら逆にスッキリする・・。それでも良いかな?
そう考えて、今朝スイカ畑に行ってみた。熟していない黄色いスイカが一個だけ食われ、あと4個の子供スイカはそのまま残っていた。敵はこれが熟すのを待っている・・・・。戦いは終わりそうにない。
スイカ畑での、私と野生動物との戦いは三ヶ月になるが、ロシア・ウクライナ戦争みたいな長期戦になってしまった。最初はカラスが敵であったが、釣り糸でスイカを囲むようにしたので、カラスは光る釣り糸で羽根を切られる恐怖をおぼえて退散してしまった。もともとスイカは皮が厚くて丸いため、カラスは食べにくかったのでもある。
次の出番はアナグマで、姿は一度も見たことがない。たぶん、日の出とともにそばの山からやってきて、10分間あまりで食べ、去っているようだ。朝起きの苦手なわたしが起きる頃にはぱっくり割れたスイカが大量出血して転がっているのである。何度この光景にショックを受け、気分を落としたことか・・・。警報機の威力を信じた自分のバカさ加減に見せつけられるばかりである。
後援者である奥様の言葉に従って、スイカ畑で三個の熟れたスイカを見つけ、届けてきた。2個はカラスに突かれた跡が残っていたが奥様は気持ちよく大枚を出してくれた。
この戦いを毎日やっていて思い出すのは、50年ほども昔に見た(眼下の敵)というアメリカ映画であった。太平洋戦争時代の実録を映画化したものですごく面白かった。米軍の駆逐艦艦長をロバート・ミッチャムが演じ、独軍ナチスの潜水艦艦長をクルト・ユルゲンスが演じていてすごく見ごたえがあった。駆逐艦は機雷をおとして攻撃し、潜水艦は魚雷を打ち込むのである。海上の駆逐艦と海底の潜水艦の戦いであるから両方と両者の姿はまったく見えず、音も聞こえない。戦いを終えて潜水艦が浮上し、そこで両者が顔を見合わせ、握手する姿が印象的であったのをおぼえている。
さてアナグマと私の戦いであるがわたしにはアナグマの習性や考えが少しづつ見えてきた。昨年は数匹でやってきたが今年は一匹で小さいやつである。スイカの噛み跡でほぼわかる。一個しか食べておらず、2日に一度の頻度である。スイカにはプラスチックのカゴをかぶせ、ブロックを2枚のせているので人の手でも持ち上げることはできない。アナグマはカゴの下の地面を掘り、もぐりこんで食べている。おかしなやり方を発見した。一箇所をほって食べ終わるとそこから出ると考えていたが、向かいの面の下を掘ってそこから出ているのである。もう一箇所は穴をほって中に入りながら食わずに去っている。竹の子掘りをしているときにもイノシシのおかしな行動を発見したことがあった。竹の子を掘り出していながら食わずに放置しているのである。人にくれてやろうとでも考えたのかわからない。遊びだったのかもしれない。
昨日は日曜礼拝に行って、アナグマの被害について考え、アナグマにスイカを捧げてやったと考えても良いのではないかと思った。スイカは人間だけのものではなく、アナグマにだって食べる権利があるのである。
今、10個ほどのスイカが成長しているが、8月と9月で終わりである。けっきょく100個作る予定であったが、30個ほどで終わりそうである。金儲けにはならなかったが、(眼下の敵)みたいに敵とよく戦い、元気をもらったということである。これからは先に成熟スイカを見つけたほうが勝ちということになる。嗅覚の鋭いアナグマのほうが有利であるが、私だって見つければ叩き殺してやるつもりである。
そして、戦いが終わったら映画のように握手をしたいものである。
昨日はカート整理のバイトの日で、午前9時から午後1時まで勤務する予定だったが、気分がすごく悪く、欠勤の電話を入れようかと考えていた。前日は3時間草刈りをし、その前の日は同じくカート整理を同じ時間にやった。いつもは3時間の勤務であるが月に二度ほど4時間勤務の日があり、体力がもつだろうか?と心配になるのである。75歳になってこんなぶざまな体力になってしまった。それに前日、スイカに釣り糸を張っていて、2度ほど股関節に例の痛みがはしったのであった。股関節の奥の筋肉を針で刺されたような痛みですぐに消えるが、痛みが消えなくなったら歩けなくなり、アルバイトも畑仕事もできなくなり、そして金も消えて生きていくことさえできなくなるのである。生活保護なんて絶対もらいたくない。
いつものように8時20分頃、スーパーに着いて、ロビーの椅子に座って、時間が来るのを待った。従業員たちは商品を陳列棚に置いたりしていたが、自分は足の痛みのことで頭がいっぱいであった。痛みは出ていなかったがいつ出るかわからない。連続して出るようになったら、店長に伝えて家に帰れば良いのだが、痛みが消えなかったらどうなるか?と、いつもの心配性に襲われていた。
9時の開店であるが、30分間ほどは買い物カゴはたまらないので広い駐車場を歩いてまわり、不審物やカートが放置されていないか見て回る。
9時半ころになって正面出入口に行ってみた。よく,スマフォ販売店の従業員が立って、入ってくる客に新企画のセールスをしていて、その日は外国人の男がいたので、どこから来たの?と声をかけた。パキスタンからです、と言ったので、あなたの国はコロナはどうですか?と聞くと、ほとんど問題になっていません、という。どうしてですか?ときくと、スラム教徒ですから毎日5回は体を洗います。そのせいだからかもしれません、と答え、隣のインドは感染がひどかったですけど今はどうですか?ときくと、5年も帰国していないのでわかりません、という。そこで、あなた達はポケットティシュを出して、声をかけていますが、スマフォの相談事はありませんか?と言ったほうが効果的じゃないですか?というと、いいアイデアですね。ありがとうございます。と答え、日本人の従業員より感じが良かった。
それから、レジのそばの買い物かごを集めて保管場所に持っていき、駐車場のカートを集めて店内に押していった。股関節の痛みが2度ほど出たが、消えた。
なぜ、痛みが出るのか?と問うと筋肉痛ですと医者はいったが、誰がその痛みを出しているのですか?と問うと答えきれるはずはなかった。
それは神のメッセージではないかと思う。動きすぎですよ!気をつけて大事につかいなさい、歩けなくなりますよ、と忠告しているのである。
体調の良い時、ご飯を食べると美味しい味がするが、悪い時は美味しくない。体調が良くないことを告げている。セックスをすると気持ちがいい。もっとたくさんしてたくさん子供を作りなさい。と神は言っている。創世記に書いてあるように神はすべての生命をつくり、繁栄するようにしている。
神は私達の命を守ってくれているのではないか?
だが、神の言いつけを守らなかったから、人は死ぬ運命を与えられた。整合性の取れた理論である。
その日は無事に仕事を終え、帰宅してからは草むしりをした。
700坪の屋敷に住んでいるので、多くの人は羨ましがるが、実際は戦場の中で、一孤軍奮闘しているのである。畑には肥料をまいているので雑草は元気いっぱいで伸びる。まさか雑草を育てているわけではないのに?一週間もすると刈られたはずの雑草たちは元通りの姿に戻っているし、逆に刈ればかるほど元気になっているようにも見える。草刈り機の力を借りているので楽なはずであるがそれでも追いつかない。それに引き換え、育ってほしいトマトは腐れかけ、ピーマンは草の中に消えてしまっていいる。順調だったのは玉ねぎ、じゃがいも、かぼちゃくらいである。キュウリとナスはひん曲がり、わたしの性格真似てているようだ。
さて、悲しむべきことに、念願のスイカ1個は赤い血を流して横たわっていた。奥様の家にはお盆に、孫や息子・娘が里帰りしてくるので、大玉スイカを皆の前で披露できると期待していたのにアナグマにみごとに横取りされてしまったのである。
木酢酢の効果が見えたが、一個が食われたので、平皿に入れて二皿ずつスイカの周りにおいていた。すると、二日間食われなかった。大丈夫かな?でもあんな美味しそうなスイカを木酢酢くらいでアナグマは避けるかな?と昨日、考えていたがアナグマはきれいに食べ、鋭い歯の型を三筋残していた。
カラスは釣り糸の効果で寄り付かなった。三台の警報機は効果がなかったので店に返し、金を払い戻してもらった。たよりは木酢酢であったが効果のないことがわかり、いまさらスイカ畑を鉄柵で囲む気持ちにもならない。
すべての手を失ってしまった。仕方なく、大きくなりかけている三個のスイカにざるをのせ、石をのせるkとしかできない。昨年も似たような状況になってしまったが、一個の大玉スイカが無事で、奥様に差し上げたのであった。そこでわかった。カラスは嗅覚が鈍いので手当り次第突いて成熟の度合いを見るがアナグマは匂いで熟れているかどうか判断し、食うのである。だから、熟れていないのは食わない。
ということは熟れ始めたスイカを重点的にまもれば良いわけである。
農小屋で、見張りをしてやろう。夜明け前から張り込んで、アナグマが現れて重い石を外し始めたら、後ろから鍬で叩き殺して、それをスイカ畑に吊るししてやるのだ!
昨日、奈良市内で参院選の応援演説をしていた安倍前総理が銃で撃たれ、死んだ。テレビやラジオ、インターネットはその報道で持ちきりである。米国のバイデン大統領、中国の習主席、ロシアのプーチン首相など世界のトップが弔慰をの述べ、大騒ぎである。わたしは安倍前総理に良い感情を持っていなかったこともあって、その騒ぎぶりを冷笑するだけであった。いつの間にかウクライナ戦争やコロナの感染増加などはどこかに行ってしまっている。森友加計学園問題であれだけ安倍氏を批判していた野党の党首までが、暴力はいけません、民主主義を守らなければいけません、と手のひらを返したように訴え、安倍氏の疑惑問題には一切ふれないのである。テレビ(NHK)も国民にインタビュ−するさい、その問題に言及する国民はいっさい排除している。
これではまるですべての者が安倍前総理の死をいたんでるようではないか?いたんでいない者はいるし、なぜ、彼の功罪など違う側面や考えをださないのであろうか?世間話の中で安倍前総理殺害事件が出た時、彼の疑惑問題を持ち出せばたぶん白い目で見られるに違いない。これではまるで太平洋戦争時の翼賛体制と同じではないか?これが民主主義、言論の自由なのであろうか?
森友加計学園問題でそれに関わった職員が自殺している。安倍元総理はそのことを知らぬ顔でとおしたではないか?彼は事実をしゃべろうとしながら、まわりからの無言の圧力を受けて殺されたのである。これは目に見えない暴力ではないのか?
ウワサや流言飛語など目に見えない暴力こそ怖いのであり、それらにこそ目を向けねばならない。