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近頃、神に祈ることを忘れたように、手を組むことが少なくなった。信仰が少なくなったわけではなく、(科学者はなぜ神を信じるのか)という本を読み、神について考えてもいる。科学者たちは聖書を神話として読み、祈っているようで科学との矛盾を考えてはいないようである。
話しは飛ぶが、毎朝、目がさめ、起き上がるのが苦痛で、いやになる。このまま目がさめず、仮死状態でいたいと願っている。その状態は死んでもいるし、生きてもいる、という(シュレディンガーの猫)の理論に似ている。毒ガスの発射する箱の中に猫を閉じ込めていて、猫は生きているか死んでいるか?と問われ、生きてもいるし死んでもいる、と応えたという有名な話であるが,自分はこれを哲学的に考える。けれども、私達の日頃の生活は良いのか?悪いのか?の二者択一的であり、そうでなければ日常生活は送れないが、突き詰めて考えればすべての事象は(塞翁が馬)であり、良いことと判断すれば良いことであり悪いことと判断すれば悪いことなのである。観測者の判断が入るまでは両者は重なっている状態なのである。
昨日は一週間ぶりにスーパーのカート整理のバイトをした。四時間休憩なしなのとお客さんの人混みを縫うような動きをしなければならないので疲れ、めまいを起こしそうになる。足腰も弱っているので倒れればすぐに解雇である。
だが、終業が近づくと元気が出てくるのである。これをやり終えれば開放されるし、二日間は自由になる。そして、今日は開放日で、なにをしてもいい日である。嫌なことが過ぎれば天気模様も変わるのである。
ヤドカリとイソギンチャクの共生関係は小学校でも習ったことであるが、そこには一つの法則・原理みたいなものが潜んでいる。イソギンチャクは岩に張り付いていて、移動することができない。ヤドカリは移動は自由にできるが、餌をとることが得意ではない。獲物の動きが素早いから追いつけないので、死んだものしか食べれないのである。
そこでいつのまにかイソギンチャクはヤドカリの体の上にすみかをつくり、移動するようになった。そのかわり、イソギンチャクは食べ残しを落とし、ヤドカリにプレゼントするのである。ここで移動するものと移動できないものの共生の仕組みが必要に応じて発生した。
世の中の仕組みをながめてみると、この共生関係はいたるところに原理として働いている。割れ鍋に綴じ蓋という夫婦の関係もそうである。夫婦の一方に欠点があれば他方はそれを補うようになり、夫婦関係の仕組みが出来上がる。
また、金持ちと貧乏人の場合もそうである。貧乏になれば生活保護や福祉の世話になるしかないが、その金は税金という形で金持ちが出すことになっており、貧乏人は無税である。
これは生き物の世界ばかりでなく、物質の世界でもそうである。車のエンジンに使われるキャブレータは負圧と高圧の差異を利用して、車が坂道にかかると濃い燃料が自然に送られるようになっている。また、エボナイト棒をこすれば電気が発生し、両端の電気の量は異なっており、その差異が電力になっている。
今の世の中は差異を否定し、平等でなければいけないという考えであるが、そうはいかない。たとえ、平等になったとしても新たな違いが発生するし、差異はエネルギーの基なのである。
地球の誕生を考えてみよう。太陽の一部であった地球はその回転に吹き飛ばされるようにして分離した。はじめの頃は高熱の塊であったが、厚い雲がかかり、太陽の光を遮断した。地球は冷えていったがその暖気と冷気の差異によって霧が生まれ、水ができた。そこに温度の差ができ、霧を生み、地表の低い所に水がたまって溝になった。川になり、海になった。微生物が生まれ成長し、進化していった。
差異が地球の構造をつくり、生命が生まれたのである。
ここで聖書を持ち出してみたい。光あれ、と神が告げて太陽が顔を出し、昼と夜ができた。神は昼と夜を分けた・・・、とある。四季も生まれた。聖書の(創世記)には地球誕生のことも書かれていて、科学的解釈と符合している。
差異のない世界では、エネルギーも生命も生まれない。
砂漠がそうである。山も川もできず、砂丘は崩れて平地になるだけである。生命もほとんど生まれない。
今は差異を神経質になって否定しているが、このままでは砂漠みたいになって、消滅せざるをえない。差異の起こすエネルギー、その価値を見直さなければならない時代である。
書く予定
わたしは不幸者である。家庭はなく、友人はおらず、貧乏で体は老化を始め、動かなくなりつつある。ただ、好奇心が強く、探究心はある。それが心の支えみたいなものである。
キリスト教の信者たちはすべて、神が愛してくださる、わたしたちを支えてくださると言うが、十年前まではその言葉が信じられなかった。まず、(愛)などという言葉は日本に古くからあるものではなく、西欧から入ってきたものであり、どこか安っぽく胡散臭い。それを大人が口にすることじたい、そして男女関係ならともかく日常生活の中で口に出すことに口はばったい気がしたのである。
神は地上のすべての生き物をつくり、繁栄させた、と聖書のに記してある。現代の科学でも生命を作ることはできないし、生命の構造自体も解き明かしてはいない。美味しいものを食べるとなぜ幸福感に満ち、変なものを食べると吐き出して健康をまもってくれるのか?など、謎と不思議さをたくさん残したままである。そこで全知全能の神とその愛を持ち出せば謎は解ける。
神の愛があるから、すべての生き物は生きることが出来る、というのは真理であろう。
では、なぜ、障害を持って生きるのが苦しい者ができるのか?神はすべてを健常者にして幸福にしてあげれば良いではないか?
このことを考えたが、答えは見つからなかった。
だが、貧しきも者は幸いなり、悩めるものは幸いなり、という警句が思い浮かんだ。なぜなら、神の救いが待っている、と書いてある。
金持ちには神の救いはいらないとは言えないが、貧乏であるからこそ救いが待っているのである。これは哲学的に考えても正しい。動的平衡である。
もし、生命に雌雄の分化がなく、単細胞のままであればすべての生命が同じ構造なのだから、障害などという言葉さえうまれないはずであるが、そうではなく、神は雌雄の分化をさせたのである。それはなぜなのか?結果的に色んな種類ができて多様性をうみ、一種が感染症で滅んでも違う種が生き残るようになったのである。
聖書には、神は神に似せて男を作り、その体の肋骨から女を作った、と書いているが、それ以前の状態はしるしていない。雌雄同体だったのか中性だったのかわからないが、単細胞の状態で増えていたとすれば生物の進化として符号するのである。
今の世の中は精神界が基盤を失い、すごく不安定な状況である。こんな世の中に生きているだけで気が狂ってしまうといっても過言ではない。女らしさ、というだけでどこかのチャチャ族が騒ぎ、もしわたしが有名人であれば谷底へ突き落とされるであろうが、幸いなことに有名人ではないので無礼が許されるのである。
わたしは性の分野においても、レアである。小学校上学年の頃の写真があるが、テーブルに向かって横座りをし、カメラの方を流し目で見ているのである。あぐらをかかず、女座りをしているのだ。あぐらをかくことは知っていたのになぜそんな座り方をしたのかわからないが、写真を撮ったものは海水浴にいっしょに行った身内である。
幼少の頃、父や母が仕事に出ている時、引き出しやタンスの中をしらべることが楽しみでもあった。父の引き出しの中からはエロ雑誌が出てきて、どこかに遊郭の女達が下半身裸で現れていたし、母のタンスからは化粧道具とともに見慣れないゴムが出てきて、後にそれがペッサリーと呼ばれる避妊具であることがわかった。婦人公論という雑誌はセックスのやり方や避妊のやり方などがいつも詳しく書かれていて、それでわたしは性教育を受けたのであった。口紅を見つけて唇に塗り、その顔を鏡でながめてうっとりしたこともあった。
オナニーで射精が出来るようになったのは大学生の頃で、その絶頂感は歴史的な出来事であった。けっきょく、こすり続けることでイッたのであるがなんとも言えない経験をした。ついには尻の穴にキュウリを入れてこすり、右手はペニスをこするということまでするようになった。
高校に入ると、おまえは女みたいだ、と言われたが同性愛に誘われることはなかった。東京で大学生活を始めると、男から誘われたことはあったが、女がこれだけたくさんいるのに男とやることはないと考えた。悪友から三百円でさせてくれる女を紹介され、五年間ほど通った。楽しい思い出になった。
ガラス工場で臨時工の仕事を始めた時、そこにいた新卒の男を好きになった。田舎から出てきたばっかりの初さを持っていて、時々、背後から抱きしめてやったがそれ以上には進まなかった。
ここで振り返ってみると、わたしは男でもあり、女でもあることがわかる。
つまり、男とか女とかの性別にとらわれるのではなく、その人の人間性なのである。
聖書の(創世記)の一節はキリスト教の命題に当たるのもので、人間の原罪をあらわしている。エデンの園でなに不自由なく生きていけるはずであった人類は、神が食べるなと告げていた果実を食べたがために楽園から追放され、額に汗していきるしかないようになり、おまけに死ぬ運命まで与えられてしまった。
それは(禁断の木の実)、(善悪の木の実)とも言われているが、何を象徴しているのか断定できず、さまざまな解釈が出されている。
ここでわたしは自分の説を書いてみたいが、それはいろんな説の中の一つになっているかもしれない。(善悪の木の実)とは(知恵の木の実)とも言われ、人間の知性のことを言っているのである。類人猿にちかかった人間が木から降り、自分で考えて生きるようになった。それまでは本能にそって生きていたのに、自我に目覚め、利己主義を生み、自然に反する生き方をするようになった。生きるための戦いは戦争にまで発展し、現在のウクライナ戦争に見られるように、核兵器を使い生物滅亡の危機さえ生んでいる。猿の状態で生きていればこんなことはなかった。
自分に頼ってはいけません、という言葉を放っている宗派があり、最初はびっくりさせられた。これまで自分の考えと意思で生きてきたのになんと言うのか?わけがわからなかったが、今はわかってきた。神に頼って生きろ、ということである。
毎朝、目を覚ますと、今日も命を与えてくださましてありがとうございます。この生命は神のものです、お預けいたします。自由にお使いください、と祈るようになった。
人は神の子なのだから、神の意志と自分の意志が一つになればいいのである。これはむずかしそうなことだが、よく考えれば、神が日頃の生き方を指示してくれているのがわかる。わたしは農作業を終えて、夕食前に酒を飲んでいた。それが美味しく、毎晩、飲んでいた。ところが朝方、胃のむかつきをおぼえるようになって、控えるようになった。
神が、飲み過ぎだよ!と注意してくれたのである!
自分の意思ではなく、神の意志が働いたのである。
家の駐車場に車を入れる時、いつも怖い思いをする。坂道をのぼってバックで入れるのだが、カーブになっているので、石垣にこすってしまいそうになる。昨日は後輪がスリップしてのぼれなくなった。少し前進して、バックするとなんとかのぼれた。
スリップさせたのは積もった八重椿の固まりであった。先月まで咲き誇っていたのに落ちて枯れ、たぶん脂分をふくんでタイヤをスリップさせたのであろう。
昨日、知り合いの老婆から電話がかかってきた。電話をかけてくるにのはこの人しか、いなくった。友人も知り合いも二人の息子(生きているかどうかもしらない)もかけて来ず、いつも連休が憂鬱なのは取り残された自分の姿を見せつけられるからである。
(昨夜、あなたの夢を見たのよ。もみ殻が売れず、体調も悪く困っている、と私に言ったのよ)
(それはそのとおりだけど、その話はこの前の電話の時にしたんじゃなかったかな?)
(そう?でも、あなたのことを考えているのに電話もくれない・・)
(電話をしようと考えていたけど、あなたの息子や孫たちが連休に来てると思って、遠慮していたんだ)
というと、彼女は、(母の日)に息子たちが高価なものをプレゼントしてくれたことをしゃべりはじめ、子持ちの娘との口論もしゃべった。
金持ちでのだくさんでわたしとは大違いの生活であるが、それだけの悩みも持っている。わたしは子供はいないのと同様であるから、金をせびられることも難題を持ち込まれることもないが、彼女の娘への悩みは気が狂うほど大きく、不眠症になり、足腰も弱くなって家に中で杖をついて歩いている。一人住まいだから倒れればすぐにかけつけてくれる者もいない。わたしと同じである。
彼女は二十年前に夫をなくしてから、何人かの男とつきあったが、誰とも結ばれなかった。活発な女性で誰にでも気前よく物をあげる人である。自分が食べない前に人に食べさせるので絶えず人の出入りがあり、電話で話もしているのに、寂しがり屋なのである。
一年前に最愛の男をガンでなくし、一人ぽっちである。
その彼女が、あなたの夢を見た、といって電話をかけてきた・・。
この老い楽の恋はどうなることやら・・?
5月9日のロシアの軍事パレードをさかいに、ロシアのウクライナ侵略がどのように変わり、ウクライナ戦争がうなるのか予断を許さない状況である。プーチンが核をつかうのでは?という憶測もある。だが、ニューヨーク市場の株価は最大の値上げ幅を更新し、日本のGWも昨年の2倍の観客をだし、テレビをみると浮かれ気分を久しぶりに取り戻そうとしている。他方、中国の北京ではコロナ感染者が増え、都市閉鎖になるのでは?というニュースも出ている。
なんとも怖く、不可解な世界状況である。坂口安吾の小説(白痴)に書かれているような世界、人間の生きざま・世界の動きである。
その世界を動かしている者は誰か?
という言葉が思い浮かんだ。聖書の(創世記)の文面が思い出され、思い迷いながら結論じみたものに行き当たった。創世記に書かれていることは地球の誕生、人類の誕生などに科学的に当てはまることが多く、聖書が2千年前に書かれたものであるということが信じられないほどの真理に富んでいる。太陽の光が届くようになるまで、地球は暗黒の状態で、泥海が覆っていた。だが、(光あれ!)という神の言葉のもとに太陽が射すようになり、泥海の中に陸ができた。山ができ、川ができ、冬、気温の変化とともに夏、春、秋ができ、昼と夜ができた。微生物が生まれ、植物、動物が生まれ、最初は単細胞であったが神は雌雄に分けた。塵に神が塵に息を吹き付けて、男をつくり、男一人では不自由だろう、ということから、男の肋骨から女をつくったのである。雄はメスを巡って争いを起こし、戦い・戦争をおこした。それは多種多様な生物をつくるためであった。
美味しいものを食べれば幸福な気分になり、また、セックスをすれば気持ち良い、叩かれれば痛いが悪いやつを叩くのは気持ちがいい、怪我をすれば赤い血が出て警告を発し、白血球が出て殺菌をしてくれ、かさぶたを作って治してくれる。人は産めよ、増えよ、あらゆる生物を管理しrて(エデンの園)で楽しく生きよ!と、創世記で神は謳っている。
そこで神は生物の感覚器官の反応のしかた、また、生命の自然治癒力、そして生命力の根源までつくったのである。人はそれにそって生き、幸福になり、不幸になり、愛し、憎むのである。創世記に書いてあるように神は神に似せて人をつくり、悪いことをすれば罰する親なのである。
プーチンやコロナをサタンとして送り出し、自然破壊をして快楽を貪った人類を罰しているのではないか?そのようにとらえれば、世界を動かしているのは神である・・・。
信仰では自力と他力を分けることがある。仏教は仏に祈り、悟りを信者求めるので自力信仰であり(宗派によって異なるが)、キリスト教は神に救いを求めるので他力信仰というように。わたしはまだ信者にまで至っていないが、食事前、朝起きた時に手を合わせるようになった。飲食のときは、今日も糧を与えてくださいましてありがとうございます、目覚めたときは、今日も一日を無事で過ごせますように、と。最近、足の股関節が、時々、痛むので歩けなくなるのではないか?という不安がある。
若い頃は、神になんて頼るものか!と毎朝、冷水をかぶり、金比羅山まで走っていたが、年老いてしまうとこんなふうになってしまった。聖書を読んで考え、日曜礼拝に通いながら、神について考え、得るものは多くあったが、時々、迷うこともある。
人間や生命の体の動きについて考えることが多い。ご飯がおいしい!それはなぜなのか?神が美味しさを感じさせ、食べるようにすすめているのではないか?股関節のスジが痛む時は、無理をしてはいけないよ!と注意しているのではないか?と日常の自分の体の反応に神を感じるようになった。
体に怪我をすれば出血して赤い血を出させ、注意を促し、かさぶたをつくって出血を食い止める、これは誰の仕業なのか?創世記の章において、(生きて栄えよ!)と言っている神の仕業ではないか?
それは確かにそうであろう。
だが、他方、生物の本来の治癒力、生命力という言葉から考えるとそれも的を得ているのである。
だが、聖書では人は神の子なのだから、治癒力、生命力そのものが神の力であり、自分の力なのではないか。自分には神が宿っていて、その作用が働いているのではないか。日曜礼拝に参加して、使徒信条を唱える時、信者たちのアーメンというつぶやきが、ため息に近いものになって出ている。
他力は自力であり、自力は他力つまり神の力そして同時に、自然の力なのであろう。
一粒の麦地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、もし死なば多くの実を結ぶべし、
聖書のヨハネ伝・十二章二十四節に書いてある。
わたしは農業をやっているので、この言葉の意味するところがよくわかる。スイカやキュウリ、ナスなどを見ていると、母体が腐れ落ちて死ぬから種は外に出、芽を出すことができる。死ななければ母体の中に閉じ込められたまま自ら死滅するであろう。
無機物の石などは死なないから増える必要はなく、他方、有機物・生命体は全てこの聖句の原理にそって生きている。コロナだって死滅する運命にあるから必死に進化して、増えようとしているのである。
一つ前のグログに書いているように聖書は死滅を贖罪とみなし、神に対する罪滅ぼしととらえ、否定してはいない。他方、善悪の木の実を食べたがために死の運命を与えられたといって死を否定的にとらえてもいるが。
そんなとらえ方おいて、プーチンの出現は聖書的な意味を持つのではないか?わたしは彼の破滅を望み、(北のイグアナ)とでも呼びたい気持ちであるが、歴史的にもとらえてみたい。否定的とか肯定的とかではなく、生命界の一つの現象、法則あるいは原理として、また、一粒の麦の聖句にあるような箴言としてとらえてみたいのである。これまで自分が生きてきた人生の中に、奇妙な人間がいて、自分もその一つに当てはまるであろうが、常識や既成概念ではとらえきれない者たちがいて、彼らに光を当てるように。