ブログ - 20151212のエントリ
太宰治の小説(人間失格)を読んだ。彼の遺稿・遺書でもあるこの作品は高校時代に読み、わたしには人間の生き方というのがわかりません、という個所や、主人公の道化を白痴男に指摘された箇所に強い印象を受けていた。主人公のアルコール中毒、女との三度のわたる心中、結婚していながら女房の着物を質草にしてまで酒を飲む、妾を持つといった放蕩・無頼・ニヒリズムがわたしの父親に似ていて、わたしの父に見る様な強烈な印象を残した作家であった。東大を出、名家に生まれ、酒を飲み、タバコを吸う、女の方から寄って来て心中までしてくれる、そんな恵まれすぎた男が何を悲観し、自殺までしたのか?今のわたしには全く理解出来ないが、彼は純粋過ぎた男なのだ。共産主義活動をして、名家に生まれたことが恥となり、東大という権威のシンボルの大学が恥になり、戦争で多くの同輩が死ぬ中で兵役検査で不合格になったことを恥じ、女がウジウジ寄って来ることを恥じた。その時代に生まれてくる男ではなかった。
わたしも言われたー今の時代に産まれてくる男ではなかった、と。
余命を控えた今にこの作品を図書館から借りて読もうとしたわたしは太宰治に近い心境であった。持っている株は下がり、貯えも減るばかり、歳はとっていく、親しい者たちも去っていく、四拍子揃った不幸は(遺書)という方向へ進ませていた。太宰治の作品は世界的に読まれ、読者はまるで自分のことを書かれているような共感を得た、と、あとがきに奥野健男さんが書いているがまさにそのとおりである。常識人たちが言えない真実をこの作家は精神病院に入れられるという屈辱を最後にして、書き上げ、三度も失敗していた女との心中を成功し終えた。なんとも凄い、の一言でしかない。
ここまで自己を追求した小説家はいない、と考えたが、居た。三島由紀夫氏である。彼は太宰治に近親憎悪を覚えながら、森田必勝と心中をしたのである。切腹しながら、森田に首をはねさせたのだ。
わたしが書くとしたら、(人間業)というタイトルになるかもしれない。わたしがこのブログで書いてきたことは自分の人生の十分の一くらいでしかない。モデルが生きている限り、絶対に書けないものがある。人間失格、以上にすさまじい体験であるが。