ブログ - 201612のエントリ
まさにこの箴言のとおり、今年も(今日)で終わりである。振り返ってみると、一年間が若い頃の一か月間の感じられないのは不思議であるが、論理付けをすれば簡単なことである。時間は変化によって感じるのである。加齢とともに感受性が失われ、新たな感受を受ける経験も減り、家とその周りから外に出なくなったからである。人との出会いもなく、人間関係も限られ、刺激が減った。
HP(レア仲間)はサイバーが失踪したために消える運命にあったが、Mさんの努力で、一度、保存し、新たサーバーを見つけて出直すことになり、ひとまず安心した。立ち上げてほぼ10年になるが、表紙に書いている方向性はまったく変わっていない。わたしの遺書でもあるので守っていきたいが、閲覧者との交信が出来ない状態になっているのでこれを何とかしたい。PR送信が日に何千件も入り、削除すると大変な労力になるので入れないようにしてしまった。これはわたしのメールに来るように変えたい。
閲覧者の方にはご迷惑をかけましたが、来年もよろしくお願いします。
今日は俳句の会の忘年会です。上記の句を出しますが、どんな評価を受けるかハラハラドキドキです。現実は誰もそうでしょうが、自分で満足してても相手は共感してくれない場合の方が多いのです。俳句の場合でも五つに一つくらいは良いと言われます。自己満足の小説を長年書いて来たので文章には慣れていますが、やはり人間の心の奥深さ、日本語の微妙な意味合いに触れて、考えが深まり、人工知能がこれに対抗できるか疑問になってきました。
魔性の女、という言葉が流行ったことがあるが、人間の心、人間そのものが魔性を持っている。原爆で一瞬にして地球の破壊が出来たり、世界のどんな人ともネットで話したり、美味しいものを毎日食べたり、宇宙にまで行くことが出来る生物なんて、野生生物からみれば魔性の怖さを秘めているとしか言いようがない。
特に、(愛)の持つ摩訶不思議さ、不条理性は魔性の格別な例である。
(愛の型)を自分なりに考えてみた。依存型(親子関係、男女が経済的に依存する場合)、服従型(封建制度における服従)、対等型(普通の好き嫌いの関係)、尊敬型、同情型(同情心から生れる愛)、幻想型など思いついたが、ここでは幻想型を取り上げたい。ある男と女がいる。二年間も付き合っているが性的関係はなく、趣味や考え方は共通項が多く、話していると時間を忘れて楽しい。女は男が自分の弟みたいに可愛いといつも言った。男には離婚する予定の妻がいて、彼女は夫の女関係を絶えず監視している。女は未亡人であるが男の妻を意識し、不倫になることを警戒している。
ある時、女は他の男と性的関係を持った。行きづりの出来事で、一か月で別れた。そのことを付き合ってる男に正直に詳しく話した。男は電話で、頷きながら聞いていたが、その夜から胸の中に不燃物を抱えてむかつき、腹が立った。単なる嫉妬心であったが、彼は自分の嫉妬心にも腹を立て、二重の怒りを抱え込んでしまった。女が(悪いことをしたの。ごめんなさい、言いにくいことだけど)くらい言って、話せば良いものを、あそこが大きくて入るのが怖かった、など淡々と話し、性に対する恥じらい謙虚さも感じられなかった。その無神経さがまた、男に不快感と怒りを加えた。
絶交すると、男は女に言ったが、(付き合ってください。お願いします。どうしても嫌なら・・)と女は男に言った。(俺を愛してるのか?)と問うと、(愛、とは違う。好きなのよ)と答え、好きということは愛してるのではないか?と問うと、それとは少し違う、心を許せる、身内みたいな、感じだと言う。
男は女と離れている時には恋心を生じるが、傍にすると、おしゃべりはよくするが手を握りたいとも思わない。(二人でドライブした日、手を握る機会はあったのに一度も握ってくれなかった)女は男に言った。
男は(恋に恋して)いたのだ。幻想に酔わされていたのだ、彼は最近、わたしにそう言った。自分の心がわからない、とも言った。実体よりイメージの喚起力の方が強いのである。わたしも含めてほとんどの人は政治の世界、芸能人の世界、社会の動き、噂、人との関係などにおいてイメージに支配されている。良いイメージを作った者が勝ちなのである。
若い頃は夢を見ない日はなかった。東京にいた頃は、実家の福岡の川で魚を掬ったり、昆虫をとる夢ばかりであったが、東京を引き揚げて福岡に戻ると、相模原のボロアパートで隣同士でありながら夫婦関係になった子ずれ女との生活の夢を何度も見た。
69歳の近頃は夢を見る数もすっかり減り、三日に一回くらいになった。これが進むと夢も見なくなるだろうし、現実の希望である方の夢も同時に消えていく。
4,5歳の頃であるが、当時・昭和三十年の頃は一番楽しかった。近所の同年齢の子供の家に行き、上がり込んで親の居ない隙に悪遊びをした。タンスの引き出しをあけて、口紅を取り出して自分の口に塗り、鏡に映る自分の顔をみたり、ペッサリー(女がつける避妊具)を見つけ出して風船にして膨らませたり、エロ雑誌を父親の机の引き出しから見つけ出したりした。
小学校に入る頃になるとそんなことも出来なくなったが、お医者さんごっこの夢を何回も見るようになった。隣の家に可愛い女の子がいて、何回か性交のまねごとをしてたから、またやりたくてうずうずし、夢の中に現れたのだった。そこでは現実の意志が働き、幽体離脱して隣の家に行き、やってしまう。射精してパンツが濡れたように思う。
夢をみながら意志が働いたのであった。幽体離脱という現象はこのことだと思う。フロイトは夢とは意識下に抑えられたものの出現だと書いているが、無意識の意志なのである。夢世界の中で自分のやりたいようにやれたら素晴らしいと思うし、そうなると現実世界などどうでもよくなる。
夢を見るようにあの世に逝けるかもしれない、それはわたしにとってもう何年か先のことである。」
若い頃は夢(睡眠中の)を見ない日はなかった。東京にいた頃は、実家の福岡の川で魚を掬ったり、昆虫をとる夢ばかりであったが、東京を引き揚げて福岡に戻ると、相模原のボロアパートで隣同士でありながら夫婦関係になった子ずれ女との生活の夢を何度も見た。
69歳の近頃は夢を見る数もすっかり減り、三日に一回くらいになった。これが進むと夢も見なくなるだろうし、現実の希望である方の夢も同時に消えていく。
4,5歳の頃であるが、当時・昭和三十年ころは一番楽しかった。近所の同年齢の子供の家に行き、上がり込んで親の居ない隙に悪遊びをした。タンスの引き出しをあけて、口紅を取り出して自分の口に塗り、鏡に映る顔をみたり、ペッサリー(女がつける避妊具)を見つけ出して風船にして膨らませたり、エロ雑誌を父親の机の引き出しから見つけ出したりした。
小学校に入る頃になるとそんなことも出来なくなったが、お医者さんごっこの夢を何回も見るようになった。隣の家に可愛い女の子がいて、何回か性交のまねごとをしてたから、またやりたくてうずうずし、夢の中に現れたのだった。そこでは現実の意志が働き、幽体離脱して隣の家に行き、やってしまう。射精してパンツが濡れたように思う。
夢をみながら意志が働いたのであった。幽体離脱という現象はこのことだと思う。フロイトは夢は意識下に抑えられたものの出現だと書いている。
(レア仲間)の前身である(レア・ピープル)から振り返ってみると、およそ10年が経っている。仲間は原田氏だけで増えず、私一人がブログや写真、小説、ビデオを投稿してきた。まさにレアであり、仲間は出来なかった。わたしは閲覧者数を毎日確認してきた。日に二千人もの数が出て、驚き喜ぶことがあったが、広告文を入れようとした連中が紛れ込んでの数字であった。
HPを作ってくれた森本氏が失踪してしまった。事情は知っているがここでは書かない。彼がサーバーであったので、その元受けとの契約が切れると(レア仲間)は自動的に消滅してしまう。新しいHPを作ってもらい、そこにデータを移行しなければならないが、わたしの気持ちは揺れ動いている。人間心理や社会を物理化学的に考えてみる、という当初の目的はある程度までの試行を得たが、わたしだけの能力ではそれ以上には進められない。
HPがいつ消えるかは元受け教えない。
わたしの寿命と同じく何時死ぬかわからない状況で書いていく。
現在、わたしはカラオケ会、英会話教室、俳句の会、障害者の会に入っていて、週に一度は参加している。会社の退職後、趣味を生かし、社会参加をしている。町の人々との触れ合いに満足しているし、先生たちも熱心で賢く、不満はない。生徒の九割は高齢者女であり、そのほとんどとは親しく、一割は嫌いである。一割くらい嫌いな女がいても活動に支障はないが、わたしは深く考えすぎるタイプで、そこに女特有の性質を感じる。本来、大人しくしていれば良いものを私は(自分)を出してしまうから不仲になるのだろうがそうはいかない。
英会話教室では、日本語には男言葉と女言葉があるけど、英語にはその区別はありますか?男女関係において、日本女が、嫌よ、嫌よ、と言った場合、そのまま通訳しますか?本当の心理は違う場合がありますけど知ってますか?、などオーストラリア人、女教師に尋ねると、古株の女生徒が、(そんな難しい質問はしないでください。お願いします)と叫んだのであった。(ゲイみたい)とも言われ、からかわれた。
俳句の教室では、女先生に、俳句を作る場合においての差別用語について質問すると、それは常識の範囲内で判断してください、と言われ、わたしはわかったが、(聾唖者)と言う言葉は差別用語にならないなか?と聞くと、そんな難しいことは後で聞いた方が良い!と女生徒に言われ、みんなにとって大事な質問じゃないのか!と言い返した。
これに似たようなことはこれ以外にもたくさんあった。
確かにわたしの質問は難しいものであったが、こんな場合、男は非難せず、黙っている。障害者の会においても老婆が奇形顔の女に、聞くにも堪えない言葉を出すので、わたしは老婆を怒鳴りつけたことがあった。他の古株の男はその差別行為に異議を申し立てなかった。わたしは正論を言う、あるいは変わり者と呼ばれるが、そこに男女の反応の仕方の違いを読み、男女共同参画社会、女の社会への進出との関連づけをしてしまう。
会社内でも女が上司になった場合、どのような組織になるか関心がある。女性が多数を占める組織は化粧品会社、風俗業などさまざまあるが、そこでは男と女の個性の違いが現れるである。女には特有の過激さがあり、息子が幼稚園に入れなかったことで、日本死ね!なんて言う書き込みがあって社会を驚かせたこともあるし、過労死してしまった電通社員の女もいる。
難しい問題であるが、女は子供を育てることが今だ中心的な役割になっているので女の役割を基本に考えて世の中を見直すことも大事であるし、女に反省を求めることも大事である。
来年の5月でわたしは、70歳になります。その数字に対して何とも言えない複雑な気分です。若い頃には60歳の自分、70歳の自分なんて想像も出来ない遥か遠い世界でしたが、時は情け容赦なく流れ去っていくのですね。大衆浴場に入った時、周りで爺さんたちが下着を脱ぎ、消滅感を漂わせた雰囲気を感じ、自分もその中の一人だとわかると寒気がするほど嫌な気分になります。余命、希望、元気、性欲、好奇心、思考力、記憶力などが縮んでいく一方で極小化していき、消えてしまうのが実感されます。
ところが同年齢の女性たちは元気いっぱいです。亡夫の年金をもらい、孫が遊びに来て楽しい、友達がご飯を食べに来るから楽しい、旅行に行って楽しい、男と遊んで楽しい、美味しいものを食べて楽しい、綺麗な色の洋服を買って楽しい、もっと長生きしたい、など楽しいことだらけの後家さんが多い。以前、風俗店に通っていた頃、ある美人の風俗嬢に、(今度生まれ変わるとしたら、男が良い?女が良い?)と尋ねると、(もちろん、女よ)(どうして?)(だってみんな女の人は幸福そうだもの)と答えが返ってきました。今、まさにその言葉を実感します。
建物は垂直に立つし、植物も動物も垂直に立つ。その原因は重力(引力)のエネルギーである。それによって植物は太陽の光を可能な限りすべての葉に受けて、光合成を最大限に活用し、成長する。動物もそうであるし、垂直に立ってることによって安定感を得、効率的、自由に動けるのである。その体が左右対称形であることも原因の一つである。
動植物の精神もそれに倣っている。弁護士になりたいとすれば一生懸命勉強し、進学校にすすみ、司法試験にパスすると言う、垂直論理的な計画を立てる。この論理的・帰納的な思考も重力の法則通りに、司法試験合格を頂点にしたピラミッド型である。木には太い幹があり、枝分かれして太陽を向いているという構造は演繹・帰納的な姿である。
重力があるから地上のすべてのものはそのベクトル・力に従ったのである。
重力の法則は地上のすべての生命、生き方に力を与えている(神)である。
精神に障害が出るということは重力の法則または磁場からから外れた場合ではないか?と勝手に想像するのだが。いかがなものでしょうか?
この句を先ほど作ってみて、独断であるが俳句の世界がわかったような気になった。この句になる前は、(蔓一本湖面に伸びし冬の暮れ)であったが、異質な(年の暮れ)を入れることによって、違う楽器が共感する広がりと無常観が表現出来たと思う。次回に句会でどんな評価を受けるかわからないが、俳句の世界も芸術と同じで意外なニュアンスで響き合わせるかどうかで評価される。あるいは誰もが表現出来ない言葉を重ね合わせることが出来るかどうかである。
今日の(俳句の会)で(良)の評価をうけましたが、(蔓一本湖面に垂れし年の暮れ)より(年の暮れ湖面に垂れし蔓一本)にしたほうが良い、と言われ書き直しました。他人の目の方が鋭いですね。