ブログ - 20201214のエントリ
わたしは、自分も含めて皆が幸福になって欲しい、と思う者ですが、最近の政府のコロナ対策をみると首を傾げてしまう。go to torabelをうたって国民に旅行をさせようとしたり、生活困窮者に金をだそうとしたり、それらに使った金、負債はどうやって返すつもりなのか?きちんと計算しているのか?それを野党やマスコミに追及してほしいのです。
ヨーロッパの歴史を振り返れば、万人の万人にたいする闘争、と非難された時代をマルクスが批判し、そのせいで資本主義が反省、改革し、最大多数の最大幸福、へと進んだわけですが、この美しい箴言はよく分析すると、理論的には成り立たないものなのです。同時に為政者が政権を必死で維持しようとする魂胆が見えてしまうのです。
人類が幸福に繁殖しすぎ、地球上の食物を食べつくしてしまえば、どうなるのでしょうか?絶滅するしかないのです。食物連鎖の構造によって増えすぎないように調節されている構造の中で人類襲う動物はおらず、今回のコロナがその役目を果たそうとしているという考えは乱暴でしょうか?
例えばコロナ対策を一切やめて、感染するだけ感染させて、生き残る者だけが生き残る、という自然淘汰の道を選んだらどうなるか?感染しない者にコロナがいくら忍び込んでも効果がなく、結局コロナはほぼ絶滅するか、遠ざかってしまうはずです。
このようにしろ!とわたしは言っているわけではなく、目先にふり回されず、もっと冷静に慎重に、将来を見据える目を持って欲しいと思うのです。
毎週、日曜日に、二人の男が私を訪ね、屋敷内の畑で草むしりをするようになった。一人は父親で、腰が悪いので歩行器を押しながら、二十分もかけてやってくる。もう一人はその息子で、52歳で、元気が良い。
「こんなところにこんな広い家があるなんて知らんかった」
息子は同じことを何度も言うタイプであった。
「屋敷が土で盛り上げてあるし、木が周りに繁ってるから外から見えん」
わたしはタマネギの苗の間の草を抜いていた。
「わしが、あんた、・・あんな木ならチェーンソウで倒してやるんやけどな」
父親は風呂の椅子に腰かけて同じ畝の草むしりをしていたが、三十メートルもあるモチノキを見上げた。
「倒さんでも良いんよ。今は周りに民家がないから苦情は出ないけど、家が建ったら苦情がでる」
わたしはこたえながら、自分が生きてるうちに枝落としが出来ればいいと思った。
屋敷は、日の出から日の入りまで陽がさすので、日当たりはすごく良い。
二人の男はまったく日の当たらない炭鉱住宅に住んでいるので、来年は好い家に引っ越すと口癖のように言うし、この畑に来ると、陽だまりに救われるといつも言う。
「あの家は何な?」
父親は離れの家を見た。
「弟が住んでいたけど、出ていった。まだ、勝手には使えん」
「広そうやね?」
「一家族で住めるけど、三十年もほったらかしやけ、水道の蛇口も回らんやろう」
わたしはこの親子が住んでくれればいいと思った。
昼ご飯にカツカレーをつくって二人の食べてもらい、夕方には、大根三本、サツマイモ五個、白菜の塩漬けを持たせて帰らせた。
独り住まいなので、二人が来てくれて、楽しかった。
高齢化がすすんで、放置された畑や山が増えているし、逆に畑のない家に住んでいる人も多い。ここに書いたように畑や山の手入れをしてもらい、いっしょに食事をするのは両者にとってすごく良いことである。
(陽だまり)という会をつくって、あと二三人、招きたい。自分が食事を作って出し、畑でとれるビワ、柿、栗、スモモ、ギンナン、レモンなど食べながら談笑するのを夢見ている。