ブログ - 202112のエントリ

老い先に手を合わせる

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日記
執筆 : 
nakamura 2021-12-27 5:50

  今年はどんな年であったか?と問われれば、相変わらずの貧乏暮らし、健康であった、一人ぽっちであった、小説は進まなかった、などであったが、神の言葉が少しわかった、という成果があった。心臓のバイパス手術を十年前にして、心臓の鼓動に敏感になっていた。脈飛びや動悸の亢進などが起こり、不安になったが、自分が指示するわけでもないのになぜ、鼓動を打つのか?腕や脚の筋肉は意思で動いているのに肺や胃など不随意筋は勝手に動いて生命を維持している、これは誰の指示なのか?と考えてもわからなかった。ネットで調べると、化学反応で動いていると書いてあるが誰の指示かは書いていない。

 そこで、先週、キリスト教会に行って久しぶりに聖書を読んで、創世記に天地創造のこと、神があらゆる生物を作り繁栄するようにと指示したと書いてあることを再確認し、神の指示だと思いついた。すると、おれの心臓が動き肺で呼吸しているのもそうなのか?と考えつき、クリスチャンたちが祈っている意味もわかったのであった。

 自分も手を組んで神に感謝し、今日も生きさせてください、と祈るようになったのである。

神とは生きようとする力である

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日記
執筆 : 
nakamura 2021-12-24 20:42

  昨夜は三時間くらしか眠れず、起きて、八時ころの電車に乗った。黒崎で運転免許の高齢者認知機能検査を受けるためであった。若い頃から物忘れと勘違いが多く、28歳で普通運転の免許をとったが、一年間も教習所に通い、こんなに長く通ってくれてあんたは銅像が立つばい!とまでからかわれた苦い過去があった。また、74歳になって認知機能検査を受けるなんて?と、試験恐怖が目を覚ましていた。一週間前に検査の問題集を買い、なんども解答の練習をしていたが本番になると、怖くなった。もし免許を取れなければアルバイトも野菜の産直出荷もできなくなり、国民年金・5万円では生きていけなくなるのである。それに生活保護をもらうなんて死ぬほどの屈辱だから耐えられない。

 ビルの一室に三十人ほどの高齢者が集まり、試験が始まった。今年は2021年であるとわかっていながら忘れてしまい、2011年などと自分で答えてしまう。紙に2021年と買いて机の下に隠し、何度も目を向けた。試験時間は30分で、自分の生年月日や時計の絵を書いて短針長針で時間を指す内容でそれらは簡単であったが,手がかり再生、という問題が出た時、一気に緊張した。イラストでいろんな絵を十六枚出し、何が出たか?を書かせるのであるが、十個まで思い出すことが出来、これは行けると読んだ。問題集とはちがう絵が出ると考えていたが、まったく同じ絵であった。

 採点を終えて通知表で結果を見ると、92点であった。

 これで免許は取れると思い嬉しくなったが、次には教習所で高齢者講習があり、最後に視力の検査をして免許証の交付になる。まだ先はある。

 ともかく第一の難関を突破した。

 帰宅して正月の飾りものを山に取りに行ったりして動き回ったが、ハイテンションになっていた。生きる力が蘇っていた。教会でキャンドルをやると聞いていたが、自分のかんちがいなのかドアをノックしても誰も出てこなかった。

 そこで考えた。自分は洗礼までうけながら神を拝むことをすっかり忘れているのである。なぜだろうか?他の信者たちはどのようにして神を自分の中に入れているのだろうか?

 そうだ、神とは特別なものではなく、生命が生きようとする力ではないか?あらゆる生物にみなぎる生命の力ではないか?それは善も悪も関係がない。石川淳の小説・焼け跡のイエスの世界ではないか?戦後の焼け跡の中で汚い少年が盗みをしながらひっしにいきている。作者はそのエネルギーをイエスとみなしているのではないか?

 誰が命令するのかわからないのに胃や肺や心臓は動き、ペニスも勃起する。それらすべての総エネルギーが神なのではないか?

 

個人主義に奪われたもの

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日記
執筆 : 
nakamura 2021-12-23 8:23

  先日、近所にあるキリスト教会に、初めて行った。以前の教会で洗礼を受けていたものの、教会から一年間ほど遠ざかっていたが、時々聖書は読んでいた。だが、祈りまではすすまなかった。神が心の中まではいってはいなかったのだろうし、キリスト教には祈りの言葉がないのでとりつきようもなかった。

 そこは個人宅をかねた小さな教会で、若い夫婦で運営していて、落ち着いた感じがあった。身を捧げる気持ちがこもっていて心が落ち着き、十人ほどの参加者の中には顔見知りの人もいた。

 礼拝が終わるとコーヒーと菓子が出され、茶会になった。女の牧師は私の隣に座り、コロナ後の宗教はどうなるか?などいろんなことをしゃべった。その中で印象に残った言葉は、わたしが日頃考えていたことで、個人主義が利己主義を生み、それまでの共同体をこわしたのではないか?ということであった。江戸時代までは、他人の子でも我が子同様に育てる習慣があったが、それが欧米からはいった個人主義で壊され、人権・福祉というちがう観念で動き始めたのである。老いて死をひかえた父母は家の中で看取っており、老人ホームも介護施設もなかったのである。現代、多くの老人たちは人に迷惑をかけないで死ぬにはどうしたら良いか?を考えており、自分もその中の一人になった。

 餓死者がでない福祉国家になったことはまちがいないが、ボランティア精神がすすんで近代以前のような共同体がもどれば良い、と考えるが、良いことと悪いことはいつも綱引きの状態である。

働くとは傍(はた)を楽にさせること

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日記
執筆 : 
nakamura 2021-12-18 5:21

  以前、ある宗教団体の信者たちを本部に送迎するアルバイトをやっていた。本部の教会に着いて、講話を聞き、その内容が今でも記憶に残っている。

 働くとは、傍(はた)の者を楽にさせることですよ、と男の講話者は言った。

 今、自分はスーパーのカート整理のバイトを週に二日ほどやっている。昨日も寒い小雨の中、バイクで行った。仕事の日は農作業も散歩もせず、体力を温存することにしている。三時間の労働であるが、休憩無しで、店内や駐車場を行ったり来たりする。心臓のバイパス手術後に日に十錠の薬を飲んでいるせいが頭がふらつき倒れそうな不安をおぼえることがあり、大丈夫だろうか?といつも心配する。無事にやり終えると、出来た!という自信と翌日からの休みに心が踊ってくるのである。

 一年間も働いていると、店内で働く人の姿や気持ちもわかってきた。レジの女、掃除のおばさん、警備員、店長などが自分の仕事を手伝ってくれるのである。昨日は暇だったが、レジの女が買い物かごを重ねてくれ、掃除のおばさんが駐車場のカートを後ろから押してくれたし、警備員も放置されているカートを拾ってくれた。おれの仕事だから、余計なことはしないでくれ、と最初は思っていたが、そうか、ここは共同体だな、みんなが助け合ってる、と考えるようになった。一ヶ月前から、電気治療器の拡張販売をやっている女の子も目についたカートを拾ってくれるのである。これまで経験した仕事は人の持ち分には手を出さないルールがあったが、それのゆるい世界があったのである。新しい発見であった。

 精米所に行って、もみ殻を袋に詰めていると、後に取りに来た人が自分が詰めるのを手伝ってくれる。知らない人でもそのようにしてくれる。嬉しいことである。でも、こんな良い国民性を持っているのになぜ自殺者が世界一なんだろうか?これはもしかするとその助け合いの裏目ではないか?とも思う。また、一つ小説が書けそうな気がする。

磁場

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日記
執筆 : 
nakamura 2021-12-12 8:07

  贖い、というタイトルで小説を書いたが、二度とも文学賞に落ちた。ただ、最後までブレずに書いているので、わたしはこの作品を推薦したい、という評価をもらい、書き直しを始めている。そこで、贖い、という言葉は日本人には馴染みの薄い言葉でもあるので、磁場、という題に変えた。その言葉は作品の中では第二のテーマにもなっているので書き換えることはそんなに難しくはないと考えていたが、もう一度取り組んでみると意外な発見があった。というより、自分が忘れかけていたテーマにまた出会ったというべきかもしれない。

 不倫事件で、寝取られた男は暴力行為に走り精神病院に入り、出れなくなる。女は身ごもってしまい、不倫現場に放火し、子連れで心中する、という悲惨な作品であり、わたしも登場している。不倫の際、その現場は磁場のようになってしまい心や理性の入り込む余地がなかったということがテーマであり、「磁力と重力の発見」という本を図書館から借りてきてまた、読んでいる。

 主題が深まり、生命は誰の指示で生きているのか?という壮大なテーマが現れ、こんなボンクラ男に取り組めるはずはないと考えるが、難しければ難しいほど取り組みがいがあることも確かである。小説であるから評論のようにそのまま表現するべきではない。そこが難しい。

 磁石には霊魂がある、とタレスがいったように古代ギリシャにおいては、物質には霊魂がこもっていると考えられていたが、科学の発展とともにそんなことは打ち消され、今は精神と肉体・物質ははっきりしない状態である。ただ、脳内物質によって精神状態が変わることははっきりしているので、精神は物質の作用である、というけつろんにたっするはずである。

 だが、それはだれが指示をしているのか?となると、もう一度、難題に出会ってしまう。心臓はなぜ動くか?を検索してみると、化学反応で動悸が現れる、とのっているが、なぜ化学反応がおこるか?はのっていない。信仰者であれば神仏をもちだすであろうが、コロナに負けた宗教界に救いは求められないと思う。

 ただ、誰が動かしているのか?その指示者がはっきりすればそのものが神の地位を得ることになるであろう。それは自然が動かしているのではないか?と思う。水が蒸気になり、雲になって雨を降らす、種が土に落ちて芽を出すことなどに見られるように自然力が動かしているということではないか。また、地球が引力を持って地上のものものを支え、地球の回転力が生物に生命力をあたえているのではないか。そう考えると自然力こそ神であり、誰も打ち消すことは出来ないのである。

孤老の楽しみ

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日記
執筆 : 
nakamura 2021-12-11 8:17

  朝方、寝床でうつつの状態であったころ、j部屋のガラス戸のそばに四、五人の老女が立って、寝床をのぞき込むようにしていた。その前に、自分は布団の中でめずらしく勃起していて気持ちよかったが。女の何人かは顔見知りのようであったので起き上がって声をかけようと考えたが、うつつの時によく見る幻覚であることがわかったので、眠りの世界に戻ろうと考えた。起き上がって手を伸ばせばまちがいなく女達の姿は消えるのである。女の幻覚は楽しくなる。目覚の幻覚はスリルがあるが、そのうち、お迎えが待っていることになるであろう。それも良い。

 最近は、午後八時に寝て、午前八時ころにおきるようになっている。八時に株式市場が開き、値はまだつかないが売買の数がスマフォに出るので予想をするのが楽しみの一つになっている。

 体調が良ければ、いつものように山の散歩を始める。山に近づいてその入口にある民家の物干し竿をのぞきこむと、必ず白いスリップがかくれるように干してある。真冬でもそこの主婦は腰まで短い下着をはいているのである。肩にかかる紐が細くてセクシーである。その姿で寝床に入っている彼女を想像するのがまた楽しい。何度か顔を見たことがあるが、普通の主婦であった。

 少額投資であるが、株価の動きをほぼ一日中見、産直に出したもみ殻の売れ行き情報をスマフォで見る。

 屋敷の草や木を切るのも楽しい。

 最近は誰も訪れなくなったのでどこに行ってなにをしようと自由であるが、カネがないので遠出はできない。酒に酔って、小倉の船頭町あたりをブラブラしたい。二十年ほど前は週に一度くらい通い、楽しい思いをしたので、十軒ほどある店の呼び込みに声をかけてみたい。名器の女はいるかい?経験したことあるかい?などと話しかければ面白いであろう。

 夕方になると、まず、酒を飲み、ツマミを家で食べる。すごく美味しい。飲みながら、スマフォでキムヨンジャの(巫山港に帰れ)を聞くと涙が出るほど感動する。それを聞きながら、夕食の準備をする。昨夜はもつ煮をつくってみたがこんなに美味しいとは知らなかった。ネギは自宅でさいばいしたもになので、自分の人糞をかけているが汚くは思わなくなった。

 さて、今晩は何を食べようか?明日、明後日とバイトのない日なので自由である。バイトは社会参加をすることなので楽しいが、バイトを終えれば自由になれる楽しさも含んでいるのでまた楽しいのだ。

 

イノコヅチの戦略

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日記
執筆 : 
nakamura 2021-12-3 7:52

  年の暮れを迎えようというのに、わたしに庭には冬をこす草がだいぶ残っている。草刈り機でかるので早くできるが、草たちも子孫をふやすのに懸命であることが見えてくる。イノコヅチは黄色い小さな花を草地にたくさん咲かせていたが、今では花を落とし、小さなイガに変わって、運搬人を待っている。まるで小さなクリのようで棘を逆立てているが目にはつきにくい。

 一時間も刈って、部屋で休んでいると作業服にイノコヅチがびっしり張り付いているのに気づく。トゲは化学繊維にはつかず、綿の生地に張り付く。考えてみるとイノコヅチは人が綿の衣服を着ることを知っているのである。動物の毛にはつくことが出来ないので、人が化学繊維しか使わなくなれば子孫を増やすことができなくなり、化学繊維につくように変わるであろう。

 最初、生地に平行に張り付いていたイノコヅチは人の体の動きに合わせて直角状になり、肌をさすのである。痛いでしょう?早くわたしをとって外さなさいといつまでも痛いわよ!と迫ってくる。そこで、外して捨てると、イノコヅチの勝ちなのである。離れた場所で芽を出し、子供が育っていく。

 この戦略は感染症を起こすコロナに似ているが、コロナはウイルス、つまり生物と無生物との間に位置するととらえられているが、どちらも考える力を人並みまたそれ以上に持っていることがわかる。

 コロナの新種が現れて、終息を迎えるのでは考えていた人間界は大騒ぎになっている。まさに知恵比べであることがはっきりした。人間の知性と野生棒物の知性はどちらが勝つか?である・・・。人間以外の生命も必死で生きていることに気づかねばならない。

木枯らしに夢も転がる一夜かな

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日記
執筆 : 
nakamura 2021-12-1 9:03

  昨夜、眠っていると変な音に、目覚めた。天井裏で、誰かがピュウピユーと口笛を吹いているのであった。何度も吹き続けるのだ。一人住まいなので、怖くなったが、戸外で木枯らしが暴れまくっているのがわかった。庭のバケツや何かがすごい勢いで吹き飛ばされている。

 昨日はスーパーでのカート整理のバイトをした。大雨になるとの予報があったのでバイクではなくポンコツ車で行き、予報通り大雨になり、車で濡れずぬ帰宅した。

 今日から十二月に入った。木枯らしにはもう師走の予感があった。年を超えるにはやらなければならないことが多い。産直店に松竹梅の飾りを出す準備やお墓の掃除、屋敷の手入れなど日頃より忙しくなり、年明けは確定申告、車検、免許の更新などが控えている。

 木枯らしに起こされた夢の中身は、あい変わらずのものであった。見知らぬ土地で道に迷い、財布がなくなっている、なつかしい友達に出会う、そんな夢を何度も見るのである。日頃の生活の不安がそのまま出ている。

 木枯らしに夢も転がる一夜、であった。

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