ブログ - 202101のエントリ

ふきのとう寒に抱かれて春を待つ

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日記
執筆 : 
nakamura 2021-1-31 8:04

  昨日はいつものスーパーで買い物籠の整理を三時間、やってきた。仕事は慣れたのでどうということはないが、二千五百人のお客さんが毎日触った籠なので、感染が怖くなった。軍手をはめてやっているが、このコロナ騒動を考えると、籠や商品のどこかに付着していると、警戒すべきである。

 コロナに介添えをしてもらう、その覚悟はできているが、今の作品を文学賞の受賞にしろホームページの掲載にしろ、仕上げて、世に出してからにしたいのである。一度、落選したものであるが、自費出版系の出版社に送ると、ストーリーが少しもぶれておらず、圧巻される部分がある、ただ人物の造形が弱い、という講評をもらい、自費出版しないか?という電話もかかってきた。無料出版ならすぐに応じるが有料にするには金がない、と返事した。

 今、この作品、私の人生の中での最高にショッキングな出来事、その世界にもう一度帰り、関係者たちと再会しながら、想いを膨らませたい。四十年前の出来事である。事件にはならなかったが、数分の時間の早まりがあればまちがいなく事件になっていた。

 世に出れば、鬼滅の刃、ほどの評判になるかもしれない。そんなの世間に出すんじゃない、我が恥じをさらすようなもんじゃないか?と知人は言うであろうが、恥多き人生の花を最後に咲かせてやる。

 ふきのとう寒に抱かれて春を待つ

死んでもいるし生きてもいる

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日記
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nakamura 2021-1-29 10:11

  量子力学の中で、シュレーディンガーの猫、という有名な説がある。箱の中に猫を入れ、毒ガスを吹き込む。そこで猫は生きているか?死んでいるか?を問う。猫の姿は見えないわけであるから、答えは死んでもいるし、生きてもいる、ということになる。

 私は七十三歳であるが、生きているか?死んでいるか?と、問われれば、今は生きているが、長くて三十年以内には確実に死んでいる、のであり、生きてもいるし死んでもいるわけである。今と三十年後を重ね合わせればそういうことになる。

 コロナのPCR検査で、陰性と出たのに翌日には被験者が死に、陽性であったことがわかった事例がある。検査が不正確であったと言えるが、実は陽性と陰性が重なり合っっていたのではないか?私は口唇ヘルペスの持ち主である。冬になって塩辛いものを食べたり、免疫力が落ちた時に、日頃は体の奥に隠れているヘルペス菌・ウイルスが出て来て唇のまわりを潰瘍状にただれさせる。ただ、それだけであるから気にはしていないが、全身に潰瘍ができて治療に通う人もいる。私の場合はヘルペスにかかってもいるしかかってもいないということにもなる。

 量子力学の話にもどると、量子コンプーターは、従来の0と1の組み合わせから、0でもあり1でもあるという組み合わせを考え出して、計算能力を膨大に増やしている。重ね合わせ理論を一つ広げたのである。

 このように重ね合わせの考えが広がってきているのに、人間世界の日常の考え方は、生と死におけるように二者択一でなければ理解出来ず、それから前進しない。それは目に見えない政治権力のせいであろう。前進させれば精神世界の秩序が崩壊するからである。

 そろそろ重ね合わせ理論を普及させてみようではないか?(あなた、今、どうしてる?)と尋ねられて、(死んでもいるし生きてもいるよ)と答えるようになれば、死を引き受ける気分になって気が楽になると思う。(就職試験はどうだった?)(通ってもいるし、落ちてもいるんじゃない)、こんなやりとりは落ちることも認めて、楽な気分になるだろう。

 わたしは男でもあり、女でもある。

 ぼくは子供でも大人でもある。

 鳥でもあるし、動物でもある。

 など、思考の範囲が新しい領域をもって、確実に広がるはずである。

死の否定は生の否定である

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日記
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nakamura 2021-1-25 15:36

  数日前のニュースで、PCR検査を受けた二人の者が翌日に陽性と判定されたが、二人ともすでに亡くなっていた、と報道された。二人とも若者であった。

 コロナ感染や死が日常的になりつつある現在だが、ショックをうけ、次は我が身か?と怖くなったが、全く反対の考えがわいた。寒い朝、布団から起き出すのにいつまでも掛布団にしがみつき、右に寝たり左に寝たり上を向いて寝たりしながら、睡眠という仮死状態にしがみついているのは誰だ?・・おれではないか!と思いつき、そんなにかんたんに死ねる(ひどく苦しむのがほとんどであるが)のなら、いっそのことコロナに介錯してもらったほうが良いではないか?そうだ、それが良い!と結論づけた。

 同時に現在の報道、有識者たちのコメント、世間の考えなどを振り返ってみると、どこかがおかしい、何かが間違っていると思った。それは生の肯定、死の否定、の過激さである。太平洋戦争で数百万人の戦死者をだして以来、日本の倫理の中にあった(死)は百パーセント否定され、肯定でもしようものならすごいパッシングをうけるにちがいないから、メディアで取り上げる事さえ、タブーになっている。いびつな社会である。

 つい三十年前ほど前まではそうではなかった。死ね死ね団、というアーティストがいたり、人間滅亡賛歌という本が出されたり、五十年前であれば、おら死んじまっただ、という歌がラジオから流れてきたりして、死を受け入れる部分があったのであるが、これほど死が完璧に抹殺された時代はめずらしい。無言のうちに言論統制がされている。

 そこにコロナの出番が待っていたのであろう、殺戮の限りを尽くしている、と言わざるを得ない。自殺者も増えている。わたしみたいな老いぼれ役立たず老人などはコロナの介錯によって早くこの世から消え、生まれるべきであった世で生き直すべきだと思う。

コロナのテレパシー

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日記
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nakamura 2021-1-19 20:29

  ウイキペディアによると、テレパシーとは、言語・表情・身振りなどによらずに、その人の内容が直接他の人に伝達されること、と書いてあるが、人だけではなく動物にも当てはまる。ライオンが集団で狩りをするとき、勢子役、攻撃役と役割を分担して実行し、確実な成果をあげるが、彼らはどうやって事前にその打合せをするのであろうか?言葉も持たないのに、おまえは勢子役、待ち伏せ役など,どうやってとり決めるのであろうか?不思議である。言語や表情によらずに役割を了解し、ひきうけるのである。それは超常的的技術、つまりテレパシーによってというしかないのである。瞬間的に情報のやり取りをしている(テレポーション)に違いない。

 コロナの現象は人間の常識をはるかに超え、テレパシーという目に見えない、感じとれないツールを持ち出すしかない。論理的合理的に組み立てられた既成の科学では説明のつかない近未来的な世界である。人間にも霊感やテレパしーがあったが、言語と知識の発達によって失ってしまった。それに、人間は自分達がもっともすぐれた生物だと思い込み、自分達が感じ取れないものは、(無いもの)として処理する。けれども、音波や電波は感じとれなくても存在し、受信機を使えば声や画像としてはっきり聞こえ、見ることが出来るのであり、人間は受信能力をもっていないだけなのである。知らない世界、見落としている世界は無限にある。

 そこで、コロナの話である。コロナの命は短く、生存期間は何に付着するかその材質によって異なる。マスクがもっとも長くて一週間と書いてあるが、それ以上は調べていないのでわからないという。彼らだって情報は大事でその共有や交換はしているのである。DNAはないから、RNAをコピーすることによって情報を次世代に送っている。人間の思考や判断など、複雑で膨大な情報を送り、対策を練っているだろうが、それはテレパシーを使って瞬間的に送受信をしているのではないか?

 目にも見えない細菌がそこまでやって、人間に闘いを挑んでいるのである。これまでの人間の知識や技術、知性ではとうてい及びもしない力であり、人間たちはこれまでの技術や知性に頼らない方法を必要とされているのかもしれない。これまでの科学が否定される超常的な技術である。

 

 

 

コロナの知性

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日記
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nakamura 2021-1-18 17:20

  数日前の新聞に、ある大学教授が、、(コロナにも知性があるのではないか?)と書いていたが、そんなレベルで生徒を教えているとなると、驚きである。コロナに知性つまり思考する能力がなければ、世界人口の一億人にまで感染することは出来なかったはずではないか?

 ジャングルの中で、野生動物に感染して生きていたコロナは、そこから人間の伐採によって追い出されたが、人間世界を寄生主とすることがいかに効率的で自分たちの生存・繁殖に役立ってくれるかを十分すぎるほど知った。知ってしまった。動物の中で最も早く頻繁に移動し、密生する種を発見したから、自分達が動かなくてもどこにでも運んでくれ、その上、対象者はほぼ無限にいるのである。有難い存在である。もう離れないし、離さないであろう。ワクチンが開発され、全人口が接種しようとも症状の出ない感染者がいる限り、一匹が残っていれば、一人に乗り移り、つぎの一人に乗り移りして、倍々ゲーム式にすぐにばん回することができる。季節を問わずにである。

 さらに経験を積むことによって、すでにそうであろうが、人間の思考・知性を確実に知り、先手先手を打っていく。もう根絶やしにすることは出来ない。共存しながら、感染者増大、時短への給付金をだし、GNPの利益、課税などで元を取り戻したり、押したり引いたりしながら、人間たちは生き延びていき、それを末永く続けるしかないであろう。

 そのうち、コロナとの対話ができるようになり、お互いの気持ちを推し量っていく。人間はこれまで見えなかった世界を見るようになり、それは霊や神の世界かもしれないが、この世は人間だけで出来ていないことを知るであろう。

知恵が原罪であった

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日記
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nakamura 2021-1-17 14:09

  聖書の(創世記)、その初めの部分に、原罪のことが書いてある。有名な挿話であり、聖書を象徴するような内容で,キリスト教が罪を原点にしていることがわかる。

 神は人類を誕生させ、その繁栄を望み、永遠の命を与えるつもりであったが、一つだけ指示を与えた。森の中には豊富な果実が実っているから、好きなものを食べて良いが、(知恵の木の実)だけは食べるな、と言った。ところが、最初の人類であるイブは(神の言うことなど聴くな、神のようなに自分の意志をもって行動してみては?)と蛇にそそのかされた。イブは食べ、夫のアダムにも食べさせた。その結果、神の指示に従わなかったために、その夫婦(人類)は永遠だったはずの命を失い、楽園から追放され、地面に這いつくばって働き、生きるようになった。

 と、いう内容であるが、二千年前に書かれたこの挿話の中に驚くべき真理がひそんでいる。かんたんに言えば、知恵・自我というものである。それに、妻のイブはそれまでは裸であったが、生じた知恵・知性によって恥ずかしさをおぼえ、腰を布で隠すようになったのでもあった。神の言葉を信じておれば良かったものを、目先の快楽・利益のために、禁断の木の実を食べ、、自我を持ったために(永遠の命)を失ったというこの話はわれわれ現代人にまで通じていて、ハッととさせられる。アダムとイブのように、わたしやあなた達は知恵と自我を働かせて目先の生活を生きようとしてきたことが今回のコロナ事変によって、はっきりさせられたのである。

 人類が考え出した科学や数学などもろもろの学問は真理・神の側からみれば、しょせん浅知恵にしか過ぎないことに気づかねばならない。自我だってそうである。本当のものの姿は資本主義の考えの中からからは見えず、見えない世界にいて、見ようとすれば隠れてしまうのである。見えない世界にこそ真実と価値があるのである。

 資本主義の世界は利益と数字の世界にしかすぎず、その観点でしか物事を見ていないことを知るべきである。浅知恵と利己的な自我なのであり、わたしたちは産まれてこの方それにいかに振り回されてきたことか!それに、効率主義とは欺瞞であり、見せかけにしか過ぎない。たとえば、一時間かかっていた目的地を車で五分で行けたとして、多くの者達は時間を儲けたと考えるだろうが、そこに貴重なものがあって見落としたことを想像出来ないのである。

 今こそ、敗北した資本主義を捨て、原点に立って、自己や社会、自然を見つめなおすべきである。自然回帰には素晴らしい世界が待っている。

 

人間知性の劣等生

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日記
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nakamura 2021-1-17 8:59

  大学入試センター試験の動きが報道されているが、わたしは成績不良者であったこともあって、冷笑的な気分になる。コロナによって人間たちの知性の見せつけられている現在、試験の内容がどうだの進み具合がどうだの、という前に人間の知性の歴史や正体を検証すべきではないか?さらに、その価値を認めたうえでセンター試験をやるべきではないか?

 コロナの報道においても、感染者数、退院者数、死者などは公表しているが、被験者数の数字がでておらず、感染が天文学的な数字で増えている印象しか与えない。被験者数は感染者数と正確に比例する。その矛盾に気づかず、数の勢いに負けている。自動車が発明された頃は、便利さ、快適さ、スピート、操縦性などさかんに訴えられながら、大気汚染に目が向かったのはほぼ五十年後である。メーカーは大気汚染物質を減らすことは出来ないといいながら、排気ガス基準に合格する車を生産し始めたではないか?

 原発の場合もそうである。

 色んな世界の数値を分析してみると、他の視点・総合的な視点が欠けていることがわかる。ほとんどの人はそれに気づかず、振り回され、まちがった事実を信じてしまっている。マスコミも報道する前にそのことを知りながら、視聴率があがれば良い、と言う考えしかないので、戦時中におけるでたらめな数値をだし、数百万人の死者を出してしまった。その教訓を十分に学んではいない。

 コロナに知性はどうか?

 感染者数、退院者数、死者の数字はもちろん、ワクチン接種の動向を見ながら、変異種を送り出し、さらなる反撃に少しもひるみはしない。全世界の死者を一千万人にした頃、大成功の気炎をあげてひとまず舞台を下り、つぎの戦略・作戦をめるであろうし、他のウイルスたちもコロナの成功に学んで発達するに違いない。

 全世界の知性を動員しても、微小なコロナの前に屈してる現在、それは明らかに人間知性の敗北である。デジタル、AIの応援が入っても、偏向的な視点に気づかない限り、堂々巡りである。

 普遍的、俯瞰的な視点は自然の中にしかないが、それを知った時、人間は初めて生まれ変わり、新人類になるであろう。

自然界の倫理

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日記
執筆 : 
nakamura 2021-1-16 9:50

  人間社会の出来事は、ニュースでじゅうぶん知られるとおりだが、自然界、動植物のことが人間社会並みに報道されることはない。平等に報道されるようになれば、人間も自然界の一員という見方になり、わたしたちの立ち位置もわかるはずであるが、人間中心主義は当然だという考えが染みついてしまっている。

 既成の事実をひもとけば、野生の倫理は掟であり、人間社会のそれ以上にきびしく護られていることがわかる。まず、仲間、同種のものを殺したり、食べたりはしない。だが、人間社会での殺人行為は日常的なことであり、戦時中であれば人肉を食べることさえある。

 野性の世界では子供や妻の虐待はしない。

 自殺もしない。

 自然破壊もしない。

 自然に沿って、生きていく。

 植物の世界をみれば、野菜たちの生き方がわかってくる。人間によって育てられ、繁殖をしてもらう彼らは、変種をして人間に毒を与え、攻撃することはない。美味しい味を出して、食べてもらい、末永く、共存しようとしている。コロナは逆に変種をして、感染力を強め、ワクチンに対抗しようとしているが、結末は絶滅が控えているようである。

 共存、の方が賢い生き方ということになる。

 決定的なダメージを与えるのではなく、そこそこに互いを修正しながら生きていくのが賢明なようである。人間関係においてもそれを用いれば豊かな関係が保たれる。

 植物の世界でも競争はすさまじい。まず、畑に種をまいてみよう。土と水気と太陽があれば生命が生まれ、成長するようにできている。その仕組みは誰がつくったのか?となると、まだ、わからない、というしかないが、それがわかった時、はじめて真理が見えてくる。種を播いて二週間ほど待ってみると、いろんな芽が出てくるが、残念ながら、それはその地面に前から落ちていた雑草なのである。彼らは高く伸びることによって、他の芽の成長の邪魔をし、養分を独り占めするのである。一か月も経てば畑は草だらけになり、野菜の芽は消え去っている。

 人間に過保護に育てられた野菜は雑草たちに対抗できず、その肥料になってしまうのである。だが、人間が生存している限り、命を与えられていくことになる。これは依存ではなく、共生、共存であり、人間もそうしなければ生きていけないのである。

 人間界の倫理より、自然界の倫理のほうに学ぶものが多い。

 自然界の倫理と言うのは豊かな生を営むための約束事みたいなものであり、コロナ禍を教訓にして、人間界より自然界の倫理を学ぶべきである。

 

 

 

自然界は共同体である

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執筆 : 
nakamura 2021-1-15 16:13

  一般的に共同体と言えば、人間世界のことである。ほとんどの人はそのように考えるであろうが、自然界そのものが共同体である、とみなせばすごくわかりやすくなる。食物連鎖を例にとってみよう。鹿が草を食べ、その鹿を狼やライオンが食べ、そのライオンをハイエナが食べる、その構造は捕食して生きることであるが、それによって増えすぎないように調整されているわけで、死滅さえも構造の中に含まれていて、悪いことではないのである。増えすぎればまちがいなく食べ物がなくなって絶滅するしかない。悪い、と考えるのは人間だけである。目の前で仲間が食い殺されると、悲し気な気配を見せる動物もいるが、終わったこととして次の行動に動物たちは移る。

 動植物たちも助け合いの精神を持っている。イソギンチャクはヤドカリの上に乗り、運んでもらい、代わりに食べかすをヤドカリに与えている。これは中学校の理科でも習う科目であり、そんな事例はたくさんある。人間だけが特別な精神を持っているわけではなく、自然界はたがいに助け合ったり、時には相手を食べさせてもらったりして成立している。まさに共同体なのである。これを壊す者は必然的に排除されることになる。

 食物連鎖の頂点に人間は座り続けていたが、数が増えすぎ、自然をも平気で破壊するとなると、共同体の支配者は黙っていなかった。コロナと言う密使を送り込み、人間退治を始めたわけである。ある程度、痛めつけて目覚めさせればコロナは去って行くに違いない。

 それと相前後するように温暖化防止、脱炭酸ガス社会などの実践にかかり、人間たちは重い腰をやっと上げはじめた。この流れを大事にして、変化の動きをゆるくして、スロウ・ライフ、スロウ・フードに変えながら、もっとゆっくり自分の人生や社会を眺めれば新しい色んな発見に出会うに違いない。

 話は変わるが、実践倫理研究会のおばさんが、冊子をポストに入れてくれている。時々、読むことがある。(倫理)とは自然の摂理によって出来上がったもの、という巻頭言が印象に残り、共感している。ただ、怒ったりせずに心を平安にしていれば良いことがある、と言う部分には少し、頭を傾げることがある。怒りや反抗は大事なことだと思うからである。

コロナが淘汰する人類

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日記
執筆 : 
nakamura 2021-1-15 11:21

  コロナの感染の勢いが凄まじく、南極に住む人にも感染したと言うのだから、驚きだ。各国の政府が緊急事態宣言を出したり、ワクチンの接種を始めたというのに世界の感染者が一億人に達するのは食い止められない勢いである。

 弱い者から殺されていっている。老人、糖尿病患者、心肺の病気持ち者、心を弱めた女、子供たちの自殺など自然淘汰の原理を働かせているが、それは人類が自然を征服し、次々に絶滅種を増やしていった足跡をたどっているわけである。まわりを見回しても、田んぼからゲンゴロウ、ドジョウ、ザリガニ、アメンボが一匹残らず、消された現実に目を向ける日本人は少なく、自分がその加担者の一人であるという自覚を持つものはいない。俳句や和歌をひもとけばいかに日本人が自然を愛する民族であったかがわかるのに、この豹変ぶりは資本主義の快楽、利便性に負けたとしか言えない。

 そんな観点からコロナを見れば、コロナは洪水で世界を覆ったといえる。だが、自分達のエサである人類を絶滅させるわけにはいかない。

 わたしはいつでも淘汰されていい者であるが、コロナ禍で生き残る者は次代を切り開く先達者であるにちがいない。自然との共存、共生を知り、それにそって新しい時代を創る者である。それには新しい哲学が用意されなければならない。

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