ブログ - 20200119のエントリ
相模原殺傷事件の植松被告は、優生思想を信じ、口もきけない障害者は社会のじゃまになる、と考え、犯行に及んだ。さきほど、ネットを読むと、彼が介護をしても要介護者から感謝の言葉もなかった、と話していることが分かり、私の想像していたとおりであった。ありがとう、という言葉があれば彼は犯行を計画し、実行することは無かったであろう。
優生思想はダーウイニズムから始まり、優勝劣敗、強者生存、適者生存の考えで、ヒットラーのナチズムにも用いられ、数百万人のユダヤ人を殺した歴史がある。
わたしは(働かないアリ)の本を読み、(動的平衡)の考えに至っている。全部を働くアリに変えても、働くアリの中から働かないアリが現れて、けっきょくその比率は同じであるという真理が働くのである。だから、障害者たちを排除しても、健常者の中の差異や格差は残るので、排除することは無意味である、と考える。
また、障害者がいるから健常者がいるのであり、健常者がいるから、障害者がいるのである。それを優劣で区分するのは、光は優れていて、影は劣っているというようなもので、見当外れである。
わたしが植松被告と考えの交流が出来れば、そのことを訴え、読者の方にも理解して欲しいと思う。
セクハラ、という言葉は魔性をもっている。それは男女関係の微妙な色模様をはらんでいるからであり、前述したように、セクハラだと、女から公言されただけで男は社会的地位や名誉を一瞬にして失う場合があり、恐ろしい呪いの言葉となった、といっても過言ではない。幸い、わたしは地位も名誉のない老人であるから、訴えられる場合は少ないと考えながらも、警戒するようになった。
ある老女がいる。夫を二十年前に亡くしてから、すっかり元気になり、男漁りを始めて、とまわりからも本人からも、色気違い、といわれ、いうようになった。再婚したいのであったが、良い男に恵まれず、結局はいつまでも男を求める人生になってしまった。
ある80歳の男と知り合い、二度目にはいつものようにホテルに行った。ところが、男の方のセックスが強すぎて、いやになって、避けるようになった。別れる、と伝えたがが男の方は、しつこく、家の周りをうろついたり、電話を掛けてきたりして追いかけるようになった。警察に相談し、男が彼女に近づかないように、警告してもらった。しばらく、ストーカー行為はなくなった。ところが、半年後に男は認知症にかかり、介護施設に入り、紙おむつを履く状態になってしまった。
それを知った彼女は驚くと同時に、男が不憫になり、介護施設を訪れたが、男に刺激を与えてはいけないと言われて、会えなかった。そこで、彼女は男の実家に行って、自分が男の世話をしたいと彼の妹に話したが、受け入れてもらえなかった。男は妻を失い、独り身であった。
それから、どうなったか?は私は、知らないが、ここに男女関係の不思議さがある。嫌いになったり好きになったりする、そんな関係性の変化で、セクハラになったり、愛されたということになったりするのである。男女間系の微妙な変化や色合いを、法廷で、証言したり、訴えたりすることができるであろうか?時間は凄くかかる上に、あの時は愛していたのに、この時は嫌いになっていたから、セクハラだとか微妙なことを喋り始めれば一つのドラマの舞台ができてしまう。
そればかりか、解決のつかない、男と女の永遠のテーマ、その迷路にはまりこんでしまうのである。当人同士が解決するしかなく、法廷は調停役でしかない。