ブログ - 20200108のエントリ
今年のNHKの大河ドラマは、明智光秀を主人公として物語が進むと新聞にも書いてあった。信長への謀反人に沿った視点から脚本が書かれ、本能寺の変の真実および彼の生き方を辿っていくらしい。面白そうである。日頃、テレビを見ないわたしの関心をどこまで惹きつけれるか見ものである。歴史はすべて勝者の視点に沿ってつくられていることは確かである。光秀も信長に謀反を起こし、秀吉にやり返されて殺され、歴史上で,悪人の位置なのである。
そこで、わたしはキリスト教の歴史的位置を考えてみる。わたしは洗礼を受けたが、それはキリスト教への探求の目的があり、自分の分析の姿勢や観点は動じはしない。ユダヤ教、その後のキリスト教の動きを考えてみるとそこには触れてはいけないダブーを読み取ってしまう。はっきり言えばキリスト教はユダヤ教を乗っ取ったのである。キリスト教はユダヤ教を引き継いで制覇し勝利したのである。旧約聖書の内容を勝手に盗り込み、キリスト教にすり替えたのである。
イエスの弟子であったユダはローマ皇帝へ密告し、キリストを磔刑へと導き、欺いて殺した悪人と言う事になるが、ユダの立場に立てばイエスは自分を神の子だと言って、ユダヤ教を乗っ取り、後継者として名乗ったのである。ユダヤ教の側がそれを許すはずはなく、明智光秀のように謀反人として抹殺される対象でしかなかった。同時に、それはキリストが人間の原罪を贖うためだと解釈され、喧伝された。信者たちは感動し、キリストを不動の位置に押し上げた。キリスト教は大勝利を得、一時、ローマ帝国の国教にまでなり、世界の精神界を制覇した。現在でも圧倒的な勝利を得、聖書は世界のロングセラーなのである。
明智光秀はいつまも謀反人の位置に下げられているが、彼が秀吉に敗れなければイエスのように英雄に祭り上げられ、歴史は大きく変わったであろう。歴史は勝者の視点に基づいているから、絶えず逆の視点が必要である。