ブログ - 20200114のエントリ
わたしはキリスト教会に通わなくなった。
信者から電話がかかってきたが、献金が出来なくて後ろめたくて、行けません、とメールを送ったが、それを読んでないようで返信は来なかった。それまで、教会や信者に対して、どこか不信感があった。わたしは、信者や牧師に生活が苦しいと訴えていた。それなのに、洗礼を受けると、待ってたように献金袋が四つも来た。月に千円ほどの献金はしているのに、それ以上、貧乏人から金をとるのか?
彼らはキリストの言葉を心の中に入れてはいない。日常生活に戻ると俗物になるのであろう?キリストは貧しい者からでも献金させろ、と言っているか?
教会に通っても、わたし自身は変わらなかった。ホームレスみたいな老女から、駅への道を聞かれたが、嫌な気分になって教えた自分であった。不倫をしている信者もわかった。四年間ほども聖書を学び、キリストについて考えたはずなのにこのありさまである。
最初から、食い違いがあった。仏教では、仏は自分の中にいると考え、自己を検証するがキリスト教は神を自分から離れて置き、神が自然も人間もつくった、といって、信仰することは、神と契約をむすぶことなのである。そのあたりが日本人にはすっきりわからないであろう。信者たちは熱心に教会に通っているが信者の数は増えない。かれらは悩みを訴えて皆と共有したり布教活動をすることはないので、自分だけの世界に籠ってしまっている。自己満足である。牧師さえも、布教活動はしません、困窮者たちには寄付をしています、といって金で片づけている。いわば、金持ちのための宗教なのであり、わたしのような貧乏人の行く場所ではなかった。