ブログ - 20160318のエントリ
何時の時代もどの国の人々も常識にもてあそばれて生活している。隣の家より金があるから幸福だとか、隣の家の娘より自分の娘が美人から自慢だかとか、亭主が立派な会社に行っているから嬉しいとかとか常識に絶えず左右され、比較しながら生きている。他人の眼や噂に振り回されて一生を送り、葬式の時にだって多くの人が参列してくれたから良かった、と死んでまで振り回される。常識は普遍的なものではなく、国家や社会の動きによって絶えず、左右されている。衣服や髪型、思考、ファッションが変わるのと同じである。戦争中に敵をたくさん殺した者が英雄であっても戦争が終ると殺人者のレッテルを貼られる。
権威、学歴、家柄、良い顔、会社などが人の評価の基準であり、新聞社でも人を紹介する時に必ず学歴を書き、評価の基準にしている。作家であれば顔写真を出し、物書きのくせにしてまるで美男・美人コンテストではないか。
だが、若くしてすごい評価を受け、絶頂に達した者には耐え難い悲劇が待ち受けている。元巨人軍の清原氏が覚醒剤所持、使用で逮捕され、釈放されたニュースなどは良い例である。若くして人生の絶頂に達した者はそれ以上の絶頂が周りから求められ、当人も求める。絶頂であったということはすでにそれ以上のものがない、ということである。下降に落ち、うらぶれていくしかない。王さんや長島さんみたいに監督になり、後継者の育成という地味な仕事につけば良かったものを彼はそれ以上の名声を求めてしまった。それが彼の悲劇である。逮捕・拘留の期間で彼が変身できるはずはない。罪をきせられたからにはこれまで以上の悲惨な生活が待っている。
世間や常識に惑わされない自分独自の生き方を少しでも身につけるべきであった。