ブログ - 201503のエントリ
今月は週に三回ほどパソコン教室に通いました。テクニックを身につける狙いと同時に(心は量子で計れるか?)というテーマ、そのヒントでも触れることが出来るのではないか?という考えがあったのです。エクセルの講習で(IF関数)が出た時にヒントが出ました。(もしもこんな条件をつけた場合)ということなのです。従業員のデータの中で新宿区に住む人、男あるいは女、年収千万円以上の人を探して色分けしなさいとPCに指示をした場合PCは瞬時に判断して表示するのです。では性別を指示する場合、(男でもあり女でもある)という矛盾対立した認識ができるか?と疑問が湧きました。女の講師は外国では性別の欄に(その他)という項目があると言っていました。両性、中性、体は男だが心は女、体は女だが心は男、などの場合です。条件をつけるというのは数学にもあります。
PCは進化し、人間の頭脳に近づき、人格を持つでしょう。第二の人類の出現です。
初期の胎児は中性の状態で雌雄の区別はありません。胚珠が現われて男と女になっていくのですが、それは誰の指示なのかわかりません。人類を絶滅させたいと考えれば中性のままにしておけば良いし、それは(初期化)なのです。進化をさかのぼっていけば単細胞だったのですから初期の状態に戻るだけです。PCは進化し、人類が退行していくとすれば?主導権が入れ替わるだけです。
以前のブログに農薬のことを書きました。毎日新聞でしたが、ホウレンソウにかける農薬の濃度を十倍にしても人体への害はないと掲載してありました。この新聞社の思考のレベルが低いというより、人体だけではなく他の生物、地球全体への害をはっきりさせる方程式(それは真理になる)がないかと思案するのです。真理は世界共通のものです。神と言っても過言ではありません。重力の法則など自然科学の法則は誰でもが認識でき、くつがえすことはできません。
3、4日前の毎日新聞はラウンドワンという農薬に発がん性があるという記事を載せていました。メーカーは発がん性はないと言う、とも書いていました。メーカーの社長に言いたい。あなたはラウンドワンを飲めますか?と飲んでみて宣伝しろ、と言いたい。
来月からは福岡教育大学の公開講座で物理学の基礎を学ぶ予定です。なにか発見できるかもしれません。宇宙の法則、地球の法則などスケールが大きくなると神の領域に近づきますが、ラウウンドワンには害がないという方程式はあるのでしょうか?実験結果で害がないという部分だけをデータとして取り上げているのでしょう。例のスタップ細胞の事件ででもわかるように実験結果のデータなんていくらでも捏造が出来るのです。
神の方程式が出来たとすればこの世、人間世界も少しはましになるでしょう。
昨日、岡垣町歌謡音楽祭に行きました。町外と町内の人が130名ほどステージに立ってで歌いました。皆、上手でしたがわたしの目当ては宮路オサムさんでした。宮路さんがステージに現われる頃には客席もほぼ満員でした。無料だったので超満員になると予想していましたが結果はそれほどでもなかったのです。客席はわたしも含めて老人ばかりです。
(涙の操)という演歌はわたしの青春時代の象徴です。欧米のポップスやベートーベンばかりを聴いていたわたしにとって演歌は自分の感性に近すぎて嫌いでしたが、(涙の操)だけはなぜか自分の心に強く焼き付いていました。ビデオカメラを回しながらわたしは何度も涙を流していました。青春時代にフラッシュバックしていたのでした。「操」って何?と話していた女の声を耳にしました。宮路さんは歌い終わると老いた観客を見回して「今日は同窓会みたいだな!」としゃべり、舞台を去る時には「また会おうぜ!」「生きていたらな!」と捨て台詞を残して笑い、さすがレコードをその曲だけで600万枚も売った男だと改めて思いました。七十歳を過ぎているのに若者でした。
(涙の操)だけで600万枚もレコードが売れた、という彼の言葉を思い出しながら、考え込みました。それを超えた曲はない、とも言っていましたが、600万人が買ったということです。何故でしょうか?単純計算してもかれの懐には数億円の金が入っているはずです。普通であればそれで彼の人生は大きく変わっているはずですが、地道な歌手生活を続け、いぶし銀のような歌い方もそのままです。軽快ですごくリズミカルな曲は当時の高度成長期のパワーですが、浪花節のように唸る声が謳歌する女の気持ちはふつうはアンバランスになるはずですがうまくノッテルのです。ジメジメするはずの歌詞が心地よく踊っているのです。
本来は女の敵にもなりえる男が歌う、男が歌う女心がさわやかな印象と同時にすごく心を打つのです。不思議な歌というしかありませんが、600万人に感動を与えたのです。宮路さんの誰にも真似の出来ない声は渋みがあり、日本刀で切るような魔力があります。ネットでは灰汁の強い声とかいてありますが、わたしも(灰汁の強さ)では引けをとりませんから、それを活用してエポック・メイキングなことをやってみたいのです。
組合長はわたしの言ったシステムというのがわからなかったのです。POSシステムのことで、今、何がどれくらい売れているか何が足りないかがわかるのです。店にとっても客にとっても良いシステムでスーパーであればどこでも導入しています。
JAの店なのでそんなことも知らない人が組合長になっているのです。JAは独占企業に近い存在だからでしょう、関心もないみたいです。わたしは自動車の組み立て労働を5年間ほどしました。今、何時なのか腕時計を見る時間もないほどの極悪労働でしたが、改善提案活動がさかんで週に3、4件の提案を会社が求めてきました。会社は評価し、金を出します。労働を買うと同時に知恵も買うのです。日本の自動車産業が世界的に強いのはそこにあります。
わたしは産直の店に電話で問い合わせれば良いのでしょうが、小額の商品のために毎日電話など出来ません。17時に閉店するので竹の子が売れたかどうかバイクで行ってみるでしょう。早めに行って売れてなければ値段を下げて完売の状態にも出来るのです
ここに日本の農業の現実の姿があります。政府が補助金など出して農業を依存症にするよりは知恵を出させる方向に進めるべきです。わたしは自宅の庭を歩きながら、何か買ってくれるものはないか?と毎日考え、創意工夫に頭を使っています。
わたしの家には百坪ほどの畑があり、敷地が七百坪なので色んな果樹が植わっています。山も二千坪くらいあります。すべて先祖が築いたものですが、国民年金しか収入のないわたしは出来るだけ活用して収入にしようと考えています。五年間ほど産直店に出荷し、日本の農業が少しずつわかってきました。
先ほども産直店に行きました。昨日は小雨の中、カッパを着て竹の子を1kgほど堀りました。まだ出始めで探すのに苦労しましたが、足先で見つけた時はすごく嬉しかったです。皮を剥き、米ぬかを鍋に入れて1時間も湯がき、アク抜きをしました。350グラムずつビニール袋に分けて入れ、午前8時に店にバイクで行きました。9時に開店なのですが店は開いていて、生産者達が採れたものを並べていました。竹の子皮を剥いてない状態で10袋も並んでいて、片手半くらいのに700円の値段がついていました。わたしの竹の子は皮が剥いてあり、アク抜きもしているのでわたしは一袋に680円の値札をつけました。
さて、売れるかどうか、結果が楽しみです。
そこはJA系の店なので、70歳近い女の主は組合長と呼ばれています。2年前に生産者との懇親会があり、会費2000円を払って、飲んだり食ったり、カラオケで楽しみました。その前に話し合いの場が設けられ、生産者の発言の場がありました。
「わたしが出品しても売れたかどうかがわかりません。システムを入れてスマホやパソコンで情報がわかり、売り切れていればすぐにでも持っていける体制にしたほうが良いのではないですか?」
わたしは質問しました。
「それはあなたが自分でやれば良いじゃないですか?」
組合長は答えました。
わたしはその答えの意味がわかりませんでしたが、組合長もわたしの発言の内容がわかっていなかったのです。
明治時代以前は、天皇など高貴な人が死ぬと(お隠れになった)という言葉を使った。その言葉を思い出すと、すごく興味深く日本という国の魅力をおぼえるが、それは自分が(お隠れ)になる年を控えているからであろう。何年後になるのか予想はつかないが(死ぬ)のではなく、(隠れる)のであればどこに隠れるのか(かくれんぼ)をするような期待感もある。蛇足であるがこの町の海岸べたに(かくれんぼ)というラブホテルがあり、よく利用させてもらったからそこに隠れることが出来れば幸福だと思う。
量子力学や超ひも理論ですでに証明されているように異次元世界は存在している。私達にはそれを受信できる受信機(テレビ)がないために見ることは出来ないが、わたしは心臓のバイパス手術後のせん妄状態の中で体験した。(観察室)という病棟のベットに寝ていたのだが、出入り口の先に公民館の受付窓口が見えた。茶色い板張りの壁に掲示板が見え、盆踊りの練習やソフトバール大会への誘いのポスターが張ってあった。わたしは確かに見たのだ。母の実家の近くを仕事で戸別訪問した後、公民館はどこにあるのか考えたことがあったのが原因だろう。
ところが白衣姿の看護婦達が何人も行ったり来たりしていて、おかしいな?と考えた。何日か後にいつもの掃除婦が来て、床のモップがけを始めたので聞いてみた。この近くに公民館はありますか?と。掃除婦は不機嫌な口調で、ありません、と答えた。わたしは自分の脳がおかしいと判断し、それに似たせん妄を一つずつ確認し頭の中を修正していった。
今ではもうそんな譫妄はないが、明け方に目覚めかけた頃、布団の周りを見回して人の姿をみることがある。パソコンデスクや束ねられたカーテン、ハンガーにかかったツナギ服などが人の姿に見え、恐くなることがある。妄想と現実が重なり合っているだけかもしれないが、異次元世界が見えたのかもしれない。パソコンの画像でも縮小し重ねることができるのである。
異次元世界をはっきりさせなければならない時代にきている。
ドイツ、フランス、オランダには(飾り窓の女)という世界があって、売春を国営にしている。合理主義が徹底しているのだ。日本には風俗業というのがあって届出をすれば売春行為の営業ができるようになっている。性行為はしないという建前だが現実はやっている。わたしもじゅうぶん活用させてもらったが、そろそろ売春防止法など撤廃して合法化すべきである。女性が身売りさせられて気の毒だという考えはわかるしそんな時代があったことは確かであるが、お金に切迫したり男が欲しい女はいるし、女が欲しい男もいるのである。性を否定することは出来ない。従軍慰安婦の問題におけるように強制してはいけないが、需要と供給がある限り、この世界はいつの時代にもどんな国にもあるのである。税収にも貢献する。
性の世界はむずかしいし、魔力があるゆえに怖い部分あるが、半端な性教育しかしていない現状では逆に悪い効果しか起こしていない。男が起こす殺傷事件やレイプ、セクハラなどの多くは性の不満足、性のストレスから起こっている。今、わたしはパソコン教室に通ているが、便利な反面複雑な操作に疲れる時がある。性教育もそうであり、性の世界もそうである。(性講座)でも設けて、まじめに性に取り組むことが若者にとっても大事なことである。
わたしが変わり者のせいでしょう、周りに変わり者と知り合うようになりました。傘をさして風呂に入る女は七十歳過ぎですが、その人が特定される可能性があるので詳しいことは書けません。彼女は亭主も一人息子も持つ普通の家庭の主婦ですが、五十歳前後から認知症にかかったようです。自分の家の屋根裏にドロボウが住みついていて、食堂間に下りてきて冷蔵庫を開けて肉や野菜を盗んで屋根裏でスキヤキを作って食べているとか、主人の飲む焼酎も飲んでいるとかしゃべるのです。天井板は主人にすべてガムテープを貼らせたり、家の周囲に監視カメラを何台もつけているのです。主人は定年退職していて、おまえは頭がおかしい、などと言うと彼女は道に出て金切り声をあげて騒ぐので主人も言うなりになっています。彼女の知り合いの女が認知症を指摘すると、ここには書けない差別用語を吐いて風評を撒き散らし、金切り声をあげて怒鳴りつけます。
被害妄想以外では普通の能力があり普通の生活をし暴力も振るわないので警察も手を出せないし、彼女は屋根裏のドロボウの件で警察にも相談に行っています。
「あの人は風呂に入る時は傘をさして入るんだってよ」
「ヘー、でもどうやって体を洗うのかしら?」
「傘をさしたままでは洗えないわよね」
「主人にさしてもらって入るのかしら?」
「どうしてそんなことまでするの?」
「屋根裏のドロボウが裸の体を見てるからよ」
などという女どうしの会話が一週間前にありました。
テレビとは不思議なもので、人には見えない電波を捉えて違う世界を観せてくれますが、その老婆の頭のチャンネルには一般とは違う世界が入っているのです。それは若い頃貧乏生活に苦しめられたこととかセクハラにあったとか、そんなことが引き金になって脳がノイズを起こし妄想世界を展開させているのです。故障した受信機(テレビ)なのです。本人はそのことがわからず、妄想世界の映像を観続けているのです。認知症の人がすごく増えています。わたしだって最近物忘れをするようになり、認知症に進むことが考えられます。本来、老死すべき者が生きていることが認知症の原因なのですから、安楽死を積極的に取り込み、死の価値を認めるべきです。
近頃、新しいことを発見しました。珍しいことではなく自分が知らなかっただけのことかもしれませんが、貴重なことでした。ここは閉鎖的な町なので噂が飛び交うので具体的な事例は書けません。
男女が異性に惹かれる場合、イケメンだとか美形だとか言ってさも顔形に原因があるように話しますが、わたしの場合、実際それが理由恋愛が成立したことはほとんどありませんでした。付き合いが始まり、いろんな打ち明け話などしている時、女がふと見せた表情にすごい可愛さを覚え心の中の映像に焼き付けられることがあります。それは一瞬ですが一瞬だからこそ凄い効果をもたらします。
人の心の風景を現すのは顔形ではなく表情なのです。現実社会や映画の中で素晴らしい景色に出会うのは自分の心と反応し合っているからです。人と出会って心が晴れ晴れするのもそれが原因です。散歩しながら鼻歌が出るような日がありますが、それは何にでも変えがたい時間です。
鳥羽一郎の歌う(男宿)をユウチュウブで聴き、いつも涙を流している。感情を抑えた歌い方もさることながら、淡々としたメロディと歌詞が素晴らしく、驚くべき素晴らしさである。なぜこんなに感動するのか考えるとしだいにわかってきた。
まず歌詞の内容がふつうの演歌とはちがう。わたしがこの女が好きだ、愛した、などはいくらでもあるし一般的であるが、この歌詞は、俺から逃げてあの男を愛せ、幸福になれ、と歌っている。自分の欲望を捨てきっている。歌詞の一行一行が散文的ではなく、飛躍し、凝縮されている。この作詞家は女性だが、女の立場でこんな詩が思いつくというのが凄いし、才能がある。その感性にわたしは惚れこんだ。
戦後に産まれわたしは三度の食事を食べられなかったことはない。戦争で数百万人が死んだ犠牲者の上で旨い飯を食い、高度成長期の波に乗って飲む、打つ、買う、の快楽を貪ってきた。欲望を満足させるのが資本主義であり、個人主義(私)の世界を謳歌してきた。
日本文学において、明治時代以前には(私)という言葉自体がないし、(わたし)という表現もない。世界的にも珍しい世界である。夏目漱石の憂鬱な表情を思い出す。手首を顎にのせ首を傾けた表情は資本主義を臓器移植された憂鬱さである。明治以前にそんな表情の人物画はないが、その時代から、原発で世界が滅亡するかもしれない時代になってしまった。
(男宿)を聴いて感動するのは、もうそろそろ(私)を捨て、(私)のいない世界があっても良いのではないか、ということである。若い日人は個人主義の欲望を満足させ、それがどんなものであるか経験することも大事であるが、60歳を過ぎたら自分以外のことにもエネルギーを向けるべきではないか。(私)も含めてあまりにも自己中心的な老人が多すぎる。