ブログ - 201203のエントリ
3月26日、仕事のために古賀市千鳥6丁目に入った。一戸建ての静かな住宅街である。バイクを家の外壁のそばに停め、住宅地図を片手に持ち集金かばんを肩にかけて訪問先を訪ねていった。訪問先は10軒に一軒くらいしかなかった。3軒に出会えた。一軒は主婦がドアを開けて現れ(主人に相談しないとわかりません)と言った。二件目は庭先で主婦が洗濯物を干していたので用件を伝えると、(わたしはこの家の者ではありません)と応えた。3軒目は外から帰ってきた主婦に用件を伝えると怪訝な顔をして家の中に消えた。
その日は昨夜食べたインスタント・ラーメンが胃にもたれ、むかつき、すごいウツ状態であった。3軒の主婦に拒否され、仕事がまったく嫌になっていた。
バイクを置いた場所に戻ると唖然とした。カゴに入れていた弁当、手袋、ペット・ボトル、ヘルメットが空き地に投げ出され、散乱していた。個人的な攻撃を覚え、やられた!と直感した。バイクは消えていた。盗まれたのだ。
交番が近くになかったので、110に電話した。軽のワゴンにのった警察官が到着した。被害届を書いて、JR駅まで送ってもらった。帰宅して、中古バイクを注文した。
翌日、JAに保険の再発行のために訪れた。ケイタイが鳴った。警察官の声でバイクが見つかった、という。うれしかった。バイク屋のオジサンの軽トラで交番にバイクを取りにいった。壊されたカギをなおしてもらい、もとの仕事に戻った。
犯人を想像してみた。夕方の明るい時間、止まっていたバイクの鍵穴にドライバーを入れ、こじあけている男。そばの家からバイクの持ち主が戻ってくるか気にかけただろうが、そんな不安を吹っ飛ばすほどのエネルギーの持ち主。バイクのエンジンがかかり、証拠物を投げ捨てて、走り去った男。一点に収れんされた危機感と緊張に快感を走らせていた男。
(怖いもの知らず)のその男のエネルギーに恐怖を抱き、また若い頃の自分を思い返した。私は被害者でありながら加害者に反転していた。
(切腹)をはじめとして日本人は死を肯定的にとらえていた。が、太平洋戦争で(死)を美化しすぎたせいか、西欧の人権民主主義に洗脳されすぎたのか(死)はあってはならないものとするようになった。そこで逆に悩みが高じてしまい、うつ病が蔓延してるのである。
(死んで良いのですよ)とか(今日は死ぬのに良い日だーアメリカ・インディアンの言葉)などのように自然体でうけいれるようになればかなり楽になると思う。けっして悲観的な意味ではなく、(終わり)をひきうけることはどんな人間にも待っていることである。そして、異次元世界へ旅立つのである。
こういう私も10年以内に旅立つであろう。さてどんな世界が待っているか楽しみである。
我が家にはTVが三台、PCが三台あるが、近頃YVからすっかり遠ざかってしまった。なぜだろう?と考えると、番組の方向性がどの放送局も同じで見飽きてしまってるのである。例えば天皇陛下が心臓のバイパス手術をしたことをどの放送局も新聞も取り上げ、さも心配そうに書き立てる、また言い立てる。何故、天皇制なのか?などと正面からきちんと向き合おうとしない。一部の有識者からは天皇のルーツは半島にあり、学者達も知っているが怖くてタブーにしてるという。右翼に襲われるかもしれないのだろう。
時代が大きく変わり始めているのにメディアは自分の方向性を持たなくなった。持とうともせずいかに視聴率を稼ぐか、しかも短期的にであるが、いかに無難な番組をつくるかしかしない。これでは面白い番組ができるはずはない。知名度と権威を築きあげたものは保守的にならざるをえないのである。
ネットによる市民の放送局が出来ているというが、(レア仲間)も仲間が増えればその方向に進みたい。
近頃、自分の青春時代を思い返すことがあります。体力の老化と今の時代の脆弱さがかさなりあって、1970年代の青春は今の数倍のパワーがあったことがわかります。時代にも自分自身にもありました。大学闘争の激化、と同時に新宿駅前広場に髪を長く伸ばし髭をはやした若者達がたむろし、座り込みぼんやりしていたりしていました。それが風俗になり、めずらしくもなかったのです。
ヤフーで検索するとフーテンについて、(仕事も学業もせず、ふらふらしてる人のこと)とでていまが、これは少し偏見が入っていると思います。確かに社会人からみればそのようにみえるでしょう。フーテンの生き方やファッションはアメリカのヒッピーから入ってきたものですが、日本人は外見をまね、熱しやすく冷めやすい民族といわれるようにヒッピーのように哲学・思想にまで深めなかったのは残念です。ヒッピーについては、(自然への回帰を主張し、伝統・制度などの既成の価値観にしばられた社会生活を否定する青年集団)と出ています。
今はニートやヒキコモリという形で発生していますが、社会から疎外された若者という点では共通しています。フーテンのもいくつかのタイプがありましたが、わたしが求めるタイプは次のものです。路上に座り込んで半眼を伏せ、目の前に自分の書いた詩集を値段をつけて置いている。一種の禅の坊さん、あるいは兼好法師のような人です。
わたしがパソコンの前に座って毎日ブログを打っているのもそれに近いものです。よくあれだけ書くことがあるな、と言われますが毎日毎日外に出るといろんな刺激を受け自分自身が(化学反応)を起こすのです。
前回ー1の続きです。
人間の精神の作用、反応が化学反応だとすれば、善も悪も、善人とか悪人とかの区別はなくなり、平等になる。感情も悲しいから雨がふり、冷たいから雪が降り、楽しいから太陽が輝くというふうに自然の感情と一つととらえればわかりやすい。。ボランティア活動だって犯罪行為だって化学反応だと考えればどちらも一つの活動にしかすぎず、裏表にしかすぎない。温和な人物が経済的に破綻し、怖い人格に豹変するケースをわたしは集金業務の中で何度も見せ付けられた。逆に凶暴な人間が経済的な恵みを受けて温和になったケースも見てきた。
なぜ地球上に春夏秋冬があり寒暖のちがいがあるのだろうか?差異が風や雨、雪などのエネルギーを産み、生命体として生きているからである。地球、自然は生命体なのである。こう考えると自然を汚染してはいけない、傷つけてはいけないと思う。その地球で10万年たっても消滅しない放射線物質をつくってはならないし、ケロイドで地球の顔を醜くしてはならないと思う。
だからどうだって言うの?と尋ねられれば、人間の尊厳なんてありはしない、ということだ。(霊長類)なんていう言葉もおかしい、(霊)が特別な階級だと言いたいのだろが。
2,3日間の毎日新聞はイタリアの哲学者を登場させ、民主主義は宗教にすぎない、という主張をとりあげた。やっとここまできたかと私は思い、次に登場する言葉は上記のタイトルにちがいない。人間の精神が物質の反応だとういうことになれば、危機感をもつのはまず宗教界である。神、仏が宇宙の中心として存在し、(犬、畜生)たちは劣等だといっていたことはどうするのだろうか?
精神安定剤や抗ウツ剤で心が安定したり、元気になったり興奮が抑えられること自体、物質の作用で心が動いていることではないか。もともと地球には生物は存在していなくて水や泥、岩などの物質しかなかった。その中からビールスが現れアメーバが現れ、植物、動物と進化していったにすぎない。もとをただせば物質だったのである。こう考えるとわかりやすい。
ヨーロッパのヒューマニズム、人権主義が人間の尊厳という思い上がりの思想をうみ、資本主義(金儲け主義)と相乗して繁盛していき、今にいたった。東北大震災が起こって、やっと現体制がオカシイことに目覚めた。
(物質に意志があるのか?)と問われれば、風が吹き、雨が降り、太陽が輝く、それらは物質の意志、
自然の意志ではないか。物質の作用ではないか。嵐が起こり、地震が起こるのは自然の怒りである。
だから、どうだというのだ?と問われれば自然の一細胞が人間にすぎない、と答える。そのように捕らえると人間、そして自分の立っている位置がかなりわかってくる。逆に人間の尊厳だとか(人の命は地球より重い)などという考えに振り回されると混乱してしまう。
私達はメディアや学校教育に事実を信じこまされているわけですが、それらとおして世間に現れ出ていることはほんのわずかなものです。世間から隠されていることや消されている歴史、書き換えられている事実はこの民主主義の時代においてもたくさんあります。64年間生き、仕事上世間を渡っているとそのことがじゅうぶんにわかります。
こんな世界があったのか?これが本当のことだったのか?などは決して公的な機関には出ません。例えば大きな借金をして返せなくなった場合です。弁護士に何十万円かを払い、自己破産の手続き・指導をしてもらう。偽装離婚して、別居するが、週に一度は帰宅し、妻と食事をし、自宅でくつろぐ。何年か経てば借金は消えてしまい、家にもどって昔どおりの生活をする。
こんなことは一つのケースにしか過ぎません。
耳学問、という言葉がありますが、それを通して世の中をみるとタイトルどおり、(捨てる神あれば助ける神あり)なのです。暴力団撲滅運動が盛んですね。この前、金融機関にいって口座を開こうとしたら、身上調査の書類にいろいろ書かされ、若い女の社員にいきなり(あなたは暴力団ですか?)とたずねられびっくりしました。まだ、若いのでマニユアルどおりの言葉を出したことがわかりました。なぜ、
いつまでも暴力団が存在するのでしょうか?
困ったことがあったら、ネットや本で調べることも良いのですが、それで分からない場合は耳学問に長けた人に聞いたほうがいいのです。すると、驚くような(事実)がわかり、(助ける神)に出会うのです。
訪問先の主人や主婦たちと世間話をすると、いかに生活が苦しくなっているかわかります。ところが反対に顔の整形手術をした美男、美女が増えているのもわかります。生活に余裕のある人が美容整形をしているのでしょうが、昔は(顔の化粧より心の化粧)という言葉がありました。化粧品業界にとってこの言葉はタブーでしょう。
就職口が少なくなっていることは確かです。社会を見回すと世の中にはこんな仕事もあるのかと疑問を感じることがあり、興味と好奇心をそそられますが、基本的には需要があれば仕事になるのです。困っている人、必要としてる者がいれば仕事になるのですから世の中から仕事がなくなることはありません。ベンチャー・ビジネスほこうして生まれるわけですが、その時代が要求しているものそして何に困っているのかを読み取った者がビジネスを産み、創業主になるわけです。
そこでよく考えると人権民主主義のいきづまりを感じ、新たな思想・哲学を必要としていることに気づきました。でもそれは思想本や哲学書ではなく、もっと身近な生活や遊び、フアッションなどから生まれてくるでしょう。
1970年代には(フーテン)呼ばれる人がいました。髪と髭を伸ばし、汚い服装で放浪する人です。そのスタイルがフアッションにまでなり、パンク・ロックや破れたジーパン・スタイルにまでなりました。
今の息苦しい時代がはやく終わり、新しい時代を待ち望むのは私だけでしょうか?
吉本隆明氏が亡くなり、彼の功績が新聞に二日つづけて報道されました。これから彼の本が売れることでしょう。
私は団塊の世代で学生運動の盛んな頃に青春を送った者ですから、彼の著作を題名にひかれて読みました。(共同幻想論)や(言語にとって美とは何か)など今でも興味をそそられるタイトルですが、どんな文章があるいは何が印象に残っているかと考え直すとまったくないのです。もと学生運動にまい進した人にその話をすると、彼はコピー・ライターなんだよ、とこともなげに答えました。なるほど、と私は納得しました。当時、私はサルトルの(聖ジュネ論)だとかカフカの評論だとかかなり難解な本を読み、すごく感銘を受けたのですが吉本隆明氏をはじめとする日本人の評論にはほとんど感じ取るものがありませんでした。彼は新聞には思想家である、と書かれているのです。外国人がどのように評価してるかの記事はありません。思想家とまでいうのであれば外国でも評価されるべきでしょう。
メディアは教祖を絶えず生産しなければ商売にならないのです。・・賞をもらった時(もらってやる)と作者が言ったとかを書き立て、小説家の顔写真までのせるが、のせる作家の心理が私はわかりません。メディアも作者も同じ穴のムジナなのでしょう。
ともかく私達は(子供手当て)に惑わされたりして、一生、業界の力にふりまわされるのでしょうか?
10年ほど前に集金先のおばあさんからこんな話を聞きました。彼女は30歳も年上の男性と結婚したために、先立たれ、女手ひとつで娘を育てることになったのです。旅館の仲居さんをしながら、住み込みで働いたのですが、4歳の娘が彼女の言うことをなかなか聞かずにグズっていました。
それを同じ仕事仲間の女性に話すと、(言うことをきかないから子供なのよ)といわれたのです。
私にはこの言葉が今も頭の中に残っていて、その言葉は真実を言い当てていると考えます。
親の気持ちがわからないから子供であり、子供の気持ちがわからないから親なのです。
男の立場がわからないから女であり、女の気持ちがわからないから男なのです。
国民の気持ちがわからないから政治家であり、政治家の気持ちがわからないから国民なのです。
相手の気持ちや立場がわかった時、親子、男女、政治家、国民の区別はなくなり、言葉さえちがうものにかわっていくでしょう。
暑さがあるから寒さがあり、寒さがあるから暑さがあるのです。暖かい時期、男と女が融和しあう時期、子供と親が共感しあう、国民と政治家が理解しあう時期はほんの短い期間しかありません。
そんなふうにとらえると意外に理解しあえるのではないかと考えました。