ブログ - 201303のエントリ
今、住んでいる家に越してきて半年ほどになります。友達に(電車の音がうるさくて気になるよ)と言われましたが、わたしは逆に(心)を感じるようになりました。さきほど22時半頃、庭にでて立ち小便をしていると、博多のほうに向かう電車がそばの海老津駅を離れてゆっくりと加速をつけていました。車体をライトに明るませ、パンタグラフをキュウキュウ鳴らし、フエーと息をついてガッタンガッタン(さあ、もうひとふんばりだ)と言いながら消えていきました。
特急電車が元気いっぱい、走り去ることもあります。まるで中学生の子供のようなさわやかさです。
コンテナを30台も引きずる貨物列車が重苦しげに走ることもあります。大きな息を響かせています。またあの電車だな、と気づいて時計を見ると夜の11時過ぎです。その喘ぎがあまりに人の人生を思わせるので駅に寄った時に(貨物列車の時刻表はありますか?)と聞いてみると(ふつうの電車の走る合間をぬっているので特にありません)という返事でした。
ほぼ15分くらいの間隔で電車は走ります。わたしの部屋から50メートル先ほどの高台を一日中走っていますが、自分の友達のように思えます。
昨年の5月に入院し、心臓の冠動脈にステントを入れてカテーテル治療をしました。1時間後に心筋梗塞を起こし、緊急治療をして、死なずにすみました。心臓血管外科でバイパス手術をするしかない、という医者の判断で大きな病院に行き、心臓にできた瘤の修復、弁の入れ替え、バイパス手術をし、3週間ほど入院しました。10ヶ月後の現在、心臓の収縮力は常人の80パーセント弱に回復し、日常の生活が出来るようになりました。胸の中心に縦に手術の跡が残っていますが、麻酔がかかっていたために手術の記憶はいっさいありません。
あの手術は今でも偉業だと思い、心臓外科医は驚嘆すべき者だと感心しています。胸の肋骨を切り開き、人工心臓と人工肺にどのように接続して心臓にメスを入れたのかわかりませんが想像するだけでも身の毛がよだちます。暴力団でもヒットマンでもしり込みするような仕事だと思い、執刀医に(恐くなかったですか?)と聴いてみると(若い頃はそんなこともありましたが、患者さんが感謝してくれるのでそれがわたしの支えです)という返事が返ってきました。
時々、自分の心臓の具合が気になります。右の手首に指を当てて、脈が規則正しく打っているか不整脈がないか自分で診てみることがあります。脈拍はいつも90ほどあって速いのです。これは心臓の打つ力が十分ではないので速く打つことで血液をすみずみまで流そうとしているのです。
心臓、っていう臓器は不思議なものですね。ふつうは気にかけない存在だし、肺みたいに自分で吸ったり吐いたりも出来ない。頼みもしないのにかってに鼓動をくりかえし、止まった場合は叩いたり電気ショックを与えれば動き始めるという。これは何のなせる業なのか、想像が出来ない。人間をはじめすべての動物は心臓をもち、心臓の鼓動とともに(生)を受け、その停止とともに死んでいく。
現在、この時間に、地球上の数十億の人間達、無数の動物達が心臓の鼓動を打ち、宇宙に響いていることを想像すると言葉がでない感動を覚える。超人的あるいは神のなせる業だと考えるのはわたしだけでしょうか?
わたしは岡垣町の海老津駅南口開発に反対しています。そこに道路を作ったり地下道をつくったりしても利用者が少ないことは目に見えています。血税をドブに捨てる、というよりコンクリート行政で自然を破壊するだけです。町の議会に傍聴に行きましたが、結論として町長、議員、職員達は金(自分達の生活)のために動き、町民の目線がないことがわかりました。5千人の反対署名があることは忘れているようです。議論の内容もあらかじめ作られたデキレースで、真剣さがないから緊張感もなく退屈というより疲れるいっぽうでした。
そこで(金で動く時、心で動く時)というタイトルに思いついたわけです。こんなわたしはこれまで働き、つまり金で動いてきました。心で動いたこともあります。それは両親、恋人、友達、息子たちのための場合で、皆さんと同じです。今のわたしの行動はまったく金にはならないし、人のために動いているわけでもありません。自然な行動です。
道路をつくるために、金比羅山のヒノキが数百本もなぎ倒され、地面が削られて赤土がむき出しになっています。山の五分の一はなくなるでしょう。山の入り口と頂にあった神社の鳥居、二体とも倒されました。ユンボのエンジンの音が朝早くから夕方まで一日中響いてきます。自然を破壊する音、響きは騒音というより気持ちがおかしくなりますね。この騒音は二年間続くそうです。
人は生活のために働き、金を稼がなければならない。これが今の時代、資本主義なのです。(心で動く時)は金と生活に余裕のある時ですし、わたしには今その余裕が少しありますからこんなことが言えるのでしょう。(金で動かなければならない人)のためにも(心で動くこと)を少しでもしたいと考えます。
中公新書・金森修著「動物に魂はあるのか」を半分ほど読みましたが、西洋の哲学者の書いた著述の紹介が多く論点が絞られていないので中断しています。このテーマについては私も関心が深かったので自分なりの考えを書いてみたいと思います。
歴史は動物から人間に変化したわけですから、動物にも魂はあります。しかし、動物と人間はとりまいている環境がすごく違うので人間的な観点から見た魂ではなく(自然)に基づいた魂なのです。人間のそれよりはもっと純粋で厳しいものです。かれらは唸りや叫びまたは体から出る波動やテレパシーでそれを表現し、理解します。だから嘘や偽りはありません。人間は言葉や表情で現すのでごまかしがあります。人間は子供から大人になる期間が長いので、その間家庭や学校で昔の人間の生活や考え方・文化などを学び情緒や感性をみにつけ、人間特有の魂・心を育てていきます。動物は考え込んだり物思いにふけったりしていると敵に攻撃されて命を失うので、魂にひたることは生体のシステムとしてありえないのです。もし自分の子供が殺されて悲しみにふけっている親鳥がいたとすれば敵の格好の餌食になってしまいます。だから魂があっても発現できないのです。人間は自然界で一番強いからその余裕があるというわけです。
それに自然の動物界においては精神障害や依存症は成立しません。ここに現代の人間の精神の病の根源があり、自然界のなかにその治療・回復のヒントが潜んでいます。
以上は野生の動物について述べたわけですが、ペットの犬や猫は人間以上に心があります。同時に人間並みの精神障害にもおちいります。野生の動物にはありえません。
(魂)という言葉はキリスト教にもとづいており、それを信仰しているかいないかで左右されているので偏向性があります。信仰しない者は邪教徒でありサタンなのです。(動物に心はあるか)というタイトルのほうが適切ですし、(物質には心があるか)というタイトルも面白いと思います。風に震え声を出すトタン板や風に擦れあう竹林のそよぎは心を現していますし、音の表現で成り立っているのは音楽の世界です。ベートーベンの第九などは思想そのものを訴えてきます。
自然を見習い、もっと自然を知り、自然から知恵を学び取ろう、というのが教育の原点であり、私たちが向くべき方向なのです。自然を破壊することは人間を破壊していることです。
一寸の虫にも五分の魂、という言葉が東洋にあります。東洋思想からこのテーマに取り組んだほうが
もっと理解できるのではないでしょうか。
700坪の土地に引っ越してきて4ヶ月ほどになります。晴耕雨読の生活を送りながら、この土地で余命を終えると思えば感慨深くもあります。畑地は100坪弱あって、今は毎日夏野菜に向けてスコップやクワを振るっています。天地返しをした畑に石灰、牛糞、鶏糞、米ぬか、化学肥料を混ぜ込みました。トウモロコシ、ネギ、ホウレンソウ、枝豆、大根、ミズナの種をまき、ショウガとジャガイモを植えました。畝の間で繁殖した雑草をトウグワでかきとり、種をまいた畑に自家水の水をかけました。我流で始めた畑作りもなんとか波に乗り、今後は畑を休ませることを考えました。畑地の半分を一年間休ませるわけですから、夏と春に収穫となるので4分の1が対象になります。そこは収穫の後ですからスコップで耕し、石灰をかけて、黒いブニールをかぶせます。昨年の10月にタマネギを植えたのですがマルチ栽培にしなかったためにすごい面倒をつくってしまいました。タマネギより雑草が元気よく伸び、タマネギは雑草の中に埋もれてしまい、除草するのに苦労しました。水や肥料がやりにくくなるので直接植えたのですがそれが失敗でした。苗ものは基本的にマルチ栽培にすべきですね。
鳥の被害が増えました。絹さやインゲンのサヤがいつまでも出来ないので不思議に思っていると、鳥が花を全部食べていました。花の部分がすべて食いちぎられているのです。次に気づいたのはキャベツの葉が虫食いだらけになり、無残な姿をさらしているのです。青虫に食われたと思ったのですが食べ方がどうもおかしいのです。よく観察して見るとまだら状に食われているのではなく筋だけを残して食われているのです。野鳥がつついて食べたのです。が捨てるのはもったいないので食われた部分を切り捨てて、中の部分を生で食べました。
鳥達が外の葉を食べ、私が中味を食べたわけですから、いっしょにキャベツのご馳走になった、というわけですね。これが共生なのかなと思いました。柿の枝に止まったカラスや鳥達は耕した畑に降りてきて、地面の中にいた芋虫や蛾のサナギを探しているのですが今年はそれらをほとんど見かけません。人間の起こす環境破壊のせいですね。