ブログ - 20111113のエントリ
イノシシや熊が人家に降りてき、食べ物をあさったり人を襲うことは日常的になってしまった。ハンターに撃たれて死体を写真でさらし、無残な姿を見せつけられ、そこに哀れみをいだくのは私だけでしょうか?かれらがいったいどんな悪いことをしたというのでしょうか?人間達に自分の縄張りを侵略され、すみかも餌もなくなり、どうしてくれるのか!という怒りを私は感じる。
そこでかれらは人間を襲い、無差別テロに走るのです。
私達はその警告に耳を傾けなければならない。共存共栄なのです。
隣の農家の主人は機械で田植えを終えると、あぜ道に除草剤をまきます。草が枯れて無残な姿を見せます。毒を使って植物を殺戮をするのです。それを草刈り機でかりとり、キレイにします。彼は毒が水生昆虫やカエルなどを殺すことを考えないのでしょうか。さらに稲にしみこんで人の口のなかに入ることを考えないのでしょか?ともかくキレイになればいいのでしょうね?
キレイキレイの発想が自然を破壊しているのです。春秋のいい気候のときに車のドアを締め切り、エア・コンで除湿をする人はその行為が地球のオゾン層破壊になっていることを考えないのでしょうか?
えらそうなことを書きましたが日常生活から変えていきたいと思います。
一宿一飯とは江戸時代の侠客の世界にあった制度である。不始末を犯した者が家出をし、宿も食い物もないとき、初めての侠客一家を訪れ、仁義を切って、一宿一飯に預かり、その恩義ゆえに一家と対立する敵方を殺すこともあったという。ヤクザ映画に出てくる(義理と人情)の世界だが、知人もいったがある意味で福祉制度でもある。見知らぬ者を泊め、食事まで出す制度や習慣が今の世界にあるだろうか?わたしの知ってる範囲内ではないのです。この(人権、民主主義)を標榜する時代にあってですよ。
戦争に負けたからといって、何でもかんでも壊されてしまったことがこれでわかります。封建時代といいながらもそこには(あわれみ)という情緒があって福祉やボランティアに代わるものはいくらでもあったのです。(すべてか?無か?)という欧米の直線理論的思考に支配されるとこのようになってしまうのです。
民間でホームステイと言う名で一宿一飯を実行してみてはどうでしょうか?夢かもしれませんが、それが実行できたとすればこの日本はすごく住みやすい国になり、幸福度においてブータンをこえるかもしれません。
戦争や自然災害、火事の現場には凄まじいエネルギーの爪あとがじゅうぶんに残されている。新聞や週刊誌に写真が掲載されると、読者は驚き嘆き、自分にふりかからなかったことに安堵する。日常が非日常に変り、隠れていた世界が現実感をこえてあらわにされ、潜んでいた物の正体を見せつけられてしまう。想像力を超えたエネルギーが読者に迫り、ヤワな芸術家の創造力などあしもとにも及ばない。あの福島原発の被害現場。ビルの屋上に大きなフェリーボートが載っていたり、ビルの窓ガラスがすべてなくなり、きれいな壁が無数の爪で引っかかれていたり、まさに悪魔の仕業としかいいようがない。
(ダリの絵)を思い出したのは私だけであろうか?
(芸術は爆発だ!)と叫んだ画家がいたが、(芸術とはエネルギーの表現だ)とわたしはおもう。エネルギーのさまざまな色合い、力を簡潔にあるいは微妙に表現できるものが芸術家であり、そこには善悪などの既成概念は入り込まない。
すべての人間、どんな人間でも、こんな私でも、さらに動植物、物はエネルギーをもっており、それはとらえ方加工の仕方で芸術になりえると考える。その意味でもそれらはすべて平等である。(一粒の麦も死なずば)(一寸の虫にも五分の魂)などという言葉はそのことを言い当てている。