ブログ - 201211のエントリ
遠賀郡で今反対運動が起こっている。現町長が次期の当選を狙って以前からストーリーを組み立てていたのだが、E駅南口開発の事業計画を持ち出し,建設業者に21億円の金をばらまき票をとって次期町長として居座ろうとしている。彼が言うように南口を開発し、金比羅山のノリを削って道路を作り、地下通路をもうけ、駅前広場をつくったとしても利用者はいない。わかっていながら彼は支持団体に操られているだけである。はっきりいってしそんなことはどうでもよく、納税者の懐から金をかすめとればいいのである。有権者の20パーセントが反対の署名をしていても操り人形は意に介しない。
反対運動を起こした女性議員がいて一生懸命に活動をしている。スーパーマーケットやE駅前で市民に呼びかけていて、無償の運動員が頑張っている。かれらは日当が出るわけでも交通費が出るわけでもなく、自分の主張を通してもらうためにビラを配り、開発の理不尽さの説明をしている。女性議員は町長選に出るつもりであるが、運動員は(これは女性議員のためではなく、自分のためであると考えている)から無償の行為ができるのであり、これが本当の選挙活動である、と考える。日本の場合、選挙活動に金がかかりすぎるからあとで取り戻そうとして(利権)に走るのである。
わたしは恐がりやで、小学校の頃から夜トイレに行くのが恐かった。幽霊は本当に存在していて、部屋数の多い我がボロ家、そのトイレに夜遅くもちろん一人でだが行き用を足すことは苦痛であった。二年前、63歳のときだが、その時は小便をして便所からもどり自室に入る戸を開けた時、背後から右の背中を掴まれた経験をした。その感触はまちがいなかったのである。
物理科学に詳しい知人から、(霊とはエネルギーだよ)と教えられて、なるほどと思い、自分なりに考えを推し進めていった。(霊とはエネルギーの残りなのである)と近頃かんがえるようになった。例えば普通の生活でも談笑していた相手が去った時、その椅子にはその人の体温とか匂い、つまり余韻が残っていますよね。それがエネルギーであり、(霊)なのですよ。ある人が部屋で孤独死したとすればそこには(気配)が残っている、それが霊なのです。そう考えると別に特別なものではありません。
幻想、幻覚、宗教の世界も霊的なものである、と考えます。ある意味で人間の聴覚、資格、味覚などの感覚器官は幼い頃から世間常識に教育されて出来上がったものです。この臭いは臭いものである、とかこの味は美味しいものである、とか、この景色は美しいものであるとが、この曲は心地よいものであるとか、植えつけられたものにしか過ぎません。ある時、夢や半覚醒状況において物事を感覚器官を通さずに感じ取ったとき、その世界の臨場感、素晴らしさに驚かされてしまい、虜になることさえあります。それは既成概念に毒されない純粋世界なのです。この世界にはまった人が信者であり、それが私たち一人であっても不思議ではありません。
宗教のない時代はないし、宗教のない世界はありません。その意味でわたしは宗教を否定する気はありませんが、一神教だjけは否定します。
前回のブログ(民主主義でなくて金権主義である)で書いたように政治家は支持団体の利益に操られていて本当の政治が出来ない、というより最初から支持団体が立候補者を選んで操り人形を作り自分達の既得権、利権どうりに動かしている。
政治に無関心な人が多く、投票率は60パーセントくらいであり、それが彼らの仕事をさらにやりやすくしている。有権者の30パーセントくらいの票を取れれば当選するのである。政治に関心を持ち、胡散臭い立候補者を見分けることの出来る有権者がもっとたくさんいて反対票を投じればこんな状況はできないのだが、(誰がなっても同じ)だとか(自分には関係がない)(投票なんて面倒くさい)などと棄権をする人が多すぎる。
まわりを見ても選挙だけではなく、生活の中でも自分の意志を表示しない人が多いのではないか?それが社会や政治、文化をダメにしている。
健常者とはこの世のシステムとルールに基づいて生きている者である。自分の感覚器官の反応が良い匂いだとか美味しいとか気持ちよいとか、生まれた時からテレビづけシステムづけで調教されたとおりの反応形態で育てられた者(教育である)たちである。
ある時(暴走族)になり、信号なんて無視して走ることがどんなに楽しく、同時に交通ルールなんて車の走らない砂漠にはありえない、と気づいた時、現実世界がはっきりと見えてしまう。感覚や常識概念を通さないでこの世が直接的に見えた時、世界の本当の素晴らしさがわかる。それは動物達の目の輝きであるが、私たちは常識概念にしたがって生きることのほうが理にかない素晴らしいという既成概念に死ぬまで浸ってしまう。それは大多数の考えであり、(多数決原理)なのである。人権民主主義の産みだした多数決原理は教義・教祖になってしまった。内実は一部の資本家・金持ちが支配する金権主義であるのに世襲制に基づく封建主義であるのにうまく騙された。歴史は何百年後かにこのことに気づくであろう。
私の知人に更正施設に入っている人がいます。すでに何十年のもわたって真面目に軽作業をし、個室で生活をしているのです。2、3年前まで、(施設を出て、社会で働きたい)と私に訴えてきました。私はそれは当然の希望だと思い、いろいろ彼の将来について思案しましたが、あることに気づきました。(あなたの希望は身にしみてわかる。わたしはいちおう健常者として生きているわけですが、あなたが施設を出て健常者の世界に入れたとしても、常識概念にとらわれて生きている限りそれは精神の牢獄なのですよ)
私はその言葉に気づきながら、言葉には出せませんでした。
(自然が人間に復讐する)という考えは別に目新しいものではありませんが、今晩NHK教育テレビを観てわたしは実感しました。(地球ドラマチック)という番組で、植物の生きる知恵を取り上げていました。昆虫に受粉してもらうためにどんなにキレイな花になろうかと工夫したり、花の姿をメス蜂に似せてオス蜂を呼び寄せたり、養分の不足がちな水生植物がプランクトンをひきよせて食べたり、それは動物に劣らぬ生き方でした。
タバコは葉が虫に食い尽くされそうになったら大量のニコチンを出して、虫たちを退散させていました。ところがある種のスズメ蛾はニコチンへの抵抗力が出来て、タバコの葉に卵を産み、その幼虫が盛んに食べ始めました。するとタバコはあるフェロモンを出してカメムシを誘い、呼びつけました。カメムシたちはつぎつぎに訪れて大好物のその幼虫を食べていったのです。
植物にも人間と同じく意識があるのです。ということは除草剤や枯葉剤を使って草を殺している人、そしてもしかしたらいつも草むしりをしている人に対して草たちはどのように思い、考えているのか想像がつきますね?
かれら、いや自然自体が自分達を破壊する人間を敵とみなし、人間が感じ取れないうちに反撃しているということはおのずから考えられることですね。
尼崎の大量殺人事件がマスコミに取り上げられているが、事実関係は少しずつ明らかにされていくであろう。64歳の容疑者が身内を監禁しあるいは一派の身内を使って監禁させ、暴力をふるって金を脅し取っていたという、特異な事件である。他人が対象であるなら理解も出来るが相手が身内であるということが理解できにくい。脅迫されそうになったら逃げれば良いのにと思うが身内同士の関係が出来ていてそうも出来ないのであろう。
わたしはそこに加害者と被害者の共感関係(?絆)を感じ取る。それは(きずな)なのである。殴ったり殴られたり、イジメたりイジメラレたり、議論で攻撃したりされたり、加圧と負圧の物理的関係がそこに生じる。人間は物質で構成されている以上、そこに社会規範である(暴力は悪であり、いけないことだ)という考えあるいは殴られた腹立たしさとは別の親和力が生じているのである。触れ合ったことによる物質(原子や素粒子レベルにおいて)どうしの親しみが生じ、離れられなくなってしまうのである。わたしは労働組合の役員をしていて、ある管理職と団体交渉を何度もしたことがある。激情型の性格であるからここでは書けないようなことを言ったが、その管理職は転勤の際にお礼状を送ってきた。わたしは驚き、彼を尊敬した。(あなたは管理職としてふさわしくない)などと人前で何度も罵倒された彼を(腹があるな)と認めなおし、電話を入れたり、年賀状も送るようになり、他の管理職よりも親しくなったのである。
電車の中で痴漢をうけそうになった女性がいつまでも加害者から離れなかったり、チンピラから因縁をつけられた者がその(磁場)に取り込まれたりすることがある。こんなケースの場合は被害者と加害者の共感関係にあるという原理を用いないと説明ができない。こんな話を聴いたことがある。山奥を歩いていて、ある光景を見た。傷ついた小鳥が飛ぶことも出来ず逃げようとしていた。マムシに追われて、足を引きずりながら必死でヤブの中に逃げようとした。マムシは舌をチョロチョロさせながら体をくねらせ、迫ってくる。
小鳥は逃げていたがいつの間にかマムシのほうに寄っていき、ついに口の中に入ったという。
尼崎の大量殺人事件の関係者達はこの(磁場)の中で(きずな)が出来上がってしまったのである。そのようにわたしは分析する。