ブログ - 201111のエントリ
一宿一飯とは江戸時代の侠客の世界にあった制度である。不始末を犯した者が家出をし、宿も食い物もないとき、初めての侠客一家を訪れ、仁義を切って、一宿一飯に預かり、その恩義ゆえに一家と対立する敵方を殺すこともあったという。ヤクザ映画に出てくる(義理と人情)の世界だが、知人もいったがある意味で福祉制度でもある。見知らぬ者を泊め、食事まで出す制度や習慣が今の世界にあるだろうか?わたしの知ってる範囲内ではないのです。この(人権、民主主義)を標榜する時代にあってですよ。
戦争に負けたからといって、何でもかんでも壊されてしまったことがこれでわかります。封建時代といいながらもそこには(あわれみ)という情緒があって福祉やボランティアに代わるものはいくらでもあったのです。(すべてか?無か?)という欧米の直線理論的思考に支配されるとこのようになってしまうのです。
民間でホームステイと言う名で一宿一飯を実行してみてはどうでしょうか?夢かもしれませんが、それが実行できたとすればこの日本はすごく住みやすい国になり、幸福度においてブータンをこえるかもしれません。
戦争や自然災害、火事の現場には凄まじいエネルギーの爪あとがじゅうぶんに残されている。新聞や週刊誌に写真が掲載されると、読者は驚き嘆き、自分にふりかからなかったことに安堵する。日常が非日常に変り、隠れていた世界が現実感をこえてあらわにされ、潜んでいた物の正体を見せつけられてしまう。想像力を超えたエネルギーが読者に迫り、ヤワな芸術家の創造力などあしもとにも及ばない。あの福島原発の被害現場。ビルの屋上に大きなフェリーボートが載っていたり、ビルの窓ガラスがすべてなくなり、きれいな壁が無数の爪で引っかかれていたり、まさに悪魔の仕業としかいいようがない。
(ダリの絵)を思い出したのは私だけであろうか?
(芸術は爆発だ!)と叫んだ画家がいたが、(芸術とはエネルギーの表現だ)とわたしはおもう。エネルギーのさまざまな色合い、力を簡潔にあるいは微妙に表現できるものが芸術家であり、そこには善悪などの既成概念は入り込まない。
すべての人間、どんな人間でも、こんな私でも、さらに動植物、物はエネルギーをもっており、それはとらえ方加工の仕方で芸術になりえると考える。その意味でもそれらはすべて平等である。(一粒の麦も死なずば)(一寸の虫にも五分の魂)などという言葉はそのことを言い当てている。
23年1月、3月と狭心症の治療のため、入院しました。40年ぶりの入院だったので、病気のことよりも病院じたいに興味が湧きました。濃い化粧の女の人達が動きまわっていて、・・店に入ったみたいで病室も明るく、刺激的でした。1月は一ヶ月間すごして風船治療をしてもらい、3月はカテーテル治療をしてもらいましたが、あと2本問題のある血管があるということでした。患者さんとの人生談義も面白く、看護婦さんたちとの雑談も面白く、病院生活が楽しく、退院するのがいやになりました。
カテーテル治療を終えて手術室から出た時はベットに寝たままで看護婦さんが病室まで搬送してくれ、着くと看護婦さんたちがわたしを取り囲んでくれ、VIP並みのお迎えでした。その中で私をマイ・ダーリンと呼んでくれた看護婦さんがいて夜の巡回の時、私のベットのそばに立って、寝ている私の手を握ってくれ、(こんなときなんて言ったらいいのかなあ?)って聞くと(マイ・ハニーっていうのよ)と言われそう返しました。うれしかったです。
退院の日の朝、彼女は夜勤勤務で疲れ、(お腹がすいた)っていうので(あなた憔悴した顔してるからボクの車で送ってあげようか?)って聞くと、(明日はおばあちゃんちに用事があるけん)とこたえ、(どうせまた病院にくるやろう?)って言う言葉を残し、手を握って別れたのです。
その言葉は私の病状を予期しての言葉なのか期待感なのか思い迷いますが、もしかしたら顧客としての言葉かもしれません。(マイ・ダーリン)と呼ばれる日を心の底で待っている自分がわかるのです。
人間や動植物には生存本能、繁殖本能があります。植物にも知性、意識があります。それは変だと思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、例えばヒッツキボウです。野原を歩いているとズボンに種がくっついてあとで取るのに苦労したことがあるでしょう。種が遠くに運ばれ、地に落ち芽をだすことを考えてあんな形になったのです。ということは植物が(思考)したのです。人間のはくズボンは綿であり、動物が毛で覆われていることを知っているからそれらに引っ付きやすい形にしあげたのです。人間が違う種類の衣服を身につけるようになればヒッツキボウの形もかわっていくでしょう。
人間、動植物、生命体、それらの意志と意識の総和が自然の意志、意識になり、ベクトルを持つとおもいます。その中でかれらの生存、繁殖を脅かすものが人間だとなれば、人間は人間自身と自然のベクトルから攻撃されます。それは大流行しているウツ病や自殺、暴力、戦争というかたちになって出ているのです。わたしは宗教を否定しますが、この自然の意志と力は信じます。
量子力学に詳しい男から、(シュレディンガーの猫)の話を聞き、驚いたことがあります。致死性の毒ガスがいつ充満するかわからな箱の中に猫を閉じ込めます。この猫は今、生きているでしょうか?死んでいるでしょうか?と問われた時、生きてもいるし、死んでもいる、とシュレディンガー博士は答えたのです。西欧哲学には直線理論的な傾向が強いとおもっていたのですが、(矛盾・対立するものが同居する)この答えにわたしは東洋的な思想をかんじたのです。
私達は日常生活において(白か黒か?)の二者択一的な考えをもたされていますが、実態は矛盾・対立するものが重なり合い同居していると思います。人間は生まれてから死に向かって成長していく、とか、崩壊へ向かっての経済成長だとか例えを出せばいくらでもあります。(人生、塞翁が馬)ということわざはまさに東洋哲学です。今の自分の状態が良いのか悪いのかは断定できず、視点をかえることによってどのようにでも変るのです。例えば病気で悩んでいれば健康に気をつけるようになるでしょうし、病気をしたこともない人だったら健康の価値もわからないものです。
今の状態をいろんな視点から見れるようになれば力強い生き方ができるようになります。
高校の物理の時間に(慣性の法則)というのを習いました。物質には一つの状態を保とうとする習性がある、というのです。これを人間に置き換えてみます(昨日、ある会での討論で、私は人間を特別視せずに物質と定義づけたほうが理解しやすい、と発言し不審を買いました)と、散歩してる状態、休んでいる状態、働いている状態、といろいろありますがその状態を保とうとする習性があることはまちがいありません。その法則から人間の生活・行動を分析するとよくわかります。
ガルシア・マルケスの(予告された殺人の記録)という小説にそのことがよく書かれています。ある男が殺されるという状況の中にあり、まわりの人間達から噂され予告されながら誰も何もすることが出来ずしようともせず、殺されてしまうという作品です。流れは(慣性の法則)のまま止まらなかったわけですね。
こんなことは日常生活によくあります。(わかっちゃいるけど止められない)という言葉もありましたね。
私がいつまでも貧乏でウダツがあがらないのもやはり(慣性の法則)なんでしょうかねえ?
ギリシアのデフォルト危機が遠ざかったとテレビが言ったとおもったら、今日はイタリアのデフォルト危機のニュースである。マスコミは大きな視点から見ずに、事実を報道するのが仕事であろうがこれでは毎日毎日が危機ばかりになってきそうな予感がする。
単純化していえば(地球の資源は一定である)のに人類が食い尽くしていってるということなのだ。民主主義という政治体制がそれに輪をかけ、国民に餌をばらまいて多くの票をとると言う構造だから始末に悪い。餌はもともと税金であるから、タコが自分の足を食べて生きていたが最期には心臓を食べなければ生きていけなくなったようなものである。そうなると自殺である。
簡単にいえば地球の資源と均衡のとれた世界人口が求められるということではないか。
23年11月5日。久しぶりに弟と(カレーの路)に寄って、カレーライスを食べ、美味しかった。そこで話が弾み(写真家は景色の中に絵を見つける)という言葉がわたしの口から出た。日頃、考えていた言葉であったが、わたしは店内を見渡し、被写体を見つけず、目の下に空になった皿を発見した。よくみるとスプーンでかき回したカレー粉の跡が虫がはったような蛇行を見せて残っていた。弟の皿も同じであった。そうだ!と考え、この二つの皿をアップで写し、笑顔の二人を撮れば良い写真が出来る、と考えた。特別な地域に行かなくても被写体はまわりにいくらでもある。
(審美眼)という言葉を高校時代に習ったが、審美眼を失わずに生きていこう!
この言葉に強く惹かれたのは日頃考えていることを公理じみて表現しているからであった。ネットでも検索できるが、物事を反対に転じて重ねてみると正反対に見えていた物事がぴったりあてはまるということなのだ。たとえば鍵と鍵穴、指と手袋。手袋は指に入れられるほうであるが入れられる方を引っ張り出してみると入れる形にかわり、どちらも実は同じ形ということなのだ。
世の中の人や動きをそのような視点でとらえてみるとスッキリわかる場合がある。私は高校時代から、両極端は一致すると考えていたが、それは反転対称形という言葉に似ている。
例えばある夫婦の場合である。夫は飲む、打つ、買うの男で先祖の資産を食い潰した上に借金まで残した。妻は働き者で必死で働いて夫の借金を返した上に、息子達を大学にやり資産まで残した。夫婦とはみょうなもので相手に不足している部分は片方が補うという形をつくっていく。その夫が真面目な男で働き者であれば妻は働き者になる必要はなかったが前記のようなタイプであったから妻は必然的に働き者になったのである。そのようにして鍵と鍵穴は複雑なギザギザ模様をつくって形をなしていき、それは善悪の入り込めない物理化学的現象なのである。そのように分析すると夫婦の形はクモがはる網みたいにきれいなものに見えるし、方程式で表現することも可能であろう。
23年11月4日。きょうは夏のように暑い日でしたね。私は仕事に出るとき、寒さに備えて防寒・防水ジャンパーにズボンというスタイルでバイクにのりました。走っているときに暑さは感じなかったのですが、福津市手光の現場について歩きながら個別の家の点検を始めると上半身が蒸してきました。バイクにのって次の現地まで走ると風が吹いてきて(?)涼気を感じました。
おかしいと思ってバイクを停めると風は止むのです。また走り始めると風が吹いてくるのです。
実は風は吹いていなかったのです。バイクが停滞した大気の中を走ることで風が吹いているように感じたのです。自らが風をつくっていてそのスピードはバイクの速度と同じだったはずです。
こんなことは日常の人間関係でもよくあることです。自分が原因をつくっていながら他人事のように気付かず、指摘されてもまったくわからない。やっと何十年かたって初めてその時の自分が見えた経験がいくつもあります。人は誰しも自分の顔は鏡がないとなかなか見えないものですね。
良い事も悪いことも自分がつくっている場合があります。この風のように動きを止めてはじめてまわりの動きが止まり、状況を把握する場合があります。