ブログ - 201111のエントリ
畑作りをしながら雑草や害虫(これは人間中心主義の言葉でかれらの目からみれば人間こそ害虫でしょう)を捕り、サトイモを掘り出して人に分けたり、自分で食べたりする生活は充実感があります。農業経営者ではないのですが、だからこそ自然と触れ合って動植物も私達人間と同じだななどと考え、自分の体力を自然エネルギと交え闘いながら、元気をもらっているとおもいます。耕運機もトラクターもなく、スコップやクワ、カマを使って作業をしています。
農業という観点からみると経営においても自然環境においてもたいへんむずかしい時代になっています。人間は自然の一部であり、自然があれば生きていけるという考えから見れば、小さなポットに飢えられたワケギの成長にだって私達は自分の心を重ね合わせ、共感することが出来ます。
農業を経営、経済の目からみるだけではなく、(自然界)とみることも大事ではないでしょうか。
このホームページの目的はそこにもあります。人生の総括でもあるのです。わたしは64歳になって自分がかなり見えるようになり、人から指摘されて美的感覚があるといわれ、うれしくもありました。もっとはやくその方面で仕事をしていれば楽しかったのにと考えますが、まだ遅くはありません。
実は昨日、キャノンのEOS-(1800万画素)を買い、試し撮りをしたところ性能の素晴らしさにおどろきました。いままで撮った写真は評判がいいのですが、このカメラでとっていればもっといい作品になったのにとも考えますが、コンパクトカメラはそれなりの小回りがきいて効果を発揮してくれたのは確かです。
EOSは一眼レフですから手動撮影もでき、自由度も十分あるので、写真にじゅうぶん挑戦ができます。私の狙う作風は(気配)の漂う写真、(哲学的な)写真です。毎日が楽しみです。どんな天気の日であろうが、作品になるのです。どんな人間、光景、出来事であろうあが作品になるのです。
どんな人間もこんなわたしであっても作品にも文学にもなりえるのです。
残された時間を10年と予想しても、じゅうぶんにあります。
25年間ほど野菜づくりをしてきました。二つの屋敷で計100坪くらいのひろさですが、一人でやっているので草むしりや庭の木の剪定、伐採など年中追われっぱなしです。野菜の種をまいてもフランスから土に混じってやってきたという・・虫に新芽を食われてのこるのは雑草ばかりで途方にくれています。天敵が居ないので増え放題で、おそらく数万匹はいるでしょう。それをまず退治することが先決ですがナメクジを殺す薬をまいてもあまり効果がありません。しかたなく手でつまんで捕って殺しています。
蜂や蝶、カエル、トンボなどが激減しています。20年前からみると100分の1くらいに減っています。生態系の循環が狂い、無農薬の野菜作りをしている家は青虫などに徹底的に食い尽くされる状況になっています。そこで農薬をまかねばならないと言う悪循環が際限なくくりかえされ、(自然農法)をやってみたいと考えていたわたしはどうしていいのかわからない状態です。タマネギ、ジャガイモ、ニンジン、ネギ、サツマイモなど虫のつきにくい野菜を中心になんとかしのいでいます。
このタイトルが奇抜だと思いますか?
試験といってもOX式を例に出します。ここまで書くとわかりますか?0点をとろうと意図するならば、正解だと考えた時にXにすればよい。するとO点になる。100点をとろうと意図するならば正解だと考えたときにOにすればよい。すると100点になる。つまり100点をとれる者はO点をとれるのであり、O点をとれる者は100点をとれるということなのである。
両極端の一致、あるいは反転対称形ともいえる。(キチガイと天才は紙一重)という言葉があるように、この世の常識や価値観などというものは容易にひっくりかえる危うさを持っている。戦場で敵を殺すのにたけた者が帰国すると殺人者であり(時代が変われば)、平和を唱える者は(非国民)であったが時代がかわれば英雄扱いになる。このようにして私達はいつも時代の風潮に流されていくのであろうか?
そこで(真理)が求められるわけだが、(真理)とは(公理)であり、あらゆる人間、あらゆる場合に適合しなければならないものである。
それを(レア)は求めていきたいのです。
30年間も畑作りをしていると自然から学ぶことが多い。野菜作りはいつまでも我流で、素人の域を出ませんが、新しい発見はたくさんあります。
雑草の王者はいくつかありますが、今回はドクダミとヤブガラシを登場させます。どちらもNO1,NO2を争う覇者ですが、その繁殖の仕方は次元の異なるやり方であります。ヤブガラシの根の強さは相当なもので畑で成長した場合、片手で引っ張っても引き抜けません。ドクダミの根は弱くすぐに切れます。ヤブガラシがほぼ一直線上に伸びるのにたいして、ドクダミは格子状に伸びていきます。人間世界の観点にしたがうとヤブガラシは強くくてドクダミは弱い、ということになるでしょうが、自然界においては逆なのです。ヤブガラシは強く引くと切れるのでせいぜい二倍の繁殖力ですよね。ドクダミはいくつにも切れ、格子状に根を張って増えていくのでその数倍に増えていきます。(貧乏人の子だくさん)です。雑草の茂った畑をみるとわかるようにドクダミの数とヤブガラシの数はほぼ100対1の繁殖力の差があります。根が切れやすいからいくらでも増えていくのです。
人間世界の中で(わたしは弱い人間で困っています)という人がいたら上記に例を考えたらいいと思います。?弱さは強さになるのです。
この言葉はおよそ40年前に流行し、否定的なニュアンスがあった。株式会社は利益を追求し、公益性を考えない身勝手さがあるということだった。左翼がブームになっていた時代である。小泉の構造改革は今では悪評のきわみになっているが、(官と民の格差をなくす)というテーマでは時代のニーズにあっている。
官と民のちがいとはいったいなんであろうか?官は公共性を目指し、民は目先の利益を優先すると判断しているのだろうが、民間会社だって目先の利益より将来の利益・公共性を真剣に考えている。今の時代において、エコをはじめとして公共性を無視する法人というのは暴力団をのぞいて成立しえない。
官と民のちがいなんてありはしない。
地方公共団体は税金を取ることよりも株券を発行しろ、と言いたい。そうすれば本当に住みやすい市や県の株価は上がるであろうし、公務員は特権階級より公僕という意識を持つようになるであろう。この町や市をどのような作品にするか真剣に考え、競争心もわいてくる。
国自体が株式会社になったとする。そうすれば株券さえ買えば、自分の好きな国の住人になれる。そんなことになれば素晴らしいことではないでしょうか?ブータンの国の株価はすごい高値になるのではないでしょうか?
1ケ月ほど前のテレビのニュースのことです。アメリカのある州の生活が報道され、5世帯に一世帯が食事をする金がなく、無料提供する施設に行って食事をすませるということでした。テントを張った土地が写しだされ、そこで寝泊りしながらタクシー運転手の仕事にかよう男性のインタビューもありました。アメリカで格差社会のデモがあったことはニュースで知っていますがここまでひどいとは思いませんでした。これが先端をいく(人権・民主主義教)の覇権国家の実態なのです。
他方、まだ第二次世界大戦の終戦を迎えずに戦い続ける北朝鮮。最期の独裁国家、金王朝の国、いや宗教国家だのと言われ、珍奇さにおいては類をみない北朝鮮は多くの人民が飢えて、餓死者も出ているという。一方の先進国と他方の後進国(!)が国民生活においてシンクロナイズしている。これは(シェルドレイクの仮説)かもしれない。時空を超えて理由もなく同じ形態が発生するという理論であるが。
あるいは鍵と鍵穴のように反転させて合わせるとぴったりはまる(反転対称形)と呼べるであろう。が、どちらにも共通しているのは国体を宗教のように信じ込み、信じ込まされているということである。つねに戦争をしているかそれに近い緊張状態がないと国体が維持できないということである。
(渋柿は時空を超える)の続きになりますが、人里離れた所で育った渋柿はどうなるのか?干し柿をつくってくれる人間がいないではないか?という疑問がわき、それはその通りで、その柿は時空を超えることが出来ず、その場で熟して種を落とすしかないでしょう。
渋柿、フユウ柿、月夜柿、チンガラ柿などいろいろ種類がありますが母から聞いた話を思い出しました。いつもは渋柿なのだが月夜になると甘くなるというのです。不思議ですね、女性の生理が潮の満ち欠けとシンクロナイズするという話は知っていますが、なぜ月夜のときだけ甘くなるのでしょうか?
どなたかご存知の方は教えてください。
私の家には柿の木が10本ほどありますが、実のなりかたも木の大きさも樹齢もそれぞれちがいます。今年も車庫の屋根から伸びた渋柿は鈴なりでした。屋根に上って右手、左手と伸ばし、取り放題で、はじめて産直の店に出荷しました。5kg入りの袋で30袋くらいとれました。
そこで想像したのです。なぜ、渋柿と甘柿があるのか?不思議とは思いませんか?果樹の中で甘いのと渋いのが別れてるなんてあまり聞いたことはありませんよね。私の想像では最初は甘柿があって、鳥が実を食べ、種を落としたり糞に混じって遠くに運んだのです。と考えましたが種は大きすぎて飲み込めません。食べるときに種を落とし、遠くに運ばれることはありません。(種を保存)するには遠くに運ばれ、広がらせねばならないのです。
そこで甘柿のDNAは考えたのです。渋柿をつくってみよう。そうすると人間という生き物はそれに手を加え、皮をむいて日に吊るし、保存食にするだろう。魚の干物や燻製を作っている人間の行為を横目にして考えました。
渋柿を誕生させました。人間は口にいれると最初は吐き出していましたが、日に吊るすと甘くなることを知ました。干し柿づくりを成功させました。食べたいときに食べ、あるいは遠出するときに持参し、そこで食べて種を吐き出しました。
甘柿のDNAが考えたとおり、種は時空を超えて芽をだし、繁栄することに成功したのです。
イノシシや熊が人家に降りてき、食べ物をあさったり人を襲うことは日常的になってしまった。ハンターに撃たれて死体を写真でさらし、無残な姿を見せつけられ、そこに哀れみをいだくのは私だけでしょうか?かれらがいったいどんな悪いことをしたというのでしょうか?人間達に自分の縄張りを侵略され、すみかも餌もなくなり、どうしてくれるのか!という怒りを私は感じる。
そこでかれらは人間を襲い、無差別テロに走るのです。
私達はその警告に耳を傾けなければならない。共存共栄なのです。
隣の農家の主人は機械で田植えを終えると、あぜ道に除草剤をまきます。草が枯れて無残な姿を見せます。毒を使って植物を殺戮をするのです。それを草刈り機でかりとり、キレイにします。彼は毒が水生昆虫やカエルなどを殺すことを考えないのでしょうか。さらに稲にしみこんで人の口のなかに入ることを考えないのでしょか?ともかくキレイになればいいのでしょうね?
キレイキレイの発想が自然を破壊しているのです。春秋のいい気候のときに車のドアを締め切り、エア・コンで除湿をする人はその行為が地球のオゾン層破壊になっていることを考えないのでしょうか?
えらそうなことを書きましたが日常生活から変えていきたいと思います。