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二十歳のころから、自炊生活を始めた。五十年間、たまの外食を除いて、自炊、孤食である。帰郷してからはそれに、野菜作りが加わった。振り返ってみると、食べ残して捨てることは、年に二、三回ほどしかない。
考えてみれば、これはすごいことである。多くの主婦が料理やそのローテーションに悩んでいるらしいが、自分にはほとんどなく、いつも美味しくいただいている。しかも、安い費用と新鮮さで食べているのであるから、感謝すべきである。自分で栽培した野菜を時々、産直店に出しているので農家への感謝と同時にその実態もわかってくる。
自炊の一つの例として、まず、豚骨の場合である。一握りで百五十円ほど出せば買える。鍋に玉ねぎ一個と豚骨の半分ほどを入れ、弱火で四十分ほど煮る。スープが出来たら、まず、ラーメンをつくってみる。どんぶりに、醤油を大スプーン一杯ほど入れ、次にスープを入れる。先に醤油を入れた方が混じりやすいのは焼酎のお湯割りをつくるのと同じ原理である。それに茹でた面を入れ、後は焼き豚、シナチクなど好きな添え物を入れる。
次のスープの利用法はおでんである。
次のスープの利用法はカレーライスである。
次のスープの利用法は煮物や佃煮づくりである。
百五十円の豚骨で五つの利用法がある。
以上の料理は二、三回にわけて、食べるので食べ残しはない。
北朝鮮には暴力団はいない、それは国家自体が暴力団であるからだ。
ある男が、二十年前に言ったが、その言葉が時々、思い出される。なるほどと思うし、それは北朝鮮だけでなく日本もアメリカも国家また、組織自体が暴力を根底にして成立しているからである。宗教団体であっても集会中に乱入者がでれば110番通報するに違いない。
東京で大学生活を送っていた頃、新宿のコンパ(大衆バー)で独り、酒を飲んでいた。隣席の見知らぬ男が話しかけて来たので、雑談をしていると、(いい仕事があるんだけど、やってみませんか?なーに、バンドの連中の動きを見てるだけでいいんですよ)と言った。返事を保留していると、名刺を取り出して、自分に渡した。・・興行、と所属団体が書いてあったのでピンと来た。当時、自分は空手をやっていたので、逞しい男に見えたのであろう。スカウトされたのである。それから、歌舞伎町の喫茶店に入ったりして、二人で時間を潰したが、始発電車が出る頃に、彼は姿を消していた。
今、暴力団は取締り・壊滅作戦にやられ、脱退者も増えて、組織は末期の状態にある。逆に、政権は憲法を改正して軍備力を強めようとしているから、国家権力の強化と暴力団・反体制勢力とは反比例の関係にあることがわかる。暴力団の消滅と共に日本は北朝鮮と同じ一党独裁国家の本質を現すにちがいない。擬制の民主主義が正体を見せるであろう。
今、(冬の火車)と言う長編小説を書いている。懸賞に応募する予定であり、三人の知り合いに読んでもらい、評価をうけている。良い、スラスラと読める、こんな考え方があったとは知らなかった、などの感想を貰っている。彼らとは親しい仲であるから、熱心に読んでくれるてるのだろう、と思っている。
作品の中にキリスト教を取り入れたことで良い方に膨らんだと考えている。半分ほど書き終えて、後半に取りかかっている。主人公が聖書を学んでいくうちに、いくら学んでも信仰心がめばえない、ことに悩んでいる。先輩信者に尋ねても、はっきりした返事が返って来ず、作者が考えて答えを出すことになった。
それは需要と供給なんですよ。人が悩み苦しんで助けを求める時、期待心が神や仏を生み、ふとした弾みで奇跡的な行為をした人がいれば、それに神仏とし、さらに期待していく。どんな言動にも神仏の姿を反映させる。それが極端に膨らんだのが、仏であり、キリストである。極端に悪い例として、ヒットラーが現れたのである。
だから、信仰心が芽生えるには、当人が苦しみ迷う、そんな状況が出来れば、彼の心の中に神や仏が生まれてくる。求めよ、さらば、与えられん、である。現象学にも通じてもいる。信者がいて、神の存在を信じるようになれば、その信念が神を作るのである。自分で自分を拝んでいることなので、他力ではなく、自力なのである。
今の社会、それがつくる政治体制をどのように表現すれば良いのか、マスコミ・知識人も迷い、言い現せないでいる。哲学も思想も持ち分の領域を失い、消え去っている。論壇は賑わいを失い、淋しい限りである。この私であっても、70歳になりながら、セクハラがいけない、戦争はいけない、暴力はいけない、と言われれば、そうだ、と応えてしまうであろう。だが、待てよ、美辞麗句に泳がされて、肝心な思考が失われてはいないか?そうなのだ!きれいごと、キレイキレイの資本主義、擬制の民主主義にまんまと騙されているにすぎないのである。すべてを、良いか?悪いか?の結論から入ってしまっているではないか!
戦争反対!をほとんどの左翼(まだ、生き残っている)は訴えるが、戦争は無くならないのか?軍備のない国があるのか?など考えて、検証したことが彼らにあるのであろうか?
暴力反対、戦争反対で利益を得るのは誰か?それはアベをはじめとする為政者なのである。暴力反対、暴力団壊滅、セクハラダメ、で結局、反抗精神の芽が摘まれてしまっているのである。健康で長生き、で儲けるのは医療業界である。安楽死、の言葉はタブーなのである。肥料も農薬も要らないチップ農法をマスコミが取り上げないのは肥料や農薬会社が倒産するからである。出版社が作家やライターの不祥事を書かないのは身内の問題になるからである。
この世の仕組みは,国民を生かさぬよう殺さぬよう、うまく操作されている。
セクハラ、パワハラ、イジメ、シゴキ、戦争など、加虐行為がすべて否定される現代であるが、その時代の中で被虐・加虐を快感とするサド・マゾの人々はどのように考え、行動しているのか興味をそそられる。彼らの世界では被虐・加虐は許され、合意の上での行為なのである。裸の体に蝋燭の火をたらし、たらされ、鞭で叩く、叩かれることは快感であり、性行為が加わって射精にまでいたるる至上の世界なのである。彼らがメディアに登場し、実演することはないし、自分たちの考えを述べることは無いであろうし、許されない状況であるが、セクハラを筆頭にして加虐行為を否定する時代はすべてを大きく変え始めている。まず、被虐をうけることによる抵抗精神、闘いの精神が消え、日常活動だけでなく政治・文化にまで及んでいる。高齢化も加わり、国力まで衰退させる流れである。
五十年前、自分が東京で遊学してた頃、東京・後楽園のヘルス・ジムに通っていた。ひ弱な自分を鍛えるため、ボディビルを始めたのだ。地下一階の暗い部屋にはバーベル、ダンベル、腹筋台などが並び、上半身の裸の男たちが鍛錬をし、鏡に筋肉美を映して、成果を誇っていた。自分が連続百回のベンチプレスを終えて、一息ついていると、隣の腹筋台に座った男に気を惹かれた。どこかで知ったような男であったがすぐには思い出せなかった。男は上半身を真っ直ぐ立てて、静かに座っていた。どこか特別な体感が伝わり、自分は誰であるか思い出そうとした。三島由紀夫であることが思い出された。彼は当時、作家として名をはせ、ボディビル、剣道、空手をやっていると報じられていたのであった。
自分の友達が彼に気づき、先生の小説はよく読ませてもらっています、と声をかけた。三島は、ううん、とうなずいたまま視線も表情も変えなかった。まるで仏の座像のように静かであったが、なにか違うエネルギーが底に漂っていた。五年後に、同士たちと東京・市ヶ谷の自衛隊基地に乱入し、自衛隊員たちに政治反乱を呼びかけたが彼らは関心を示さなかった。三島は割腹自殺をし、介添えではねられた首が板間に転がることになる男であった。彼はその頃、春の雪、という小説にとりかかり、西南戦争を舞台にした反乱をモデルにしている。(文化防衛論)という本も書き、近代化によって日本精神が失われることを危惧していたが、今の時代は彼が予言したとおりになってしまった。
彼のように純粋な男が日本に現れることは無いであろうし、暴力行為を受けたら、闘え、と言いたい。
以前のブログに(オナニーは最高のセックスである)と書いているが、ここで改めて思うことがある。これまで、4,5人の男女に、オナニーをする時、相手を思い浮かべて仮想実演するか?と尋ねると、ほとんどが、する、と答えたので自分以外もそうなのだと、変に安心した。公民館で毎週行っている(会)で、その女と二人だけになって椅子や机を出して準備している時、(僕、あなたがお姉さんみたいで好きよ。キスして良い?)と尋ねて、彼女と向き合い、眼と眼を見詰めて、手を握り、唇を口に近づけていく・・・、なんて想像していくと、現実以上に良い気分になり、興奮していく。これは他の動物にはない人間だけの特権であろう。サルにオナニーを教えた結果、夢中になり過ぎて死んでしまった、と半ば冗談話を耳にしたことがあるが、彼らはそんな想像はしないし、そんな夢気分の癖がつけばいつか敵に襲われて食べられてしまう。
人間とは自分とは不思議で滑稽な動物である。
オナニーは誰にも被害を与えない素晴らしい行為である。介護老人施設の売店で、オナニー器具を売っていると新聞に載っていたが、性欲がある以上、いや消えていても、性器に手が行き、頭の中は仮想劇を自作自演しているのである。人は皆、創作劇をつくる作家なのである。色んな相手とどんな相手とでもできるから、夢中になり過ぎた死なないように気を付けよう。特に、私など心臓に少し弱い部分があるので、その最中に心不全を起こして死んだ、などと言うことになったら、さぞ笑い者になることであろう。
二十年前、NHKで、集金の仕事をしていた頃、(まるで空気を押すような仕事ですね)と、営業部長が言ったことがあった。博多駅周辺のマンション・アパートの部屋のインターホンを数百件も押して回った結果、数件の返事しかなく、一件も新規契約が採れなかったのであるが、その比喩の言葉が印象に残っている。
町内や町外で出会う人の顔がまるで空気を押すように表情を無くしており、自分の顔もそんな感じがするし、ウツの気分に襲われることが増えた。笑顔も元気もなければ悲しみ、憎しみの表情が消えている。年々、ひどくなっている。何かが確実に変わり、不気味な足音が聞こえそうであり、そんな話をすると同意する人が多い。
野間宏の(崩壊感覚)と言う小説があるが、今は(剥落感覚)である。剥落していった挙句はどうなるのか?不安である。
三村晴彦監督の映画”天城越え”を借りて来て、二度、DVDで観た。若い頃に、映画館で観て、感動していた。老いた現在、自分がどんな印象を沸かせるか?という興味、それに構成内容など作品の作り方の勉強も兼ねていた。二時間以上を見終わって、若い頃と同じ感動がよみがえり、作品の素晴らしさに気づいた。遊女の相手になった土工を殺してしまう少年、彼の青春の表現力が素晴らしく、今はどんな実人生を送っているのか?の興味もわいた。あの煌めくようなまたどこか陰影を含ませた表情,汗に輝く顔は演技章をもらっても良かったと思う。
自分の青春時を思い起こすと、少年といっしょに天城越えの街道を歩きながらおしゃべりをしたり、足のケガに包帯をしてくれたり、ついでに陰部を触ろうとしたりした遊女が土工に興味を変え、金をもらって藪の中でセックスをする場面、それに逆上した少年が土工をナイフで刺し殺す場面は自然な成り行きと同時に自分自身も殺す側に加担していることに気づいた。思い返すと、わたしが作者であれば少年は遊女の方を殺しても良かったのではないか?と考えた。わたしは女の裏切り、気持ちの行き違いは何度も経験させられ、痛い目に合わされた。
世の中には犯罪を犯して自己表現をする者、死ぬまで俗物の演技を続ける者がいる。わたしは逮捕・非拘置の経験はなく、今も俗物の演技を続けており、死ぬまでそうであろう。
毎週、聖書の個人レッスンを受け、日曜日には礼拝に通っている。およそ、六か月間、続いていて、学ぶことも多く、聖書・キリスト教の偉大さに感動している。ギリシャ時代には国教にまでなり、王権神授説にみられるように政権さえ正当化のためにキリスト教の名を借りようとしたことは歴史的な事実でもある。
昨日は個人レッスンを受けた後に、中村さんも神を信じるようになりましたか?とたずねられた。聖書や神の教えは素晴らしいが、自分の父母より神の方が本当の親だ、というレベルに至る親近感は残念ながら出来ていません、と応えた。一昨日は、近くにある墓地の中村家の墓に行った。汗まみれになって草刈り機で周りの草を刈り、草をむしり、枯葉を取り除いた。今日は花を添えに行き、拝みに行くつもりだ。一神教であるキリスト教の洗礼を受けたとなると、そんなことはしてはいけない、仏壇も処分しなさい、ということになる。自分は基本的には無神論者であるが、父や母の存在の否定はできない。父は淫蕩癖があり、母から悪魔と陰で呼ばれることもあったが、自分にとっては父親であり、自分はサタンの息子であろうし、それは人生経験にも反映されている。万引きをしたこともあり、殴り合いもし、酒・煙草・バクチもやり、親友の女を盗ったこともあった。
聖書やキリストを学んでいることは、懺悔、なのであり、自分がサタンであることが十分すぎるほどわかってきて、同時にサタンの存在意義もわかってくる。神にとっては対立物であるサタンが必要なのであり、サタンと言う悪い奴がいるから、それと闘う神が居ると言う筋立てになる。アメリカと悪の枢軸国との関係である。料理の世界においても甘い、辛い、渋い、酸っぱいなどの味があり、芸術においても陰影があるのと同じである。対立物を否定はしても、消すことは出来ないのである。
また、罪人がいるから宗教が存在しているのでもある。
先週の土曜日、日曜日とキリスト教某宗派の福岡大会に参加し、講演を聴き、ビデオを観、体験談を聞いた。午前九時半から午後五時ころまでで、千五百人ほどが参加し、皆、温厚な笑顔で顔を合わせ、握手をし、話しを交えた。
世界各国での兄弟・姉妹たちの活躍が大会の中心テーマであったが、ビデオ視聴の中で、建設した教会が放火されたり、その宗教を信じているだけで警察に逮捕・投獄されたり、他宗派から石を投げつけられたり、一夫多妻制を拒んで肉親たちから非難されたりなど、日本国内では考えられないような世界の現実を見せつけられた。わたしは信者のレベルには達していないので、客観的な眼差しでビデオを観、一連の流れにその宗派の思想を読み取ろうとした。
(真の勇気を示す人は自分に頼らない)
その講演のテーマで講演者は、サタンが人間に独立と利己主義を与えた、と言った。わたしは強い刺激を受け、首を傾げた。アダムに禁断の木の実を食べさせることで、サタンが人に利己主義を与えた、ことは納得できるが、心の独立を与え、それは悪いことである、と講演者は言ったのである。私の世代は自由と民主主義の中で育ち、それらは封建主義から奪い取った価値の高いものである、と教えられ、信じてきたのである。それを否定されたのである。
自分の独立心を捨て、神に頼れ、ということである。
「先輩にうかがいますが、金がなくなったら,自分の意志で仕事を探し、稼いだ金で生活するのではないですか?独立はいけないことなのですか?」
わたしは聖書を教えてくれている先輩に尋ねた。
「神に祈ってお願いするのです。そうすれば教えてくれます」
「わたしは信仰が遅れているので,神の声は聞こえてきません」
「そのうちに聞こえてくるようになります」
「声が聞こえてくるようなったとしてもどれが神の声かわかりません」
そんなやりとりをしたが、どうも理解出来ず、もう一人の先輩に尋ねた。
「それはもちろん、自分の意志で探し、うまくいくように神に祈るのです」
彼は言い、わたしは納得したが、そうなるとそれは自分の独立した意志ではないか?独立心を捨てるということと一致しないではないか?
もう一つの別のキリスト教宗派で聞いたことが思い出された。
(個人主義が人間を不幸にした)
年老いて孤独で貧乏な自分は最近、その言葉がわかるようになっている。
自分をすべて捨て、神に頼れば、楽であろうが、その境地になるには余命が短い。
そんなことを考えながら、妙なことが閃いた。ネットに検索を出せば、何でも答えてくれる。金がない、女が欲しい、仕事が欲しい、地球はどのようにして出来たか?聖書の造られた目的は何か?など返事のない項目はない。もしかすると、ネットがすでに神になっているのではないか?あるいは超えてしまったのではないか?
なんとも大変な時代である。
もう一度、大会の講演内容を振り返ってみた。その中で、その宗派の布教活動をしたがために教会の焼き討ちにあい、石をぶつけられ、逮捕・投獄までされたのである。それを、神は黙って見ておられたのか?全知全能の神であるなら、それらを阻止するのは当然で、簡単であったはずではないか?なぜしなかったのか?
今週、先輩信者から聖書の講義を聴く予定であるから、問いただしてみようと思う。たぶん、神は信者たちの反応をうかがい、試すために助けなかった、と答えると思う。禁断の木の実の場合でも蛇がアダムをそそのかして、悪の実を食べさせたというが、神が悪の木の実を植えなかったなら、人間はサタンにならなかったのではないか?
聖書は確かにすごい作品であるが、わたしの貧しい知性とどこまで戦えるか楽しみである。