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今日の新聞に、オウムの死刑囚・十三人が、昨日で全員死刑の執行を終えた、と載っている。なんともやりきれない事件であり、三十年間を費やしても、犯罪の原因や指導者も分析できなかった。その病根の深さははかりしれないが、ある点では社会を映し出した事件でもある。
それにしても、死刑囚も含めて受刑者の生活費・管理費・法廷費など、その負担がいくらかかったのか、想像するだけでも気分が悪くなる。数億円であろうが、すべて税金で賄われているのである。この暑い最中に、道路工事や建設現場で働いている人達の汗が絞られたのである。
中国ではネット裁判が普及しているのに、この日本では犯罪者達にいつまでも飯を食わせ、医療介護をし、部屋には冷暖房まで入れているらしい。なぜ、万引き犯や詐欺、交通違反など事件の内容が簡単なものをネット化しないのであろうか?。難しい事件の場合でも、加害者に発生原因やその経過、自己責任の内容などを書かせ、一定の水準に達すればそこで罪科を決めるべきである。
なぜ、こんなことをしてしまったのか?今後、起こさないためにはどうすれば良いのか?などの、受刑者たちに犯行論文を募集し、優秀者は表彰したり、減刑ししてやるとか、社会に出て一定のボランティアをすれば刑を相殺するとか、司法関係者たちはなぜ、改革の姿勢を持たないのであろうか?自分たちさえ、良い飯が食えればいいと考えているにちがいない。税金泥棒と陰で囁かれても反論できないであろう。
ともかく、行政や政治のやり方は民間と比べて、知恵を働かせず、浪費が多くて、納税者にとって頭にくることばかりである。
聖書を学んでいると、物語であるようでありながら、現実と直結する言葉やすごい真理に出会うことが多い。中でも、(御使い)という言葉は興味を引く言葉である。(禁断の木の実の話)、その内容は現実の出来事とは考えられないが、どこか納得させられる内容である。エデンの園において、神が最初に造った人間であるアダムに言った。自然の恵みをいただいて,幸福に暮らしなさい、ただし、アザミの実だけは食べてはいけません、と。警告を与えたにかかわらずアダムは蛇にそそのかされて食べてしまい、エデンの園から追放されて、本来,神からもらっていた永遠の命を失ってしまう、
「蛇が人間をそそのかすなんて考えられないじゃないですか?どのようにしてそそのかすのですか?」と神父に問うと、サタンが蛇に(御使い)を使って誘惑させたのです、と答えた。御使いと言う見えない使者を使う、と言う言葉は(霊界)などの言葉のように宗教特有なもであり、わかったようでわからなかった。
ところが生物学の事例でこんなことあることを思い出した。タバコの葉にスズ蛾の幼虫が大量発生し、すごい勢いで食べ始めた。するとタバコは自らフェロモンを出した。蜂がそれにやってくることを知って、出したのである。蜂はやってきて、幼虫を食べつくした。
御使い(ファロモン)とは私たは絶えず出しているものである。体臭になって匂うこともあるがそうでない場合もあるが、女が男を誘う場合や近づかせない警告だってあるが、見えないものである。触媒であり、生物の生活に重要な役割を果たしている。エデンの園における重要な使命を帯びているのだ。
(電波)だって、御使いである。目には見えないが受信機を通して別次元を鮮明に映し出し、出来事や物語を展開してくれる。超音波だって耳には聞こえないが、見えない物の形を現してくれる。そのように考えると、宗教の考えだって、いつかは科学的なものとして理解できるようになるのではないか?
この俳句が伊藤園俳句大賞の佳作に選ばれ、さきほど通知と表彰状が来ました。三月初旬だったと思いますが、朝、目覚めて庭に目を向けると、群れ雀が一本の梅の木から、十五メートル先の梅の木へ行ったり来たりしていたのです。まだ、梅の木に虫が出るには早いけど?と思いながら観察していると、五度、六度と羽音を立てて行ったり来たりしていましたが、いつの間にかいっせいに空に向かって消えていきました。そこで、この俳句が生まれ、伊藤園に投稿したわけです。
表彰状 余生の幅に 収まれり
という句が思いつきました。
佳作程度ですから賞金もなくペットボトルにも載らないようですが、表彰状とは無縁になった老境で頂くのはどこjか感慨深いものがあります。小学校の時、全学年、級長の賞状をもらったり、NHK福岡から集金業務に貢献したというのはたくさんもらいましたが、バカ臭くなってゴミに出しました。
今年は何か良いことがありそうな予感がしていましたが、これを契機に誰も書けないブログを書いていくつもりです。近頃、閲覧者数、検索件数が増えています。
昨日は猛暑の中、日帰りバス・ツワーに参加した。町内の老嬢たちが四十名ほど、老男が三人であった。駅前の待ち合わせ場所で、顔見知りのスナック・ママが私に手を出して、握手を求めてきたので驚いた。店をやめ、子宮がんで入院してた噂を知っていたので、元気?と訊くと、だいぶ良くなったという。男との噂で評判の彼女であったが、すっかりお婆さんの顔になっていた。人が良く、客に料理を振舞い過ぎ、ツケの金も溜まり、客足も遠のいて閉店したのであった。彼女は女友達のT子を誘ったが、眼の神経病で来れないと言う。T子も人の好い女であるが,老男十人ほどから金を借り、数千万円を返せないでいる。亭主と愛人の男と三人で生活していて、あなたは淋しいやろうからご飯食べにおいで、と私をよく誘ってくれたが、足が遠ざかっていた。
バスに乗車後、二時間半くらいで熊本城に着いた。ガイドさんに案内されながら、話を聞いた。地震の被害で崩れた石垣の一つ一つには番号が振られて、元の位置に戻せるようにしているが、数が多くて修復するのに二十年かかる、という。広い城内では、蝉が鳴き、私たちは手渡された歌詞を見ながら、(古城)を歌った。
次にホテルで昼食をとり、ワイン工場を見学し、ワインの試飲をした。美味しかった。
次に(田原坂西南戦争資料館)を訪れた。日本精神を守ろうとする旧薩摩藩士と政府軍とのすさまじい闘いが収められていた。闘い現場の写真は桑畑ばかりの広がる土地であったが、食料や軍の輸送道なのでそこを押さえるかどうかが要になっていたのである。銃弾の跡を見せる土蔵、銃剣、日本刀、兵士の写真、軍帽など展示され、ガイドさんはペリーの来航、西郷隆盛の実像、彼と政府との争いなど詳しく丁寧に説明してくれた。
午前八時に出発したバスは夕暮れを迎えていた。車内ではビンゴ・ゲームが始まり、皆、ビンゴ紙を手にして、何が当たるか興奮していた。
私は二番目に当たり、赤ワインをもらった。添乗員から紙コップをもらい、周りの五人の老嬢たちにワインを注いだ。皆、笑顔を見せ、美味しい,と言い、気分が盛り上がった。
帰宅してその光景を思い出しながら、血染めの兵士たち、を思い出した。にわか仕立ての彼らは着物姿やわらじ、下駄を履いた者達がいて、日本のために命をなげうったのであった。彼らを犠牲にして、エアコンのきいたバスでくつろいだのであった。
二週間前に大雨による洪水で全国的に被害が出た。二百人以上であるから、大変な出来事である。それが一段落し、まだ片づけに追われている被災者もいらっしゃるが、梅雨明けしたような太陽が照り続け始めた。部屋の気温は三十五度を指しているが、エアコンはないし、取り付ける気もない。
午前中は庭で枯れ木を燃やした。、十日前に伐採した木が枯れ始めていたので早めに処分しなければ庭が枯れ木で埋まってしまう。木の枝がぴったり重なっていないので、燃やすのに苦労し、作業服は汗まみれになり、頭も少しぼんやりしてきた。熱中症になるかな?と考えながら、自分はエアコンを使わないので体温調節は十分にできるはずだと考え、そのまま続けた。
昼食後は、不要な木を切ることにした。まず、西側の柿の木が五本ほどがじゃまなのである。畑の日当たりを悪くし、風通しも悪くしており、実がなっても虫やカラスに食われるだけで何の利益にもならない。一本目に取り掛かり、チェーンソウの歯を当てたが、切れがすごく悪く歯を押し付けているだけで腕が痛くなってしまい、先に進まない。仕方なく、鋸で切り始めた。こちらの方が早く切れていくのがわかった。
直径十センチほどの柿の木は切れていき、最後の皮がなかなかしぶとくて切れない。(最後の皮一枚しなない)会社で働いている時、解雇されそうになった男が言った言葉が思い出された。木は倒れる時、ギギギーとうめくのである。動物の叫びみたいで生命の声を出すのが分かる。
その木が終わって、次の柿の木の幹を見ながら、どこに歯を当てようかと考えていると、幹の半ばの皮がむけ、幹の中が見えていた。どうしてそんな風になったかわからない。そこは黒くなっていて、無残な肉であった。そこに歯を当てれば切りやすいと考えたが、どうも腕が言うことを効かない。ちゅうちょしていたのだ。
中断して、もうやめようかと考えたが,隣の梅の木の枝を切り始めた。これも取り掛かるとっ際限がなく、夕陽が射し始めたので、止めた。夕食をとり、風呂に入った。汗まみれの体から汗が流され、すっきりした気分になった。そこで、考えた。あの障害者みたいな柿の木はどうするのか?切るのか、きらないのか?切らなくても邪魔にはならない。切ることを心が決めきらないでいた。
あんな体で良く生きてきたもんだな・・。俺も障害者だし、仲間もいるから、生きることの大変さはよくわかる。あれだけ残して、切らないでおこう、と考えた。
自然災害は自然にとって災害ではない、というのが正確な表現である。わたしの家の傍の川が氾濫し、家の上り口まで泥水が寄って来そうになりながら、雨が小止みになって免れたからこんな被災者の感情を逆なですることを書いているのである。それをお詫びしたいが、川が一時的にではあるがきれいになった。上流の部落が下水道設備がないために糞便を川に捨て、すべての田んぼにまかれた農薬が流れ込み、ドジョウもドンポもゲンゴロウも消え去った川は可哀そうであった。農薬は海に流れ込み、魚介類さえ殺し始めているのである。
災害が人類への警告でなくて何であろうか?マスコミは一切そのことには触れず、被災した家や道路の修復を訴え、熱中症にかからないために家から出てはいけません、エアコンにかかりなさい、とまた自然を痛めつけ災害の発生を誘導している。
根源の原因には触れない。
いつもの堂々巡り、モグラ叩きの繰り返しである。マスコミは啓発精神をすっかり放棄し、資本主義の奴隷となり、自然・地球破壊に邁進している。前のブログにも書いたが、川の氾濫のお陰で川の水は一時的ではあるがきれいになり、氾濫に流されなかった鯉やハヤも澄んだ水の中で泳いでいる。騒いでいるのは人間だけである。
わたしの菜園はヤブガラシなどの草に埋もれていて、菜園と呼ぶには恥ずかしいほどである。今は七百坪の敷地から勢いよくはみ出した木の枝を切ったり、小道が通れないほど埋まった草を刈ったり、秋野菜の耕作をしたり、めちゃくちゃに忙しい。
チップ農法に取り組み始めて一年になるが野菜の出来具合は惨憺たるものである。チップの発酵効果が出ず、ジャガイモは小さい上に半数はどに酢が入り、堅くて食べれない。玉ねぎは全く成長せず全滅、トマト、ナス、インゲン豆、長ネギ、サツマイモ、ニラはまあまあの出来具合、ピーマン、しし唐、ゴーヤは肥料不足で小指サイズの実を付けてなんとか姿を保っている。我が家族は荒っぽい自分を親に持ったがために惨めな姿になっている。トウモロコシ、スイカ、瓜なども植えるつもりであったがカラスに食われることは間違いないので止めた。他の人の菜園は化学肥料がたっぷり、農薬がたっぷりで、元気よく育っているが少し気を抜くと自分の畑と同じになってしまう。そこが農薬を使うので害虫や病原菌はそこを避けて我が庭にやってくるようである。わたしは絶対に農薬を使わないつもりであるが、農薬入りの野菜を買って食べてることは使っていることと同じことになってしまう。
野菜作りがすごく難しくなっているし、サンマ、ウナギなどの魚類も店頭から姿を消し、絶滅危惧種が増えている。魚の体内から大量のプラスチック粉末が見つかったという報道もあり、人類滅亡の予感は現実のものとなりつつある。
先日、友達がニラをもらいに来たので、あげると、彼はそのまま少しかじってみた。硬い、と言った。昨日、自分がマーマーバー豆腐を作ってそのの中に入れてみると、かみ砕けないほど硬くなっていた。ニラはヤブガラシの中に埋もれるようにして繁っている。たがいに競争しながら生きている。ニラは人に食べられることで末永く生き延びる道を選び、美味しくて柔らかい味を出していたのであるが、ヤブガラシとの競争に負けまいとして自分の役目を忘れ、野生の姿に戻ったのであろう。カリフラワー、ブロッコリー、キャベツなども硬くなってしまっている。
野菜と雑草は役割分担して生きているが、このままだと野菜は大事に育てないと雑草に戻りそうな予感がする。
7月3日の大雨の日のことである。えらく、強い雨が降り、これはどうなったのか?と思い、庭に出ると右手の田んぼが水に埋まっていた。表門に行くと、歩道に溢れた水がすごい勢いで流れ、それに沿った川の水は洪水になっていた。岸辺に立っていたモルタルアパートの一階は水が入り、住人が右往左往しているではないか!自分の家は歩道よりも二メートルは高いので大丈夫だろう、いや、烈しい降り方になれば浸水してしまう、と考え、心臓がドキリとした。
一週間後の今日、近所の親友がうちにニラをもらいに来た。ニラを採りながら、大雨の日のことを話した。
「全国で死者が二百人だってな」
自分。
「俺も驚いてる」
親友。
「死んだ人には申し訳ないけど、俺もそうだけど、死んでもいい人間だっているんじゃないか?」
自分。
「自然淘汰だよ」
親友。
「ハルマゲドンだよ。人類と自然の総入れ替えだよ」
自分。
「ところがさっき、川沿いを歩いていたら、いつも鯉に食パンをやってるおいさんがいてね。いつもの通り、五匹の鯉にパンくずをやってるんだ」
親友。
「あの洪水に鯉は流されなかったんですね、と言うと、そうなんだよ不思議なことに五匹全部がそろってるんだ」
おいさん。
「橋の欄干だってひん曲がってしまったのにこの鯉はどうやって身を守ったんだろう?」
親友。
「不思議だな。あのアパートだって流されたかもしれないのに」
おいさん。
親友はそんな会話を交えて来たという。
鯉だから何かにしがみつくわけにもいかないし、岩の下かどこか、水の流れない場所を知り、洪水が来るのを事前に予知していたのかもしれない。野生動物の勘の鋭さには驚いてしまう。
大雨の被害個所は人の手が入ったところがほとんどである。山の下に家を建てたところ、道を作ったところなど、自然のままにしていれば何もお起こらなかったのに手を加えたがために自然の秩序が狂ってしまったのである。マスコミは根本的な原因には言及しないから、私達は自然の摂理という原点に目を向けなければならない
先日、友達からの電話でのことである。返事をするのに3,4秒間、言葉が出なかった。友達は後日、あんな状態で大丈夫か?と心配をしてくれた。3,4日、誰とも話をしない期間が続くと、ドモリの癖が出てしまう。幼少時からその癖があり、自分ながら、将来、仕事が出来るのか?生きて行けるのか?と不安であったが、営業職もこなし、71歳まで生きてきたし、楽しい人生も味わった。
ドモリの矯正学院にも通い、原因の心理的分析、発生訓練もしたのでその方面には詳しい。ドモリはアレルギー反応なのである、という発見をした。これは業界での新発見だと思う。精神科医、耳鼻咽喉科医でも原因を知ってはおらず、間違った解釈をしているし、治療法も医学的には確立していない。
祖母と母が軽いドモリであり、私が産まれた時、言葉を出すのに過剰に敏感になった。これがすでにアレルギー反応なのである。障害(敵)でもないのにそう判断し、過剰に防衛し、攻撃するようになる。国家間における戦争、個人同士の敵対・喧嘩に似ているが、アレルギーの場合は自己を攻撃するのである。一般的に2,3歳の頃、幼児が言葉を出そうとするときにはスムーズに出ず、つっかえたり途惑ったりするが、放置しておれば自己修復して発語の確立が自然にできていく。
母はつっかえながらしゃべるわたしに、そんなしゃべり方をしてはいけない!と強く叱り、私も発語を警戒するようになった。言葉を出すことに神経質になり、叱られることが続いて、ついに発語を引っ込めるようになった。これがドモリの始まりなのである。出そうとする意欲と出してはいけないという阻止行動がせめぎあい、ついには何秒間も言葉が出ないようになってしまった。
その癖が71歳になった今でもひきつがれているのである。ただ、わたしは表現力があるのでしゃべり始めると、相手が不快になるほど言葉が出るし、歌を歌うときにはどもらない。これは発語器官に構造上の欠陥があるのではなく、働き方に欠陥があるのである。
だから、日常生活においては多くの人と長い時間話をするようにしているし、カラオケを楽しみながら何度も歌うようにしている。
振り返ってみれば、東京での学生生活は無法者に近かった。受験奴隷から解放されたとはいえ、望みもしない大学に合格し、敗残者の負荷を背負っていた。全共闘たちが学園内、学園外で大暴れをし、政治闘争に入り、旅客機の乗っ取りをし、テルアビブで機関銃を乱射して大量殺人を行ったりした。そんな中で、私は大学の沖縄空手道剛柔会を仮病を使って脱会し、アルバイト、マージャン、女遊びの日々に埋もれていた。
賭けマージャンに熱狂し、悪友どもの部屋に泊まり込んでやっていた。大学の試験前になると、勉強をしよう!、と言って悪友たちがそろい、テキストを開いていたら、牌に手が伸び、卓を囲むありさまであった。試験時間に間に合わずに放棄した。十年ほど前まで、大学の教科書を買う夢を限りなく見続けた。教科書さえ、買っていなかったのである。大学の入学式にも卒業式にも行かず、卒業証書ももっていない。卒業しているかどうかもわからないし、それがはっきりしなければならない仕事に就くこともなかった。
悪友たちとマージャンに狂っていた頃、四万円ほど負け、借りを作ってしまった。
その日は買い物袋を持って、新宿・紀伊国屋の中で本を探していた。高価な本を盗み、古本屋で売ろうと考えていたのだ。四万円ほどの哲学辞典に狙いをつけていた。周囲の客を念入りに見て回り、警備員の姿をチェックし、どの道から逃げるかも想定していた。
哲学辞典の前に立っているだけで、緊張し、その度合いが強くなると、おかしな感情が起こってくるのを感じた。(快感)なのであった。緊張感の高まりと比例して、快感は性行為に近いそれにまで高揚していくのであった。
重い哲学辞典に手を伸ばし、左手に持っていたビニール袋の中に入れた。周りを見回しても、自分に注視している者は見当たらなかった。
地下鉄の方に向かい、地下通路を歩きながら、上手くいった、と考えていたら、背後から男の声に呼び止められた。紀伊国屋の警備員であった。
警備室に連れて行かれた。あんたの動きはすでにわかっていたんだ、と言われ、警察に通報すると言われた。その小柄な男は体の気配から武道をやっていることがすぐにわかった。わたしは始末書を書いた。哲学辞典は九州の実家に送られ、母が代金を払った。
母に迷惑をかけたと言う事より、盗みに快感があったという体験に驚き、その記憶がいつまでも残ったのである。それからの生活では金に困ることは無かったので、盗みに走ることはないが、マスコミで地位のある者が万引きをした、と報道されるたびに、盗みの快感、を思い出すのだ。