ブログ - 202407のエントリ
今月の読書会は平野啓一郎氏の(本心)と言う小説が材料であった。難しいテーマが良く書けているな、と言う意見がほとんどで、自分もそう思った。事故で亡くなった母親の分身を作ってもらい、主人公がいっしょに生活すると言う近未来小説である。ただ、その時の母親の本心が十分書けてていなかったことが残念であった。
自分は母を孤独死で亡くしていたから、その小説みたいに分身としてつくり、旅行につれて行ってやったり食事を作ってやったりすれば楽しいだろうと想像した。
そこで思い出したのは、昭和41年に政府の出した(期待される人間像)という言葉である。知性に富み、健康な国民に育つことを考え出してつくった像であったが、それが実際に青少年、自分も含めてであるが、にどんな影響を与えたか?を考えると、受験戦争ばかりを刺激して、自分みたいな不幸な男を造ったとしか思えない。小学校も含めて学校は教育と言う美名のもとの受験塾でしかなかった。個性を重視するのではなく学歴や偏差値で人を判断したに過ぎないのである。
人は不完全なものであるからトラブルを起こす。セクハラ、パワハラ、モラハラんどがニュースをにぎわし、愛知県知事みたいに二人の自殺者まで出して、県政に滞りが起こっているのである。いっそのこと、AIを知事にすればそんなトラブルは起こりえない。全く問題を起こさないようにデータを入力すればいいだけである。それが期待される人間像、そしてAI像になるのである。
時代がこのようにして変わっていけばAIが人間を支配し、世界を支配することになる。
毎朝、眼が覚めていやいやながら起き上がり、ブラック・コーヒーを入れて食パンを一枚食べる。起き上がれることを神に感謝しながら、心の中で、あと何年ですか?と聞いてみたくなる。神は応えてはくれない。今、77歳だから迫っているのは確実なのである。
四十年前、NHKの集金をしていた頃、ある家を二か月に一度、訊ねていた。宗像市の野添という部落で、払ってくれる老婆にはどこか違う雰囲気があった。ぽつりぽつりと身の上を話してくれた。どこかぽつんとした若者が家の中にいて、老婆は夜勤だからこの時間に家にいると言っていたが、引きこもりの孫であったことが今はわかる。
玄関のそばには古びた納屋があって、クワやスコップやワラ、カッパ、竹竿などが雑然と置かれていた。自分はなんとなく気にかかる雰囲気を感じていたが、老婆はある時、夫がそこで首をつって死んだと言った。
おれは死ぬ時、どうやって死ぬんやろうなア?といつも老婆に聞いていたが、彼女はわかるはずもなく黙っていたのであった。
その話は当時の自分には人ごとであった。今では自分のことになってしまった。あと何年生きて?どんな死にかたをするのでしようか?教えてください!と言いたくなったのである。自殺した納屋を見たいと考えてその納屋を訪ねたことがあったが、すでに取り壊され、新築の家が建っていた。
パワハラ、セクハラ、モラハラ、そして名誉棄損などにマスコミは過敏になっているが、学歴に関しては無頓着である。というより肩書に必ず掲載し、重要事項にしている。ここでもしわたしの身上が中卒だと無断で掲載されたとすれば、そして名の知れた者であれば、わたしの経歴は大きな痛手をこうむることになる。そればかりか傷をつけられることになるであろう。無断で掲載しているのかどうかはわからないが、学歴蘭が空白であれば、中卒あるいは高卒はないか?と疑われるかもしれない。こうなると学歴は身分の証明にも関連することになる。
いちおう、わたしは大卒であるであろう。というのは入学式にも卒業式にも出なかったが、学費は払っていた。その大学に入ったことですごい絶望感を抱いていたのである。臨時の肉体労働でこれまで生きてきて、いろんな人間にあってきたが、中卒の人に会って、自分より優れていると思ったことは何度もあった。
学歴は差別なのであり、日本が太平洋戦争に負けてもその考えは変わらない。今の日本は誰の子にうまれるかによって人生が決定されるということも変わりはしない。貴重な能力が失われていることに気づかねばならない。
メディアは学歴掲載をやめろ!と言いたい。あなたたち自身が差別をしていることに気づくべきである。
昨日の日曜日は、日曜礼拝で、この文句の説教があった。
自称小説家のわたしは、(コリントの信徒への手紙3・4・11)にある聖書のこの言葉を聞いて思い当たることがあった。言葉というものの不思議さとその力である。小説作品のその場面でどんな言葉を出すかはむずかしくてやりがいがあり、的確な言葉が出ると満足し、不適格の言葉しか出ないときは自信を失う。プロの作家もそうであろう。最近の小説は単行本にするのにページ数を要求されるせいか無駄な言葉や安易な表現が多すぎる。それでは作家は大量活字生産者になってしまう。なってしまっているかもしれない。消すことによって書く、と習ったわたしには書き込み過ぎることによってますます臨場感から遠ざかってしまうことがわかる。
例えばセクハラだとかパワハラだとか発達障害とかの俗語で形容したとすれば、その場面やキャラクターはその言葉に閉じ込められて殺されてしまうのである。文学作品ではなく、単なる俗文になってしまう。聖書のその部分は伝道で使う言葉が人々を神から引き離すことになったと述べている。
言葉は道具であり、本心を現せないから、霊の世界に戻るべきだといっている。言葉になる前は想いいであり感情であり夢・希望であったものが言葉に変えられたことで本質を失うのである。異言や聖霊が消されていくのである。
だが?と考えた。
日本古来からある言霊はなんであったのだろうyか?
言葉に霊が宿り、信仰にまでなっているのである。ふしぎなことである。これからその謎を勉強しようと思う。
図書館の読書会に入っていて、毎月出された小説の感想をしゃべり合ってる。小説を書いているのですごく良い勉強になっていて、入会時の自己紹介で住所と名前を言うと、(有名な方ですね)と見知らぬ主婦が言い、おどろいてしまった。有名になることはしていないつもりであったが、思い返せば噂になることはある。
なぜ有名なんですか?と聞いてみようと考えていたが、彼女は先月、来なかった。
(有名な出来事)について、考え、作品にしようとしているのである。四十年前、知り合いの男の女が、海に飛び込み自殺をしようとして、三度も家出し、わたしの住まいにやって来た。知り合いの男は出張して不在で、自分とその女との二人だけの生活が、合計するとおよそ一か月続いた。女と決着をつけると言ったその夜、知り合いの男は約束の時間に帰って来なかった。女と二人で電気炬燵で向き合っていたその時間、それは今思い返せば魔の時間であった。その時間に男は忍び足で帰って来て、抱き合っていた二人を怒鳴りつけ、女を連れて自分の部屋に行った。そして、続きをやりはじめたのであった。隣の家の主婦も叫びを聞き、出来事を知っている。
男と女は別れ、知り合いの男は暴力沙汰を繰り返し、措置入院になった。四十年間も閉鎖病棟に入ったまま、わたしのせいでこうなった、と言い続けていて、パーキンソン病?にかかり車椅子の生活になっている。
私の人生の中で最悪の出来事の一つであるが、そこには重大なテーマがひそんでいて、死ぬまでに書き終えることが出来るかどうかわからないが、取り組んでいる。
彼女は何度か電話をかけてきたが自分が不在であったこともあって、それっきりになってしまった。今どこに住んでいてなにをしているか?知りはしない。わたしは77歳なのであと何年いきるかわからないが、会いたい、と想いながらこのままこの世から消えそうである。
今、彼女はわたしの心の中では、生きてもいるし死んでもいる、のである。心の奥底に閉じ込めたまま、会いたいときに思い出す、のである。まさにシュレディンガーの猫のように、生きてもいるし、死んでもいる。
この言葉は有名な物理学者であるアインシュタインが、量子力学の考えに反対して放った有名な言葉である。量子力学はシュレディンガーの猫のたとえ話にあるように二者択一的な考えを否定している。毒ガスの出る箱に閉じ込められた猫は、今、生きているか?死んでいるか?と問われて死んでもいるし生きてもいると答えるのである。だが、既存の物理学はすべてを因果関係でとらえるのでそんな考え方はしない。量子力学は生と死の区分けをしていないのではなく、その両者が重なり合っていて、一方が現れるか現れないのか?と違いでしかないと言ってる。
神はサイコロを振らない、という言葉はすべては因果関係通りに進み、神のいうことをきかない人間は結果として罰を受けるといい、神を信じろといっている。
だが、すべての事象が因果関係の通りに進んでいれば、すべてに予測が立ち、地震も戦争も経済破綻も殺人も起こらないはずではないか?だが現実は秩序と因果関係の構造が壊れ、地震が起こり、戦争はなくならず、経済破綻が起こっている。因果関係の(破れ)である。自然現象にも恐竜はなぜ絶滅したのか?のように謎が多く、隕石がいつ落ちてくるのかもわかりはしない。
けっきょく、神はサイコロをふるしかないのである。
屋敷の草刈りに追われて、野菜に手が回らなくなった。産直に出すのはレモン、栗,柿くらいで野菜は食べる分しかつくっていない。とまと、オクラ、スイカ、キュウリ、ナス、ピーマンなどを数株植えているが、自分の子供の成長を見るようで楽しい。今年はスイカを食べにアナグマが来るのではと予想して、一つだけ実をつけた西瓜に厚地のネットをかぶせてやった。二年前は十株ほど植え、スイカが何十個もできたが、カラスに突かれ、アナグマに食われて散々な目に合った。去年はどちらも来なかったので今年も来ないでくれと言いたい。
三株ほど植えていたトマトが実をつけたが、一株だけどうしたわけか、枯れ始めたのである。根腐れ病にかかったみたいであったが、日に日にしおれていき、見るのが淋しくなった。ところが残った実は熟していくのであった。まるで老婆がしおれていくのを見るような気持になったが、実は紅を刺すように赤く熟していくのであった。食べて見ると、完熟ではないので渋かった。
まだ成長してないから、赤く熟してから食べてね!トマトはそう言っているのである。人間の心と同じではないか?と思う。トマトにも人と同じ心があるのである。子猫の動画をよく見て楽しんでいるが人間の心とそっくりであることがわかった。人権、人間への尊厳などというが、動物・植物にだって同じ生きる権利がある。草にだってそうである。
自然に恵まれた生活をしているのでどこにも出かける必要はない。感謝すべき生活である。
先月、この事件の公判が二度開かれ、修被告、浩子被告の証言で見えなかったことが見えてきた。あとは八月の公判で瑠璃被告が証言し、全容がおよそ見えるであろうが、それにしても言葉通りの猟奇性に満ちている。
自分の体験との関わり合い、身近な人間との関連性など好奇心がふくらみ過ぎていくのである。父親の修被告、妻の浩子被告が娘への溺愛のあまりあんな事件になってしまったこともよくわかったが、瑠璃被告の殺人行為の真相は八月の公判でわかるであろう。
ここで問題にしたいのは瑠璃被告の異次元世界のことである。瑠璃はすでに死んでいる、ちがう人間で生きていると言い、死んだ人間がゾンビになって自分と一緒に生き、生活していると言う妄想である。これは異常だた考えていたら実は宗教の世界の考えと共通している。自分が今通っている教会では、見えない世界にこそ真実があり、そこで生きるべきで、現実は仮想にしか過ぎないと言う。見えない世界とは霊の世界なのである。信者たちはそれを信じているし、まだ信者になりきれていない自分もやがて信じるようになるであろう。
だから、瑠璃被告は突拍子もないことを言っているわけではない。今、AIの小説を読んでいて、そこでも考えさせられることがある。それは2040年の近未来の作品であるが、そこで描かれているAIの世界はすでに迫っているのである。宗教も含めた仮想現実が科学的に解き明かされていくに違いない。
そうなると、これまで霊の世界に閉じ込められていた死者たちが生きた者として復活するかもしれない。キリストが磔刑で殺されながら、復活したそのことが現実もものになるかもしれない。