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昨日の朝、八時ころ、宗像市の三軒の産直店をバイクで回って来た。各店にギンナンを出しているので、売れ具合や品ぞろえの様子を見るためである。各店に十袋ずつ、一袋、100円で出していて、毎日メールで売れ行き情報が入って来る。、そんな値段なのにバクチでもしてるようなスリルを覚えてしまう。何ともわびしい、予想もしなかった老後である。コイン精米機に行って、ヌカを取り、それを500gに振り分け、一袋、50円で出したりしている。まるで、空き缶集めをしていたホームレスみたいだな、と友人に言われたが、そのとおりである。近頃は、ホームレスさえも見なくなったが、生活保護を受けて収容所みたいな宿舎で生活をしているのであろうが、その生活が自分にも迫ってきている。
産直店はどこも新年を迎える準備で忙しく、顔見知りの店員が走り回っていた。軒下には正月用のお飾りが所せましと並び、新年を待っていた。時代が変われど、日本人にとっては正月が最大の催事である。が、自分にとっては、この日記のタイトルにあるような心境である。が、やはり、どこかで期待する気持ちはある。文学賞をもらえるかもしれない、新しい女が出来るかもしれない、大損をしてる株で一発、当てるかもしれない。予想もしない、吉日が来るかもしれない。
今日は、竹の子山に行って、枯れ竹を燃やし、正月のお飾りでも探してこようか?いや、墓参りも庭の草刈りもしなければならない。
目が覚めていた。昨日はどこかの町を、契約取りで、忙しく回ったようだ。今日もバイクで、出て、回らねばならない。ヘルメットが見当たらないしもう一つ大事なものがない。顧客リストはどこに置いていたのか?携帯端末は?自分はどんな仕事であったかな?契約取りの仕事であったはずだが、回る地域がどこだったか?わからない。ヘルメットなしで回ろうか?作業用のヘルメットが倉庫にあったはずだな?それで間に合う、探してみようか?
同僚が打ち合わせのために、そばにいるようだ。彼の受け持ち地域に入ってしまいそうだが、だいじょうぶかな?
自分は、布団の中で目覚めていた。
そうだ、俺にはもう仕事がないのだ。
それがわかった。
二十三年間働いた仕事を辞める時、こんなことを考えていた。老いて認知症にでもなったら、懐かしい地域を訪れ、アパートやマンションの戸を叩いて回るのではないか?
ところが、心筋梗塞を起こし、入院して大手術をした。
退職・退院後、六年が経ち、物忘れが出てきた。認知症にまではいっていない。
予想通り、生活が苦しくなった。
それが不安になった。
町の、いろんな会の仲間たちと親しくなり、けっこう楽しくやっているが、働いていた頃の仕事の夢をよく見る。まったくく知らない町に行って、不安に襲われ、ノルマの達成できるかの不安も加わって、落ち着かない精神状態であった。
でももう、そんな不安に襲われることはない。
今日は今年、最後のカラオケ練習会に行く。身体障碍者の仲間たちが待っている。
昨日の日曜日は、いつものように教会に行った。信者と神について話をし、講演を聞き、賛美歌を歌った。帰ろうとして、少し離れた席の老男に気が向いた。新参の者で、二週間前から顔を見せていたが口をきいたことはなかった。頭が禿げ、歯が抜け、度の強いメガネをかけ、風采の上がらない男で、自分の分身みたいであった。
どうですか?と声を掛けると、彼も待っていたように寄って来た。
話を交えた。神の愛がわからない、脳溢血を起こして手術をしたが、毎日、リハビリで三時間、歩いている、飯を食い、糞をするだけで、話し相手もおらず、死んでしまいたい、と私に似たような生活、気持ちが伝わってきた。心臓バイパス手術の出来事をわたしは話し、障害者の会や年金の会、カラオケ教室に通っていることを話し、関心を持たせようとしたが、彼は彼のことにしか関心がないようであった。三日間も歩かなければ、歩き方がわからなくなってしまう、と言うのだ。腰に力を入れ、腿に力を入れ、脚に力を入れ、足先を出す、その順番を考えながら、筋肉に指示を出し、歩き始める、と言うのである。
わたしは、驚いてしまった。わたしでさえ、そんなことを足に指示しながら歩いいたことは無いし、そんな人がいるなんて知りもしなかった。ベケットの(名づけえぬ者)という小説を思い出した。そこでは、階段を上る男が、一段目に足を乗せる時、これが一段目なのか、もしかすると、0段目なのかと思い迷う場面が長々と書き出されて始まる。奇妙でユーモラスとも言えるのであるが、作者は真面目に書き続けている。ノーベル賞をもらっただけのすごい作品であった。
教会で会ったとその男は、仕事で、車の運転席に座ろうとして、突然、脳出血を起こして、体が動かなくなったという。彼を助け、救急車を呼んだ同僚に、何で俺を助けたんか!ほおっておけば、俺は死んでこんな人生を送らんですんだのに!と言ったという。家にこもり、後はリハビリの散歩をするだけで、車や電車に乗って出かけることも出来なくなった、という。
何とも辛い話であるが、わたしは違う世界を知って、心が湧いた。彼は安楽死を肯定することも言い、切腹の時首を撥ねる役人は悪者ではないと、自分と同じ考えを言った。
ある三十歳の女と知り合ったが、異性としてではない。
僕の書いた小説を読んで、涙が出た、脚本を読んでるように面白い、と言ってくれ、その言葉に心が動かされたのだ。これまでは、三回読んでも何を書いてるのかわからない、小説の書き方という本でも読んで一から出直した方がいいんじゃない、などの酷評ばかりで自信を失っていたのに、その好評だから、心を動かされずにはいられない。その上、彼女は欧米人風の美人でもある。
どんなきっかけで知り合ったか?
それは彼女のプライバシーがあるので書けない。
ラインでやり取りしているが、彼女の顔写真には女友達の顔と二つ並んでいる。これも不思議である。どんな関係なのだろうか?
彼女とは彼女の仕事上で、二年間、毎週、顔を合わせた。食事をしたい、と誘ったこともあるが、曖昧な笑いで避けられた。同時に、わたしは彼女と顔を合わせたくないという矛盾した感情がある。七十一歳の私から見れば、娘に等しい幼さだが、時々、女として、想い、考えてしまう。そんな自分が嫌なのでもある。
単為生殖、というのがある。ゾウガメに見られるように、無精卵が子供を作り、産むのである。さらに、ゾウガメは温度の変化によってメスにもオスにもなるという。女性がオナニーで、想像する相手によって、相手との子供が出来る、ことだって空想小説で考えられる。想像妊娠と言うのが現実にあるのだから、空想に過ぎないとは言えない。
現代の、性の境界を失いかけた時代において、単為生殖の事実は貴重なものである。
独り者の男や女に自分の子供が産まれるなんて、素晴らしいことではないか。
本当の(性の開放)の時代、その幕開けではないだろうか?天動説から地動説に変わったように。
変わり者の自分が異端者ではないことに、なるかもしれない。
自分にとって物理化学は不得意な学科であったが、高校時代から哲学や人生論には興味があった。哲学書を読み漁り、苦手であった物理化学を哲学的に置き換え、哲学に敷衍出来ないものかと考えてきた。
今では、量子力学の(重ね合わせ理論)にどうやら、展望があるように思える。シュレディンガーの猫、と呼ばれる理論ー毒ガスを入れた箱の中に猫を入れ、猫は死んでいるか?生きているか?と問うて、(生きてもいるし、死んでもいる)という答え。生と死という人間世界では対立してる概念が実は重なり合っているということを知った。
従来、自分も他者も否定するものへの視点も変わってきた。死、貧乏、孤独、醜、汚い、病気など否定されているものへの再評価が生まれてきた。すると、この世のすべてを受け入れられることになる。
(重ね合わせ理論)は人間社会や世の中を大きく、変えつつある。典型的なのが、社会の性的少数者の認知である。これまで、差別、排除されていた人々に光が当てられ、彼らの結婚まで認められるようになった。バイセクシャルと呼ばれる人たちは異性愛者でもあるし、同性愛者でもある。フタナリと呼ばれる人たちで一つの体に男と女の性器を持っている。男女、女男と呼ばれる人たちもいる。体と心が従来の性の分類には当てはまらないのである。
量子コンピューターは、従来の、0と1の組み合わせから、0でもあり、1でもある、と言う領域を見出し、活用し始めている。デジタル言語に組み合わせの数を飛躍的に増大させ、処理速度もすごく速くなるという。
従来の二項対立ではなく、二項同居なのである。対立概念では世の中や社会、人間はとらえきれなくなっている。これは政治や科学や宗教などすべての分野において適用される。退けていたものを受け入れられるようになれば人生も社会も政治も大きく変わる。
多様性の認知なのである。
現在、あるキリスト教宗派に研究生として、毎週、通っている。
そこでは全知全能の神を崇拝し、悪いことはすべてサタンを呼んで排除する。ある時、次のように神父に言った。神にとってはサタンが必要なのですよ、自分が正しいと主張するには、悪魔を作らなければならない。アメリカにとって彼らが正しいと主張するには北朝鮮と言う、非人権的な独裁国家が必要なように。実はサタンも神も重なり合っているのです。
神父は返事をせず、神は人類を愛しておられます、自分を信頼せず、神に頼りましょう、と言うばかりである。
実は、善や悪には峻別できないのである。すべては二項同居なのである。いや、多項同居であり、それが多様性なのである。従来は混沌という言葉で呼ばれていたが、多項同居、という言葉が生まれるに違いない。
昨日は庭で焚火をして、たまっていた枯れ木を燃やした。冬は焚火が楽しく、燃える火を見ていると心まで温かくなる。エアコンの暖気とはちがい、火には自然の魂がある。
独りで火を見ていると、今年も終わったな、と言う気持ちになった。来年は元号が変わり、(平成)がなくなるのである。その言葉と異なって、時代の終わりには北朝鮮のミサイル脅迫があり、何と多難に満ちた時代であったろう。自分の場合にも、心筋梗塞、バイパス手術、退職と波乱に満ちた老後、余生の訪れであった。
ある小説を書き上げ、投稿している。入賞するかどうか気になるが、自分の人生のあの頃を、書き上げた感慨がある。その時に経験したある男との確執三十五年後の今でも、まだ、続いている。昨夜は夢の中に彼が現れ、わたしは、彼を蹴り上げた。眠ったまま、頭をガラス戸にぶつけ、目覚めた。やばかった。頭をガラスで切っていたら、出血して死んでいたかもしれない。血液さらさらの薬を飲んでいるので、出血は止まりにくくなっている。
憎悪は死ぬまで続くであろう。相手も私を憎んでいる。その作品の中で、事の経緯は、原稿用紙六百枚ほどで書き上げているが自分の心の中からは消えないであろう。憎悪が悪いとは、考えない。生きるエネルギーなのである。
庭先の焚火でしまゆ平成や
我が町は来年、町会議員と町長選挙がある、という。自分は、五年前に加わった海老津駅南開発反対運動で、政治と民意を知って、政治には興味を失っていたが、住民の多くは誠実な人が多く、この町の自然の良さに惹きつけられて、越して来た人が多い。ところが、町政は彼らの希望とは逆の方向に進み、今度の選挙においてもその流れが変わるとは思えない。
南開発に二十億円の金を出し、それは財政の三分の一にあたるのだが、開発が失敗であったことは誰の眼にも明らかである。地下通路を利用する者はおらず、バイパス道路を走る車は少ない。町は財政が苦しくなって土地を売ったり、公共施設の利用料金の値上げをしている。
現町長も退き、町議も三人は引退して入れ替わるらしい。それで変わるかと言えば、票田が変わらない以上、何も変わりはしないし、票田を引き継いだ者が当選するという構図になっているのである。票田とは大地主、有力企業、大手団体である。彼らは政治家と絶えず、酒を酌み交わし、献金をし、懇意の中である。そんな場において、町長や議員たちは彼らに酒を注いで回り、よろしくお願いします、と言う。票田は開発を議案にすることを望む。大地主の土地が値上がりし、企業誘致が成功して工事が増えれば良いのである。日常が買収行為なのである。
そこに一般町民の入り込む余地はない。彼らは請願や陳情を出すことは出来るが、議会にかけられて、町長・利権派に一蹴されるのである。
五年前に海老津南開発賛成派だった議員に訊ねたことがあった。
「北九州で駅の地下通路を作ったら、利用者が多い、としきりに訴えていたね?今、利用者は何人くらい?」
「知りません」
「ほとんどいないじゃないか?自分の言ったことに責任をとらないのか?」
「あなたにそんなことを言われる筋合いはありません」
この程度である。彼は年金の受給が少ないから、町議になったという。
小学校・中学校の友達が票田の母体である。
この構図は国政とまったく、同じである。
この流れを変えるとしたら、浮動票が動き、(良い街づくり)を主張する立候補者に投票するようになった時である。
わたしはもともと学校の成績が悪く、高校では物理、化学で赤点を取った。が、量子力学、それを哲学的に敷衍することには興味があり、物理・科学を哲学的に考える傾向がある。
最近、性的少数者が新聞にもよく取り上げられ、捉え方や結論づけにマスコミも戸惑っている。そのことは自分自身や性に対する考え方がからんで興味深い。以前のブログにも両性具有のことは何度も書いているが、今回、量子力学との関係づけに思いついた。
性的少数者の分類は以下のように分けられる。
1男でありながら男に性的関心がある。
2女でありながら女に性的関心がある。
3男女(おとこおんな)であって男女に性的関心がある。
4男女であって女に性的関心がある。
5男女であって男に性的関心がある。
以上の分類に分けられるであろう。
1 0である。
2 1である。
これは従来の物理学の考え方でデジタル言語を構成している。
3 0である。1である。0でもあり1でもある。
これは量子力学の考え方である。これを取り入れることで量子コンピューターは組み合わせが増え、飛躍的な数のデジタル言語を産み出し、すでに電気機器の様々な分野で活躍している。人間の生き方においても性的少数者を認めることで、多様性を認め、人生が豊かになり、考え方や思想・文化に大きな影響を与えることはまちがいない。
0でもあり、一でもある、というのは、男でもあり女でもある、と言う現象である。
その時代の流れの中で、(レア)も、変わり者、と言う世俗の印象から、希少、という位置に持ち上げれれるのである。だから、自分が他人と異なることに劣等感をもってはいけないし、社会に貢献していることを堂々と自己主張をすべきである。
わたしは小説が好きで、自らも駄作を書いているので、書く側の立場もわかる。時に、自分の作品への反省も込めて、現代の小説を読むことがある。新聞に取りあげられたものなど、本屋で立ち読みしたり、図書館で借りたりする。すると、意外なことが分かって来た。どの小説も書き出しから、長たらしいばかりで、いつまでたっても入口が見えないのである。カフカの(城)は偉大な作品で、(城)入り口が見えないことがテーマであるから、それが狙いだということがわかるが、それほどの作品でもないものに、いつまで読んでも活字が並んでいるばかりというのは腑に落ちない。しかも、それがノーベル賞作家、芥川賞作家、さらにベストセラー作品であるということになると、文学界への不信を抱いてしまう。それに評論家の立場である。彼らは間違いなく出版社の宣伝屋であるのであるから、評論家などとさも意味深い仕事の肩書など、つける理由はないし、時には作品の欠点なども指摘すべきである。
現代日本文学で古典として残るものは村上春樹の初期の小説くらいであろう。彼の初期以降の作品は長ったらしいばかりで読み進む気がしない。それに、小説家が新聞などに顔写真を出したり、大学の講師や役職をもらったりするのはおかしい。昔の小説家は、極貧生活の中から、傑作を生みだしたり、刑務所の中で書き上げたり、そんな不遇の環境が作品を作り上げたのである。
これは文学の世界だけでなく、芸術の世界一般に言えることである。
それに本の値段にはページ数がからんでいることもおかしい。だから、作家は長ったらしく書くのであろう。
一か月前に、ギンナンを庭の水道水で洗った。残り水を畑に捨てた。すると、驚くべきことに土の下からジャガイモが姿を現した。コブシほどの大きさである。よく見ると、チップを播いた地面の上に、枯れ枝を燃やした炭が載っていた。土はポロポロ状になっていた。同時に、ジャガイモの葉は薄い緑であった。これはチップが効いた場合に生じる現象である。一つの茎に二、三個のジャガイモが出来たのである。肉じゃがにして食べると、栗のような香ばしい味がした。
他方、チップと米ぬかを混ぜた土は出来が悪く、親指サイズのジャガイモが下の方に出来ていた。チップの効いた方は、地面に浮き出ていた。たぶん、表面の黒炭を求めたせいではないか、と思われる。もう一つの畝はそこで枯れ枝を燃やした場所であった。ナスが通常の二倍ほど生育していた。
これで、自信がついた。
来年の二月にジャガイモを植えるので、土づくりに取り掛かっている。
夏にはトマトやナス、キュウリ、ピーマンなどが庭を飾るであろう。