ブログ - 202506のエントリ
この句を書いたのは一年前であったと思うが、今、梅雨空から夏が近づいて来て思い出した。印象深い光景であったがあの時の蟻がどこに行ったのか?は知らない。今、空を見上げると雨が降りそうな気配である。こんな時、蟻の統率者は天気を予報して実行するべきかどうか?考えるのであろう。この仕事には何匹の蟻がいるのか?とか、どのルートを通って巣穴に戻るのか?など、人のリーダーが計画を練るように思案するはずである。片手の半分ほどの蜘蛛の群れが石や草を踏み、水たまりを超え畑の中の巣穴まで運ばなければならないのである。巣穴では女王蟻と無数の子供たちが待っているのである。蟻の脳の中でどのように考えがめぐるのか?、役割分担をさせて運ぶなんて大変な作業であるが、人の何万分の一かの大きさの彼らがやる行動は驚くべきというしかない。緻密な伝達はどのようにするのであろうか?テレパシーをつくという者もいるがまだはっきりと解明されてはいない。
近ごろ、スマフォでユーチューブをよく見るがその記事には日本礼賛が多い。記憶に残っているのは日本は技術力や国民性を含めて世界の未来がであるのではないか?、と書いている。若いころ左翼であったわたしは半ば疑いながら昨今の社会情勢を見るにつけ、もしかするとそうではないか、と考えてしまう。どこの道路も通り道もゴミ一つ落ちておらず、枯葉もない。人は清潔な服装で静かな対応をする。騒ぎもなく、電車の中も静かである。昭和の騒動の時代を生きた自分にとって、同じ日本なのか?と疑ってしまう。
(同調圧力)と言われる力があり、それはある意味でファシズムではないか?とも考える。もし、日本が戦争に巻き込まれ、戦争を起こしたりすれば太平洋戦争以上のい力を発揮するに違いない。
この蟻の群れのように乱れず、着々と戦いをを進め、(とてつもない)結果を出すのではないか?
一昨日、あることが思い出せないことに気づいた。毎月、銀行に入金されている金がどこからのものであったか?ということなのであるが、思い出すのに三十分くらいかかり、シルバー人材からの給料であることが分かったが、これが仕事上のことであれば大変なことになるだろう。それに、仕事に出る前に持参する物の点検を何度もするが何かを忘れていることがたびたびある。
また、、朝の目覚めの気分がすごく悪い。ともかく、体が起きるののを嫌がっているのである。今日は仕事もカラオケも麻雀も礼拝もないので起き上がらなくてもいいのであった。が、三十分もぐずぐずに堪えられず、起き上がってしまい。パンを焼いてコーヒーを飲み、スマフォを開いてニュースを見、草取りをはじめ、いつものペースがもどった。毎日、投稿している俳句の句を考え、このタイトルのものになった。
初めは、神が時間を作った、というタイトルにしようか?と考えていたのである。聖書の創世記に、光あれ、と神が言われ光ができ、世の中ができた、とあるが、これがいかにすごい言葉であるか、考えた。それまでは闇であったので物が見えなかった。見えないということは無いのと同じである。光ができて見えるようになり、月や太陽の動きがわかり、その変化が時間を産んだのである!神は海や陸を作り、そして、生命の初めに人間を作り、いろんな生命を作って管理を人間に任せた。それからのことは聖書に書いてる通りである。教会で聖書の勉強会を開いているがこれからは読む部分を決めて進めようということになり満足している。聖書の分量は大きすぎて、通読するのは大変なのであるし、学ぶところはたくさんある。自分はクリスチャンにはなれないが、研修生としてすすむつもりである。小説を書く上においてもすごく勉強させられるのである。
物忘れ生きてることを忘れしや、には当分ならないようである。
朝方、病院に行くついでに、あの空き地に寄った。勝手に入られてビワの袋をかけられたことは二つ前のブログに書いている。袋はかけられたままであったが、破られているものがあった。黄色くなった実を取って食べてみた。少し、酸っぱかった。
甘くなるまでもう少し待ってね!
ビワがつぶやいていた。
どうして?、
だってまだ実がじゅうぶん大きくなっていないじゃない。
そういえばそうだな。
大きくなった時に食べて実を土に落として欲しいのよ。
なるほどな・・・。
病院の待合室で、こんなやりとりを想像していた。
でも、誰がそんな仕組みを作ったのだろうか?熟してから食べるような仕組みを?
人間にはとうてい作れないし、ほかに作れるものはいない。
そこで考えるのは聖書の創世記に書いてる言葉である。神が生きよ!増えよ!と言って自然を作ったと書いてある。
クリスチャンにはなれないが、この部分だけは信じている。
土曜日は健康マージャンの日で楽しく過ごした。公民館に二十人ほどの会員が集まり、和気あいあいとゲームに興じた。わたしは親の倍満をつもり、上機嫌になったが、自分の動きが鈍く仲間たちに迷惑をかけていることに気づいた。手の前には17個の牌を二段に積み上げ、捨てはいは6個ずつ前に並べることになっているのだが、その数が間違ったりして、仲間がなおしてくれる。それは点数には加算されないのであり、十年前までは数まで数えてきちんと並べることなどなかった。名札を胸に下げて、カードを取って、席を決めることなどルールが徹底していて、トラブルもなく三時間を有意義に過ごしたのであった。その日の午前中はカラオケ同好会で、違う公民館でまた楽しく過ごした。そこもルールが徹底していて回覧板が回ってくると読んだサインうするのである。会費も安く、こんなことで楽しくすごせるなんてありがたいことである。
だが、ちがう視点にはまった。ユーチューブで法人客の会食動画を見るがそれも面白く、外人が異国に来て寿司を食べ、おいしいおいしいといって喜ぶ場面も見ていて楽しい。清潔な国、電車も時間通りに来る、親切に対応してくれると誉め言葉だらけである。だが、この前、規則が多すぎるとある外人が言ったことが印象に残った。快適なのはルールをまもっているからである。
その外人は日本は世界一の自殺国、農薬の使用も世界一、ということを知っていたのであろうか?興味がある。自殺者が多いのはルールずくめであるから自分がいやのなってしまうからだろう、それに、害はないと説明書に書いてあるから農薬を日常的に使うのであろうがそれが怖いことだと思わないのである。以前そんなことを言う者がいたので、じゃあその除草剤を飲んでみろ!といったことがあった。
もしかするとこの国は世界を支配するのではないか?と考えてしまう。戦争が起こればまちがいなくどんな国も降参させてしまうかもしれないが、その前に快適ルールで洗脳してしまっているであろう。