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弱さが強さに勝る時。

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日記
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nakamura 2018-11-19 18:29

  今日は宗像市東郷にあるバイク屋に、バイクの修理をしてもらいに行った。そこが良心的で費用も安いと知っていたからである。バイクの燃費がすごく悪くなっていたので、プラグが悪いのか点火時期のずれではないかと、考えていた。そこの、経営者かね修理工は、まず、満タンにして走行距離を計って燃費の悪さを調べて来てから来た方が良いですよ、とすごく良心的なことを言った。彼は80歳に近い高齢者と言う事もあって、話が、長話になった。

 車の話になって、日本車はぶつかると、ボンネットを凹まして、韓国からは日本は弱い車を生産してると非難されているが、実はそうではない。強いフレームを作るのは簡単であるが、そうすると、運転者にぶつかった時の衝撃がもろに来て、運転者は車から飛び出して、死んでしまう。だから、バンパーやボンネットを弱くして、衝撃を吸収させているというのである。

 そこで、学んだことは弱さが強さに勝る、ということであった。

 これは、古い日本女、そして、軟弱と言われる政権のも通じるのではないかと、考えた。

自死を引き受ければ悩みは消える。

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日記
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nakamura 2018-11-12 5:58

  キリスト教を聖書で学び、教えてもらいながら、およそ一年が経とうとしている。それをテーマにした小説も完成した。どんな評価を受けるかわからないが、自分では満足しているし、意外な発見もした。

 宗教の存在の意義だとか、イエスの生き方、信者達の考え、キリスト教の本質、などいろんなことを見出したが、自分の立っている場所、その意味合い、を知ったことは大きな収穫であった。一年間も、学びながら、神を感じることは無かったし、祈ろうともしなかった。それが不思議なことで、若い頃であればまちがいなく、手を組んでいたはずである。

 つまり、祈ることがないのである。自分の余命はうまく生きてあと、十年ほどであろう。家庭もなければ、夢もない。いつ死んでもいい、心境であるし、死を待ってもいるのだ。

 いつの間にか、そんな心境になってしまった。

 そこで考えるのは、近代以前の日本人は切腹も含め、死を引き受ける構えがあった。元服の儀式にあるように、切腹を作法から学んだのである。それに引き換え、擬制の民主主義と資本主義に毒された現代は、死を否定し、長生きする商売の大繁盛である。

 死んではいけない、苦しんではいけない、悩んではいけない、と、ないないずくし、を普及させ、そうしておいてたっぷりと金儲けのために利用するのである。いっそのこと、死を引き受けてしまえば、すぐにでも消える悩みは山ほどある。

全人類が病人になる日。

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日記
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nakamura 2018-11-5 10:34

  先日の、毎日新聞に、人の心を極度に読めない人のことを、アスペルガー症、と名付けていた。自分の周りにも何人かいる。その性格と暴力常習が加わって、生涯を精神病院で送りそうな男、一日中引きこもりの生活を十年近く送っている女、など近頃、増えている。認知症もその部類に入るようになるかもしれない。

 前項の二人は、人の心を全く読めないわけではない。社会人としての生活を送って来た経験もあるのである。人は皆、生存本能があるので、まず、自分を中心に考えて行動するが、同時に他人の気持ちを考える余裕も持つ。その二人は、その余裕がほとんどなくなり、こんなことをし、あるいはしゃべるとどんな結果が出るかの予測が出来ず、その能力がすごく劣っている。他人とトラブルを起こしtれも、相手のせいにする。

 一昔前であれば、一つの性格として片づけられていたのである。それに、精神病の病名が与えられた。精神病理学会は新しい病名をさも新種のように発見し、外科的な発見をせず、自分たちの社会的存在を訴えている。精神の反応や性格などは物質のレベルで分析、判定できなければならないのに彼らにはまだ出来ないのだ。

 間違いなく、病名付けの順番を待っている人々がいる。

 変わり者、そして、レア、である。

 自分はこのホームページで、それらを、希少と定義づけているが、権威派、多数派の勢いには勝てそうにない。その流れは、すべての人類を精神病者にし、正常者は精神病に関わる業界の者だけになるであろう。

エロビデオをつくる日。

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日記
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nakamura 2018-11-5 6:29

  わたしのような、色気違いにとって、風俗店やエロビデオは救いの神であり、風俗嬢やビデオ制作者に深く感謝しています。彼らがいなければ、わたしは性犯罪で逮捕されるか、刑務所入りになっているかもしれません。(こんなわたしが、今は聖書の研究者なんですから?)私たちは、性犯罪の防止もしているのよ、と言った風俗嬢の言葉が思い出されます。

 エロビデオを単に楽しむために見ているわけではありません。素晴らしく興奮させてくれる作品もあれば、何の役にも立たないものがあり、趣味で小説を書く者として、研究、勉強をさせてもらっているのです。わたしにとって、この世のすべての人や事物は研究の対象なのです。自分自身でさえもそうなのです。

 勃起させてくれる作品をみれば、製作者の意図や狙いが見えてきます。男監督そして、まれに女監督がいますが、彼らの個性によって作り方の工夫の違いがあり、その監督の感性(下着に凝る、キスシーンが多い、女のお尻の方にカメラを向けてみる、など)とわたしや視聴者のそれがシンクロナイズした時、心が燃え、下半身が燃えるのです。ほとんどのビデオはそんなことを考えない、粗悪品が多いのですが、自分にピッタリ合った物に出会ったときは、感動します。死ぬまで、持っていたいビデオが十本ほどあり、棺桶の中に入れて欲しいものです。何十人にもわたる愛人?たちと、天国に行ければ幸福です。

 死ぬまでに、自分の感性を最高に発揮したエロ・ビデオをつくりたいです。

 ”淫行”そのものは芸術でもあります。

 その思想を手っ取り早く、小説の中でも挑戦してみたい。

創られたキリスト像。

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日記
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nakamura 2018-11-3 18:11

  聖書を学び始めて、一年弱になるが、そろそろキリスト教の全体が見え始めた感がある。

 四十人の使徒によって書かれ、世界の宗教人口のトップを占めるキリスト教はやはり、偉大であり、神秘感と謎に満ちている。信者たちは、神の霊感によって書かれたものであるから、一般の書ではない、特別なものと考えてるが、わたしは、どうやら正体が見えた、と思う。

 信者たちのように神を信じ、祈りたい、と思いながら、祈ることがないことに気づいた。いつでも死んで良い、人生が壊れても良いし、さらに、余命が近い男に今さら、祈ることなどあるはずがないのである。信者たちに、祈って神が答えてくれるか?と訊くと、答えてくれるという。よく考えると、彼らには神がかりや霊感があるにちがいないし、自分にはないのである。

 それに、聖書は人の手によって編集されたものである。どのようにか?と言えば、神は素晴らしい、偉大であるから信じなさい、という命題に基づいている。高校の世界史の教科書にも載っているようにキリストは実在したのである。困っている人に慈善をつくし、助けたことはまちがいないが、奇蹟の数々、ハンセン氏病患者の病気を治した、水の上を歩いた、死人を生き返らせた、などということは噂が事実に替えられたのである。私が住んでいる片田舎でも、噂が独り歩きし、否定する者が現れなければいつの間にか事実になってしまうことがあった。ある評判の悪い女が、死んだ、同居している愛人の男が葬儀のために庭の草むしりをしていた、などと尾ひれまでついて、噂が一時、飛び交ったことがあった。当人は糖尿病が悪化して寝込んでいたのだが、死人にされたのである。キリストの奇蹟もそうであろう。あのように偉大な人であるから、死人を生き返らせる力がある、水の上でも歩けるに違いない、ハンセン氏病でも治せると、妄想が肥大化していき、伝承が事実の顔になったのだ。

 そして、イエスの弟子たちは神が人の原罪を取り除くために彼をこの世に使わし、尊敬を集めてカリスマ性帯びて来たので、為政者や他の宗教の祭司たちが、彼を処刑した。キリストは自分の任務は、原罪を贖う事だと知っていたので、処刑されることによって、務めを果たした。そのように、編集され、キリスト教は世界一の宗教になったのである。

 偉大な(作品)である。

無礼講になったハロウィン騒ぎ。

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日記
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nakamura 2018-11-2 5:11

  東京・渋谷のハロウイン騒ぎは、ひどい状態であったようだ。数千人の若者が集まり、乗用車を倒し、その上に立って、叫んだり、女の体に抱きついたり、喧嘩をしたり、酔っぱらっての大騒ぎ、で、すごい熱気を感じる。自分の若い頃の、反体制を中心にした騒乱状ぎを思い出す。

 当時は、新宿が中心であった。              

 広場でアジ演説をし、酒を飲んで騒ぎ、公園の陰で、男と女がキスをしていたり、男同士の殴り合いが始まり、フーテン(乞食)が汚い西口通路の路上に座っていたり、ほぼ毎日が、先日のハロウィン騒ぎであった。あの頃、超高度管理社会、という言葉が出回っていたが、まさしく、過労死、さえ出る社会が生まれた。エアコン、パソコン、スマフォ、ラインなど利便性、ネット交流、情報機器の発達は息苦しくなるほど、社会に氾濫しているが、その息抜き(無礼講)はなくなった。職場での忘年会、新年会、送迎会もへり、無礼講や息抜きの機会がへり、セクハラ、パワハラの記事が横行し、男たちは欲情の行先を失いつつある。

 その中でのハロウイン騒ぎは、迷惑だとか良くないとか論じる前に、祭りの日、として無礼講の日として、とらえるべきではないか?

不自由を楽しむゲーム。

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日記
執筆 : 
nakamura 2018-10-24 18:21

  十月十四日の、身障者の体育会を振り返ってみると、意外なことに気づいた。ゲームの半数以上は、不自由を楽しむものであった、ということである。音響競争は視覚障碍者がタンバリンの音によって、目的地に着くことであったし、福笑いは、目隠しされた競争者が白地の紙に、目や鼻や口をマジックで描く競争であったし、風船運びは二人が棒を担いで間に風船を挟んで走るゲームであったし、パン食い競争は口でパンを食いちぎるゲームであったし、それらは、不自由がゲームの基本になっていたのである。これは障害者だけでなく、健常者にも通じることである。日常的には、不自由は良くないことと見做されているはずなのに、楽しみの対象になっているのである。

 ここで世間の一般常識が、いかにいい加減なものであることを訴えたい。一般常識に振り回されて犠牲になってる人間がいかに多いことか?新聞やラジオに人生相談のほとんどは一般常識に基準を置いた者達の泣き言である。レア、はそうではない。変わっている、ことに価値を置くのであるから。レア・ジョブという会社だって存在しているのである。レア、であることに誇りを持つべきである。

身障者が健常者に勝つ日。

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執筆 : 
nakamura 2018-10-15 12:43

  昨日は、秋晴れの日、(身障者の体育大会)があった。遠賀町、岡垣町、芦屋町、水巻町と四つの町の連合で、ボランティアや関係者など、およそ百人が集まり、賑やかで面白かった。自分は心臓バイパス手術を受けて、身障の四級であるが、体力もあり、ほとんど健常者に近い状態である。

 風船遊び、お掃除上手、魚釣り競争、恋人合わせ、パン食い競争など、皆、顔を輝かせて楽しんだが、ラストの(車椅子200メートル競走)が白眉であった。五名ずつ、各町から出場したが、車椅子を日常的に必要としない者、毎日使っている者が混じっていて、我が町には使っている者が二人いて、どうなるものか?と思案した。

 結果は我が町の一位であった。それは事前の予想通りで、日常的に車椅子を使っている者は圧倒的な速さを見せた。(最初から、ハンディを付けるべきではなかったかな?)などの会話を自分は親しい者と交えたが、日頃は身障者は弱い、と考えられていた先入観が見事にくつがえされたことは驚きであった。

 平均年齢が100歳に近づいているが、それに比例して障害者は増える一方である。認知症も加算すると、人口の過半数を占める時代がやってくる。社会のシステムをはじめ、すべての環境がバリアフリーになっていくであろうし、考え方だって、障害者のそれが基準になっていく。

 時代や社会が逆転する、のである。AIも加わり、旧人類の健常者たちは、レアの地位に落ちていくのである。

自産、自炊、自食。

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執筆 : 
nakamura 2018-10-11 8:23

  二十歳のころから、自炊生活を始めた。五十年間、たまの外食を除いて、自炊、孤食である。帰郷してからはそれに、野菜作りが加わった。振り返ってみると、食べ残して捨てることは、年に二、三回ほどしかない。

 考えてみれば、これはすごいことである。多くの主婦が料理やそのローテーションに悩んでいるらしいが、自分にはほとんどなく、いつも美味しくいただいている。しかも、安い費用と新鮮さで食べているのであるから、感謝すべきである。自分で栽培した野菜を時々、産直店に出しているので農家への感謝と同時にその実態もわかってくる。

 自炊の一つの例として、まず、豚骨の場合である。一握りで百五十円ほど出せば買える。鍋に玉ねぎ一個と豚骨の半分ほどを入れ、弱火で四十分ほど煮る。スープが出来たら、まず、ラーメンをつくってみる。どんぶりに、醤油を大スプーン一杯ほど入れ、次にスープを入れる。先に醤油を入れた方が混じりやすいのは焼酎のお湯割りをつくるのと同じ原理である。それに茹でた面を入れ、後は焼き豚、シナチクなど好きな添え物を入れる。

 次のスープの利用法はおでんである。

 次のスープの利用法はカレーライスである。

 次のスープの利用法は煮物や佃煮づくりである。

 百五十円の豚骨で五つの利用法がある。

 以上の料理は二、三回にわけて、食べるので食べ残しはない。

北朝鮮に暴力団はいない。

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日記
執筆 : 
nakamura 2018-9-25 7:02

  北朝鮮には暴力団はいない、それは国家自体が暴力団であるからだ。

 ある男が、二十年前に言ったが、その言葉が時々、思い出される。なるほどと思うし、それは北朝鮮だけでなく日本もアメリカも国家また、組織自体が暴力を根底にして成立しているからである。宗教団体であっても集会中に乱入者がでれば110番通報するに違いない。

 東京で大学生活を送っていた頃、新宿のコンパ(大衆バー)で独り、酒を飲んでいた。隣席の見知らぬ男が話しかけて来たので、雑談をしていると、(いい仕事があるんだけど、やってみませんか?なーに、バンドの連中の動きを見てるだけでいいんですよ)と言った。返事を保留していると、名刺を取り出して、自分に渡した。・・興行、と所属団体が書いてあったのでピンと来た。当時、自分は空手をやっていたので、逞しい男に見えたのであろう。スカウトされたのである。それから、歌舞伎町の喫茶店に入ったりして、二人で時間を潰したが、始発電車が出る頃に、彼は姿を消していた。

 今、暴力団は取締り・壊滅作戦にやられ、脱退者も増えて、組織は末期の状態にある。逆に、政権は憲法を改正して軍備力を強めようとしているから、国家権力の強化と暴力団・反体制勢力とは反比例の関係にあることがわかる。暴力団の消滅と共に日本は北朝鮮と同じ一党独裁国家の本質を現すにちがいない。擬制の民主主義が正体を見せるであろう。

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