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わたしは小説が好きで、自らも駄作を書いているので、書く側の立場もわかる。時に、自分の作品への反省も込めて、現代の小説を読むことがある。新聞に取りあげられたものなど、本屋で立ち読みしたり、図書館で借りたりする。すると、意外なことが分かって来た。どの小説も書き出しから、長たらしいばかりで、いつまでたっても入口が見えないのである。カフカの(城)は偉大な作品で、(城)入り口が見えないことがテーマであるから、それが狙いだということがわかるが、それほどの作品でもないものに、いつまで読んでも活字が並んでいるばかりというのは腑に落ちない。しかも、それがノーベル賞作家、芥川賞作家、さらにベストセラー作品であるということになると、文学界への不信を抱いてしまう。それに評論家の立場である。彼らは間違いなく出版社の宣伝屋であるのであるから、評論家などとさも意味深い仕事の肩書など、つける理由はないし、時には作品の欠点なども指摘すべきである。
現代日本文学で古典として残るものは村上春樹の初期の小説くらいであろう。彼の初期以降の作品は長ったらしいばかりで読み進む気がしない。それに、小説家が新聞などに顔写真を出したり、大学の講師や役職をもらったりするのはおかしい。昔の小説家は、極貧生活の中から、傑作を生みだしたり、刑務所の中で書き上げたり、そんな不遇の環境が作品を作り上げたのである。
これは文学の世界だけでなく、芸術の世界一般に言えることである。
それに本の値段にはページ数がからんでいることもおかしい。だから、作家は長ったらしく書くのであろう。
一か月前に、ギンナンを庭の水道水で洗った。残り水を畑に捨てた。すると、驚くべきことに土の下からジャガイモが姿を現した。コブシほどの大きさである。よく見ると、チップを播いた地面の上に、枯れ枝を燃やした炭が載っていた。土はポロポロ状になっていた。同時に、ジャガイモの葉は薄い緑であった。これはチップが効いた場合に生じる現象である。一つの茎に二、三個のジャガイモが出来たのである。肉じゃがにして食べると、栗のような香ばしい味がした。
他方、チップと米ぬかを混ぜた土は出来が悪く、親指サイズのジャガイモが下の方に出来ていた。チップの効いた方は、地面に浮き出ていた。たぶん、表面の黒炭を求めたせいではないか、と思われる。もう一つの畝はそこで枯れ枝を燃やした場所であった。ナスが通常の二倍ほど生育していた。
これで、自信がついた。
来年の二月にジャガイモを植えるので、土づくりに取り掛かっている。
夏にはトマトやナス、キュウリ、ピーマンなどが庭を飾るであろう。
今日は宗像市東郷にあるバイク屋に、バイクの修理をしてもらいに行った。そこが良心的で費用も安いと知っていたからである。バイクの燃費がすごく悪くなっていたので、プラグが悪いのか点火時期のずれではないかと、考えていた。そこの、経営者かね修理工は、まず、満タンにして走行距離を計って燃費の悪さを調べて来てから来た方が良いですよ、とすごく良心的なことを言った。彼は80歳に近い高齢者と言う事もあって、話が、長話になった。
車の話になって、日本車はぶつかると、ボンネットを凹まして、韓国からは日本は弱い車を生産してると非難されているが、実はそうではない。強いフレームを作るのは簡単であるが、そうすると、運転者にぶつかった時の衝撃がもろに来て、運転者は車から飛び出して、死んでしまう。だから、バンパーやボンネットを弱くして、衝撃を吸収させているというのである。
そこで、学んだことは弱さが強さに勝る、ということであった。
これは、古い日本女、そして、軟弱と言われる政権のも通じるのではないかと、考えた。
キリスト教を聖書で学び、教えてもらいながら、およそ一年が経とうとしている。それをテーマにした小説も完成した。どんな評価を受けるかわからないが、自分では満足しているし、意外な発見もした。
宗教の存在の意義だとか、イエスの生き方、信者達の考え、キリスト教の本質、などいろんなことを見出したが、自分の立っている場所、その意味合い、を知ったことは大きな収穫であった。一年間も、学びながら、神を感じることは無かったし、祈ろうともしなかった。それが不思議なことで、若い頃であればまちがいなく、手を組んでいたはずである。
つまり、祈ることがないのである。自分の余命はうまく生きてあと、十年ほどであろう。家庭もなければ、夢もない。いつ死んでもいい、心境であるし、死を待ってもいるのだ。
いつの間にか、そんな心境になってしまった。
そこで考えるのは、近代以前の日本人は切腹も含め、死を引き受ける構えがあった。元服の儀式にあるように、切腹を作法から学んだのである。それに引き換え、擬制の民主主義と資本主義に毒された現代は、死を否定し、長生きする商売の大繁盛である。
死んではいけない、苦しんではいけない、悩んではいけない、と、ないないずくし、を普及させ、そうしておいてたっぷりと金儲けのために利用するのである。いっそのこと、死を引き受けてしまえば、すぐにでも消える悩みは山ほどある。
先日の、毎日新聞に、人の心を極度に読めない人のことを、アスペルガー症、と名付けていた。自分の周りにも何人かいる。その性格と暴力常習が加わって、生涯を精神病院で送りそうな男、一日中引きこもりの生活を十年近く送っている女、など近頃、増えている。認知症もその部類に入るようになるかもしれない。
前項の二人は、人の心を全く読めないわけではない。社会人としての生活を送って来た経験もあるのである。人は皆、生存本能があるので、まず、自分を中心に考えて行動するが、同時に他人の気持ちを考える余裕も持つ。その二人は、その余裕がほとんどなくなり、こんなことをし、あるいはしゃべるとどんな結果が出るかの予測が出来ず、その能力がすごく劣っている。他人とトラブルを起こしtれも、相手のせいにする。
一昔前であれば、一つの性格として片づけられていたのである。それに、精神病の病名が与えられた。精神病理学会は新しい病名をさも新種のように発見し、外科的な発見をせず、自分たちの社会的存在を訴えている。精神の反応や性格などは物質のレベルで分析、判定できなければならないのに彼らにはまだ出来ないのだ。
間違いなく、病名付けの順番を待っている人々がいる。
変わり者、そして、レア、である。
自分はこのホームページで、それらを、希少と定義づけているが、権威派、多数派の勢いには勝てそうにない。その流れは、すべての人類を精神病者にし、正常者は精神病に関わる業界の者だけになるであろう。
わたしのような、色気違いにとって、風俗店やエロビデオは救いの神であり、風俗嬢やビデオ制作者に深く感謝しています。彼らがいなければ、わたしは性犯罪で逮捕されるか、刑務所入りになっているかもしれません。(こんなわたしが、今は聖書の研究者なんですから?)私たちは、性犯罪の防止もしているのよ、と言った風俗嬢の言葉が思い出されます。
エロビデオを単に楽しむために見ているわけではありません。素晴らしく興奮させてくれる作品もあれば、何の役にも立たないものがあり、趣味で小説を書く者として、研究、勉強をさせてもらっているのです。わたしにとって、この世のすべての人や事物は研究の対象なのです。自分自身でさえもそうなのです。
勃起させてくれる作品をみれば、製作者の意図や狙いが見えてきます。男監督そして、まれに女監督がいますが、彼らの個性によって作り方の工夫の違いがあり、その監督の感性(下着に凝る、キスシーンが多い、女のお尻の方にカメラを向けてみる、など)とわたしや視聴者のそれがシンクロナイズした時、心が燃え、下半身が燃えるのです。ほとんどのビデオはそんなことを考えない、粗悪品が多いのですが、自分にピッタリ合った物に出会ったときは、感動します。死ぬまで、持っていたいビデオが十本ほどあり、棺桶の中に入れて欲しいものです。何十人にもわたる愛人?たちと、天国に行ければ幸福です。
死ぬまでに、自分の感性を最高に発揮したエロ・ビデオをつくりたいです。
”淫行”そのものは芸術でもあります。
その思想を手っ取り早く、小説の中でも挑戦してみたい。
聖書を学び始めて、一年弱になるが、そろそろキリスト教の全体が見え始めた感がある。
四十人の使徒によって書かれ、世界の宗教人口のトップを占めるキリスト教はやはり、偉大であり、神秘感と謎に満ちている。信者たちは、神の霊感によって書かれたものであるから、一般の書ではない、特別なものと考えてるが、わたしは、どうやら正体が見えた、と思う。
信者たちのように神を信じ、祈りたい、と思いながら、祈ることがないことに気づいた。いつでも死んで良い、人生が壊れても良いし、さらに、余命が近い男に今さら、祈ることなどあるはずがないのである。信者たちに、祈って神が答えてくれるか?と訊くと、答えてくれるという。よく考えると、彼らには神がかりや霊感があるにちがいないし、自分にはないのである。
それに、聖書は人の手によって編集されたものである。どのようにか?と言えば、神は素晴らしい、偉大であるから信じなさい、という命題に基づいている。高校の世界史の教科書にも載っているようにキリストは実在したのである。困っている人に慈善をつくし、助けたことはまちがいないが、奇蹟の数々、ハンセン氏病患者の病気を治した、水の上を歩いた、死人を生き返らせた、などということは噂が事実に替えられたのである。私が住んでいる片田舎でも、噂が独り歩きし、否定する者が現れなければいつの間にか事実になってしまうことがあった。ある評判の悪い女が、死んだ、同居している愛人の男が葬儀のために庭の草むしりをしていた、などと尾ひれまでついて、噂が一時、飛び交ったことがあった。当人は糖尿病が悪化して寝込んでいたのだが、死人にされたのである。キリストの奇蹟もそうであろう。あのように偉大な人であるから、死人を生き返らせる力がある、水の上でも歩けるに違いない、ハンセン氏病でも治せると、妄想が肥大化していき、伝承が事実の顔になったのだ。
そして、イエスの弟子たちは神が人の原罪を取り除くために彼をこの世に使わし、尊敬を集めてカリスマ性帯びて来たので、為政者や他の宗教の祭司たちが、彼を処刑した。キリストは自分の任務は、原罪を贖う事だと知っていたので、処刑されることによって、務めを果たした。そのように、編集され、キリスト教は世界一の宗教になったのである。
偉大な(作品)である。
東京・渋谷のハロウイン騒ぎは、ひどい状態であったようだ。数千人の若者が集まり、乗用車を倒し、その上に立って、叫んだり、女の体に抱きついたり、喧嘩をしたり、酔っぱらっての大騒ぎ、で、すごい熱気を感じる。自分の若い頃の、反体制を中心にした騒乱状ぎを思い出す。
当時は、新宿が中心であった。
広場でアジ演説をし、酒を飲んで騒ぎ、公園の陰で、男と女がキスをしていたり、男同士の殴り合いが始まり、フーテン(乞食)が汚い西口通路の路上に座っていたり、ほぼ毎日が、先日のハロウィン騒ぎであった。あの頃、超高度管理社会、という言葉が出回っていたが、まさしく、過労死、さえ出る社会が生まれた。エアコン、パソコン、スマフォ、ラインなど利便性、ネット交流、情報機器の発達は息苦しくなるほど、社会に氾濫しているが、その息抜き(無礼講)はなくなった。職場での忘年会、新年会、送迎会もへり、無礼講や息抜きの機会がへり、セクハラ、パワハラの記事が横行し、男たちは欲情の行先を失いつつある。
その中でのハロウイン騒ぎは、迷惑だとか良くないとか論じる前に、祭りの日、として無礼講の日として、とらえるべきではないか?
十月十四日の、身障者の体育会を振り返ってみると、意外なことに気づいた。ゲームの半数以上は、不自由を楽しむものであった、ということである。音響競争は視覚障碍者がタンバリンの音によって、目的地に着くことであったし、福笑いは、目隠しされた競争者が白地の紙に、目や鼻や口をマジックで描く競争であったし、風船運びは二人が棒を担いで間に風船を挟んで走るゲームであったし、パン食い競争は口でパンを食いちぎるゲームであったし、それらは、不自由がゲームの基本になっていたのである。これは障害者だけでなく、健常者にも通じることである。日常的には、不自由は良くないことと見做されているはずなのに、楽しみの対象になっているのである。
ここで世間の一般常識が、いかにいい加減なものであることを訴えたい。一般常識に振り回されて犠牲になってる人間がいかに多いことか?新聞やラジオに人生相談のほとんどは一般常識に基準を置いた者達の泣き言である。レア、はそうではない。変わっている、ことに価値を置くのであるから。レア・ジョブという会社だって存在しているのである。レア、であることに誇りを持つべきである。
昨日は、秋晴れの日、(身障者の体育大会)があった。遠賀町、岡垣町、芦屋町、水巻町と四つの町の連合で、ボランティアや関係者など、およそ百人が集まり、賑やかで面白かった。自分は心臓バイパス手術を受けて、身障の四級であるが、体力もあり、ほとんど健常者に近い状態である。
風船遊び、お掃除上手、魚釣り競争、恋人合わせ、パン食い競争など、皆、顔を輝かせて楽しんだが、ラストの(車椅子200メートル競走)が白眉であった。五名ずつ、各町から出場したが、車椅子を日常的に必要としない者、毎日使っている者が混じっていて、我が町には使っている者が二人いて、どうなるものか?と思案した。
結果は我が町の一位であった。それは事前の予想通りで、日常的に車椅子を使っている者は圧倒的な速さを見せた。(最初から、ハンディを付けるべきではなかったかな?)などの会話を自分は親しい者と交えたが、日頃は身障者は弱い、と考えられていた先入観が見事にくつがえされたことは驚きであった。
平均年齢が100歳に近づいているが、それに比例して障害者は増える一方である。認知症も加算すると、人口の過半数を占める時代がやってくる。社会のシステムをはじめ、すべての環境がバリアフリーになっていくであろうし、考え方だって、障害者のそれが基準になっていく。
時代や社会が逆転する、のである。AIも加わり、旧人類の健常者たちは、レアの地位に落ちていくのである。