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昨年の今頃にもこのブログを書いたが、一年間,生きて、また書くことになった。
昨日の日曜日は、カラオケ教室の発表会であった。およそ、180人が歌うことになっていて、10番目に走裕介の(北のひとり星)を歌った。体調は良かったが、喉に痰が執拗にたまり、声が詰まった。顔見知りの女から、飴玉をもらい、だいぶ収まった。マイクを手に取った時、十分に落ち着いていることがわかった。歌詞の一語一語を意識し、どのように振舞うかを考えながら歌えた。成功であったが、二三か所痰が絡んだ声であった。
先生が指で丸印を付けて寄って来た。(声が心と一体化した時が最高にうれしいのよ)と言ってくれ、自分の心理を突いていた。言葉が詰まり、涙が滲んだ。(どうしたの?)と聞かれても声が出なかった。
後で、何人かにも褒められ、淋しいのや悲しい歌が自分の声にあってることが分かった。
舞台の袖口に立って、歌う人にマイクを手渡し、戻ってきた人から受け取る仕事にかかった。お願いします、お疲れさんでした、と声を掛け、正面からのライトを浴びて暑かったが、楽しかった。小柄でヨボヨボのお爺さんが座って順番を待っていた。今にも倒れそうな歩き方をしていたので、大丈夫ですか?と訊くと、舞台には出れるけど、歌い始めて、後ろにひっくりかえるかもしれんからその時は頼みます、というので少し怖くなった。84歳と言った。
曲が流れ始めると、彼は舞台の中央に歩いて行き、歌い始めた。
あまり上手ではなかったが、少し、後ろに仰け反るようになったので駆け寄ろうとしたが、踏みこたえ、無事に戻って来た。安心した。
あとで思い出し見ると、よく出場している人で、あんなに弱った状態で歌う意欲に感動した。自分が生きているとすれば十年後の姿かもしれなかった。
わたしたちはマスコミを通さないと、出来事や事件、世の中の動きを知ることが出来ない。マスコミとは関所のようなものである。マスコミにとって都合の悪いことは出さないことが、彼らの身を護る術になってしまう。
NHKで集金業務をやっていた時、全体会議の中で、こんなことが放送部の管理職の口から話された。新聞社から電話があって、ある読者がNHKについて批判的な投稿をしてる、ということであった。管理職はその人の住所と名前を聞いて、謝罪に訪れたと話し、具体的に新聞社の名前まで出していた。それで、新聞の投稿欄に記事は出なかったのである。
こんななことが日常的に行われているのである。
創価学会、共産党、作家の不祥事などは特別な事件を起こさない限り、出ることは無い。作家の場合は小説家であったりして、新聞社系列の出版社の言わば身内であるからであり、その他に記事に出来ない団体や人はたくさんある。だから、わたしたちはその団体や個人のことを知ることが出来ない。微妙なセクハラや微妙な暴言、微妙な人権の記事がすごく氾濫している半面、千兆円のもわたる日本の借金、それが減るどころか増え続けていること、凄まじい環境破壊を環境のせいにしていることなどは単発の記事で片づけられている。
ネットの記事が勢いを増して、テレビが消えることも取り上げられることは無い。テレビは新聞社の系列になっているからである。このようにして自分達が洗脳されているのに、テレビをほとんどの人が観ている。自分で考える力を失った依存症の人であろうし、中には巧みに取捨選択をしている人もいるであろう。
わたしはこの十年くらいテレビを全く観ていない。新聞はとっているが、契約が切れたら、とらないつもりである。自分が取材者みたいなものであるから、日常のちょっとした動きや話に耳を傾け、人や社会について考える。すると、逆によく見えるようになったことに気づく。
ある知り合いの女が町会議員に立候補するので、よろしく頼むと、私の知り合いの女に言ったそうであった。わたしはその話を聞いたが、関心はあまりなかった。信念ではなく、生活費が欲しいから立候補する者がほとんどであるから、票の欲しさに、八方美人的言動をとる者には関心がなかったからである。
議員は国民の代理人であるという考え方はあるが、御用聞きであってはならない。信念を貫くべきである、と考えている。
立候補するという60歳の女に電話を入れてみた。
(どんな理由で立候補したのですか?)
(A団地の老人の人たちが坂道が多くて、買い物に苦労をしていますし、コミュニティバスも便数がへっているおです。だから、彼らを商店街の傍に移住してもらえば商店街も活性化しますよね?)
(買い物の苦労をしているのはA団地の老人だけではないでしょう。それをするのであれば普通の人の車に相乗りが自由にできて、少しの金でももらえるように法律を変えた方が早いし、その方が移転の費用も掛からないじゃないですか?)
(・・・)
(商店街の傍に移住したとしても商店街に魅力がなければ行かないし、買い物もしないでしょう。それより、海あり山あり、のこの町の自然を大事にし、活用すべきではないでしょうか?)
(そうですね。今、海岸に行ってもビナも採ると、逮捕されます)
(漁師の人たちの生活の種ということは十分わかりますが、逆に観光地として、利用したらどうかと思いますけど)
(東北大震災にみられるように津波が起こったら怖いですよね。だから、避難場所をつくってはどうかと漁師の人たちに話しました。そしたら、賛成してももらえました)
三十分間も話したが、彼女に信念と言えるものは見当たらず、思いつきばかりであった。商店街への移住の話だって、移転先の土地はどうするのか?費用対効果はいくらくらい見積もっているのか?など突っ込んでいくと、答え切らなかった。正直に言うと、子どもの発想であった。彼女が公共施設建設反対運動に加わったり、政治家の批判をよくしていたので、もう少し骨のある話をしてくれるかと考えていたが、落胆した。
彼女は落選するであろうが、当選する立候補者たちは票田を持っている者達ばかりである。町内の有力企業の酒席に行って、社長に酌をしたり、手土産をやったり、そんなことをしていれば、(票は金で買えるのである)
現代は(性の混乱)の時代であるが、誰も冷静な対応、考え方を持ち合わせず、政治権力さえ、取り組みに途惑っている。マスコミは毎日、セクハラ、性的少数者、盗撮などの記事で紙面を埋めることで、購読者の眼を引くことしか考えていない。少しでも、性に対して(不適切発言)(不適切行為)があれば、それが原因で失職したり、企業が謝罪文を出したり、酷い場合は倒産したり、映画の上映をやめたり、恐るべきと言うほど、女難(この言葉さえ不適切表現と糾弾されるかもしれないが)の時代である。
それはすでに世界的な潮流になっている。
誰かが儲けるために火を付けてるという噂を耳にしたが、よくわからない。
日本人は、学校での性教育の分野でも遅れており、それにみられるように、絶えず、世間や世界の目線に対して臆病な民族である。これでは、最も遅れた国になってしまうかもしれない。
まず、有識者を政府が募って、性学部を設けるべきである。
話は変わるが、先日、私の加入している(年金の会)で交流会が行われ、七十名の会員のところ、六十名が参加した。会食をしたり、音楽を聴いたり、酒を飲んだり、カラオケを歌ったりして、大いに賑わった。
特に、高齢者たちの演奏した音楽には皆、感動し、涙を流したものが多く、わたしもその一人であった。ギター、和琴、アコーディオンなどの楽器はまさに人の心の色彩を微妙に奏で、琴線に触れた。その前にも、女性フォーラムで三十人ほどの会員が集まり、感動した日があったのだ。
そこに私は女性の感性、能力を知った。
男が会合を設けるとすれば、酒やカラオケなどの定番であるが、女の場合であれば演奏会、料理、子育てなど分野の広がりが大きく、彼女らの方が社会としっかり繋がっているのである。一般企業も女の考え方や見方、感性を取り入れねば業績が下がってしまう。
けれども、わたしもそうであるが、女との付き合いは難しい。良い思いもしたが嫌な思いもし、あなたは女の気持ちを知らない、と言われたこともある。それはその通りである。
だから、交通ルールにみられるように、性学部をつくって、男と女の交通整理が必要なのである。
産直店に野菜や花を出している。わたしの家は広くて、亡くなった母が色んな花や木を植えていたので、伐採は大変であるが、一年中、収穫の楽しみがある。産直店に出品する要領も自然に分かってきて、いろんなものを出し、わずかな小遣い銭ほどにはなるが、生活費に消えてしまう。今は水仙、フキノトウ、ヌカ、もみ殻などを出している。
そして、沈丁花に初めて、手を付けた。
これが売れるかどうか、全くわからず、値段の付け方もわからなかったが、一枝150円で出してみた。四本出したが、二日間で売れた。それに味をしめて、十日間ほど、毎日、出した。
足の膝の高さにしかない二本の木であったが、何とも可憐な花である。まるで、処女のような姿と淡い赤色で、ひっそり咲いていた。それを毎日、切り落とし、店で値札を付けて出す、・・心が痛んだ。たくさん咲いてる水仙に対しては心の痛みなど全く感じないのに、沈丁花に対しては、涙が出た。娘を身売りに出す父親の気持ちである。自分の貧乏に対する悲しみである。
すべての花を出し終えて、残った枝を切って、二十本ほど、挿し木にした。
来年は、これから芽が出て、花を咲かせるかもしれない。
自分の生活も、見売りに出さなくてもいいようになってて欲しい。
これまで、小説なるものを書いてきたが、ホームページは別として、一度も活字にも本にもならなかった。体験の部分は良く書けているがそれ以外は、何を書いているのかわからない、もう一度小説の書き方から勉強してみたらなど、の意見があった。書いた自分は満足しているのに意外な言葉に落胆していた。小説を書くとはどういうことなのか?自分なりに、考え続け、傑作を何度も読んだ。
結局、料理と同じであると、結論付けた。材料負け、現実体験をそれだけに執着して、乗り越えきらなかったのである。昨年の夏から、ある若い女に読んでもらって、スラスラ読めた、涙を流した、の感想をもらって、俄然、書く気になった。以前の作品に手直しを入れて、長編を二作、書き上げた。文学賞に応募しているので、来月号に予選の結果が出る。物忘れが出始めたうえ、記憶力の悪い自分が、読者を泣かせるほどのものを書けたとは驚きであった。
料理を作る時は、泥を落とし、皮を剥き、調味を考え、野菜の味の混ぜ合わせを考えたりするが、作品を作るとはまさにこのことである。想像力、創造力が要求されるが、小説の場合は、その作品のレシピはないし、似たようなものが出来たとしたら、失敗である。あくまでその作者しか書けないものを書くことが要求される。
素材の味、現実体験の味を失わないように、そして、読者に味を楽しめるようにと、書いた。
料理をすることによって、体験を客観視し、俯瞰した。それによって心の中にわだかまっていた過去をある程度、ご破算することが出来たように思う。
(罠に掛かった子イノシシ)も短編に仕上げられそうな気がして、取り掛かっている。
毎日、山歩きをしているが、三日前に山道のそばに子いのししがいるのを発見した。瓜坊から少し大きくなったくらいで、毛も黒く、一メートルほどの体長であった。罠に掛かってるのかと考えて近寄ると、体にワイヤが巻き付いていて、逃げようと走り回っていた。ワイヤは木の根元に巻き付いていた。
どうしたものか?と迷いながら、役場の産業振興課に電話した。そこが猟友会の関係先でもあり、女子職員に、子いのししの所在場所を教えた。猟友会に連絡するとの返事であった。
一昨日、また山歩きをしていると、子いのししは同じ場所で逃げようとして動き回っていた。役場は土曜日で休みだったので、交番に行って相談した。(御主人はそのイノシシをどうしたいのですか?)と意外な質問が返って来た。(可哀そうじゃないですか?このまま飢え死にするまで放置するのですか?それにわなを仕掛けた者の住所も電話番号も書き出されていない。知ってる猟師にメールをすると、それは法令違反だといっている)(法令違反ではありません。それにイノシシは有害獣なのです)と言い、犯罪行為でもないそんなことに関わっている時間はない、と言いたげな気持ちが分かった。
自分で何とかやってみます、と答えた。
昨日は、食パンとミカンを持ってその場所に行った。子いのししは相変わらず、動き回っていて、近寄ると私の体の体当たりするような動きを見せた。みかん、ジャガイモ、食パンを投げてやると、鼻で吹っ飛ばすようにしながら、食パンは少し食べた。ワイヤをペンチで切ってやろうか、体のワイヤを外してやろうか?と考えたが、動きが速すぎるし、どうも怖い。
知り合いの漁師の所に行って相談した。勝手に罠を外したりすると、仕掛けた者が怒るかもしれない、と言う。こんな場合は猟友会も手が出せない、と言う。とりあえず、餌をやって、わなを仕掛けた者が回って来て発見するのを待とうと考えた。夕方に、水で米糠を溶いたのを持って行ってやった。
子いのししの姿が消えていた。ワイヤの巻き付いていた小さな木は鋭利な刃物で切り落とされていた。誰かが切って、離してやったのだろう。
一安心したが、妙に気持ちに引っかかるものがあった。野性・自然と人の関係である。確かに有害獣であるが、誰が有害獣にしたのかと言えば、人間がしたのである。四、五十年前までは、イノシシが里山に降りてくることは無かった。自然が破壊され、仕方なく降りてきているのである。
そこまで人間が自然を破壊したということを考えねばならない。
(イノシシは有害獣だから、餌をやってはいけないのよ)と言った女もいた。(見殺しにするのか?)というと、黙り込んだ。問題提起になりそうな出来事であった。
馴染みのスーパーマーケットに食材を買いに行くと、食用の小形ジャガイモが並んでいた。あまりにも小さく、親指二つほどの大きさであるが、一袋が99円で、四十個ほども入っている。すごく安いが、一個ずつ皮を剥いて食べるには、面倒だ。種芋にしようと考えたが、店頭に並ぶ場合は発芽をしない薬を使っていることがある。店員に尋ね、調べてもらうと、発芽するというので、思い切って全部、十二袋を買った。
畑には枯草チップを載せて準備を終えていたが、燃やして燻炭にはなっていない。チップは水を蓄えているので燃えにくい。好天を待って、燃やしてからジャガイモを植えようか?と迷っていたが、とりあえず、植えておいて、それから燃やそうと考え、ジャガイモを土の中に埋め始めた。ジャガイモを生産した農家は小さすぎて、そんな値段で出荷したのだろうが、儲けにはなっていない。ジャガイモは成長しても何個かには養分が行き渡らずそんな発育不良が出来てしまう。人間や動物の場合だってそうである。
ジャガイモの顔を観ると、みんな、小さくて可愛い。
半年後には収穫することになる。ゲンコツほどにも大きくなっているだろうか?一株に四個なったとして、なんと二千個も出来る事になる!可愛い顔を観ながら、それだけの子供たちが産まれることを想うと、変に、楽しく、怖くなってしまった。
何かが変だ?
どこかがオカシイ。
オカシクナッタ。
三十年前から、新聞やテレビを見るごとに、考えていた。
わからなかった。
今、わかったような気がする。
1960年から1980年まで、反権力闘争を見聞した者として、わかった。反暴力や平和主義は本来、左翼が訴えていたものであったがそこには(闘い)が潜んでいていて、矛盾対立を孕んでいた。新左翼が連合赤軍浅間山荘事件で、自滅し、新興宗教に勢力を奪われて、自民党政権は長期にわたって権力の座につき、時間をかけて権力の支配権を握り、知恵をつけてきた。
それは、反暴力を訴えることで、国民の反抗心を奪い、権力を譲り渡さないと言うやり方であった。セクハラ、パワハラ、幼児虐待、ヘイトスピーチ、暴追放など権力の暴力以外はすべて禁止するという裏の政策であった。マスコミは被害者のことは書くが加害者の心理などは一切書かない。それは加害者に与する、という考えから来ているがそんなやり方では真実は見えてこない。ともかく、暴力は悪い、と言うだけであるが、永遠のモグラ叩きにしかならず、読者が増えればそれで良いのである。
わたしは、長男が小学生の頃、よく、殴ったが、悪かったとは思わない。
もう一度、暴力の本質を問わねばならない時に来ている。それはエネルギーの一つである、という考えであり、それが良いか悪いかなんて言えはしない。
先週の金曜日、自分の家の竹の子山に行った。イノシシが出て、竹の子を食い荒らす時期だから、対策に頭を悩ませ、有刺鉄線を張ることを思いつき、様子を見に行ったのである。上下に二本張り、✖印状にしようと考え、そうすると三百メートルのもなる大変な作業だと結論づけた。
山道を歩きながら帰っていると、道を走っていた軽自動車の中から、若い男が自分を呼び止めたので話した。猪猟に来て、わなを仕掛ける場所を探してると言い、自分の山に仕掛けてくれ、とすぐに答えた。二人で、自分の竹の子山に行った。
彼は、ここが通った跡ですね、成獣で50キロぐらいかな、と幅十センチほどの地面を指差し、これは体についてるダニをこすり落としたあとですね、と黄色く汚れた孟宗竹の幹を指差し、さすがにプロであった。今度、来て、カメラとわなを仕掛けるという。
捕ってどうするの?
食べるのです。
どのようにして殺すの?
鉄の槍で突き殺すのです。感謝の気持ちが湧いてきます。自然の一部を頂いてるという気持ちです。
彼は都会からやって来た者で、自然が大好きだという。住まいの近くにサッカー練習場があるが、スポーツより猟の方が楽しいという。
私も同感であった。
昨日、メールが入った。カメラと罠を仕掛けたが、罠にはまだロックを掛けていて、金、土曜日にロックを外すという。
若いのに自然が好きだという言葉に自分は感動し、殺す場面を見させてくれ、と言うと、彼は了解した。
ジョージ・オーエルの小説(象を撃つ)、ジャック・ロンドン(荒野の叫び)を思い出した。同時に自分の書き終えた小説の中で、箱檻の中の猪を鉄槍で殺す場面があることを思い出した。
殺す側の人間がどんな心理状態になるか?に自分は関心がある。
片足が罠に掛かった猪を鉄槍で突き殺すわけだから、闘牛士のような心理であろう。絶体絶命の緊迫状態、すべてを忘れた時、それに酔い、絶頂に達し、射精したと自分の作品には書いている。