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年金の会、障害者の会、カラオケ会などに入り、役員をまかされたこともあって、忙しい毎日になった。チップ農法で作った玉ねぎを十人ほどに配った。皆が、喜び、柔らかくて香ばしいので、サラダにしたという。わたしが考えてた通りになって自分も嬉しい。食べ物は皆が喜ぶので、楽しさ二倍である。
三日前、(年金の会)の会計をしている老人の家に、集金した会費を持って行った。6月から、わたしが会計を任されることになっているので長話になった。彼は88歳で一人住まいだが、孤老たちに弁当の配達をボランティアでしており、バイクに乗り、車の運転もしている。長話をしてるうちに彼のケイタイには三度もかかってきた。先日、行ったグランドゴルフの時の写真を近所の老人たちに配り、お礼の電話であった。玄関のチャイムが鳴った。彼が立ちあがって行くと、竹の子の煮つけをつくったので昼ご飯に食べてくれと、老婆がしゃべっていた。近所の人である。
彼はこの前、衣料品店の前を早朝、散歩していて財布を拾った。8万円の金が入っていたので、交番に届けたという。自分であれば生活が苦しいので着服したであろうが彼は元国鉄マンで年金がいいのである。近所の老婆がほとんど毎日、おかずを作って持って来てくれるという。孤老の寂しさはなく、苦しみ半分である。
理想的な生き方であるが、私たちにも出来ないことは無い。
コイン精米機でヌカを取って来て売ってる、と言う自分の身の上話をすると、食事を一緒にした時は自分の分は同席の者が払うようになった。嬉しいのか悲しいのか、半々であるが自分の力だけで生きているのではないことが分かる。
私は女にもてないけど、女はたくさん居る。それはエロビデオの世界であるが、良い作品に出会えば現実の女以上の魅力に富んでいる。昨日は、部屋の隅に放置していたDVDを見つけ、観てみた。すっかり忘れていたものであった。
皺くちゃ婆ちゃんと孫のからみであったが、かなり興奮した。快感に酔う婆ちゃんの顔に赤みがさし、酔だれるような色気を帯びてくると、美しくなった。銀歯を見せて髭の剃り跡のわかる口元であっても、醜くはなかった。ピンクのブラジャーとパンティも色気をそそった。
私は、単に楽しんでいるばかりではない。監督がどのように考えて、観てる者の欲情を引き出そうとしているのか想像し、学ぼうとするのである。監督の欲情の源と自分のそれが一致した時、燃えるのである。芸能や芸術や商品は、制作する側と鑑賞する側の共感が原則である。女の監督の場合であると、視点が少し変わってくるので面白い。
レズの場合も面白いし、最近はホモのビデオも出始めているようだ。出会う女を映像の世界に引っ張り出して、自分で制作し、楽しむのも良い。どんなことをしても罪にはならないし、金も手間も省ける。神が人に想像力を与えてくれたことは喜ばしいことである。
今回の我が町、岡垣町の選挙は面白かった。十三人の定員のところ、八名が立候補し、そのうち九人が新人であった。事前にいろんな噂や話が乱れ飛び、結果がまるでギャンブルの予想(失礼な書き方をお許しください)のように注目を集めた。
特に、新人たちの結果が見ものであり、その日のネットに出ていた。確実な票田を持っている旧議員は全員、当選していたが、新人は予想が大きく外れた人がいた。ある中年の主婦の場合、父親が顔の売れた男であったせいか、娘はおとなしすぎてよくしゃべらず、意欲が見えなかったが、五百票弱をとってもう一歩で当選するところであった。父親の威光がはっきり見えたし、こんな人が議員になって何が出来るか?と考えさせられた。もう一人の独身女性の場合、交通事故で脚が不自由になり、二つの杖をつきながら町内をいつも歩き、出会った人と立ち話をしているが、場当たり的な意見が多く、選挙公報にも、公約は当選してから決めます、と直筆文字で書いていた。結果は百票であったが、そんな好い加減な考えの人に百票も集まるなんて?と訝った。
コンビニの前で、下半身を露出し、チンチンの先にリボンをまいて踊った?という男性も数百票(特定出来るので正確には書きません)とってもう一踏ん張りであった。
自然を大切にし、無駄な開発はしない、と訴えた人に自分は票を入れたが最下位の百票であった。それぞれ、予想が大きく外れた。
自分に、今度の町長選挙に出なさい!と叱咤激励する知り合い女がいる。顔が広く、応援してあげる、皆に振れて回ると意気込んでいるのである。(自然の命・人の命)という政党をつくってみたいと考えていたので町長選に関心はある。町政の民営化も考えている。自然農法のも取り組み、いろんな会にも参加しているのである程度の顔は売れている。
でも、結局は人気投票なのである。
変わり者、として嫌われることのある自分が人気に乗れるか?
どんな噂が立つか?大いに関心のあることである。
パソコンやスマフォの発達は怖いくらいである。どこに行き行くのか予想がつかないが、人類の未来にほぼ百パーセントは関わっているし、人々の考えや期待に関係なく、一方的に進んでいるのである。わたしはその二つの分野においては初心者の段階であるが、逆にAIが重大なことを見落としていると考える。例えば、ある日わたしは山道を歩いていた。すると、道のわきに栗の丸太が放置されていて、片手の平ほどの立派なシイタケが二十個ほども生えていた。放置されたものであるから、それを採ってバックに入れ、持ち帰った。
その山道の上の方に、自分の竹の子山があって、今もそうであるが、竹の子掘りに行くのである。バイクで行くので歩いて行くことはまずない。と言う事は、シイタケが生えていることを見落としていたわけである。
その付近に蜜柑山や竹の子山を持っている人も車で移動しているので、そのシイタケを発見することは出来ない。利便性に頼ったがために見落とすのである。デジタルは便利で効率的であるがゆえに多くのことを見落としている。マスコミは視聴率に反映されない番組は作らないから、ほとんどが大衆迎合である。日本の負債はどうするのか?とか自然破壊はどこまで進んでいるのか?遺伝子操作野菜によって人のDNAはどのように変化しているのか?など、取り上げようとはしない。
それらは積もり積もったバクとなって一気に滅亡のベクトルになるであろう。
春が来て体に元気が出てきたが、俄然、忙しくなった。一千坪ほどの竹の子山に行くと、イノシシが九割は掘り尽くしていた。根元に、竹の根が張り巡って掘りにくい所や急斜面になって掘りにくい所が残っていてそれらを探し当てて、汗まみれになって、一週間ほど掘った。持ち帰って庭で火を焚き、湯がき、水洗いし、姿を整えて、産直店に出した。例年の本分くらいしか出ておらず、売れ行きは良かった。
次は畑と庭のほぼ三百坪を埋め尽くした雑草を草刈り機で刈り、一週間かかった。枯れると畑の上に載せて燃やし、ちっぷ農法の実験を兼ねて、トマト二十本、ナス十本、ピーマン、しし唐、コショウなど植えた。障害者の会の事務局長にさせられ、打合せたり、来賓で呼ばれたり、忙しくなった。
自然界に活気が出ると同時に人にも活気が出て来た。来月から、元号も変わる。世の中の変わりようも確実に迫っている。均質化のベクトルであるが、それがどんな結果を産むかは定かではないが、多様性と循環という自然の摂理に沿って行くであろう。聖書に出てくるように、神の王国が近づいているのか?洪水が迫っているのか、渦中にいる限り見えはしない。
花は、人の手によって子孫を残すため、美しいという印象を残すように美容整形をしてる、と前回のブログで書いた。では、醜い花は存在しないはずではないか?と考えてネットで検索すると、載っているのある。「世界で最も醜い花」と言うふれこみで(スマトラオオコンニャク)が出ていて、(インターネット投票)で世界一醜いと言われて、選ばれたと書いてある。が、真偽が疑われる。その花は自分が醜いと知って、そんな顔をしているのであろうか?
いや、そんなはずはない。
自分が美しいと考えて、そんな花になったのである。そこに人の美観と自然の美観の違いが現れている。(スマトラオオコンニャク)は確かに一般の美観に基づいてはいない。女の性器を想像させる(これは私が女に対する執着心を持っているせいであるが)クリトリスとびらんを露骨に現しているが、超現実的な妖美を感じさせるのである。それを芸術的な価値観で見るか通俗的なそれに委ねるかのちがいである。
自然界の美と人間界のそれが違うということである。
その教会は、、一戸建ての家ほどの大きさで、天井の高いゴシックスタイルであった。ドアを除いて、厚い一枚板で造られ、全身、緑色に塗られていた。時々、脱色しかけた外壁を信者たちは力を合わせて、刷毛で塗った。
定期的に通う信者は十数人であったが、全員、老人であった。慎ましい顔で、パイプオルガンから流れる演奏に合わせて、賛美歌を歌い、聖句を読み、神父の話を聞き、両手を組んで祈った。
自分はその中で一番若い71歳であった。
日曜礼拝に通い始めて一か月になったが、その夜は初めて祈祷会に行ってみた。七時ころ、着くと、団地の中にある教会は真っ暗で、街灯もなく、人の顔が見えない有様で、人影もなかった。車一台が停まり、中から家族が出て来て、傍の牧師館から神父が現れ、ドアの鍵を開けた。
祈祷会は広間の裏の集会室で行われ、五人が木のテーブルを囲んだ。
祈りから始まり、神父の用意していたレジメの文章に自分は見入っていた。ルカとマタイの聖句が引用され、解説されていた。(幸いと不幸)(敵を愛しなさい)など、聖書に親しんだ者であれば知っている内容であった。
(今泣いている人々)(今飢えている人々)(今貧しい人々)は幸福です。神が彼らこそ天国に招きたもうからです。と、神父は話した。まだ若い男であったがおっとりして重厚な慈愛が感じられた。
逆に、(富んでいる人)(今満腹している人)(今笑っている人)達は立場が逆転するから、不幸、と言えます。と神父は常識とは異なる価値観を話した。
一時間半ほどの集会であったが、最後に一人一人が神に祈った。
彼らは一分間ほども熱心に祈ったが、自分は何を述べたら良いのかわからなかった。あなたは今日は祈らなくて良いですよ、と神父は言ったが、祈らせてください、と応えた。
初めてで、言葉がうまく出ません。六年前の心臓バイパス手術をして元気になりました。心筋梗塞を起こして、死にかけていたのですが、生き返りました。それは振り返れば神のお力だったかしれません。手術を終えて、三日ぶりにご飯を食べた時、美味しさに涙が出そうになりました。山の中を散歩していた時、生きるように、神は人に美味しさを与えているのではないか・、と考え、眼からうろこが落ちました。それに自分が病弱であれば健康に気を付けていたのですが、健康だったので人の二倍のご飯を食べていました。今日のお話は自分の体験から出たように感じられました。神様、有り難うございます。ここに感謝します。
言葉はすらすらと出て、信者たちは良い話だったと言ってくれた。
花の神秘性については、前回、書いているが、先ほどその謎が解けた気がした。野花と違って歌壇の花は人に栽培され、蝶や蜂などから交配してもらうことで子孫を残し、生き延びている。だから、まず、人から綺麗だと認められる必要性がある。人が脚を止め、どれくらい長く魅入るか、何人が関心を示したか?色の美しさか、形のそれか?など観察し、それによっては新しい種類を造ったり、違う色に変えたり、まさに人の女が化粧をするときと同じ気持ちなのである。つまり、花は人の意識の投影なのである。
これは、犬や猫やペットの場合も同じであり、彼らは人の子供の様に甘えたり、せがんだり、嫉妬したりして人の関心をひいている。人の心や意識に漸近線的によっていっている。野菜も人に依存しているから、美味しい味を出して人を寄せようとしている。山の木や雑草、野生動物などは人に依存していないから、人の心とは異なる性質を持っている。
(春の陽に俯き花の想ひかな)
この俳句の様に、花はますます人の心に近づき、まるで人の女のように、俯いてまでも気をひこうとしている。こうなると人の心と同じである。人が花を見る時に感じる親しみはそこに由来しているのである。
なんだか、謎が解けた気がする。
上記のような話をすると、すごく喜んで私の手を握り締めてくれる女が現れたことは嬉しい。
昨日は、岡垣町の成田山で、毎年行われる春祭りに行った。昨年、一昨年とそのイベントのカラオケ大会で歌ったことがある。又、歌うつもりであったが今年はないということだったので行かないつもりであったが、知人から誘いの電話がかかってきた。
バイクで行った。
成田山の麓、その上り坂を一回りするほどの道に車が行列を作り、誘導の警備員が立ち、道の傍にシートを広げて花見の準備をする家族連れが見えた。カブでのろのろと上り坂を上って行くと、行けども行けども空と四方を桜が埋め、桜並木に圧倒された。胸を打たれた。
自然破壊が進む中で、桜は春を忘れなかった。
この町の利権政治にはいつも腹を立てていたが、自然は純粋である。夜になれば夜桜見物客で埋まり、数少ない祭りの一つとして、町外からも訪れる人が多い。
イベント広場からは日本舞踊の演歌が流れ、見物席はすでに埋まっていた。日舞があり、フラダンスがあり、コントがあり、バナナのたたき売りや、21歳の男性歌手の歌やトークがあり、抽選でサザエやイチゴや、卵が配られ、最後に餅巻きがあった。壇上から投げられたが突き出す手が多く、勢いに負けて、二つだけ拾えた。
来年も行ってみよう。
(行く春や鳥泣き魚の目に涙)
芭蕉の句である。
以前はこの句には興味が湧かず、何を言ってるのかわからなかったが、解説文を読んでわかった。過ぎ行く春を惜しむ句なのである。過ぎ行く春を惜しんで、鳥が泣き、魚が眼に涙を浮かべるという、なんとも奥深い作品である。超現実的な、作品である。それは北斎の絵にみられるような超現実性である。魚が泣く、なんて誰が考えるであろうか?考えたのは芭蕉ひとりであろう。
春が去れば、夏が来る。
夏も良いではないか。
春が来た。何年先か春が来なくなる自分に訪れたことはそれだけで感慨深い。五月には72歳になるわけだが、こんなに生きて良いのだろうかと考えてしまう。でも、春が春らしさを失い、沈黙に進んでいるのが感じられる。竹の子は50本ほど、猪に食われてしまい、根が張って彼らが諦めた残り物を二口食べた。やはり、歯触りが他の食べ物にはない心地良さである。竹の子にアクが出て、イノシシが去った頃、掘って少し食べ、産直店に出すであろうが、四、五十本ほどしかないであろう。以前の十分の一程度である。
モンシロチョウの姿が減り、蜂のブンブン唸る声も減り、蛙も魚もすっかり減った。
次は人間の番である。
話は変わるが、若い頃には、花などには全く関心がなかったが、近頃は、朝起きると庭に出て、シャクヤクの伸び具合を見るようになった。全身が赤色であるが、これが緑に変わり、赤や白、ピンクの鮮やかな花をつけ、春の到来を咲きほこらせるであろう。だが、可哀そうなことに、二、三日もしないうちに切り取られ、店に売りに出されてしまう。我が庭の花は金に換えられるために産まれるようなものだ。
花は本当に神秘的な生き物である。色、姿、枝ぶりなど知れば知るほど、人間の女以上に奥が深い。蝶や蜂を惹き付けるため、子孫を残すために計り知れない努力をしているのがわかる。庭梅の花を産直店に出してみると、女子店員がお客さんから、何という名前の花ですか?と尋ねられたと自分に言った。わからないでいると、もう一人の女子店員が、庭梅です、と答えてくれてやっとわかった。
腰の高さにも満たない背丈であるが、小さな梅の花みたいのを付け、蕾は玉状に並んで何とも可愛い上、巻きあがるような枝ぶりが見事である。芸術家の手にかかった作品のようにいやそれ以上の技量である。
観客は蝶や蜂であるはずなのに、どこか人を対象にでもしているような知性と美意識である。
そうかと思うと、最近、気づいたのはクリスマス・ローズという花がいつも俯いているということであった。ほとんどの植物には向日性があるので、花は上を向いていると考えていたが、俯く花が存在してるということを知った。それは蘭や鬼百合など少なくはないのである。
人間の女の場合でも、俯き笑みを見せる女は密やかな魅力がある。
俯く花はその魅力を知って、そんな演技をしているのであろうか?それとも違う意図があるのだろうか?
想像するだけでも楽しい花である。