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ニュースによると、コロナ禍によって客が苛立ち、スーパー・マーケットへのクレームが増え、やめる従業員が増えている、家庭ではDVが増えるだろう、などの報道がある。コロナ報道に振り回される毎日であるが、このままコロナ禍が進むと、パニックや暴動が予測される不穏な空気になった。自分も気の短い男であるから、幼子を持つ家庭を持っていればDVに走る可能性があるが、独り身の老男であるから、暴力に走ることは無い、と考えていたが、先日、やばいことがあった。
ある会の、親しい四人の男達と桜見をしながら、酒を飲んでいた。ある男が、管をまいてきた。酒癖の悪い男で酔えば因縁を吹っかけるか、女の体を触り始めるのだが、彼がそこに顔を出すとは想像していなかったが、もう遅い。
(おい、中村、おまえなあ)と声を荒げ、(・・)と、言葉を止め、文句が思い浮かばず、(実るほど首を垂れる稲穂かな、その言葉を知っとるか!おまえは偉そうに人前でしゃべりすぎる、言葉を慎め!)と向かいの席から叫んだ。確かに自分はそんな風に言われることは多いが、(お前みたいなやつにそんなことを言われる筋合いはない!)と怒鳴り返した。
そこまでは単なる口論ですむのであるが、そこから先、つい、日頃の自分の性が出た。後でコロナ禍が不満になって、絡んでいることに気づいた。
酔いの勢いもあって、(貴様!この野郎!俺とやるか!)と叫んでしまった。相手は身長が一メートル八十センチ以上で、喧嘩の強い男であるが、自分はまったく恐れていなかった。こんな時はすぐに殴り合いになることは若い頃の経験から知っていた。彼は寄って来、自分を睨みつけ、自分も睨み返した。そこで、挑発するように、自分は相手のほっぺたを軽く叩いてやった。すると、彼は自分の胸倉を掴むどころか、(俺にそんなことをしやがって()、とつぶやきながら、すごすごと引き返していった。本来は、警察が来る事態になったであろう。・・さんにそんなことをするなんて?、と隣の席の男がつぶやいた。
自分は雰囲気に乗りやすい欠点があり、こんなことは何度かあったが、自分が問題にしたいのは、チャチャ人種という人間である。どんな集団にも必ずいて、横やりを入れて、陰で支配しようとするやからである。いじめになって、いじめられる側が自殺する場合もある。やつらは正論は言わず、陰で相手を中傷する。他の者達は関わらないから、彼が言ったことが正論でもあるかのようにその場が支配されてしまう,これがデマになると怖い。戦争中、朝鮮人が井戸に毒をまいた、とデマを流して殺された事件は有名であるが、まわりの者達は無視することで同意してしまう。
野次を飛ばすのもチャチャ人種であるが、彼らは自分の言ったことに責任をとらず、陰で騒ぐだけである。これが風評となり、とんでもない方向に進んでしまう場合がある。ヘイトもそうである。悪貨で良貨を駆逐する、の言葉通り、言葉にそのまま耳を傾けてはいけないが、扇動させる怖さをもっているのである。その場を支配してしまう場合だってあるから、コロナ禍という異常事態においては冷静に判断しなければならない。
今日のニュースで、中国の専門家の意見が載っていた。
コロナに対するワクチンや治療薬が出来上がる6月頃、コロナ禍は北半球では沈静化するだろう。だが、北半球に夏が訪れ、南半球に冬が訪れる頃、生き残ったコロナは南半球の人々の体にとりつき、繁殖し、破壊していくのではないか?
メディアに大局的な意見が出ることは珍しく、感染者の数が何人になったとか、緊急宣言が出されたとか、休業店の保証がいくらだとか、それはそれで大事なことであるが、目の先のことが多すぎて、私たちは振り回されて、コロナの動きの姿がなかなか見えないものであるから、このような記事は貴重なものである。
その記事で、考えたことがある。以前から考えていることであるが、コロナ・ウイルスは人間と同じ知性を持っており、人間の考えや動きを察知していて、それの先手を打って動いているのではないか?そう考えれば納得のいくことが多いし、これからのコロナ・ウイルス対策も、将棋盤のコマを見るように見えてくるのではないか?
人間は地球上に生きている、そのことで資本主義を発達させて自然破壊を行ってきた。数十年後には食糧もなくなり、人類は絶滅するであろう。スエーデンのグレタさんが地球温暖化反対して立ち上がり、たった一人のストライキを始めた。それらが最近の記事であったが、その期を同じくするようにコロナが暴れはじめたのである。(動的平衡)である。自然破壊のベクトルは人間破壊(復讐)のリアクションになって矛先を変え、等量のエネルギーを発揮し始めたのである。どちらも反転すれば対称形になるのである。人間は、もう後戻りはできない、行きつくところまで行って、絶滅するしかないのであろうか?
人生の半分以上を勉学に費やした人間は、そんなことであってはならない。ウイルスは人間とは違う形で、学んでいることは確かであるから、(人類の英知)はそれを超えるべきである。ーデジタルから次の時代が待っているのはずである。それを模索すべきである。
今回のコロナ禍で、わたしは、坂口安吾、太宰治、檀一雄など無頼派と呼ばれる作家たちに興味がわいてきた。もとより、小説家と呼ばれる人々は、反抗的であり、反体制派であり、社会のはぐれものであり、その視点がなければ芸術は産まれないのである。が、わたしは彼らが太平洋戦争の悲惨な敗北の中から大地を持ち上げるようにして勃興させたそのエネルギーと精神状況に、コロナ禍を重ね合わせたくなった。悲惨な敗北というのは人が殺された悲しさ、あるいは、家がなくなったという物質的なものだけではない。それまで信じていた天皇制、幸福感、文化、個人的信条などが一気に崩壊したのである。わたしは、今回のコロナ禍で、、自分を含め,人々の人間中心主義、競争原理、デジタル信仰、利便性、快楽、幸福感などの価値観が崩れ、それが大きな不安をもたらし、何を信じれば良いのかわからない、その精神状況を考えてみたいのである。
無頼派たちはどのようにその時代と向き合ったのか?安吾は、(ハクチ)?差別用語になったのか?漢字に変換できない,では主人公がハクチ女の手を握って空爆から逃れ、戦火の中を逃げ回る物語である。彼女はそれでありながらどんな男にも体をまかせる女、という重要な伏線がはじめに書かれているのである。米軍の戦闘機に爆撃され、命からがら逃げる中で、娼婦とセックスにふけるという人間の欲望、この赤裸々な部分が読者に迫ってくる傑作である。それを淡々とした書き方で書いていることがまた、すごいし、戦争に対する考えや感情などは一切排除している作者の態度にまた、驚かされる。書かないことによって、現している、これが小説の神髄なのである。
太宰治は、小説の中で、自分は恥ずかしい人生を生きてきました、産まれてきてすみません、自分は人間失格です、と書くことによって、作者の目線をすごく低くし、自在に書ける特質を得た。また、時代への視線をまったく外し、戦争のことなど一言も書いていないのだ。酷い戦況下において、卑小な自己にどこまでもこだわる、その凄さを、見せてくれる。
さて、このコロナ禍の中で、現代の作家と呼ばれる方々がどのように、自己の作品と取り組まれるのか見ものであり、そこで彼らと時代の本性がむきだされるのではないか?と思う。
それに、無名の物書きのわたしですが、心は一応、無頼派なのです。
コロナという目に見えないウイルスによって、人類はおびえ、明日はわが身か?と戦々恐々の昨今である。コロナに殺されてもいいと、高をくくっていた自分さえ、幼稚園児たちが楽し気に騒ぎながら、となりの者と手をつないで歩いている姿を見て、涙した、今朝であった。産直店にバイクで出荷に行き、帰り道に出会った。散歩だったのであろうが、引率の先生に連れられて、あっけらかんとした顔であった。子供らにとってコロナは遠い世界のことにちがいなく、怖いもの知らずの年齢なのであるが、自分達はその歳にもうもどることはできない。
冷静に考えてみると、自分達は目に見えないものの力によって、産まれ、死んでいくのであるが、そのことを真面目に考えたことはなかったのである。仏教では、色即是空、といって、形あるものは、空、であると説き、キリスト教でも、見えるものではなく見えないものに価値がある、と説いている。人間の知る世界は微小なのであり、感じ取れないもののほうが圧倒的に多いのである。例えば、電波である。受信機と言う超能力機械によって人や物の姿を見、声や音を聴くことができるが、それがなければ電波は見えず、ないのに等しい。霊感とか超能力とか異次元世界などは実際に存在しても感知できないから、無いに等しいのであったが、今回のコロナ禍によって、見えないものの力の凄まじさと実態がはっきりわかったのである。日頃、身を潜めていたウイルスがあっというまに世界の支配者になろうとしているのである。
不要な外出禁止、出会いの禁止など、緊急事態宣言によって、多くの人々は引きこもりの生活に陥っているが、こんな時こそ、目に見えない世界を知り、コロナの出現の意味など、考え、デジタルによって失った世界に目を向けてみるべきではないだろうか?宗教や文学、絵画や映画など、アナログの世界にもどり、心を安らかにして、コロナと対話をしてみようではないか。
毎日毎日、コロナ禍のニュースで、多くの人は疲れ始めている。私だってそうであるが、視点を変えればこれ不可解な現象であることに気づく。スマフォの威力だとか、デジタルのすごさだとか、偏差値がどうだとか御託を並べながら、顕微鏡でしか見えないウイルスに振り回されている実態はどのように分析し、定義づければ良いのか、多くの識者たちは思い迷っているに違いない。誰も確信的な意見を持ち合わせていない。そこに、どうしてもデジタルの敗北を見てしまう。過去のウイルス禍において、どのような流れで動いていき、終息したのか?なぜ、それを分析して予測しないのか?本来は法則が見えてき、それに基づいて対策が打たれるはずである。すべてのウイルス禍は終息している、あるいは潜行して生き延びたのである。それなのに、決定的なとらえ方を何にすえれば良いのか?その基軸がないのである。
これはデジタルの最大の欠点である。
私自身の考えでは、人口の何パーセントが感染したかの段階で、発病して増加するかどうかの傾向がみえ、それから先は天井まですすむか、あるいは減少に転じると読んでいる。天井まではすすまないことは人間はコロナにとっての餌であるからである。その分岐点をとらえ、明確な判断を下すべきである。
話は変わるが、自分の部屋の柱時計の時間がおくれるようになって、位置を壁から机の上に変えた。すごく見にくくなって、スマフォの数字で時間を見るようになった。それはアナログからデジタルへの移行であるが、時間が全体的な視点で見えなくなった。
これは、コロナ禍におけるデジタルの敗北なのである。
前のブログと重なるところが多いけど、もう一度、確認もかねて書いてみます。人類は長い間、二元論に支配されてきた。光と陰、神とサタン、男と女、幸福と不幸、精神と物質など日常生活においての考え方さえ、常識という権威になって、そのもとに置かれていたが、今回のコロナ禍において、わたしは目から鱗が落ちた気持ちになった。それはコロナが生物と非生物の中間に属し、物質だととらえる学者もいるという、新聞報道であった。つまり、独立しては生きていけず、寄生しなくては繁殖できない、生命でもない非生命でもないというとらえかたである。
これは二元論ではもう説明がつかないのである。量子力学の、1でもあり、0でもある、それらが重なり合っているという考え方でしかとらえきれない。シュレディンガーの猫、というたとえ話は量子力学の中では有名なものであり、毒ガスの噴射する箱の中に猫を入れている、猫は生きているか?死んでいるか?を問われて、生きてもいるし死んでもいる、という禅問答のような答えを出しているのである。胎児は最初の頃は中性の状態であるが、数か月後に男か女かの生殖器が現れて、どちらかになるのであるが、男女の割合がほぼ同じになるという不思議な原理がある。
コロナだけではないが、ウイルスそのものは生命でもあり、物質でもあるのではないか?人間が肉体という物質で出来ていながら、精神ももっているのと同じくして。
今回のコロナ禍において、哲学者や評論家はもっと考え方を変えていかねばならない。
量子コンプピューターは、1でもあり2でもある状態を表現し、飛躍的な数の情報処理を行うことができる。日本政府は(量子技術イノベーション戦略)決定し、取り組むことになっている。中国がその技術の先端に進み、日本、アメリカと後を追っていおり、産業技術や軍事へ取り組んでいる。そのことが、毎日新聞に出ていた。
1でもあり2でもあり、と言うのは、重ね合わせ理論、とも呼ばるが、自分は哲学としてとらえ、非常に興味をもっている。人間社会においても二項対立としてとらえるよりは、すごく柔軟性を持ったとらえ方であり、本質に迫っている、と思う。性的少数者に対しても、男でもあり女でもある、と解釈した方が理解しやすくなる。幸福、不幸、暑い、寒い、金持ち、貧乏、光、影それらは全く違う領域のようでありながら、じつは裏には反対の性質が重なり合っており、隠れているのである。
ウイルスは人間社会の技術とともに戦略を発達させていく。次は、陰性でもあり陽性でもある、という手だとすれば太刀打ちできなくなるのではないか?
今日のニュースに、小池都知事の外出自粛発言によって、食料品の買い占めが起こった、と出ていた。SNSなどへの書き込みがその現象を膨らませ、パニックにちかいものであったらしい。土人の自分にはジャガイモやサツマイモ、里芋などが蓄えられていて、数日間は生き延びれるが、都市生活者は食べる物が冷蔵庫の中にしかないのである。自分は、今度は、米を作ろうと考えているから、あとはニワトリでも飼えばしのげる。若い頃から、原始生活やロビンソン・クルーソーにあこがれていたので、今の土人の生活はほぼ理想にあったものである。
ティッシュなど一度も使ったことがない。すべて、タオルか布巾で済ますのでまったく必要がなく、ティッシュの買い占めが起こったなどということは信じられない。水は井戸水だから美味しく、絶える不安もない。昨日は便の汲み取りをし、畑に埋めた。まわりには家がないから苦情を言って来る者はいない。火は焚火をすれば足りるし、電気はロウソクでも間に合うから、ほぼ自然生活でやっていけるのである。恵まれているといえば恵まれているが、現代人の生活は都市に集中しすぎている。地方に分散すべきであるると以前から言われながらまだ都市に集中している。
田舎でも、団地暮らしをしている者の趣向は都市生活者と同じである。野菜など作ったことはない、と言う者が大多数で、主婦はせいぜい花を植えることしかしない。幼い頃に自然に接していないと成人してから野菜作りをしようなどとは考えない。
けっきょく、ほとんどの者が土人たちの百姓仕事に頼ってしまっているから、パニックは起きやすい。暴動に発展し、食料の奪い合いが起こるだろうと、自分は若い頃から想像していたが現実化し始めた。
コロナ禍を教訓にして、これまでの生活や生き方に疑問をもち、変えていくべきではないか?
コロナ騒動のつづく毎日であるが、船頭役としてのマスコミはその記事の掲載だけで役目を果たしているかのように見える。感染者が増えた、感染対策が見つかった、薬の開発を急いでいる、株価の暴落に世界の政府が金融緩和に踏み切ったなど、記事に不足することはない反面、それらとちがう視点が抜け落ちている。東北大震災の時も、第二次大戦の時も、そうであった。目先の対応、つまり事変前へ復興への観点しかなかったので、今回のコロナ騒動のように何度も同じことを繰り返すことになりそうである。
自然の摂理を忘れて快楽主義に走り過ぎたことへの反省がまったくないのである。自然を破壊しながら、人間中心・快楽・利便性に走り過ぎた、その反動がコロナを産んだのである。コロナの頭脳は人間の知性・知恵と相似形をなして進化してきたのである、という考えは現れない。コロナは人間の細胞に侵入してRNAをコピーして増える、と書いてあったが、その行動は人間の知性と同格のものである、いや人間を上回っており、それは人間が教えたようなものである、という記事をみたことがない。
こんなことがある。我が山の竹の子はイノシシに食いつくされるので、今年は鉄条網を張った。触れれば針が」体を刺して跳び上がるほど痛いので侵入しないと考えていたが、跳び越えたのかどうかわからないが、侵入して竹の子を掘って食べていた。穴を掘った形跡も押し倒した跡もなかった。夜行性なので侵入の現場をみることはできない。
下にミカン山があって、そこの持ち主は電気柵を張っていて、侵入されたことはなかったが今年は入られ、土を掘りくりかえされていた。どうやら、跳び越えて入っていたようである。跳び越えれば入れることを学び、我が竹の子山の有刺鉄線を跳び越えたのではないか?
そう考えれば対抗者は当人と同じように並行して発達することを知らねばならない。
これが、真の意味での、災い転じて福となす、である。
コロナ禍、という言葉がすでにマスコミに現れ、新聞紙面のすべてに、コロナ、の文字が躍るようになった。それは戦時中の戦場記事みたいでどこかうさん臭いし、電車の中で、俺はコロナにかかっている、と大声でしゃべれば脅迫罪で逮捕される、超現実的現象が起こり始めた。まさに、コロナ禍・時代である。
が、百姓または土人(差別用語になるかどうか使用に不安はあるが)である自分には、そんな世間とは無縁である。コロナ君、と呼んでも、畑や山のどこに、いるはずはないし、イノシシの子が遊んでいるだけである。
竹の子を掘って、やっと、売れるようになった。昨日は、ゲンコツほどの大きさの茹で竹の子が5袋で1700円で売れ、それにヌカ一袋も売れて、計二千円であった。ウツな顔に春が来たが、イノシシ避けに張った鉄条網のどこからかイノシシは入り、二十本以上は盗られていたのが、悔しい。石ころや小枝、枯れ竹の散乱した山で、わずか一センチほどの芽を探すのは大変である。およそ、千坪の広さである。足先で感触を探しながら、はいずり回り、およそ二時間はかかり、その上の成果なのである。昨日はゲンコツサイズが四本しか取れなかったが、これでも千円にはなる。
コロナ禍を横目にして、こんな生活はサラリーマンにはうらやましいであろう。電車の中で咳をすることやコロナという声を耳にするだけでおびえるであろう。不思議なことに、イノシシは竹の子がはっきりした芽を出す頃には、エリアを変えて出ていくのである。それから、売価は下がるが、竹の子は取り放題である。孟宗竹が終われば、ハチク、マタケが出るし、梅の実、ビワ、ジャガイモ、シャクヤク、トマト、ピーマンなどが収穫を待っているのだ。まさに、土人の生活の華である。