ブログ - 最新エントリー
相変わらずコロナの繁殖力は旺盛で、人類の被害がいとまなく報道されている。コロナにとって人間は大事なエサにしかすぎないものなので、決して絶やすことはしない。コロナはそれを考え、推測し計算しながら、繁殖に取り組んでいる。コロナの終息の日が来て、人類が原状回復に励み、(復興)の文字がメディアに出る頃、コロナはひとまず曳いて、次の戦略を考えるに違いない。
人類も当然、次の対策を練るのであるが、そこで被害の肉体的社会的症状にばかりに目が向いたとすれば、コロナの次の攻撃は今回よりすさまじいものになるに違いない。人間の被害も大きくなる。
コロナの発生は、人間の森林破壊・自然破壊が原因で、旺盛な繁殖はその反作用なのだからである。
だから、わたしたちは、コロナも同じ命あるものである、ということを考えねばならない。生命の共通の祖先は一つであることは科学でも証明されているから、コロナも同じ祖先ではないか?そして、そこでは同時にコロナも生物であるという定義に変えられなければならない。ウイルスが生物と無生物の中間に属するという定義ではなく、生物としての(生きる権利()があり、それを認めてやらねばならないのである。
人類みな兄弟であり、そして、生物みな兄弟なのである。コロナもわたしたちの兄弟なのです。可愛がってやればなついてくるはずです。
そして、わたしたちはご飯を食べる時、(自然()に感謝と償いをかねて両手を合わせ、黙とうしましょう。雑草に除草剤をかけて毒殺してはいけません。出来るだけ農薬や化学製品は使わず、野菜や花を育て、自然に寄り添いましょう。畑がなければ、プランターに種を播いて野菜を育て、水をやりながら自然と共に生きていることを実感しましょう。
三月半ばから竹の子を掘っているので、うちの山の竹の子はシーズン・オフになった。産直店の店頭にはたくさん出ているが、値段は半値にも下がっている。もう出荷していないので引き際が良かったことになるが、山の手入れをしないので竹の子は小さいのが多く、いつもの半分ほどの収穫量であった。有刺鉄線を初めて張ったが、イノシシに入られ、食べられてしまった。
そこでのコロナ禍であるが、食べ物関係の仕事だからコロナの被害は少なく、何とかしのいでいるが、不思議なことに気づいた。イノシシは竹の子を食べ飽きる頃、食べもしないのに掘って、その場に放置するのである。他の山でもそんな習性がある、と聞いた。他の野生動物みたいに貯蔵の目的ではないようである。放置していれば腐るか、人間や他の動物が食べるしかない。
なんのためなのか?
イノシシはすごく賢く、人間の考えや仕掛け罠など見破ってしまうことがあり、いろんな業者が撃退グッズを開発しても成功していないのが現実である。ククリ罠など仕掛けていても、掘り出して、(こんなの作ってもおれたちはわかるんだぞ!)と言わんばかりに、掘り出して放置している話も聞いたことがある。
たぶん、イノシシは竹の子を掘って放置し、(人間たちよ。今年もたくさん食べさせてくれたね、ありがとう。これは感謝の気持ちだよ)と言っているのではないか?と考えてみた。
イノシシが里山に降りて来たのは、人間たちが高齢化して山を放置したこともあるが、人間が自然破壊をして食べる物がなくなったこともある。人災なのである。コロナが人間社会に降りて来たのと同じく、人間が森林を破壊して、森林の住家から追い出されたのである。
イノシシの贈り物は可愛げがあるが、コロナの贈り物は、何と身の気がよだつほど、怖いものである。どこかで折り合いを付けねばならない、と思う。
今日は病院に行った。月に一度は心臓バイパス手術後の体調を見るために通っているが、待合室には誰もいなかった。看護婦に聞くと、病院での感染を怖がって、患者が来なくなったという。昨日の有線放送で、岡垣町に三人目の感染者が出たという報道があった。
それほどの恐怖が広まっているということであるが、自分は帰宅して、酒を飲みながら、考えた。
コロナは体制を破壊する、というフレーズであった。
70年代、80年代の反体制運動、その前後の凄まじい権力闘争を行いながら、結局は体制派に勝てなかった歴史において、コロナは長年の戦略を考え抜いたであろうが、あっという間に、人間世界の体制を壊そうとしているのである。すごいことである。壊そうとしているのではなく、自分達が生き延びようとしているわけであるが、それにしても敬服せざるを得ない状況である。
だが、これによって、自分あるいは多くの人々の願いがかなうかもしれない、のである。これまでの学歴主義、権威主義、美観、出世主義などが壊されるとしたら、国家が壊れ、無政府主義になるとしたら、願ってもないことではないか?社会秩序、、家庭、男と女の役割にわたしはうんざりしていたので、そこから解放されることは夢なのであった。
コロナの破壊後、新しい社会を目指そうではないか。
ニュースによると、コロナ禍によって客が苛立ち、スーパー・マーケットへのクレームが増え、やめる従業員が増えている、家庭ではDVが増えるだろう、などの報道がある。コロナ報道に振り回される毎日であるが、このままコロナ禍が進むと、パニックや暴動が予測される不穏な空気になった。自分も気の短い男であるから、幼子を持つ家庭を持っていればDVに走る可能性があるが、独り身の老男であるから、暴力に走ることは無い、と考えていたが、先日、やばいことがあった。
ある会の、親しい四人の男達と桜見をしながら、酒を飲んでいた。ある男が、管をまいてきた。酒癖の悪い男で酔えば因縁を吹っかけるか、女の体を触り始めるのだが、彼がそこに顔を出すとは想像していなかったが、もう遅い。
(おい、中村、おまえなあ)と声を荒げ、(・・)と、言葉を止め、文句が思い浮かばず、(実るほど首を垂れる稲穂かな、その言葉を知っとるか!おまえは偉そうに人前でしゃべりすぎる、言葉を慎め!)と向かいの席から叫んだ。確かに自分はそんな風に言われることは多いが、(お前みたいなやつにそんなことを言われる筋合いはない!)と怒鳴り返した。
そこまでは単なる口論ですむのであるが、そこから先、つい、日頃の自分の性が出た。後でコロナ禍が不満になって、絡んでいることに気づいた。
酔いの勢いもあって、(貴様!この野郎!俺とやるか!)と叫んでしまった。相手は身長が一メートル八十センチ以上で、喧嘩の強い男であるが、自分はまったく恐れていなかった。こんな時はすぐに殴り合いになることは若い頃の経験から知っていた。彼は寄って来、自分を睨みつけ、自分も睨み返した。そこで、挑発するように、自分は相手のほっぺたを軽く叩いてやった。すると、彼は自分の胸倉を掴むどころか、(俺にそんなことをしやがって()、とつぶやきながら、すごすごと引き返していった。本来は、警察が来る事態になったであろう。・・さんにそんなことをするなんて?、と隣の席の男がつぶやいた。
自分は雰囲気に乗りやすい欠点があり、こんなことは何度かあったが、自分が問題にしたいのは、チャチャ人種という人間である。どんな集団にも必ずいて、横やりを入れて、陰で支配しようとするやからである。いじめになって、いじめられる側が自殺する場合もある。やつらは正論は言わず、陰で相手を中傷する。他の者達は関わらないから、彼が言ったことが正論でもあるかのようにその場が支配されてしまう,これがデマになると怖い。戦争中、朝鮮人が井戸に毒をまいた、とデマを流して殺された事件は有名であるが、まわりの者達は無視することで同意してしまう。
野次を飛ばすのもチャチャ人種であるが、彼らは自分の言ったことに責任をとらず、陰で騒ぐだけである。これが風評となり、とんでもない方向に進んでしまう場合がある。ヘイトもそうである。悪貨で良貨を駆逐する、の言葉通り、言葉にそのまま耳を傾けてはいけないが、扇動させる怖さをもっているのである。その場を支配してしまう場合だってあるから、コロナ禍という異常事態においては冷静に判断しなければならない。
今日のニュースで、中国の専門家の意見が載っていた。
コロナに対するワクチンや治療薬が出来上がる6月頃、コロナ禍は北半球では沈静化するだろう。だが、北半球に夏が訪れ、南半球に冬が訪れる頃、生き残ったコロナは南半球の人々の体にとりつき、繁殖し、破壊していくのではないか?
メディアに大局的な意見が出ることは珍しく、感染者の数が何人になったとか、緊急宣言が出されたとか、休業店の保証がいくらだとか、それはそれで大事なことであるが、目の先のことが多すぎて、私たちは振り回されて、コロナの動きの姿がなかなか見えないものであるから、このような記事は貴重なものである。
その記事で、考えたことがある。以前から考えていることであるが、コロナ・ウイルスは人間と同じ知性を持っており、人間の考えや動きを察知していて、それの先手を打って動いているのではないか?そう考えれば納得のいくことが多いし、これからのコロナ・ウイルス対策も、将棋盤のコマを見るように見えてくるのではないか?
人間は地球上に生きている、そのことで資本主義を発達させて自然破壊を行ってきた。数十年後には食糧もなくなり、人類は絶滅するであろう。スエーデンのグレタさんが地球温暖化反対して立ち上がり、たった一人のストライキを始めた。それらが最近の記事であったが、その期を同じくするようにコロナが暴れはじめたのである。(動的平衡)である。自然破壊のベクトルは人間破壊(復讐)のリアクションになって矛先を変え、等量のエネルギーを発揮し始めたのである。どちらも反転すれば対称形になるのである。人間は、もう後戻りはできない、行きつくところまで行って、絶滅するしかないのであろうか?
人生の半分以上を勉学に費やした人間は、そんなことであってはならない。ウイルスは人間とは違う形で、学んでいることは確かであるから、(人類の英知)はそれを超えるべきである。ーデジタルから次の時代が待っているのはずである。それを模索すべきである。
今回のコロナ禍で、わたしは、坂口安吾、太宰治、檀一雄など無頼派と呼ばれる作家たちに興味がわいてきた。もとより、小説家と呼ばれる人々は、反抗的であり、反体制派であり、社会のはぐれものであり、その視点がなければ芸術は産まれないのである。が、わたしは彼らが太平洋戦争の悲惨な敗北の中から大地を持ち上げるようにして勃興させたそのエネルギーと精神状況に、コロナ禍を重ね合わせたくなった。悲惨な敗北というのは人が殺された悲しさ、あるいは、家がなくなったという物質的なものだけではない。それまで信じていた天皇制、幸福感、文化、個人的信条などが一気に崩壊したのである。わたしは、今回のコロナ禍で、、自分を含め,人々の人間中心主義、競争原理、デジタル信仰、利便性、快楽、幸福感などの価値観が崩れ、それが大きな不安をもたらし、何を信じれば良いのかわからない、その精神状況を考えてみたいのである。
無頼派たちはどのようにその時代と向き合ったのか?安吾は、(ハクチ)?差別用語になったのか?漢字に変換できない,では主人公がハクチ女の手を握って空爆から逃れ、戦火の中を逃げ回る物語である。彼女はそれでありながらどんな男にも体をまかせる女、という重要な伏線がはじめに書かれているのである。米軍の戦闘機に爆撃され、命からがら逃げる中で、娼婦とセックスにふけるという人間の欲望、この赤裸々な部分が読者に迫ってくる傑作である。それを淡々とした書き方で書いていることがまた、すごいし、戦争に対する考えや感情などは一切排除している作者の態度にまた、驚かされる。書かないことによって、現している、これが小説の神髄なのである。
太宰治は、小説の中で、自分は恥ずかしい人生を生きてきました、産まれてきてすみません、自分は人間失格です、と書くことによって、作者の目線をすごく低くし、自在に書ける特質を得た。また、時代への視線をまったく外し、戦争のことなど一言も書いていないのだ。酷い戦況下において、卑小な自己にどこまでもこだわる、その凄さを、見せてくれる。
さて、このコロナ禍の中で、現代の作家と呼ばれる方々がどのように、自己の作品と取り組まれるのか見ものであり、そこで彼らと時代の本性がむきだされるのではないか?と思う。
それに、無名の物書きのわたしですが、心は一応、無頼派なのです。
コロナという目に見えないウイルスによって、人類はおびえ、明日はわが身か?と戦々恐々の昨今である。コロナに殺されてもいいと、高をくくっていた自分さえ、幼稚園児たちが楽し気に騒ぎながら、となりの者と手をつないで歩いている姿を見て、涙した、今朝であった。産直店にバイクで出荷に行き、帰り道に出会った。散歩だったのであろうが、引率の先生に連れられて、あっけらかんとした顔であった。子供らにとってコロナは遠い世界のことにちがいなく、怖いもの知らずの年齢なのであるが、自分達はその歳にもうもどることはできない。
冷静に考えてみると、自分達は目に見えないものの力によって、産まれ、死んでいくのであるが、そのことを真面目に考えたことはなかったのである。仏教では、色即是空、といって、形あるものは、空、であると説き、キリスト教でも、見えるものではなく見えないものに価値がある、と説いている。人間の知る世界は微小なのであり、感じ取れないもののほうが圧倒的に多いのである。例えば、電波である。受信機と言う超能力機械によって人や物の姿を見、声や音を聴くことができるが、それがなければ電波は見えず、ないのに等しい。霊感とか超能力とか異次元世界などは実際に存在しても感知できないから、無いに等しいのであったが、今回のコロナ禍によって、見えないものの力の凄まじさと実態がはっきりわかったのである。日頃、身を潜めていたウイルスがあっというまに世界の支配者になろうとしているのである。
不要な外出禁止、出会いの禁止など、緊急事態宣言によって、多くの人々は引きこもりの生活に陥っているが、こんな時こそ、目に見えない世界を知り、コロナの出現の意味など、考え、デジタルによって失った世界に目を向けてみるべきではないだろうか?宗教や文学、絵画や映画など、アナログの世界にもどり、心を安らかにして、コロナと対話をしてみようではないか。
毎日毎日、コロナ禍のニュースで、多くの人は疲れ始めている。私だってそうであるが、視点を変えればこれ不可解な現象であることに気づく。スマフォの威力だとか、デジタルのすごさだとか、偏差値がどうだとか御託を並べながら、顕微鏡でしか見えないウイルスに振り回されている実態はどのように分析し、定義づければ良いのか、多くの識者たちは思い迷っているに違いない。誰も確信的な意見を持ち合わせていない。そこに、どうしてもデジタルの敗北を見てしまう。過去のウイルス禍において、どのような流れで動いていき、終息したのか?なぜ、それを分析して予測しないのか?本来は法則が見えてき、それに基づいて対策が打たれるはずである。すべてのウイルス禍は終息している、あるいは潜行して生き延びたのである。それなのに、決定的なとらえ方を何にすえれば良いのか?その基軸がないのである。
これはデジタルの最大の欠点である。
私自身の考えでは、人口の何パーセントが感染したかの段階で、発病して増加するかどうかの傾向がみえ、それから先は天井まですすむか、あるいは減少に転じると読んでいる。天井まではすすまないことは人間はコロナにとっての餌であるからである。その分岐点をとらえ、明確な判断を下すべきである。
話は変わるが、自分の部屋の柱時計の時間がおくれるようになって、位置を壁から机の上に変えた。すごく見にくくなって、スマフォの数字で時間を見るようになった。それはアナログからデジタルへの移行であるが、時間が全体的な視点で見えなくなった。
これは、コロナ禍におけるデジタルの敗北なのである。
前のブログと重なるところが多いけど、もう一度、確認もかねて書いてみます。人類は長い間、二元論に支配されてきた。光と陰、神とサタン、男と女、幸福と不幸、精神と物質など日常生活においての考え方さえ、常識という権威になって、そのもとに置かれていたが、今回のコロナ禍において、わたしは目から鱗が落ちた気持ちになった。それはコロナが生物と非生物の中間に属し、物質だととらえる学者もいるという、新聞報道であった。つまり、独立しては生きていけず、寄生しなくては繁殖できない、生命でもない非生命でもないというとらえかたである。
これは二元論ではもう説明がつかないのである。量子力学の、1でもあり、0でもある、それらが重なり合っているという考え方でしかとらえきれない。シュレディンガーの猫、というたとえ話は量子力学の中では有名なものであり、毒ガスの噴射する箱の中に猫を入れている、猫は生きているか?死んでいるか?を問われて、生きてもいるし死んでもいる、という禅問答のような答えを出しているのである。胎児は最初の頃は中性の状態であるが、数か月後に男か女かの生殖器が現れて、どちらかになるのであるが、男女の割合がほぼ同じになるという不思議な原理がある。
コロナだけではないが、ウイルスそのものは生命でもあり、物質でもあるのではないか?人間が肉体という物質で出来ていながら、精神ももっているのと同じくして。
今回のコロナ禍において、哲学者や評論家はもっと考え方を変えていかねばならない。
量子コンプピューターは、1でもあり2でもある状態を表現し、飛躍的な数の情報処理を行うことができる。日本政府は(量子技術イノベーション戦略)決定し、取り組むことになっている。中国がその技術の先端に進み、日本、アメリカと後を追っていおり、産業技術や軍事へ取り組んでいる。そのことが、毎日新聞に出ていた。
1でもあり2でもあり、と言うのは、重ね合わせ理論、とも呼ばるが、自分は哲学としてとらえ、非常に興味をもっている。人間社会においても二項対立としてとらえるよりは、すごく柔軟性を持ったとらえ方であり、本質に迫っている、と思う。性的少数者に対しても、男でもあり女でもある、と解釈した方が理解しやすくなる。幸福、不幸、暑い、寒い、金持ち、貧乏、光、影それらは全く違う領域のようでありながら、じつは裏には反対の性質が重なり合っており、隠れているのである。
ウイルスは人間社会の技術とともに戦略を発達させていく。次は、陰性でもあり陽性でもある、という手だとすれば太刀打ちできなくなるのではないか?