ブログ - 最新エントリー
今日は、雨降りの一日であった。酒のつまみを買いに出かけたが、通りにはいつも見られる老女、老男の姿もなく、世界の消滅した感があった。コロナのせいであるが、寂しく想った。
そこで、このホームページの日記も力を入れて書くと、閲覧者数がすごく伸びることを思い出し、Kさんのことを書こうと考えた。このホームページの小説(銀ラメのハイヒール)に登場する人でもあるが、自分との感情の行き違いから疎遠になってしまった。今、どうしているか知らないが、わたしの思想に多大な影響を与えてくれた人であり、今も、このHPを読んでくれているかもしれない。
彼はリラックス法として、幽体離脱を実践していた。すごく疲れた時に、目を閉じ、体から意識を抜け出させようとすると、抜け出、目を閉じている自分の顔を見てる、と言った。水の中の像のようにグニャグニャして見えたと言った。そこで、彼が(脳を通さないのですごくリアルに見えた)と言った言葉が印象に残っている。普通、わたしたちは目で見て、脳で判断するが、脳をとおらなかったらどうなるのであろうか?脳には幼い頃から植え付けられた一般常識があり、それがフイルターになっているから、本当の姿を見てさせてはくれない。
事物が変な見え方をすると、脳は錯覚や幻覚として処理するのである。
夢の場合は、脳が眠っているからダイレクトに見る,つまり常識を外してみるわけであるから、子供の精神のように純粋な形で見えるのである。若い頃、夢精をするのはそれが現実以上に現実感をもっているからである。事実を知るためには既成概念に毒された脳はじゃまであり、カメラの方が正確なのである。
話は跳ぶが、自分は十年前に、心臓のバイパス手術を受けた。麻酔を打たれ、十二時間、死んでいたのである。集中治療室で目覚め、観察室に移されたのであるが、迷妄状態は残っていた。病室の右半分では看護婦が行ったり来たりし、おかしなことに、左半分のドアの方には、公民館の中が現れ出、受付の小窓が見え、掲示板に盆踊りやソフトボール試合の予告が張り出されていたのである。
これはおかしいな?と脳が考えると公民館の掲示板は消え、いつもの観察室の廊下に変わった。現の状態に脳の思考が入り、常識が入ったのである。
その出来事を自分なりに分析してみると、麻酔が残り、脳の半分は死に半分が生きていたのでもある。現在と過去が分離し、それぞれの世界が進行の形で現れたのである。入院する前、NHKの受信料集金の仕事をしていたわたしは三か月前に宗像市池田を訪れ、受信料の調査と契約で回ったのであった。そこは母の実家があり、幼い頃、預けられて、長い間、生活したのですごく懐かしかった。その時に公民館で、受信料の説明会を設ければ良い、と考えたのであった。
それが願望として残り、現実と重なったのである。視界の右側では看護婦が行ったり来たりしていた。
現実と過去は、因果関係を持って続いているのではなく、それぞれ独立して平行状態で流れている、Kさんは、よく言ったので、思い出される。過去は虚数のように存在しているのである。分化ではなく、それぞれが存在感を持っていて流れ、重なり合う、量子力学の理論である。虚数は実数ではないが、存在として用いることによって難解な問題を証明することができる。
神も虚数ではないか?影も虚数ではないか?あの世も虚数ではないか?コロナも人類発展の虚数ではないか?など、かってに想像していくと、我々には未知の分野がすごく残っていることが分かる。
そこで、コロナ禍は大きな刺激を与え、きっかけを作ってくれたのである。コロナは人間たちの数百万倍の速さで進化していると言うから人間は負けてはいられない。
いずれにしても、コロナ後の世界はまったくちがう考え方が登場するに違いないし、そうでなければこの世の救いは見いだせない。我々はコロナに追われるだけ、まだ、この世をじゅうぶんに理解していないのである。
朝の、目覚め前であった。目覚めかけて、目はぼんやりと、前の庭の方を向いていた。そこは暗闇であったが、見知らぬ男が窓辺に腰かけて、自分を見ていた。が、顔は闇に隠れて、黒いままであった。
なんだ、おまえ、そんなところに座りやがって、何の用か?はっきり、言えよ、と言ったが、自分の後ろにはもう一人似たような男が黙って、座っていた。自分は布団から立ち上がり、机の椅子に座り、窓辺の男の顔をみつめ、ふざけるように軽く叩いてやった。すると、男は消え、後ろの男も消えた。
自分は机の椅子に座り、、自分が布団から抜け出たことがが事実であったことを確認し、布団の中に戻った。
思い返してみると、これは二週間前に、ある会の男達と、花見で、酒を、飲んだ時の追体験であった(4月17日付け・チャチャ人種に掲載)とわかったが、あまりにもリアルで自分が布団から起き上がって、男のそばまで行ったことが気にかかったのであった。以前にも似たような幻覚があり、布団の中から男を蹴り上げて、足をガラス戸にぶつけたことがあった。ケガをしたかもしれないと考えると怖くなった。幻覚を現実と判断していたので、これが現実生活の中でひんぱんにおきれば精神病院行きであろうが、それはこれまでなかった。
目覚め際、あるいは半覚醒状態の時に、自分は昔から幻覚を見る癖があった。
それは、寝ぼけまなこ、と一般的にも言われることであるが、量子力学の中にはスリット現象という不思議な実験結果がある。粒子は、粒なのかそれとも波なのか?を問う実験であるが、一つの粒子が二つの穴を同時に抜け出る結果が出て、粒子は波でもあるし、粒でもあるという結論を出したのである。波である証拠は、穴の板面に干渉波が二つ現れ出たからであったが、量子力学の一でもあり〇でもあるという理論に似ている。一つの粒が二つの穴を同時に通り抜けるなんて信じられないことである。
上記の結果は観測者がいない時、つまり人が見ていない時と言う条件があって、観測者がいる時には二つの穴を抜けることはないという。つまり人間の意識が関われば、粒子に人間の一般常識の判断が入って支配され、一つの穴しか通り抜けないのである。
ここで、自分の目覚め時の体験を振り返ってみたい。あの時、窓辺の男は実際、居たのであろうか?
それは居たのであったし、居なかったのでもある。
自分が男に声をかけた時、常識判断が生まれ、男たちの姿は消えたにすぎず、実は二週間前の出来事、つまり、過去と現在が重なり合ったとも解釈できるのである。多次元宇宙論の中に、過去も現在も未来も重なり合っているという考えがあり、常識的判断がそれを認めないだけである。これに関係することは日常生活の中でも、錯覚や妄想・幻覚として見逃されていることがあるが、量子力学理論を持ち出せば、いろんな謎も解けそうである。
それに、人間の日常の言動は深層意識をなぞっているだけに過ぎないのかもしれない。すべては深層意識の中に潜んでいて、その(全知全能者である神?)啓示に従っているだけではないだろうか?
きょうの毎日新聞の朝刊に、中国が日・米にサイバー攻撃をし、軍事情報を盗んでいることが出ていた。その中で、次の記事が自分の目をひいた。攻撃する側はウイルスを送り込み、(通常、発見されないことを優先し、侵入したネットワーク内に不正ソフトを潜伏させる)という部分であった。これはコロナが人体に侵入し、発見されないように潜伏期間を長くしているのと同じではないか?それはまた、コンピューターのウイルスとコロナのウイルスが同じ働きをしているということであるし、技術が生命の働きをするという事でもある。
何という一致であろうか?コロナが生命体であるとすれば(物質だという人もいる)、人間の造った技術も同じということになり、けっきょく、生命は機械である、ということになる。だが、機械は増殖しないから生命の定義の上からは生命とは呼べない。それに、コロナは、技術という人工的に作ったウイルスと同じ戦略・知恵を、同じ時代に持っていたことになる。科学は(自然)に学んで、原理を考え、技術を考案し、発達してきたことは事実であるが、ここまでそっくりになってしまうと、(自然)と科学の境がわからなくなってしまう。科学は生命の仕組みを科学的に捉え直し、利用しながら、それに近づいたのである。だが、今回、コロナに振り回されているということはまだ人間の技術が立ち遅れており、コロナ禍で大変な被害に合っているのである。科学はそして人間はコロナに負けているのではないか?コロナは生命体ではなく、物質だという考えがあるが、生命と物質の境が見えなくなってきている。心は物質である、という考えもかなり以前からあったし、自分はそれに同意し、恋愛も化学反応だと考えていた。意識は化学反応だとも言われているが、心や魂となるとそうとはいえない微妙な点がある。
コロナに感染した人が、陰性であったが、じつは陽性であったという事例も多くある。それは量子力学の、0でもあり1でもある、あるいは、死んでもいるし、生きてもいる、という考えと同じである。
もう一つ不思議なことはコロナは中国の専門機関が生物兵器として開発したという記事もあり、中国は否定しているが国家レベルで情報を盗む国であるから、信じられない。軍事の技術、そのステル技術はコロナの戦略とまったく同じではないか?武漢でコロナが発生し、感染がいちはやく収まったのは、中国がコロナを開発し、そのせいでコロナをよく知っているからではないか?
コロナ禍は、われわれの既成概念を混乱させる威力を持っており、自分に新しい世界への好奇心と興奮を与えてくれる。ところで、メディアの識者はコロナ後の世界について述べている。それは、各国の緊急事態宣言を発端にして、民主主義国が独裁体制への移行し、中国が世界制覇する、などであるが、もっと根源的なものが変わるのではないか?二者択一の偏向した考えが崩れ、変わる世界である。1か0か?ではなく、1でもあり、0でもある、苦痛でもあり快楽でもある、金持ちでもあり貧乏人でもある、幸福でもあり不幸でもある、男でもあり女でもある、という(重なり合い)の考えである。
コロナ後の世界は根本的に変わる。
精神と物質の垣根が取り払われ、本当の姿が見え、これまでの迷いや不安が消えるのではないか?
わたしは昭和二十二年の生まれだから、太平洋戦争の直接的な体験はないが、その余韻をひきづる雰囲気は憶えている。父に連れられて小倉の繁華街に行き、そこで、傷痍軍人がアコーディオンをひきながら物乞い(後にわかったことであるが)をしている光景に出会い、それはもの悲しさをおびて幼い脳裏に焼き付いている。彼は手足を戦争で失い、白いパンツとシャツの姿で街行く人に目を向け、楽器をひたすら奏でていた。義足で立った姿は戦争の悲惨さを訴えるには十分すぎた。通行人たちは飢えていて、出店の食べ物に目を光らせながらうろうろ歩き、欲望の熱気があった。
焼け跡闇市の時代と呼ばれるが、これは戦後復興への谷間で、高度成長期へとすすむ狭間であった。今のコロナ禍は戦争に匹敵するものであり、もう一段の谷間が待っているにちがいない。多くの犠牲者がでるであろうが、ネットをみてもハルマゲドンを引き合いに出している。キリスト教にとって人間の死は罰であり、神は永遠の命を与えてくれていたのに、禁断の木の実を食べたが故にその恩恵を失ったと聖書に書いてある。ハルマゲドンによって、神の国に行く者と地獄に落ちる者の選別が行われるのだ。それを信じるか信じないかは別にして、新しい時代への人類の淘汰を告げている。
石川淳の作品に(焼け跡のイエス)というのがあり、自分はすごい印象を受けた。焼け跡闇市の世界で、ただ、生きるために食い物を盗んで食べる少年の凄まじい、まるで泥棒猫のようなエネルギーを現し、それをイエスと名づけた心意気に感動したのであった。
コロナ禍が与える世界はまさにこんな世界であろうが、そこにはそこでこれまでとは異なる活気があるにちがいない。決して悲観ばかりすることはない。
自分の家の前には小川が流れ、脇の道は町民の散歩道になっている。学校が休校つづきのせいか、小中学生が川で釣りをしたり、散歩をしたりするようになった。今朝は、女児がハイカラなスカートをはいて、ヤンママに手を引かれて歩いていた。可愛いと思った。自分にもあんなも孫がいてもいいはずなのに、二人の息子は家を出て、就職したまま、音信不通である。
女児を見ながら、空が広く見えるのに気づいた。女児は小さいから、その分、空が大きいのは当然であるが、コロナ禍を脳裏に浮かばせながら、もしかすると、我々現代人は自然界からみて大きくなり過ぎたのではないか、と考えた。コロナ禍で多くの者は失業したり、収入が減ったりして、首を絞められるような悲惨に陥っているし、自分だってそうである。生活保護の受給か、ホームレスか、首つりか、と考え込んでしまうことがある。
だが、冷静に分析してみると、現状の生活を維持しなくてはいけない、という強迫観念に立っているから苦しいのである。ホームレスに落ちてテント生活をしても良いではないか。環境が変わることで色んな発見があるであろうし、助けてもらったりして、思わぬことに出会わないとも限らない。ホームレスの人々は生きる知恵を我々以上に持っている。どこのコンビニがいつごろ賞味期限切れの弁当をだしてくれるかとか、寝る場所はどこが良いかとか、我々の知らないことを知っている。それに、世の中には素晴らしい人がたくさんいるし、それまでの引きこもり生活で出会わなかっただけなのかもしれない。
一度、そこに落ちて、女児みたいな小さな体になってみようではないか。そうすれば、空も大きく、未来も大きくなるはずである。コロナ禍の後の時代は価値観も含めて大きく変わるであろうし、変わらなければ人類の破滅である。
新しい時代の幕開けにならねばならない。
今、マスコミでは、(この世の崩壊)や(ハルマゲドン()という言葉は禁句になっているのではないか?一度も出てこない。
自分はここで使おうとして、いったん躊躇した。それが今の時世の中で、コロナ禍の未来を予感させる過激な言葉であると感じたからである。それらは、危険な言葉であり、先走りし過ぎた感があるかもしれず、そんな理由で排除されているのかもしれない。
言論メディア機関にも編集者がいて、検閲を行っているのである。このホームページのクリック数が二、三日前、500件近くあったが、閲覧者数は30くらいであった。一人の人間が15ページほどクリックした計算になるから、不自然なのである。それほど好評をえる記事は書いていない。その出来事は以前から気になっていた。毎週、金曜日に定期的に起こることが多かったがその日は金曜日ではなかった。今、デマやフェイクが怖い時代になり、自分はそんなことにはならないように気をつけているが、調査機関は目をつけているにちがいない。
表現や言葉がフェイクというレッテルを張られれば致命的であるし、名誉棄損や国家反逆罪が適用されるかもしれない。戦前に、(灯火管制)の時期があり、夜になると、灯を消して、一人で静かにしてる時代があった。なんだか、そんな時代が再来したような、侘しさを覚える昨今である。
コロナ禍による緊急事態宣言は、感染者数が減らないことからみて、6月まで引き延ばされる公算が強まった。小中学校、高校、大学、会社が閉鎖になり、飲み屋もカラオケ店も、デパートも休みになった。川崎市の郵便局では局員に感染者が出て、数百人が休み、7万通の郵便物が配達されずに溜まっているという。
社会が崩壊しはじめた、そんな気配がするが、これは人類の歴史上初めてではないか?目に見えないウイルスによって壊される気持ち悪さである。ペストが流行った時も人々はこんな気持ちになったにちがいない。と考えたが、野間宏の(崩壊感覚)という暗い小説を思い出した。太平洋戦争によってそれまでの社会と個人の精神が崩壊した様子を描いた作品である。強い印象を残していた。
コロナ禍は敗戦につぐショッキングな出来事である。どんなふうに解釈したら良いのか?と考え込んでしまい、わからなくなる時がある。
これから識者たちが少しずつ解釈の手を入れていくに違いない。
自分は何をやってもダメな男であり、精神も崩壊しかかり、死も近づいているのでそれほどのショックはないが、希望に満ちた若者たちは苦悩を抱えこんでしまったであろう。仕事を失って家で子供や妻の将来に不安をおぼえ、学生は、アルバイトや仕送りがなくなり、実家に帰ろうにも自粛を要請されている。行き場がなくなり、自分と自分の精神に向き合わされてしまうことになる。人生で初めて出会って途方に暮れる若者もいるであろうし、零細業者は先が真っ暗闇になってるに違いない。自分の人生を振り返ってみると人生の途上で何度か死ぬことによって生きながらえたことがわかる。十回ほども死んで、そのことを自覚した。
(ソソ、ソクラテスか、プラトンか、みんな悩んで大きくなった!)とテレビのコマーシャルで叫んだ野坂昭如氏。彼も戦争でひどい目にあい、立ち直って毒舌をふるった男である、逞しかった。
若者よ、崩壊してもいいのである。そこから這い上がり、一段と逞しくなって、新しい人生と社会に生きようではないか!
相変わらずコロナの繁殖力は旺盛で、人類の被害がいとまなく報道されている。コロナにとって人間は大事なエサにしかすぎないものなので、決して絶やすことはしない。コロナはそれを考え、推測し計算しながら、繁殖に取り組んでいる。コロナの終息の日が来て、人類が原状回復に励み、(復興)の文字がメディアに出る頃、コロナはひとまず曳いて、次の戦略を考えるに違いない。
人類も当然、次の対策を練るのであるが、そこで被害の肉体的社会的症状にばかりに目が向いたとすれば、コロナの次の攻撃は今回よりすさまじいものになるに違いない。人間の被害も大きくなる。
コロナの発生は、人間の森林破壊・自然破壊が原因で、旺盛な繁殖はその反作用なのだからである。
だから、わたしたちは、コロナも同じ命あるものである、ということを考えねばならない。生命の共通の祖先は一つであることは科学でも証明されているから、コロナも同じ祖先ではないか?そして、そこでは同時にコロナも生物であるという定義に変えられなければならない。ウイルスが生物と無生物の中間に属するという定義ではなく、生物としての(生きる権利()があり、それを認めてやらねばならないのである。
人類みな兄弟であり、そして、生物みな兄弟なのである。コロナもわたしたちの兄弟なのです。可愛がってやればなついてくるはずです。
そして、わたしたちはご飯を食べる時、(自然()に感謝と償いをかねて両手を合わせ、黙とうしましょう。雑草に除草剤をかけて毒殺してはいけません。出来るだけ農薬や化学製品は使わず、野菜や花を育て、自然に寄り添いましょう。畑がなければ、プランターに種を播いて野菜を育て、水をやりながら自然と共に生きていることを実感しましょう。
三月半ばから竹の子を掘っているので、うちの山の竹の子はシーズン・オフになった。産直店の店頭にはたくさん出ているが、値段は半値にも下がっている。もう出荷していないので引き際が良かったことになるが、山の手入れをしないので竹の子は小さいのが多く、いつもの半分ほどの収穫量であった。有刺鉄線を初めて張ったが、イノシシに入られ、食べられてしまった。
そこでのコロナ禍であるが、食べ物関係の仕事だからコロナの被害は少なく、何とかしのいでいるが、不思議なことに気づいた。イノシシは竹の子を食べ飽きる頃、食べもしないのに掘って、その場に放置するのである。他の山でもそんな習性がある、と聞いた。他の野生動物みたいに貯蔵の目的ではないようである。放置していれば腐るか、人間や他の動物が食べるしかない。
なんのためなのか?
イノシシはすごく賢く、人間の考えや仕掛け罠など見破ってしまうことがあり、いろんな業者が撃退グッズを開発しても成功していないのが現実である。ククリ罠など仕掛けていても、掘り出して、(こんなの作ってもおれたちはわかるんだぞ!)と言わんばかりに、掘り出して放置している話も聞いたことがある。
たぶん、イノシシは竹の子を掘って放置し、(人間たちよ。今年もたくさん食べさせてくれたね、ありがとう。これは感謝の気持ちだよ)と言っているのではないか?と考えてみた。
イノシシが里山に降りて来たのは、人間たちが高齢化して山を放置したこともあるが、人間が自然破壊をして食べる物がなくなったこともある。人災なのである。コロナが人間社会に降りて来たのと同じく、人間が森林を破壊して、森林の住家から追い出されたのである。
イノシシの贈り物は可愛げがあるが、コロナの贈り物は、何と身の気がよだつほど、怖いものである。どこかで折り合いを付けねばならない、と思う。
今日は病院に行った。月に一度は心臓バイパス手術後の体調を見るために通っているが、待合室には誰もいなかった。看護婦に聞くと、病院での感染を怖がって、患者が来なくなったという。昨日の有線放送で、岡垣町に三人目の感染者が出たという報道があった。
それほどの恐怖が広まっているということであるが、自分は帰宅して、酒を飲みながら、考えた。
コロナは体制を破壊する、というフレーズであった。
70年代、80年代の反体制運動、その前後の凄まじい権力闘争を行いながら、結局は体制派に勝てなかった歴史において、コロナは長年の戦略を考え抜いたであろうが、あっという間に、人間世界の体制を壊そうとしているのである。すごいことである。壊そうとしているのではなく、自分達が生き延びようとしているわけであるが、それにしても敬服せざるを得ない状況である。
だが、これによって、自分あるいは多くの人々の願いがかなうかもしれない、のである。これまでの学歴主義、権威主義、美観、出世主義などが壊されるとしたら、国家が壊れ、無政府主義になるとしたら、願ってもないことではないか?社会秩序、、家庭、男と女の役割にわたしはうんざりしていたので、そこから解放されることは夢なのであった。
コロナの破壊後、新しい社会を目指そうではないか。