ブログ - 最新エントリー
人権を重んじ、差別をなくす目的であろうが、障害者は(障がい者()に変えられて、(害)、の悪い印象を消した。そして、障害者競技は、(パラスポーツ)に変えられ偏見を取り除かれようとしており、障害者の本質・印象を消されようとしている。(パラ)とは、(パラレル)、つまり、平行、並列の意味である。では、何に対してなのか?となれば、健常者に対してなのであり、平行状態であることは交われないことも意味しているので良い名詞ではない。
これは新しい差別ではないだろうか?名称の変更で本質を隠し、すり替えてる点では悪質である。現代では、この事例がはびこってしまった。政治家がよく使う手であるが、一般化してしまい、商業主義にも利用されている。
精神病理学の世界でもそうである。精神分裂病が躁鬱病に変わったかと思うと、双極性障害に変わり、次にまた何かに変えられるであろう。病名の変更や発見によって精神病理学は、福祉行政とも絡んで、新種を発見したかのような勢いである。
本質や根源を追求せずに、化粧や美容整形にどの分野も精を出して、医学が発達し、病気も発達するという悪循環を繰り返している。もっと、本質に目をむけるべきではないか?ある人が身体障害者であったとしても、その人の頭脳はどうなのか?性格はどうなのか?個性はどうなのか?など総合的な観点が必要なのではないか?
要するに、多様な視点が求められているのである。
時々、死にたくなるし、精神的に死んでいることもある。
いま、太宰治の(人間失格)を読んでいるが、本の売れ行きはスーパースターなみである。読者は自分の告白が書かれていると共感する者が多いらしい。私もその中の一人であるから、読者の気持ちはじゅうぶんにわかる。私は高校時代に読んで、その主人公に自分の異端者ぶりを重ねたのであった。
その小説を読むと、そこからの連想で三島由紀夫の(仮面の告白)を思い返し、重ね合わせてしまう。三島は近親憎悪から太宰を嫌っていたが、両者とその作品は兄弟と言えるほど親密である。三島が強い肉体・美を人生と作品の支えにしているとすれば、太宰は道化と軽妙・洒落を支えにした。遺書と言える(人間失格)には暗さはほとんどなく、死を計画した前に書かれた作品だと信じられない。ここまで自己を追求するか?といえるエネルギーに驚嘆するばかりである。三島も(春の海)とういう作品を遺書として書いているが、自分の苦悩を作品に昇華しているので個人的な悲惨さはない。
太宰は精神病院に入院させられたことを悔やみ、それを人間失格とみなして、女と入水自殺をし、三島は革命を起こそうとして、予想した失敗になり、マスコミ報道によって自己と事件を作品に変えた。
二人の作家は、自分の死に方を自ら選び、決行したのである。
凡人には、(死に方は選べない)のである。
こんなわたしであっても、その両者に通じるほどのレア性を持ち、人生体験をして来たのであるから、がんばれば偉大な作品が書けないとは言えない。モデルは自分も含めてたくさんおり、布団の中では作品が次々に出来ているのである。
このホームページを開いて、およそ二十年になります。前は、レア・ピープルと言う名前でしたが、その間、方針や姿勢が少しもぶれていないことに自信を持っています。閲覧者数やクリック数も安定していて、私の知人もかなり、見ているようです。
今、太宰治の(人間失格)を読んでいますが、百年たっても愛読者は増える一方で、太宰治は時代の先を生きていて、彼の変わり者ぶりを作品化し、彼を(人間失格者)だとタイトルづけしており、その勇気に敬服します。
(レア)などまだかわいいほうで、今の私は自分を名付けるなら、(廃棄物)と言いたいほど落胆している時もあります。そこで考え、悩み、思いいたることがあります。このブログの中でわたしはまだ、自分の十分の一も本性を出していません。それは恥ずかしいからと言うより、作品化する自信がないからですが、(人間失格)を真似て書いてみろ、と言われれば書けるかもしれませんが、太宰治ほど自分に拘り、卑下した作家はいません。彼は家庭の事や女のこと、身内のことは一切書いていませんが、わたしのつたない小説と逆です。
性的少数者や障害者たちが人権のもとに社会参加をし始めた現代において、わたしは自分の本性をもっとさらけ出すべきだと思います。どこか、避けてる節があれば、文章は力をもたないのです。余命を十年と考えて、十分の一を十分の五に持っていきますが、モデルの人権に触れることは控えます。
中国発の新型コロナウイルスの世界せいで、世界中は大騒ぎである。中国の町が閉鎖され、客船から数千人の乗客が降りられない、帰国が出来ないなど、まさにパニック状態である。治療薬が発見されたとはいえ、簡単に終息し、平和が戻るとは思えないし、東京オリンピックだって開催が危ぶまれるかもしれない。経済に与える影響は甚大である。
話は変わるが、二月になり、そろそろセリの出る時期だと考えて、野山を探してみるが見つからない。見つかったとしても小さく、食べれる量ではない。昔は,米と鶏肉を焚いて、出来上がった頃にセリを入れて食べたものであった。あの香ばしい野の味は、忘れられない。
昨日、友達から、宗像市の・・に生えてるよ、と教えられ、バイクで行ってってみた。湿地のススキの枯草の下に隠れるようにしてたくさん生えていた。後日、長靴を履いて来ようと考えて去った。
そこでわかった。農薬のせいで、、人が生活する、あるいはその下流ではセリは殺され、滅んでしまったのである。その湿地帯の上には田も畑も人家もないからセリを殺す者はいないのである。当然、生活排水の溜まる川の縁でも見つからない。ドジョウ、ザリガニ、ドンポ、メダカなど人が生きるために殺した種は数が知れない。
ウイルスは単独では生きていけず、増えることもできない。(生物と無生物の中間)に位置しているので捕食ができず、生きていけないのである。人に寄生して養分をとり、生きるしかない。
人間も単独では生きていけず、他の生物を滅ぼしながら生きているのである。
果たして、ウイルスは敵であり、蔑視されるべき存在であろうか?
町役場の開くワークショップに、三度ほど参加したことがある。講師はアメリカに留学してワークショップを学んだ男性で、日本は垂直思考(トップダウン)が強く、水平(真横の関係)が薄い、と話した。参加者たちは十ほどグループに分かれて、町の問題について自由な意見を言い、講師はそれを集約して、発表した。
ところが、町の政策にまで踏み込んだ議論はなく、意見は狭い範囲のもので、広がりはなかった。例えば、ゴミの収集に対しても、体の不自由な人は家のは入口に置いておけば取りに行ってあげる、といったようなことで、それはそれで良いことであるが、環境問題にまで進みはしなかった。
わたしのキリスト教会での体験は以前のブログでも書いているが、あれから牧師からの電話や信者からのメールがあった。どうして来なくなったのですか?牧師も信者達も心配している、という内容であった。話し合っても良い、とも考えたが、立ってる位置が異なるので平行線になると考えて、黙殺している。わたしが貧乏だと言っているのに、さらなる献金を求めたことに対して、彼らは、それがキリストの精神に反するとは考えず、生活費をもっと切り詰めてでも献金すべきだと考えたにちがいない。
要するに信者の生活より、神の方に目が向いているのである。垂直思考である。釜ヶ崎のホームレスの散髪をしてやった牧師もいるので、すべてのキリスト教徒が垂直思考だとは言わないが、仲間・信者の生活より神の事しか考えない者は仲間でも何でもない。富裕階級のサロンに用はない。献金や寄付をしているから自分たちはキリストの精神を受け継いでいると、考えて、手を汚さない連中は、聖書の中にあるように、キリスト自らが、貧民の汚れた脚を洗った、という出来事を思い起こすべきである。
ホンダのカブ(50cc)に乗り始めて、30年以上になる。集金の仕事の必要性から乗りはじめたのであるが、自分の妻や友人以上の存在になってしまった。思えば、10年前に、仕事中、盗まれ、ボックスに入れていたカメラ、ビデオカメラを盗まれ、カゴに入れていた弁当や水筒があたりに投げ出され、不吉な光景を見せつけられた。バイクは発見され、戻ってきたが、それから私は狭心症の発作が出始め、カテーテル治療の失敗で殺されかけ、転落の人生が待ち受けていた。バイパス手術で命をとりとめた。
そして、今、退職後、毎日そのカブにのって産直店に行き、友人宅やスーパーを走り回っている。昨日は、鉄条網を買いに行き、気まぐれ天気に振り回されて、雨に会ってしまった。カッパを着ていたが、顔は正面から雨に叩きつけられ、ずぶぬれになった。いつまでも家に着かず、泣きたい気分になったが、カブは音を立てて、走り続けた。
そんなカブに感謝をすることもなく、洗ってやったこともない。タイヤのスパークは錆びつき、座席の下の部分は青い苔が張り付き、年季が入っていますね、と人から言われる。盗まれて鍵が壊されていたので、その部分はそっくり交換し、正確な走行距離はわからないが、10万キロはいっているはずである。
もうすぐ、エンジンが止まるはずだと予想しながらも、走り続けている。
まるで、自分の人生と瓜二つである。
猥褻行為とセクハラは似たような言葉であるが、ニュアンスは明らかに違う。一方がいけないことだが、してみたいというワクワク感みたいのがあるが、他方は明らかに犯罪であり罰せられるという法的意味合いが強く、万引きは犯罪です、とスーパーなどでも流してるのと同じである。万引きはそれで良いとして、セクハラという表現は、人間心理の微妙なあやを切り捨ててしまい、人間性をすごく狭めている。
また、サド・マゾという言葉が死語になりつつあり、その世界や行為は世間に顔を出せず、消滅してしまったのか?二十年前まで、流行っていた、ロウソクを垂らして、鞭で打つ、という代表的な行為は禁句になっているようだ。そんな行為をされて快感を覚え射精をするほど興奮する人種は今頃、どうしているのであろう?マスコミ世界でさえ、タブーになっているのであろう。もし、記事にしてしまえば(暴力行為)のほう助であり、それをあおるということで罰せられるかもしれない。
私の想像ではそのうち、盗視罪、という罪名が出来て、いやらしい目で見た、見られた、を監視カメラに取られ、盗撮のように軽犯罪法の一つに加えられるのではないか?そうなると、わたしは最初に捕まってしまうかもしれない。ああ、恐ろしい世の中だ。
有刺鉄線は、このホームページの冒頭写真にあるように、レアを象徴するものです。その写真を観たある女は、これを冒頭に出すなんて・・・、と言って、変わり者と言いたげな口調でしたが、私は今でも気に入っています。
今日も、竹の子山に行って、三区画目のエリアに有刺鉄線を張ってきました。百メートルの有刺鉄線を五個も使ったので、およそ500メートルほど張ったことになりますが、山ののり面での作業はずり落ちそうになったり、縛るワイヤが切れたりしてイライラ、苦しい時間でした。上下二段に三十センチほどの間隔を作って張りましたが、自分がイノシシの立場に立ってどうやってもぐりこもうかと考えながら、すすめました。すでに竹の子は、5、6本ほど掘り食われていて、毎年、収穫の90%は持って行かれていましたが、今年はそうはさせません。
彼らは掘り」かたもうまく、夜にどうやってあんなに器用に掘るのか不思議でなりませんが、有刺鉄線にぶつかってどう反応するのか見ものです。オカシナものがあるぞ?と考えて近づき、棘に鼻を刺されておわてて逃げるか、乗り越えて入り込むのか見ものです。
三区画目に有刺鉄線を張ってもすべての土地の四分の一にしかなりませんが、来月から芽を出す竹の子が自分の手に入るかどうか楽しみです。
先日の毎日新聞に、変わった記事が出ていた。それは時代を象徴し、あるいは時代の中で生まれたのであろう
ある母親の、小学生の息子が、友達をつれて帰ってきたので家の中に入れ、友達を迎えた。おやつを出したりして友達をもてなし、夕食を食べさせた。ところが、その友達の中に、息子や友達とはまったく関係のない男児がいたことが後にわかった。その子は時々、そんなことをして食べ物にあずかっていて、その子の両親は仕事が忙しくて育児放棄をしており、そんな放浪者みたいな子を最近、見かけるという。
わたしはその記事を読みながら笑い、悲しくなった。
まるで、野良犬ではないか?犬でさえ、自分の子供はきちんと育てるというのに。
その記事は、わたしが今、とりかかっている小説に通じ、私の幼い頃にも通じているのである。私の母親は、今でも理由がわからないのであるが、まだ立ち歩きの出来ない私を家に独り置いて出かけ、わたしが小学生になると、夏休み、冬休み、春休みには、親類先に何か月も、わたしを預けたのであった。
今でも、幼児の頃の出来事を鮮明に憶えている。庭先に出て地面を這いながら、母を叫び求めた体験は決して忘れない。泣き続けて横隔膜が痙攣し、息が止まりそうであった。私がドモリであるのはそのせいであろう。女狂い、と若い頃に呼ばれたことは、母を追い求める原体験に根があることが自分でもわかるので、それを作品化したいのである。
人は、職業や居住地、結婚相手、移動などいろんな自由があるのに、親の選択、子の選択、血筋の選択は出来ないのである。遠い将来には選べるようになるかもしれないが、すべたがうまくマッチするわけではない。今は、世襲制が強く、どんな親の元で産まれるかによって、将来はほとんど決められてしまう。
でも、逆境を乗り切れば、すごい人物になることができる。この私だって、その可能性が0というわけではない。
わたしは身体障がい者・4級の認定を受けて、およそ10年になる。税制や交通費、障害者の会への助成金などで優遇を受けていて、ありがたいことであるが、認定の基準に疑問を抱いている。医師の診断書を福祉課に提出し、それが県から国へいって審査されるわけである。認定される人はともかく、されない人もいる。二本の杖をつきながら歩き、突然倒れる人が病名が付けられずに認定されないことを例に取れば、認定の改正が必要だと思う。
わたしは10年前に心臓のバイパス手術を受けたが、心臓の一部に不完全な個所があるということで認定を受けているが、日常生活にはほとんど問題はない。血液をサラサラにする薬など毎日、10錠ほど飲んでいるので、頭のふらつきなど、出ることがあるが、少々の重労働などはこなしている。酒も飲んでいる。このように健常者と全く同じ生活や仕事をしている障害者は少なくない。はっきり、いえばこれは社会保障費の圧迫になっており、政治もそれを知っていて基準を厳しくしているが、法的な改正には至っていない。
医者の認定は必要であるが、労働が出来るかどうか?社会生活が出来るかどうか?に判定の基準を変えるべきではないか、と思う。精神障がい者の場合もそうであるし、障害ということは文化的な部分にまで広げて取り込むべきではないか?例えば、アニメーション・ダンスの中に障がい者の歩き方を昇華してみるとか?それは障がいを晒しものにするという反論が出るであろうが、違和の中に文化の芽があるという発見になるのではないか?