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昨日の毎日新聞の夕刊、その第一面に(レピー小体型認知症)、の小見出しが載っていた。
おどろいたことに、私の体験が病名として、世間に出たのであった。自分は小学校の通知表には、責任感は強い、ただ、情緒不安定であり、協調性に欠ける、と、レアを象徴するようなコメントがいつも書かれていた。中学校に入ると、下校後、仮眠をとり、午後十時ころから、外に出、他人の家を覗き見したり、自分の家の中や庭を夢遊病みたいにうろついたことがあった。
高校の時、下校後に、家でうたた寝してる時であった。棚の人形たちが歩いたり、踊ったりしてるように見えたことがあり、目覚めると動きを止めた。精神科医にみてもらえば、良い材料になり、当時としては世界的な大発見になったかもしれないが、五十年後の今頃ごろになって、病名がつけられるとは医学が発展してるように見えていかに立ち遅れてるかの証である。
でもそれは、認知症ではなく、幻覚症状であろう。
今(72歳)は時々、眼覚めの夢うつつの時に、男の座像が現れるようになった。額縁入りの遺影のように、無表情で静止していて、黙って自分と向き合っている。向き合っているというより、はめ込まれた写真のような感じである。週に一、二度、、足元の方、右手の本棚、左手の畳間に現れ、よく確かめようとすると消える。同一人物であるようだが、はっきりしない、見たこともない顔である。一年ほど前は驚いて怒り、寝たまま、蹴り上げて、足をガラス戸にぶつけたこともあった。
毎日新聞には、目ざめに現れる幻視であり、脳の神経細胞にレピー小体と呼ばれる物質がたまって起きる、具体的な幻視で、認知症の一種である、と書いてある。
なぜこんなことを書くかというと、今、(遺影)という題で、小説を書いていて、その眼覚めの出来事が物語の始まりになっているからであった。ストーリーは何度も変えたがほぼ決まった。ただ、物質だけが原因ではなく、心理的な要素を加え、幻視の男と主人公はどんな関係なのか?掘り下げげて書いていっているいので面白い。最初は、夢枕の男、という題であったが、遺影、と変えて、少し、深みが出たように思う。
毎日新聞に掲載されている人のように、自分にとって、幻視を見ることは楽しく、面白いので、毎朝でも、現れて欲しい。男ではなく、女であれば大歓迎なのである。さらに、幽体離脱して、魂がこの世とおさらばしてくれれば、無上な喜びになるであろう。
今年度の芥川賞受賞作、(背高泡立草)を読んだ。納屋の雑草を切るか切らないか、という書き出しで興味をもったが、薄っぺらな文章が飽くことなく続き、それで何か訴えたいのか、と考えながら読んでも心にしみる、作者の意図が全く感じられず、放棄した。
三、四十年、の芥川賞は心にビンビンひびくものが多かったが、年々、時代の精神と共に衰退し、賞の冠だけは載せるという形式主義に成り下がった。
マスコミは片割れであるからそのことに触れようとはしない。業界の物書きたちもこんなことを書けば、原稿の注文が来ないことを知っているから絶対に書きはしない。自分は、無冠の王であるから、書けるのである。
賞をもらったというだけで作品は美容整形された顔のように、すごく美しく輝き、賞の役目を果たすことになるが、美容整形の力だけによる顔は、見るに耐えられない。最近、そんな商業主義に固まった賞が多すぎ、指摘されることは無い。
変革したいのであれば、選者を文学関係以外の者にすべきであり、作品に該当なし、を出してもいいではないか?当選する力もないようなものに色をつけるのはそろそろおやめください。
文学賞に応募しても、原稿が着きました、ときちんと返事をするのは一社くらいしかなく、落ちれば放置している現実は出版社が本当に作家を育てようとする気持ちがあるかどうか、首を傾げざるをえない。
人類のみなさん、お騒がせして、本当に申しわけありませんが、一つだけ、我々・仲間を代表して、言わせてください。
わたしたちコロ・ナウイルスは決して人類の皆さんを攻撃しようとか、絶滅させようなんて考えているわけではありません。寄生主・クライアントであるあなたたちにそんなことをすればわたしたちは主をなくして、死に絶えるしかないのですから、つかの間の被害と考えてください。
私たちは、生物と無生物の間に属する種なので、独立して生きることは出来ず、繁殖も出来ないのです。あなたたち・動物の体内に入り込んで生きるしか道がないのです。そのことをぜひ、ご理解ください。ただ、あなたたちが強い抗生物質や殺菌剤を開発されるから、その中で生き延びるためには、見えない敵になって、潜伏期間を長くして陰性に見せかけたり、陽性と見せかけて陰性になったりして、変幻自在にならざるを得ないのです。
それでは共生の道を選べばいいじゃないか?犬や猫みたいに人間のペットになり、あるいは、金魚やカブトムシ、鳥のように可愛い姿に変われば良いじゃないか?っておっしゃる方もいらっしゃるかもしれませんが、残念ながら、わたしたちは単細胞の種なので増殖して変身することが出来ないのです。
そろそろ、あなたたちも私たちに負けない抗生物質やワクチンを開発されるようですから、このあたりで私たちは引きあげますが、次はそれに負けない姿になって、現れますので、ご迷惑でしょうが、来年もまた、よろしくお願いします。
人類の皆さんの繁栄を、心から、祈っております。
先ほど、毎日新聞の人生相談の欄に、高橋源一郎氏の解答が出ているのを、読んだ。
相談者は子を持つ女性であるが、自分を育てた親の振舞いに傷つけられ、その後遺症で、彼女は子供を虐待しそうで、悩んでいる、という。高橋氏は懇切な文章でこたえ、どんな振る舞いなのかわからないが、あなたの鋭すぎる精神が原因ではないか?もう少し、グータラになったらどうかと応えている。
高橋氏の懇切丁寧な心に感動したが、鋭すぎる精神、は自分に向けられた、と考えた。日頃、こんな宗教に入りませんか?こんな人に投票してもらえませんか?と、言われた場合、自分は調べてから決めます、と応えるが、そんなことまでするんですか?と不審な眼で見られたことがあった。逆に、調べもしないでそんなことをするんですか?と訊き返したくなったことがある。
一昨日、行かなくなった教会の先輩信者から電話があり、レストランで会い、食事をした。いつも、奢ってくれる方で、この場を借りて、お礼を言いたい。話の内容はその前から、自分にはわかっていた。これは間違いなく平行線になるから、会っても意味がないが、電話を無視するのは失礼でもあると考え直したのであった。
前のブログにも書いていることであるが、洗礼を受けた後、新たな献金を求められたことが原因であった。貧乏人である自分に、遠回しで匂わせるならともかく、四通もの献金封筒を出したのであったし、教会の新聞に必ず、献金者の名前と献金額を書いており、神父にそのことをいうと、会計上のことです、という返事であった。
先輩信者に話したことは、あなたたちは神の方ばかりに目が向いている、信者仲間のことの方が大事なのではないか?それでは,トップダウンの世界ではないか?というと、ではどうやって教会を支えるのですか?と、予想した反論が出てきた。ここが、彼ら信者と自分の決定的なちがいなのである。
仲間同士の支え合いより、神の方が大事?そんな所に自分は行きません!
これが鋭すぎる精神なのであろうか?
自分のことは教会の中で取り上げられ、いろんな意見が出たようであったが、自分は互いに助け合おうとする気持ちがなければ、共同体は崩壊する、と言いたい。
このことについて、教会で議論をしようじゃないか?というと、・・さんが反対するでしょうと言い、最後は、わかった、といって彼は立ち上がった。それは自分が教会に行かない理由がわかった、ということであった。
先日、ある老女に野菜を買ってもらいに行った。セリ、フキ、ギンナン、大根を出すと、いくらですかと訊くので、千円でいいです、とこたえた。すると千円札一枚を出し、さらに出そうとするので、それだけでけっこうですよ、と、言うのに五百円を追加した。以前も、違う老女で同じことがあった。彼女は何と、一万円札を追加したのであった。それは彼女の借家の保証人になっているということも関係しているが、彼女の生活は決して、楽ではないのであった。
外国ではチップをやる習慣があるが、たぶん、請求された以上の金を出すことはない。義理人情は日本人独特の習慣、国民性である。今日、つい先ほど、二人の老女の玄関先には、フキノトウを黙って置いて行ったのであった。すぐに電話がかかって来たので、テンプラにして食べてください、と言った。今の時代においても、義理人情に富んだ人はいる。この前、中近東で奉仕活動をしていた中村哲さんがテロにあい、亡くなって、何千人もの人が葬儀に参列したことがあった。日頃、地域のボランティアをしている人もたくさんいるし、それは珍しい行為ではなくなった。
見返りを期待しない行為は小さなことでも、すごい力を持っている。買い物に行って、店の従業員から気を付けてお帰り下さい、と言われただけで、それまでの鬱状態が一気に吹き飛んでしまうことは度々、ある。昔の日本人が、貧しくとも、あれだけほのぼのした感情をもち、それが絵や俳句などに反映されているのは、物質の欠乏を精神が補っているからである。切腹や男女の心中なども日本独特のものであり、良い悪いは別にして、(心貧乏()ではなく、(心金持ち)になりたいと思う。
ただ、今の時代は義理人情が、見返り、として、政治や経済の裏面に利用されていることが多く、歪められてしまっている。本来は利害関係のない世界なのであり、それは潤滑油として人間社会を成り立たせている。
今、太宰治の(人間失格)を読んでいて、その人間分析の深さに、圧倒されています。(女に惚れられる)という文脈に、惚れられる辛さ、愛せられる不安、という作者の不安が覗いていて、自分の願望とは裏腹であることに気づいたのです。私は女に愛されたいのに、愛され過ぎた太宰にはそれが辛く、不安でもあったということなので、信じられないほどの心理の乖離が感じられるのです。
本を伏せて、庭を見ると、暴風雨で荒れ、目の前のモチノキが空を向いて怒り狂っています。(あれは畑の日当たりの邪魔をしているから、鋸で切り落としてやる)と決意しました。私は体調も良く、昨日は竹の子山に行って、有刺鉄線を破ってイノシシが入っていないかを調べ、二十メートルも高い枯れ竹を十本も切ってきました。
三十過ぎで、女と入水自殺をした太宰よりは、二倍は老いてる私は,元気なのです。ところが、それは当たり前だと言わんばかりに感謝の気持ちがないのです。他方、女には縁がないので、女への願望は強く、女を強く望むので、女はいつも自分の心の中に住んでいます。
ここで、有るものは無いものであり無いものは有るものである、という言葉が思い浮かんだわけです。
どちらも良い、と認めてしまえば、人生は楽になります。
月に、二、三度、不思議で、怖いことに、出会う。朝、目が覚め、まだ半覚醒状態である時、布団のそばに、全く知らない男が座っている。身動きもせず、黙っていて、ただ座って私に向き合っている。ある時は、机の背もたれから現れ、ある時は右手のガラス戸に座っている。
怖くなって、叫んだり、足で蹴りあげようとしてガラス戸にぶつかり、その痛みではっきりと目覚める。男の座像はすぐに消える。以前はそんな時、人形棚の人形たちが踊ったりしていたが、寝床がちがう場所に変わったのでそんなことはない。
寝ぼけた、とか夢遊病だと片づければ簡単なことであるが、バイパス手術後の麻酔の切れていないときにも似たような症状が出た。病室の半分が公民館の事務室に変わって、壁に盆踊りやソフト・ボール練習のポスターが見え、迷妄状態を体験した。
前置きのエピソードが長くなったが、今、書き始めた小説にこのことが絡んでいるからである。宗像市の農家にNHKの受信料の集金で回っていた時、ある老婆が話したことがあった。
年老いた夫が、死ぬのが怖い、俺はどうやって死ぬのか?と言い始め、ついには屋敷の納屋に行って、首を括ったという出来事であった。72 歳になった自分が、死、のことを考えないはずはない。
そして、自分もその男の考えることを考え始めたのである。
おれはどんな状態で死ぬのか?死んだらどうなるのか?と。
小説は次のように進む。夢うつつの中で出てくる男が、首を括った男、そして私の分身である。わたしは庭で焚火をしている時に、火の中に飛び込み、焼身自殺をし、その灰が庭の野の菜や椿、山茶花、イチョウの木の肥料になるという構想であるが、どんなものであろうか?
人権を重んじ、差別をなくす目的であろうが、障害者は(障がい者()に変えられて、(害)、の悪い印象を消した。そして、障害者競技は、(パラスポーツ)に変えられ偏見を取り除かれようとしており、障害者の本質・印象を消されようとしている。(パラ)とは、(パラレル)、つまり、平行、並列の意味である。では、何に対してなのか?となれば、健常者に対してなのであり、平行状態であることは交われないことも意味しているので良い名詞ではない。
これは新しい差別ではないだろうか?名称の変更で本質を隠し、すり替えてる点では悪質である。現代では、この事例がはびこってしまった。政治家がよく使う手であるが、一般化してしまい、商業主義にも利用されている。
精神病理学の世界でもそうである。精神分裂病が躁鬱病に変わったかと思うと、双極性障害に変わり、次にまた何かに変えられるであろう。病名の変更や発見によって精神病理学は、福祉行政とも絡んで、新種を発見したかのような勢いである。
本質や根源を追求せずに、化粧や美容整形にどの分野も精を出して、医学が発達し、病気も発達するという悪循環を繰り返している。もっと、本質に目をむけるべきではないか?ある人が身体障害者であったとしても、その人の頭脳はどうなのか?性格はどうなのか?個性はどうなのか?など総合的な観点が必要なのではないか?
要するに、多様な視点が求められているのである。
時々、死にたくなるし、精神的に死んでいることもある。
いま、太宰治の(人間失格)を読んでいるが、本の売れ行きはスーパースターなみである。読者は自分の告白が書かれていると共感する者が多いらしい。私もその中の一人であるから、読者の気持ちはじゅうぶんにわかる。私は高校時代に読んで、その主人公に自分の異端者ぶりを重ねたのであった。
その小説を読むと、そこからの連想で三島由紀夫の(仮面の告白)を思い返し、重ね合わせてしまう。三島は近親憎悪から太宰を嫌っていたが、両者とその作品は兄弟と言えるほど親密である。三島が強い肉体・美を人生と作品の支えにしているとすれば、太宰は道化と軽妙・洒落を支えにした。遺書と言える(人間失格)には暗さはほとんどなく、死を計画した前に書かれた作品だと信じられない。ここまで自己を追求するか?といえるエネルギーに驚嘆するばかりである。三島も(春の海)とういう作品を遺書として書いているが、自分の苦悩を作品に昇華しているので個人的な悲惨さはない。
太宰は精神病院に入院させられたことを悔やみ、それを人間失格とみなして、女と入水自殺をし、三島は革命を起こそうとして、予想した失敗になり、マスコミ報道によって自己と事件を作品に変えた。
二人の作家は、自分の死に方を自ら選び、決行したのである。
凡人には、(死に方は選べない)のである。
こんなわたしであっても、その両者に通じるほどのレア性を持ち、人生体験をして来たのであるから、がんばれば偉大な作品が書けないとは言えない。モデルは自分も含めてたくさんおり、布団の中では作品が次々に出来ているのである。
このホームページを開いて、およそ二十年になります。前は、レア・ピープルと言う名前でしたが、その間、方針や姿勢が少しもぶれていないことに自信を持っています。閲覧者数やクリック数も安定していて、私の知人もかなり、見ているようです。
今、太宰治の(人間失格)を読んでいますが、百年たっても愛読者は増える一方で、太宰治は時代の先を生きていて、彼の変わり者ぶりを作品化し、彼を(人間失格者)だとタイトルづけしており、その勇気に敬服します。
(レア)などまだかわいいほうで、今の私は自分を名付けるなら、(廃棄物)と言いたいほど落胆している時もあります。そこで考え、悩み、思いいたることがあります。このブログの中でわたしはまだ、自分の十分の一も本性を出していません。それは恥ずかしいからと言うより、作品化する自信がないからですが、(人間失格)を真似て書いてみろ、と言われれば書けるかもしれませんが、太宰治ほど自分に拘り、卑下した作家はいません。彼は家庭の事や女のこと、身内のことは一切書いていませんが、わたしのつたない小説と逆です。
性的少数者や障害者たちが人権のもとに社会参加をし始めた現代において、わたしは自分の本性をもっとさらけ出すべきだと思います。どこか、避けてる節があれば、文章は力をもたないのです。余命を十年と考えて、十分の一を十分の五に持っていきますが、モデルの人権に触れることは控えます。