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はたして言論の自由。

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日記
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nakamura 2020-8-13 20:24

  近頃の新聞・テレビは、コロナの感染者数の増加、お盆休みの様子、中国の香港への露骨な支配などでお茶を濁してるように思える。物書きである記者の真剣な姿が見えてこないし、見せようとはしない。舞台の袖口に立って役者を傍観しているだけで、自分達のこととして真剣にとらえてるようにみえない。

 香港の人権活動家たちの闘いなど書くことはそれはそれで意義にあることではあるが、日本には表現・言論の自由があって幸福ですね、と裏でこっそりささやいている魂胆がみえる。それで読者に満足・自慰をさせていることに気づかないのであろうか?

 自称・小説家として書いているわたしからみれば、そんな茶番劇が透けてみえてくるのである。小説の文章を書くだけでかなり苦痛であるのに、そこでセクハラ、差別、人権などのタブーが絡んでくると筆が止まってしまうことがある。(美由は女だてらに薄笑いを浮かべた)と書こうとして、筆が止まる。(女だてら、とはなんですか?女だったら薄笑いを浮かべてはいけないんですか!差別ですよ!セクハラですよ!)という口火からSNSやファイスブックなどに飛び火して騒がれることは目に見えている。

  コロナ騒ぎからますます縮み志向がひどくなり、物事の真相は遠ざかっていくのである。

 それに身体障がい者の動きなども書きにくくなっている。(彼は大きく前につんのめるような動きから、後ろに大きく仰け反り、それを反復動作させ、まるでアニメーション・ダンスのをするように歩いた)と書けば大変な非難になるし、一流作家は書けないことである。これでますjます表現が狭められ、真相を縮小させてしまうことになる。

 

 

磁場にはまる。

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日記
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nakamura 2020-8-9 19:57

  小説(磁場)を書いていて、これまで謎がとけなかった状況が見えてくるようになった。人生では、魔の瞬間、と言われる事態がある。このままでは同じ失敗になり、困った状況になるとわかりながら、はまってしまうのである。女との出会いにおいて、こちらから誘ったわけではなく、相手から転がり込んで来て、体の関係が出来ると、なんであの時、私を抱いたのよ?とか、もう一人の女の男からは、俺の女に手を出しやがって!と怨まれたことがあった。こちらは家出をして行く場のない女を慰め、救ってやった(一人の女は自殺をしにやってきたのであるが)のに逆恨みをされるのである。

  思い返してみると、不思議なことに二人とも家出をしてきた女であった。

 そんな時、やばい!と思いながら、転がり込んできた女を追い出すわけにはいかず、なんで家に入れてるんだ?追い出せ!と男から怒鳴られ、女は追い出されたら自殺します!と叫んだのであった。四十年前のことであるが、殺人事件にも至らなかったことが不思議である。自分には落ち度はない、と考えながら、女が家出する前から相談にのったりしてちょっかいを出してたとも言われた。

 自分の意志とは無関係に手が伸びてしまった、というしかない。言葉で説明できるものではないし、それをすれば言い訳になってしまう。磁場、なのである。磁力に曳きつけられた鉄粉みたいな頼りない自己に縮小されてしまう。だが、年をとると、磁力も弱まり、曳きつけられることも曳きつけることもなくなった。

 小説の中で、なぜ、その時、おまえは俺の前にいたのか?と女に言い返してやった。

磁石には霊魂がある。

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日記
執筆 : 
nakamura 2020-8-6 8:55

  小説(場)は(磁場)に変えて、書いている。半ばまで進んだが、理論武装の男を登場させ、ラストに持って行こうとして筆が止まった。ツマと非接触システムの生活の中で、家庭内離婚を続けていた老男が家出をし、シングルマザーの女の隣部屋に住み始めるが、元の非接触システムの中に戻る、という流れである。作品は、理論武装の男にそのテーマを説明させるやり方で書いて、納得できなかった。読者がいれば不満であろう。筆が止まってる間、ある老男のことが思い出され、かれを登場させ、日常的な心理をからめて、磁場が物理的に元に戻る、ということで決定した。

 その老男は女に狂って借金を繰り返し、自己破産をし、主人公が棲み始めたアパートの住人であった。作品の主人公と親しくなり、非接触システムの生活をきいて、心を打たれ、女の扱い方を教えてやることになる。よりを戻すように働きかける。

 磁力に関する本を読んだ。その中で、古代ギリシャの哲学者・ターレスが、磁石には霊魂がある、と話していたことがかいてあり、やったあ!と思った。自分の夢は古代のように、哲学と科学が一つであった世界を書くことであったので、磁場というタイトルとテーマがうまくはまったと考えたのである。

 今、世間は右を向いても左を見ても、コロナにうちひしがれた者ばかりである。自分の生活はどうなるのか?夫婦関係がおかしくなった、という愚痴ばかりで、すっかり元気を失ってしまった。そこで、こんな小説を書いている老男がいる。

 不幸が強ければ強いほど、素晴らしい作品になることがある。

 そうなれば、コロナも歓迎である。

時代の、揺れ戻し。

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日記
執筆 : 
nakamura 2020-7-21 20:36

  今回のコロナ禍は、感染者数が世界で一千万人になったとか、何十万人が死んだとか、それはそれで大変な事態であるが、わたしは、これは何千年に一度の地殻変動、時代の揺れ戻し、ではないか?と考え、自分が恐るべき位置に立っている?と思いついた。日本の歴史をひもとけば、卑弥呼の時代から国が出来、奈良、平安、鎌倉、安土桃山、江戸と一千年ちかい時代がゆったり流れたが、明治維新になってからおよそ百年までの流れは急激すぎて、おまけに人間生活がAIに変わるという信じられない変化を起こしてしまったのである。

 岩石が大きく揺れ、そして、揺れの戻しが来た。コロナというウイルスの作用で大量生産、大量消費、多数決主義、などという多数派の時代が、三密、非接触、少数という考えに逆転し、揺れ戻しを起こし始めたのである。時代が逆行することはあり得ないと信じられていた概念がコロナによってあっという間に揺れ戻されようとしているのである。それはもう物理学的変化と言うしかない。

 この流れはもう止まりはしないし、コロナが起こる前の状態に復興しようなどと言う考えは甘い。スロウなブギにしてくれ、という音楽が流行り、その言葉が時代の心を現した時期もあったように時代の精神もそんな変わり方をするに違いない。

 少数派、レアの時代、の到来である。

コロナは人体の一部になる。

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日記
執筆 : 
nakamura 2020-7-11 8:16

  わたしは口唇ヘルペスを持っている。冬の寒い時、辛い物を食べた時、大食をした時などの唇のまわりがただれ、皮膚が破れて、痛む。この病気を持っている人は多いが、ヘルペスのウイルスは体の奥深くに住み込んでいて、退治することは出来ない。感染者は一生、いっしょに生きていくしかないのであるが、それ以上の悪さはしないので生きる上において、問題にはならない。賢い生き方である。コロナは被害が大きくて、死を招くので人間の敵として殺される運命にある。

 だがコロナは、陰性だったのが陽性であったとか、陽性であったのが陰性であったなど不可解な部分が多く、謎に満ちている。そこが、口唇ヘルペスの謎にも似ている。陽性でもあり陰性でもある、というのは人体の免疫力が強い時には陰性になり、弱いときには陽性になるなるのではないか?とかってに推測してしまう。自在に変幻するということであるが、人間の常識や医学では太刀打ちできず、どこか異次元世界の考え方に学ばないと解決できないのではないか?と思う。

 異次元世界は量子力学の関係する分野であるので、量子力学の発展と共に解明させられ、同時に、そこでコロナの正体がはっきりするのではないか?もしかすると、コロナは異次元世界からの使者ではないか?人間世界の悪行を懲らしめるための・・。

  作品は半ばごろまで書き上げて、止まっていたが、キーボードはまた、元気よく打たれ始めた。主人公のオトコは二十年間もオンナ(妻)と口も利かず顔も見ずに同居していたが、若い女と知り合い、家出をし、彼女の隣の部屋に住み始める。その隣部屋の老男とも親しくなり、女を紹介すると言われ、関心を持つ。非接触システムから接触システムへ、場が変わったのである。

 この作品は十年前にも取り組んで中断したのであったが、ここで閃いたのであった。つまり自分が書きたかったのは男女の情念や心の移ろいではなく、それらをとりもっていたのは実は、(場)であったということである。

 ウイキペディアで調べると、場、とは、(物理量を持つものの存在がその近傍や周囲に連続的に影響をあたえること、あるいはその影響を受けている状態にある空間のこと)と載っている。そして、(反対の電荷を持ち引き付け合う二つの粒子)、とのっている。(反対の電荷)とはオトコとオンナがそれぞれ繊細さと荒々しさという対立する性格を現していて、この二つが部屋は別々でも同じ屋根の下で別れもせずに、同居しつづけていた。小説の中では、それから、オンナは引っ越した男の部屋の前で無言で立ち続け、オトコは家の畑のキュウリが実をのばし始めたことを思い出して、家に戻る、というラストが出来上がったのである。

 そして、(非接触システム)での生活を始める。

 こんな話がある。山奥の道で、カエルがじっとしていた。おかしいな?と思って、その先を見ると、マムシが鎌首を持ち上げて、飛びかかろうとしていた。食われる、食う、という真逆のベクトルが場を持ち、引き付け合っていたのである。その瞬間、カエルは呑み込まれてしまったのである。人間同士の暴力の場合でも被害者は加害者の攻撃エネルギーに呑み込まれてしまう場合がある。

 今回のコロナ禍でも、こんなことを考える。接触システムの場が非接触のそれに物理的に変わった、のではないか?と。

 カエルはそこで逃げ切ったとしても、またマムシに出会って、睨まれる、とじっとしてしまうのではないか?

田蛙や夜明けの空のそぞろ鳴き。

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日記
執筆 : 
nakamura 2020-7-9 3:17

  昨夜は午後八時ころ、酎ハイ、ウイスキーを飲みながら、夕食を一人で食べ、風呂に入って、寝てしまった。午前一時に目が覚め、四時まで眠れない。布団の中で、ラジオ・深夜便を聞きながら、うとうとする。エンニオ・モリコーネの(荒野の用心棒)の音楽など聴きながら、馬に乗っている心境が巧みに表現されていると感心した。

 ラジオの声に混じって、どこかソワソワする鳴き音が聞こえてきた。そばの田んぼのカエルたちであった。一晩中、セックスの相手を求めて、頑張ったのだろうが、夜明けになって疲れが見えたようである。

 でも、君たちは、いつ眠るの?もうすぐ、夜明けが来るよ。

遅いことは劣っていることなのか?

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日記
執筆 : 
nakamura 2020-7-8 7:55

  球磨川の氾濫をテレビでみて怖くなり、家の前の川を、見に行った。幅十メートルほどの川であるが、足元から二メートル先に、水が走り、波頭はまるで凶器であった。一晩降り続けば小さな堤防を越えて、家の中まで入ってくるかもしれなかった。

 それと、昨日、県の相談センターに電話を入れ、自分の身体障がい者四級の認定が却下された、その理由を電話で聞いたのであった。心臓の症状が医者の診断書によって良くなっているから、却下したという理由を聞いて納得し、手帳を返すことにした。

 自分は賛助会員として障がい者の会に残ることになり、障がい者の諮問委員会で意見を述べrことになっていることを思い出した。前回の委員会の時は、障がい者の権利が認められ、地位も向上したこと、少数者の価値が上がったことを述べたが、今回はちがう視点を考えた。

 パラスポーツにみられるように、障害者の世界に、なぜ競争原理を持ち込むのか?ということである。速いことは優れていることなのか?遅いことは劣っていることなのか?ということである。自分の劣等部分を人目にさらし、点数を競うなんてそれは残酷なことではないか?障がい者自らの意志によっていることは確かであるが、競争を煽り、商業主義的に利用することまですべきなのか?

 今年はコロナ禍、それに戦後最大の大雨被害に見舞われようとしている。前者は自然破壊によってコロナを森から追い出し、後者も自然破壊による温暖化が原因である。

 それらは人災であり、資本主義、つまり人間社会の競争原理が原因である。

 少しは、それへの反省をしてもいいのではないか?

 速いことを評価するばかりでなく、遅いことを基準にするパラスポーツを考えてもいいのではないか?

 自然界ではナマケモノのように超スロウで動くことで身をまもっている動物だっているし、尺取虫のように体を枝に似せて這う虫だっているし、多様な生き方をしているではないか?人間だけが競争原理を賛美しており、地球全体からみて、それはすでにオカシなことなのである。

明日はいらない、今夜が欲しい。

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日記
執筆 : 
nakamura 2020-7-7 7:20

  昨日の夕方は、雨の降る中、傘をさして山のほうに散歩に出た。九州北部全体に大雨注意報が出ていて、氾濫して家を埋めた川水がテレビに出ていたが、家の中で、じっとしているなんてたえられない。山道に入る頃、顔見知りの後家さんが町道の枯葉をカマでとりのぞいていた。 

 声をかけると、一昨日と同じく、山水が家に流れて来るのが怖い、とこたえ、腰を曲げて、いそしんでいた。八十に近いが腰も曲がらず、顔もくずれず、可愛い顔をしている。そのあたりは主人をなくした後家さんが四軒に住んでいる。

 (男の人がいれば助かるんやけど)彼女が言ったので、(ぼく、オトコです)と言いかけて、笑った。

 それで、帰宅すると、酎ハイを飲みながら、スマフォのユーチューブで、演歌を聞きはじめた。若い頃は欧米かぶれでベートーベンやオールディーズをきき、演歌などは嫌いであったが、今は、聞きほれるようになった。島倉千代子、森進一、ちあきなおみ、青江三奈などが宝箱の中に生きている。自分の青春時代がもどってくる。老男のわびしい今と青春が重なり合って、カクテルのような豊潤な味をだすのである。笑い、涙し、杯を、独り、重ねる。

 森進一の(港町ブルース)の歌詞に、(明日はいらない、今夜が欲しい)というセリフがある。明日はないに等しいわたしは、(今夜が欲しい)と想いながら、八時には布団の中に倒れ込み、しばらくあの世に逝くのである。

 

キュウリの呼ぶ声。

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日記
執筆 : 
nakamura 2020-7-5 7:41

  朝、いやいやながら目覚め、(非接触システム)の続きを書いた。一段落して食パンを食べ、ブラック・コーヒーを飲み、阿部公房の(他人の顔)の書き出し部分を読んで、勉強した。文体に隙がなく、すごい、というほかはない。やはり、彼がノーベル賞をもらうべきであったと思う。

 庭に、朝刊を取りに、出た。狭い畑地を見ると、昨日、植え替えて棒を立ててやったキュウリがツルを出して、四回転もして絡みつているではないか!一晩で五センチも伸びたのである。チップ農法の畝で発育不良だったので山から赤土をとってきて、植え替えて、二ヶ月目であった。雑草の勢いと同じように伸びてくれた。小さなペニスのような実が三個もぶら下がっている。でも、棒を立ててやらなければ地面を這って生きるしかなかったのである。キュウリは人に棒を立ててもらうために、甘え、人を呼ぶのであろうか?依存しながら成長し、人に食べられて、また、種になってまかれ、人と共生して生きていく。

 コロナはどうか?

 人に嫌われ、消毒されながらも絶滅することはなく、二波として戻って来た。キュウリは食べられ、コロナは殺されながらも、生き延びていく。輪廻転生である、生死など超えた生存の世界を見る想いになる。

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