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先日、大手スーパーに仕事で入ると、もうこんな時間から仕事ですか?と若手従業員が声をかけてきたので、家にいると熱いからね、ここはエアコンが入っているから涼しいんよ、とこたえてやった。えーまさかエアコンがないわけじゃないでしょう?、金がないから買えないし、なくても扇風機でじゅうぶん、と答えてやると不思議と言うより不審な顔を浮かべた。
そのことを思い出してこの日記を書いているが、この二、三日、閲覧者数が日に二千件ほどにもなっておどろき、死んだが勝ち、というこの前のブログが人気になったのか?と考えながら、レア・変人の考えに精を出している。
どこに行ってもエアコンがはいっており、もしなければ犯罪者に近い迫害を受けそうな気がする、変な時代であると言う考えは出ず、、ファシズム的な時代である。異端たちは追いつめられて破壊衝動に駆られるのは当然であろう。それはエアコンだけの分野にとどまらず農薬使用など限りない分野にまたがっている。文明病なのである。
五十年ほど前、エアコンがなかった時代、その頃は運動場で子どもが日射病にかかって数人倒れたというニースはでていたが、今の時代は熱中症で倒れ、救急車の搬送が間に合わない、数十人が死んでしまうのである。
わたしは大手スーパーで三時間、一万歩、歩きっぱなしの労働をしているが、休みの日は草刈り機で刈らないと家が草で埋まってしまうのである。近頃は膝を大事にしなければ歩けなくなると考えて、ニ、三時間の労働で済ませているが、汗まみれになり首タオルはびっしょりになる。
それでも熱中症にかかったことは一度もないし、スポーツ選手や戸外労働者がかかったと言う話も聞いたことがない。エアコンの生活をしていると、交感神経・副交感神経の働きが鈍くなり、体温調節が出来なくなって熱中症にかかるのである。だが、なぜそのことを訴えて、エアコンの使い過ぎに気を付けましょうという注意をだして防ごうとしないのであろうか?電力の使いすぎにもなっているではないか?
政治の公約にも出す政治家もいないし、政治家はどんな公約を出せば当選するのか?としか考えていないようである。だからこんなj国ができてしまう。
ひと夏エアコンのない生活で、扇風機だけですごしてみませんか?快適ですよ。たまには手・扇風機→団扇を使ってみましょう!
週に一度、要介護者の家に弁当を配っている。昨日、仕事前に仲間たちと雑談をしていたら、妻の母が癌で死にかけているが世話が大変で本人も苦しんでいると言う。慰めたり助言をしたりしていたが、わたしは、死んだが勝ち、という言葉が口を突いて出た。するとまわりは黙り込みながら、一理はある、という雰囲気になった。
二十年前、宗像市の自由が丘団地を集金で回っている時、その言葉をいつも出していた老婆がいたが、すでにその人は勝ち組に入って、もうしめたものだとほくそ笑んでいるであろう。自分はあの頃は仕事もバリバリやって金を稼いでいたが、今は生活保護受給寸前の生活になってしまった。足が痛み、歩けなくなるのではないか?という不安がいつもある。
国政の選挙、都知事選挙、アメリカ大統領選挙と目白押しであるが、安楽死のことはタブーであるから誰も言わない。本当の政治家であればいうはずであるが、ブローカーたちにとっては禁句なのである。
特に日本人は戦争にやられて以来、絶対に死を認めなくなった。死そのものさえその必然性、存在すら認めようとはしない。昔は死んだが勝ちという言葉はほぼ日常的に使われ、そこに救いを見出してもいたのである。死は生まれ変わるためにも必要なのである。聖書にも、一粒の麦、と言う言葉があり、死を肯定している。これは死は神からの罰であると言う考えと矛盾するのであるが、言葉はそのまま残している。
特に死を待っている自分などにとっては、いつどのようにして死ぬのかわからないこともあって、切実なテーマである。死に対して決着をつけてくれる人が出てくるのを待ち望んでいるのは自分だけではない。本当の政治家が現れて、実現してほしい。
もう一つは少子化の問題である。妊娠したり子を産んでも育てる自信のない人の子は国や行政がひきとって育てるべきである。そうすれば堕胎も減り、人口減少に役立つはずである。
本当のことを言う政治家がうまれて欲しい。
昨日は宗像市の産直店に行って、もみがらとヌカを五袋づつ置いて来た。三百円で出していたものを四百円にしたせいか売れ行きが悪くなっているが、月に二万円ほどの貴重な収入源である。それから、そばのカラオケボックスに行って歌って、来た。自分の住む街にはカラオケ店が消えてしまい、淋しいばかりである。恋人よ、天空の城、北の浜唄、を歌い録音して聞いた。恋人よ、は自分の持ち歌にして、発表会で歌って挑戦してみようと考えているが、ともかく歌いにくく、いつも自分の力を作り上げる気持ちである。帰宅して、草刈りを一時間ほどして、入浴、夕食をとった。
今日の明け方、夢を見た。いつものように夢の中でNHKの集金業務にはげんだわけである。福津の住宅街でたずねたあのおばさんに会って来た。主人の暴力から逃げて、その家に住んでいた人で、主人は特攻隊員であったが、戦後のそのころまで覚醒剤を打ち、暴力をふるったと言う驚くべきことを話してくれた。テレビはその時にはなかったが、まだテレビは買っていません、と何度も、NHKに電話を入れてくれた。
テレビを買ったので契約しますと、電話があったその日、行った。
手続きが終わると、あなたは腰痛があると言っているから、お灸をしてあげましょうか?と言い、布団を敷いてくれたのであった。時間を食いそうだったので、お礼を言って、帰り、受信料は口座払いになってしまった。行く理由がなくなったが、気になっていた。あの時、もし、布団の上に横になって、彼女が体を寄せてきたら?どうなったか?
それが気になっていたが、そのうち忘れてしまったが、主人が特攻隊員で暴力をふるったとか、お灸をしてあげましょうか?と言う言葉は絶対忘れなかった。
振り返って見ると人生の半分以上は夢の中にいることがわかる。
こんな短歌をつくってみた。
紋白やまつわりながら花めぐり草の臥所に月夜こぼるる
人間の不幸は、不幸はいけないことだと考えていることから生じている。不幸でも良い!と考えられれば不幸はなくなるのである。警察に逮捕された重大犯罪者でも、平然としている者がいて、それが不幸だと認識するのは見ている者が不幸だと思うからにすぎない。当人の心内の反映なのである。それは現象学からも導かれるし、ほとんどの人は世間の価値基準に支配されているにすぎない。
かくいう自分の現状は、誰が見ても不幸であるし、自分がそれに支配されていると気づく余裕はないことが多い。だが、一歩振り向いて、冷静にみれば不幸でもないことに気づく。妻子が去って独りぼっち、国民年金と月に五万円ほどのアルバイトで食いつないでいる老男が幸福であってはならないのである。
が、最低限の金で生きている。生きていることはまちがいないのである。
(恐怖の報酬)という外国映画があったが、ポンコツ車を運転して、ただでもらうもみ殻やヌカを運ぶときはいつもその映画を思い出す。走行距離が十万キロを超えるとタイミングベルトが切れても保証はしません、とメーカーが言い、その車のハンドルを握って道路を走っているのである。タイミングベルトが切れて走行中に突然止まったらどうなるか?考えただけでも震えるのであるが、交換する金の五万円がないのである。(恐怖の報酬)はニトログリセリンを積んで砂漠を走る映画であったが、それに近い恐怖である。
だが、最近は、どうなってもいいや・・・、と言う考えが湧き、少し鈍感になって来た。そして、そのうち、車が道路の真ん中で立ち往生するかもしれないが・・・。
五万円の金が入って修理をしたとしても、今度はちがう悩みが生じるに違いない。堂々巡りに過ぎないのである。神よ、我に不幸を与えたまえ!
ヤフーのニュースを読んでいると、こんな記事が出ていた。
単性動物はコピーで増えるので、けっきょく生んだ者とまったく同じ命がつづいていき、それは両性動物がすべて異なる子孫を残すのと異なって、自分の命は失わず、永遠の命を保つということなのであった。
少し頭が混乱したが、やっとわかった。
そしてそれから、聖書の(禁断の木の実)の逸話も新しく展開できそうであった。エデンの園でなに不自由なく暮らしていたことは、果物だけで生きてきた人のことが同じくヤフーに出ていたように、穀物や動物の肉を食べなくても生きていけることである。働かなくても良いエデンの園であったが、蛇の誘惑にかかってそこから追い出された人間は畑を与えられて苦労をして耕作をしなければならなくなった。神がそのようにしたと書いてある。それまでは人は単性で増えていたようであるが、神が男のあばら骨をとって女を造り、両性になった。この部分は以前もブログに書いているが、もしかすると両性具有ではなかったか?と想像する。その証拠らしきものはある。睾丸、それから続く肛門には鎖状の帯があり、(蟻の戸渡)と呼ばれ、縫合の跡に見える。なぜそんな跡があるのか?と言えばそこには穴があって、女の膣であり、女の子宮につながっていたのではないか?それがふさがって男の精嚢になったのではないか?という推測である。ふさがった跡が鎖状の縫合後になって残っている・・・。両性具有であれば男とでも女とでも交わることができるし、自分とまじわることも出来なくはない。創世記の記述にあるように神が精嚢を切り取って(あばら骨を切り取って)女にした、と想定すれば論理性が産まれる。
創世記の記述は人の歴史に沿った部分が多い。
昨日はアルバイトが休みの日で、部屋でぼんやりしていた。門扉の先から、今日は!と声がかかって来た。部屋から出ると、セールスマンが立っていた。葬儀社の入会勧誘のことで、一週間前にチラシが入っていた。
NHKの集金の仕事をしていた夢を朝方、見たばかりで、なにか仕事の続きのような感じがして、NHKの集金体験をたっぷりしゃべってやったら、時々彼は声を上げて笑った。女との出会いや、自己破産をした祖父さんの話など際限がなかった。彼は、日焼けした顔で一日に一件の契約を取るのが精一杯です、歩いて回っていますと言った。
自分はあの頃の自分を思い出したが、仕事は夢中でやったので、辛さはあまり感じなかった。給料はたっぷりもらっていたし、金の不自由はしなかった。彼が帰り際に、入会金として一万円払ってくれれば葬儀費用が安くなると言ったが、その金がない。千円の余裕もない。
門扉のそばまで見送ると、目の前の小川に傾いた日を浴びた水が流れていた。端っこに投げ捨てられた古自転車が見えた。
(捨てられて空を見上げし古自転車)
と言う句が、今、浮かんだ。
田んぼのすみをこっそり覗いてごらん
水澄ましがいたよ
ぐるぐる回って円を描いていたんだ
水をきれいにしていたんだ
時間をきれいにしていたんだ
だけどもういなくなった
あの夕陽は聞いているよ
ミズスマシはどこに行ったの?
アメンボもゲンゴロウもタニシもいなくなった
どこに消えたんだろう?って
隣の田んぼから耕運機の唸りが聞こえるようになった。代掻きをし、肥料をまく。二百坪くらいの広さであるがほば半日で終わる。時を合わせうようにして雨が降り、田植えの準備をしてくれる。土の中で眠っていたカエルは起き出し、鳴いて、メスを呼んでで交尾をする。卵がオタマジャクシになって生活を始める。
今年もオタマジャクシが現れてくれるであろうか?いつも心配になる。水澄ましもゲンゴロウもタニシモ消え、どこかに行ってしまった。田の持ち主はいつも畦道に除草剤をまいて、田んぼをきれいにしているつもりである。除草剤をまくな!というとメーカーは害がないとっ言っているという。水生昆虫が消えたことには無関心で、ミカン山にもその通り道にも除草剤をまくのである。害がないと言うのなら、除草剤が飲めるか?ときくと、そんなこと言うても?と顔を伏せる。
日本人は自然を愛する国民だと言われながら、農薬の使用量は世界一なのであり、外国の観光客は清潔な国ですね!とほめたたえ、マスコミは農薬の事には触れないのである。偏向報道である。
偏向報道に振り回されていると、そのうちオタマジャクシもいなくなり、米も農薬にやられて芽を出さなくなるのではないか?
変態、という言葉はわたしのもっとも嫌悪する言葉であったが、何を言おう、わたしは変態であったし、今もその名残は残っている。NHKの集金人をやっていた頃、新人で入った男が私を見て、ヘンタイチョウと呼んだのでてっきり(編隊長)だと思っていると、(変態長)なのであった。わたしはムカッときてしばらくそいつとは口をきかなかったが、レアに希少な価値を与える今の自分はそのころから本領を発揮していたとうぬぼれたくなる。
今書いていた小説は(恋人よ)と言う題で、教会の信者が不倫に走ると言うテーマであったが、主人公を変態的な男に造形しようと考えなおした。造形ではなく自分の本当の姿を出してみようと考えた。今の時代はありとあらゆるものが闇を照らし出し、デジタル加工で真昼さながらに照らし出している。変態、変質者にも光が当てられて消滅しそうになっている。こんな時にこそ、変態、変質者というレアを保管しなければならず、それは自分自身なのである。
だが、少し考えると女には変態女という言葉は耳にしたことがなく、それも研究テーマである。なぜだろうか?女にも変態がいないはずはないのであり、男と同じ犯罪者はいる。
変態、というのは意外な才能があるのである。例えば電車の中で前の座席に女が座っているとすれば、自分が下に敷かれたソファになったらどんな気分になるだろうか?吊り輪につかまっている女を見れば、吊り輪になって握られたらどんな気分になるだろうか?など日常生活においても視点の範囲が広いし、着想も豊富なのである。これが何かの研究や発明などの分野に広がれば新しいものが次々にうまれるだろう。世間は、変態、変質者にたいして差別と偏見で見てきたがいまこそ、考えを変えて、差別されている彼らを解放すべきである。絵画や小説、写真などの分野においては以前から価値を認められているのに世間はまだ偏見にとらわれているのであるから遅いとしいいようがない。
もしあなたが、おまえは変態だと言われたら、ひがむことはないのである。rare is great!
と言い返してやろう。
そして世の変革にはげむべきである。
五輪真弓さんの歌(恋人よ)にすっかりはまっている。彼女の作詞・作曲・歌であるが、賛美歌を聴く以上に心を打たれる。聖書の分量から言えば数万分の一ほどであるが、心はそれに等しいくらい感動させられる。歌はやはりすごいと思う。
(恋人よ)カラオケ同好会で三度ほど歌ってみたが、最初の歌い出しに声がついて行かず、三度目では感動しすぎて涙が出、中断してしまったのである。(枯葉散る夕暮れは来る日の寒さをものがたり)が歌い出しであるが声がのらなかった。それから先は歌えたのであったが、歌詞もついていきにくい・・・。
昨日、カラオケの女友達に見本になって歌ってくれと、頼んだが、難しすぎて歌えません、という返事。彼女はハスキィーな声でテクニックも抜群であるが、歌えない、と聞いて、驚いた。
その歌は歌を超えた祈りである。(恋人よそばにいて、こごえるえる私のそばにいてよ・・)とあるが、なぜ、(恋人)ではなく、(あなた)と呼びかけないのか?不思議であったが、(恋人よ)と抽象化することによって幅を広げたと思った。(神よ)と言っても良いのである。
言葉は記号であるが、その源は願いや鎮魂であり、それは異言・祈りである。
歌うことは神と話をすることでもある。
今から四十年前、わたしは東京で遊学生活を送っていた。大学を卒業したみたいであったが、定職にはつかず臨時の肉体労働で飯を食っていた。アパ-ト住まいをしていたが、隣家の主婦が、あなたのお母さんの顔を見たい、と言い、言葉通りのことだと考えていたら、大学を出てそんな生活をしていることへの批判だったのである。
ろくでもない大学にしか入れなかったことで、入学式にも卒業式にも出なかった。
アパ-ト住まいを始めた頃、二人の女と関係が出来てしまった。隣家の主婦はそのことでも私を軽蔑していたのであろうが、それは隣部屋に越して来た女ともう一人であった。関係はつづき、そのうち、二人の女がほぼ同時に生理がなくなったといい、わたしが唖然としていると、妊娠したみたいだと言い、また唖然としたのであった。けっきょく、想像妊娠みたいであったが、わたしは不妊期間を計算していたので妊娠するはずはないと考えていた。
そこでイエスの話になる。マリアはヨゼフと結婚するが、性行為はしなかった。彼女は原罪のことはしっており、人間の子は罪深いので避けたのである。純粋な神の子が欲しいと考えながら、想像の中で妊娠したのではあるまいか?聖書には聖霊を通して神がマリアの体内に入ったとある。
医学的にはありえないことであるが、宗教の世界はちがう宇宙、多次元宇宙の中の一つだと考えるので納得はいく。神話の世界は現実をなぞるような部分があるので興味がつきない。やがて、科学と神話・メタフィが一致していくであろう。