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老衰化していく感情

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日記
執筆 : 
nakamura 2023-10-23 7:35

  東京生活をあきらめて帰郷し、四十年になる。初めは珍しかった人や自然と親しみながら、今はすっかり溶け込み、田舎に戻って良かったとつくづく思う。親とまわりに反抗して家出同様であったが、元のさやにすっかりおさましまい、遠出はしなくなった。

 自分は老いながら、まわりの変わりようは早くなっている。昆虫の数も激減し、遊歩道を行きかう人も挨拶をしなくなった。メディアがすごい勢いで変わり、よく見ると視聴者への印象操作が増え、事実なのか洗脳なのかの区別が難しくなっている。ロシアや中国への嫌悪など明らかに感情的な報道が目に付くのである。メディアは冷静な視点とスタンスを失ってはならないはずなのに野次馬的な面が見えるようになっている。セクハラ、パワハラ、著名人のスキャンダルなどが多く、大事(環境問題、世の中を動かしている組織)などを見逃している。

 世間では人々の喜怒哀楽がほとんど消え、笑い声も怒り声も泣き声も聞かれなくなり、野良犬、野良猫なども見かけなくなった。かれらはこっそりと処分されている。そして、IT異常な発達ぶりである。それは便利さを与えてくれると同時に人間の労力・エネルギーを奪い取っている。

 このままの流れが進んで行くと、人は考えることも体を動かすこともしなくなり、消滅してしまうであろう。今こそ、人々の否定する、無駄や労力や、遠回りなどに価値を見出し生命の本来の力を見出すべきである。悩むこと苦しむこと、病気になる、失恋すること、貧乏になることににも価値があるのである。

 そのままけっこう、である。

戦争は人や国を強くする・・?

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日記
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nakamura 2023-10-18 8:25

  昨日は、午前十時から午後一時まで、大手スーパーで、カート整理の仕事をした。三時間の仕事なのに近頃は、脚に故障が生じて動かなくなるんじゃないか?と怯えている。お客さんの中にも高齢者が多く、不自由な歩き方をしている人を見るし、あれは何年か先の自分の姿だと考えてしまう。もし動かなくなれば仕事をやめるしかないし、生活の困窮は目に見えている。

 現場の店には新しく大手電気店がテナントに入り、割引期間中なので駐車場は満車であった。近頃は客足が減り、店長は従業員でその仕事は間に合うといって、月に二日間は出勤日数を減らしていたのであった。

 昨日の火曜日はポイントデーでもあって、十時半頃からレジのそばで動き回るお客さんの姿が増えた。十か所のレジ前、三か所の出入口、駐車場の五か所と歩き回って置き去りにされたカートを手で押して運ばねばならない。気候は涼しくなったのにシャツは汗にまみれ、息をつきながら、休憩なしで歩き回る。一万歩以上である。客の流れを見ては素早く休憩場に逃げ込み、水を飲むが、そこはロビーなので店長から禁止されている場所なのである。

 仕事をしながら、終わったら何を料理して食べようか?と考えるし、今日の仕事が終われば四日間休めることに期待がふくらむ。

 十二時過ぎると、客足が減ってきた。彼らも昼食をとるためだ。

 十三時に交代者が来て、自分の仕事は終わった。

 バイクで走って別のスーパーに行き、考えていたラーメンの材料を買い、帰宅する。麵を茹でて、食べ、美味しかった。

 本来はそれからたっぷり休むのであるが、体はじっとしていなかった。庭の草刈りをしようと部屋を出たが、部屋の前の日本庭園、そこに伸びていた、ヤブガラシが気になり、鎌で切り始めた。すると、しだれ梅の剪定になり、けっきょく夕方までかかってしまった。

 風呂に入り、食前の酒を飲む。体を座椅子に伸ばして、スマフォで天童よしみの(夕月おけさ)を聴き

ながら、歌う。仕事前の不安はふきとんでいる。

 カート整理の仕事は戦場であったのだ。あれは生きるための戦争であった。

 ウクライナ戦争が小康状態になった?と思っていたら、今度はイスラエル戦争が始まった。数百万人の犠牲者が出ると報道されながら、やめる気配はない。

 もしかすると、戦争は人や国を強くする、そのために戦争が起こるのではないか?

 と、そんな事を考えてしまった。

  だから、怖いのである。

蟻の群れ大蜘蛛かつひで庭渡る

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日記
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nakamura 2023-10-12 7:33

  だいぶ涼しくなったせいか体調も良くなった。頭のふらつきも消え、足腰のふらつきも減ってきた。庭の草刈りをし、雑草といっしょに生えていたニラを売ってわずかな金にもなった。もみ殻も売れるようになったのはお百姓さんたちが畑仕事に力を入れ始めたからである。

 耕運機が故障しているので、クワで畑を耕してホウレンソウ、だいこん、豆の種をまいた。すると、いつものとおり通り、ニ三粒しか芽が出ない。芽を出してから肥料をやろうと考えていたのだがいつまでも出ない。顔見知りのお百姓さんにそのことを話すと、暑さのせいで芽が出ず、三度も種をまいたという人がいた。それに自分が芽が出てから肥料をやろうとしたことが間違いなのか?と、思案した。それはネットで見ると、発芽の条件として肥料がのっていたからである。

 だが雑草はちがう。ぎゃくに熱さに元気をもらったのか昨年以上伸びている。野菜の種をまいても野菜より先に芽を出して、背丈を伸ばし、太陽の光を奪い取っていく。野菜のために入れた肥料を吸収して元気になっていくのである。

 どうやら自分は野菜作りの根本が出来ていないのではないか?とも考えたし、もし野菜が芽を出さなくなったらどうなるのだろうか?とも考えた。それは怖いことである。人類も全生物も消滅しなければならなくなるからである。

 そんな話は四十年前にも聞いたことがあった。NHK受信料の集金先で、農家の人が、毎年米に農薬をかけよるが土が弱ってそのうち芽を出させんようになるんやないか?という言葉であった。

 それから四十年がたった昨今である。土はどれだけ衰弱し力を失ったであろうか?人が環境破壊を繰り返してきた四十年である。

 縁台に腰を下ろして、そんなことを考えていると、庭の地面に大きなクモが手足を大きく伸ばして死んでいた。ところが、動いていたのである!ぞっとしてよく見ると、見えないものの力が加わっているようであった。砂粒ほどの大きさの蟻が群れ、整然と列を組んで巣穴に向かって運んでいたのであった。

 アリは自分の部屋にも菓子の食べ残しを求めてしょっちゅうやって来るので指で押し殺していたが、人が神輿を担ぐようなことまで出来るのか?とあらためて見直していた。

 やはり、生命の力というのはすごいと感じた。

レアの価値観 女について

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日記
執筆 : 
nakamura 2023-10-6 7:09

  人間が単性生物から両性生物に変わったことはすごい出来ごとであり、その過程は胎児が一時的に中性の状態であり、それから男と女の胚珠が出て分離するということからも理解出来る。もしかするとLBGTの人々はこの分離が不完全であったのかもしれないと勝手な推測をしてしまうし、自分自身でも男と女の部分が混在してると思うことがある。

 男女に分離したことによって途方もない種類の男女が産まれ、それが結合によってさらに多種多様な種類を産んだのである。だから、自分と異なる人間がたくさんいることに驚くことはないし、自分が変わり者だと呼ばれても気にすることなない。

 自分は男であるが、女性というものが存在していることには、歓びと感謝しかない。もし、男ばかりの世の中であれば味気なく面白みのない社会になっていたであろうが、女は自分に刺激と悦び・満足を与えてくれる。が、ある種の怖さも与えてくれるのである。とんでもない女と一緒になってしまい、死ぬまで付きまとわれるとしたら自殺したくなるほどの日々を過ごすことだってありえる。

 今、それを主題にして小説を書いている。

 新しい発見が多く、退屈することはない。人間というものがこれほど不思議な対応と行動をするのか?と思い迷うが、よく考ええていく、となるほど、その時そこにはそんな意図があったのか?とわかっていく。人間観察は心理戦でもあり、では自分はどうなのか?と疑問を突き付けられるのである。外交や戦争なども同じ次元のできごとであり、相手の心理を正確に読んだ方が勝ちなのである。

 太平洋戦争でアメリカに負けた日本などは典型的な例であり、今のロシア・ウクライナ戦争も相手を読み切ったほうが勝ちなのである。男と女もそうである。相手の心を読み切った方が勝ちで、その点今の自分は敗残者であるが、それは勝者以上にいろんなことを学ばせてもらった。

 ともかく、人間界は自分もふくめて面白い!の一言に尽きる。

 

レアの価値観‐金について

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日記
執筆 : 
nakamura 2023-10-3 8:39

  金は持っているほうが、良い、といえるが、そうでもない。かつて自分が受信料の取り立て業務をやっていた頃、月に百万円の給料を二年間ほどとったことがある。新車を現金で買い、女を買い、酒を飲み、マージャンをして遊んだ。千円の金を使うことくらいで考えたりしなかった。そして、株でももうけていた。金額は単なる数字にしか見えなかった。その結末が今の生活困窮である。それに、あと何年間で体が動かなくなるに違いない。そうなると生活保護をもらうことになるだろう。死んだ叔父は、おれの家系に泥を塗った、とあの世で言うであろう。でも、金がないということは必然的に世の中や他人を見る目、その基準が低くなり、気持が自由になれるのである。自分の欲望も行動力消え、今日、生きていることだけに感謝の気持ちが湧いてくるし、体の悪い者や生活困窮者を見る時に、同情と愛がわいてくる。受信料の取り立て業務をやっていたころは、集金に行って、2790円が払えない、と言われれば、こんな金も払えないのか?とおもったりしたが、今はその相手の気持ちがしみじみわかる。

 この前のニュースで、金がなくて140円の食パンを万引きし、つかまって、30万円の罰金をうけた老人のことがのっていた。あの頃、仕事が忙しくて食事をする時間がなくて、空腹に耐えられないときがあった。目の前に食べ物があれば、盗んででもたべたであろう。もし自分が万引きして捕まったとすればば自分を嘆きながらも自分の行為を振り返り、行為に至った道筋を振り返り、生物とは結局はこんなものだと考え、トラやライオンが獲物を毎日追いかけ回して生きていることに考えを向けるであろう。そして、フランスの作家、ジャン・ジュネの(泥棒日記)を思い出し、最初の書き出しの文章を吟味するであろう。また、自分の万引きの体験を作品にしてみたい、と考えるに違いない。自分の体験すらイや自分自身さえ、材料にしか過ぎないのである。

自分の価値観

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日記
執筆 : 
nakamura 2023-10-1 8:09

  67歳になって貧乏暮らしになり、若い頃の浪費を悔やむことがあるが、逆にある意味での悟りみたいな境地にもなっている。両親は亡くなり、叔父、叔母たちもほとんど亡くなり、淋しい気持ちはあるが、期待されないことといらぬおせっかいが消え、ほっとしている部分もある。そして、週に二日も働けばあとは自由である、なんて若い頃には想像もできない恩恵である。二十年前、NHKの集金業務をしていた頃、母の弟は、うちの家系から集金人が出た、とたえず嫌味を言っていた。彼は県庁の商工課の課長補佐をしていたが、その仕事がよほど高級だと言いたかったのだろうが、自分の目から見れば、単なる・・泥棒にしか過ぎなかったのである。

 ふり返れば自分もふくめほとんどの人は周りの目を気にして、生きているの。自分の生き方が世間にそっているかどうか?たえず点検し、男も女も半ば怯えながら生きている。ちょとした劣等感や優越感にふりまわされ、生まれた時から死ぬまで世間の価値観の奴隷にしか過ぎない。

 ドモリで頭が悪い、臆病だが怒りっぽい、スケベな顔して女を探す、そんな自分など世間の価値観から見れば底辺の男にしか過ぎなかった。だが、悪い頭を振り回し、本を読み、いろんな宗教で学びながら、自分の価値観が出来上がっていった。神に対する考え方などしゃべるとあなたは一方的に考えていると無視される場合が多い。

 だが、自分では満足しているし、日々、人に会ったりニュースをみたりすると、自分の考えと照らし合わせて、やはり自分が間違っていなかった。世間のほうがおかしかったのだ、の判断することがある。

 精神的な病人が増えているという報道があるがもっともだと思う。セクハラ、パワハラ、だとか重箱の隅をつつくような世間、それをいちいち取り上げるメディアの中にいれば精神的な病人は増える一方である。

 紆余曲折しながらでも間違っていても自分の価値観を作り上げれば、ある程度の達観はできる。今日の朝も目覚める時に胃炎が起こっていた。起き上がる気はならなかったが、昨日とった栗とニラを袋につめ、スーパーの産直コーナーにバイクで運んでいくと、早朝の道路は空いていて走るのが楽しくなった。ウツの時は体を動かすのが一番良いのである。

 心の病は人間関係がほとんど原因していて、自分の価値観で対抗すれば勝てることが多い。憎たらしい奴がいればこんな人間も多様性の中で生きているんだ!と考えてみよう。

床下のコオロギ一匹冬を越す

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日記
執筆 : 
nakamura 2023-9-24 8:52

  昼間は暑くて扇風機をかけていたが、昨夜は寒く、目が覚めて、毛布と掛布団をかけて寝た。考えていたとおり、季節は変わり、また冬が来て、寒い!というのである。こんなことを、同じことを繰り返しながら自分はあの世にいこうとしていることに虚しさをおぼえる。が、これが人の生き方であることであり、季節が巡ることで自然が生きている、そして自分も生きていることに感謝すべきであろう。

 この時期になると、決まって、草むらで鳴いていたコオロギは床の下にもぐって鳴きはじめるのである。しかも一匹が、陽が暮れると、泣きはじめる。オスであろう、種付けの時期を失ってしまい、それでもメスを呼びつづけ、亡骸になるまで鳴くのである。

 まるで自分みたいである。いやそっくりかもしれない。

 今日の日曜日はいつもの日曜礼拝の日であるが、昼からアルバイトがあることもあって、あまり行きたくない気がしている。二つのキリスト教会に通っていて、ひじょうに勉強になっているが、もの足りなさをおぼえるようになったのである。それはトップ・ダウンで神や聖書の言葉を教えるばかりで、今の話についてどう思いますか?などは問いかけず、信者の側に立っていないからである。信者たちがどのようにして神を信じ、祈っているのかもわからない。どんな悩みに立ち向かっているのかもわからない。自分がどのようにして向き合うべきか?の参考も見いだせない。それらは牧師に聴けば教えてくれるが、問題提起をして議論をさせることで活発化させたほうがいいのではないか?

 数日前のヤフーのニュースで、養老孟子さんが、日本人の場では悩みをうちあけたり本音を出したりすることが少ないし、少なくなったと話していたがその通りだと思う。そうかと思うとマスコミに感化されてセクハラ、パワハラ、などにはすごく敏感なのである。それで世論が出来上がってしまう。

 ともかく時代の考え方が一本化されず、世界の出来事に振り回されており、なにを信じれば良いのか?わからなくなっている。歳の若い人たちは精神が錯乱してしまうのではないか?

 自然に立ち返り、床下のコオロギみたいに深く瞑想すべきではないか。

乳垂れる栗の木の下栗拾う

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執筆 : 
nakamura 2023-9-6 7:40

  我が家には四本のクリの木があり、先月から実を落とし始めた。昨年はおよそ千個の実が落ちて、生活費を稼がせてくれたので今年はすくないはずだと思っていたが同じくらいの量が収穫できそうである。宗像の産直店に、1パック・8個いり・150円で出したが2パックしか売れなかった。そこは売れない店だと知っていたので遠賀の人気スーパーに出した。昨日は二十パックのうち16が売れ、180円で出したのであった。これからはその店に三日に一度は持って行こうと考えた。

 国民年金での生活なので栗や竹の子、梅、ビワ、柿、はっさく、レモン、スイカなどの売れ行きは生活に直接ひびいてくる。二十年前に亡くなった母がこの家を建てた時にあらゆる果実や花を植えてくれた。それが実になり花になり、わたしの貧乏生活を支えてくれている。まるで母が乳を垂らしてこの老男にのませてくれているようなものである。敷地は700坪もあるので草刈りが大変であるが、その労働のおかげで健康を保っている。

 朝と夕、日に二度、栗拾いをする。一度につき三十分はかかり、ヒバシを手に持って、落ちた栗の実をこじあけて取り出す。時々、腰が痛くなり腰に手を当てて、叩いていると栗の実が勢いよく落ちて、頭を叩く。母が気合を入れてくれたように思う時もある。母は暴力をふるったことなどなかったが、教育ママ、モンスターであった。

 溜池が五か所もあるので蚊が体に数十匹も襲い、手で振り払いながらバケツの中に栗の実を貯めていく。水につけて虫食いを外し、洗って干す。日に当てて乾かし、二日後の朝、バイクでスーパーに持って行く。値札を貼りながら、他に栗が出されていないことを知り、さて、正午にかえってくるメールがどれだけの売れ行きを知らせてくれるか?想像しながら、店を去る。

 こんな一日がすぎる。

 

計画的な衝動

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日記
執筆 : 
nakamura 2023-9-3 9:17

  ススキノ殺人事件において、瑠璃容疑者、修容疑者、母親の三人が逮捕され、今月から半年間、精神鑑定をうけることになった。わたしは犯罪を犯したことはないが、心の中では何度も殺人、傷害事件、レイプを犯してきた。いわば隠れ犯罪者であるし、すべての人間は犯罪者であり、気違いである、とたかをくくってもいる。

 隠れ犯罪者の視点からみれば、被害者には申しわけないが、今回の事件はあまりにも興味深い。それに、元精神科医が精神鑑定をうけるということはわたしが精神鑑定を受けることにも等しいことであり、保身性の強い評論家や権威者が述べる事とは違うリアルティがあると考える。簡単に言えば今回の事件は計画的なのか興奮状態における衝動なのか?が論点になるのではないか?異常な精神状態でなければ殺人行為はできないが、それは衝動的で精神耗弱状態だった、と認定され、無罪か減刑にされるにちがいない。

 瑠璃容疑者は被害者から不同意性交をされ、復讐を計画していたのではないか?殺してやる!と考え、ナイフやノコを購入し、ホテルに誘い込むストーリーを考え、殺害時の血痕の消去、など詳細にわたって、まるで推理作家が小説を仕上げるように構想し、何度も想像して楽しんだに違いない。

 ということは、計画的な衝動なのである。

 いろんな事件において、計画的な衝動という状況がもっと取り上げられていいのではないか?

  私の家は広く、時々、野良猫がすみかを求めてやってくる。二年前には白猫が自分の部屋の前までやってきて、私の顔色をうかがいながら、返事を待っていた。エサをくれれば入居の承認であることを知っていたのであるが、わたしは黙って見ているだけではっきりとした意思表示をしなかった。同居人が猫嫌いで忌避剤をまいていたこともあるし自分が面倒をみる自信もなかったので、白猫を受け入れることは出来なかった。

 それから白猫は野菜作りをしている自分のそばにやってきたり、遠くから自分を観たりしていて、三年間がたった。私の身内の一人になっていた。ある時、白猫がクリの木の下に座っていたので近づいて、手を伸ばして誘いをかけた。彼女(雌猫)は考えているようであったが、立ち上がり、静かに夕闇の中に消えていた。

 それが最後の出会いになってしまった。猫が好きなのでよく動画を見て楽しんでいるがいまだに飼おうする決心はつかない。自分の寿命は近づいている。最後の連れ合いが欲しく、それは猫でも良いのである。いや、猫の方が人間以上に私を理解してくれるであろう。 

 またあの白猫が戻ってきてくれれば最後の連れ合いにしたいと考えるが、この二年、姿を見せないのである。

 見返りて夜闇に消えし白猫や化身なりても訪ね来や

 

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