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昨日の日曜日は、憩いの里、という町営浴場に行って、ステージで歌った。松島アキラの(湖愁)という歌で、ほとんどの者が知らず、観客も四、五人であったが、自分にとっては大事なイベントであった。よく通る声をしている、と褒められるのであったが、加齢のせいか出るはずの声が出なくなっていたのである。練習もおろそかになっていたので、前日に、家の中で何度も歌った。声がかすれることに気づき、蜂蜜をなめた。
出場者は十人程でほとんどが老婆ばかりであったが、化粧をし髪を整えて来たので、女らしくなっていた。自分も珍しく茶の迷彩模様のシャツを着、白のスーツを着てステージに立った。ここで歌うのは久しぶりです、と言って歌い始めるとスムーズに声が出て、高い部分も軽く出た。(悲しい恋の亡骸は・・・)歌っていくと気分も若返っていった。
控室に戻ると、良かった!と皆がほめた。
ある女がいつまでも前に立っているので、手を握ってやった。笑顔を見せた。
彼女は自分がそのカラオケ教室に入ったころ、自分のそばに寄ってきて、弁当をくれたり、長い髪が頬に触れんばかりに近づけたのであった。ところがある時、電話口で、デートしない?と誘うと、忙しい!と激しい口調で一蹴したのであった。それで離れたのである。
後追いはしないのでそれであきらめたが、もっと若ければ後追いをしてストーカーになったかもしれない。
ここが判断の難しいところで、惑わされて、彼女の家を訪れたり、待ち伏せをするかもしれない。そして事件を起こすのである。ここの誤解が男にも女にも解けない。猫の中にもそんな猫がいる。甘えてくるので指を伸ばすと、爪で引っ掻くのである。
引っ掻かれないためにはその場を離れるしかない・・・。
小説を書き始めて、また、筆が停まっている。毎度のことであるが、進めない。ストーリーをあれこれ変えながら、迷いの中に落ち込んでいた。苦しかったが、今、吹っ切れた。要は起承転結を考えすぎていたのである。一般の小説はそうであるが、そうでなければならないというのではない!カフカやベケットの小説を読めばわかる。カフカの(城)では主人公が測量士の仕事を求めて城の周りを彷徨し、ラストは闇の中で虚空を見上げる場面で終わり、ベケットの場合は(名づけえぬもの)に見られるように、同じことを何度も繰り返すばかりである。これは作者の狙いであった。
だから、今書いている(時の谷間)という作品も、ラストで主人公が安楽死の列車に乗っていくことになっているが必ずしもそのラストにもっていかなければならないわけではないのである。人間の一生であっても死ねばこのよから消える定めになっているが、霊になっておなじ人生を霊の世界で繰り返してることだって考えられる。
芸術にはそれだけの広がりがあるのである。これで書き進めることができるようである。
セクハラ!だと騒がれる今の時代においてはそのせいで失職することもあるので、女の心を十分に知っておかなければならない。彼女があなたに気のある時は近づいたり、遠くからでも見つめたりするのであり、そんなときは肩を軽くたたいたり、体に少し触れることがあって大丈夫であるし、気があれば顔が明るく輝くのでもある。そんなこともわからずに強引にでれば失敗する。それと女が短いスカートをはいたり胸を露出しがちに見せる場合があるが、それはそれが恰好いいということであって、誘惑しようとする気があるからではない。また部屋こ来ない?と誘って、来たからと言ってそれは体を許すことを了解したからではない。そこで体に触れようとして、セクハラ!だと言われることはある。
もてる男をよく観察していると、特別に良い男ではないのである。女心に問うてみれば、彼のそばにいると心が落ち着きいい気分になるという返事が返ってくることがある。わたしの持論はもともと一つであったものが二つに分かれてしまい、それがまた一つになろうとしていると考える。聖書の創世記には女は男の肋骨であったという箇所があるのである。
若いころ、女にガツガツしてすけべったらしい目をしているといわれたわたしは、今では時々物を見るような目で女を見ている時がある。もう一度、あの頃に戻りたいと思うが、このままでもいいとも思う。ずいぶんひどい目に合わせたし、ひどい目にあったこともあるが、それが、生きる、ことであったのである。
七十七歳の今になっても女の心には理解できない部分が残っている。男と女は肉体的にも精神的にも異なるので、その特性を尊重しあって生きるべきだと考えていたが・・・・。日常生活での言動は理解できるが、性と愛の領域においてはわからないのである。
ある女と付き合っていて、初めてアパートを訪れると、部屋の戸はすべて開け放って寒い風が入っていた。それは自分が変な気を起こさないようにするためで、彼女は既婚者の男とは一切性行為はしないという方針だと分かった。それはトラブルになって問題を起こさないためで、そのことは理解できた。それから、何か月か後に浜辺の海鮮料理店で食事をした帰り、後になって、あの時、いくらでもチャンスはあったのに手を握ってくれなかったね?とつぶやいたのであった。
それほど警戒心の強い女の手など握れるはずはないし、そんな気にもならないはずなのにである。そのことが彼女にはわからない。結局、彼女はそれから何人かの男と付き合いその時の性行為の中身を自分にくわしくしゃべったのであった。腹立たしい思いで聞いていたが、おかしな女だとも考えていた。彼女は今、認知症になって老人ホームに入っているが、見舞いに行きたいなんて思いはしない。
これに似たようなことはたっぷり経験してきたが、今、自分のテーマになっているのは、(愛と性)の関係である。愛があって性に続くのか、性があって愛に続くのか?過去の経験を振り返りながら考えても結論は出なかった。教会の先輩・女信者に問うと、信仰一筋でやってきたのでそんなことには興味も関心もありません!という者がいたが、結婚して夫も子供もいるのにそんな答えはないでしょう!と言いたかったが、言葉を止めた。
両者は関係がある場合もあるし、関係がない場合もあるというのが答えではないか?二者択一的に処理しようとするからわからなくなってしまうのである。量子力学的に、シュレディンガーの猫の言葉にあるように、猫は生きてもいるし死んでもいるのである。それに聖書では、初めに言葉があった、言葉は神である、というのは間違いである。初めに動きがあった、言葉はそれを説明するために用いられたが、言葉は不完全で本質を見失った、ということではないか?
若いころ、自分は共産主義にはまっていて、王や神はことごとく否定していたがいろんな経験を積み重ねるうちにことの道理が見えてきた。NHKの集金人をやっていた頃、労働組合を立ち上げて活動し、23年間戦ったが、結果的に組合員からはしごを外され、送別会さえしてもらえなかった。それは自分が会社の言う通り、仲間の受け持ち地域に入り、仕事を奪ったからであった。そのことを追及されたが、自分の地域は自分で守れ、と言って無視した。仕事を奪われて首になった仲間もいたのである。
退職して貧乏になった今、そのことがはっきり見えてきた。
今の政治家たちに政治家と呼べる者がいるだろうか?人相からして極悪人たちである。
民主主義は利益供与して票を取るブローカーになってしまった。政治的人間、というのを政治学科で学んだが、ここに橋をつければ皆のためになる、と言って政策にし、土地の値上がりを手に入れるのが政治家なのである。
どんな国も組織も集団になれば運営するものが必要になり、結果的に統率者が出ることは否定できない。ピラミッド型のスタイルができてしまう。それが急角度の傾斜になるのかなだらかな民主主義のかたちなのか?の違いだけである。
貧しい者に分け与えるような人物が出るのは期待できないのであろうか?
今の時代をどんな言葉で言い現わせばいいのか迷ったが、このタイトルに落ち着いた。現代の混迷ぶりはウクライナ戦争、ミャンマーの地震・内乱、トランプの関税政策、環境破壊と際限がなく、将来の不安に満ち溢れ、希望の光が見えない。毎日のニュースを見ても、トランプ氏、プーチン氏、金正氏、習近平氏と毎日、顔が並び見てる者にとうてい幸福感を与えそうにはない。逆に嫌な気分になる頃が多い。
なぜなのか?
彼らには人を包み込む笑顔がないのに、なぜだか一国の王の地位が定まっているのである。昔の統治者には王としての余裕と風格があったのに、失礼な言い方になるが彼らの表情は犯罪者に近いのである。トランプ氏がなぜ高い関税をかけるのか誰もが理解できないし、逆にそのことによって相手国の首を絞めあうことになる危惧は持たないのか?不思議である。不法侵入者を自国に追い返してもいるが、彼らを自国民として育てようとは考えないのであろうか?以前は同化政策と言って自国民にする政策があったではないか?
環境政策においても野良猫に不妊手術を施すことしか考えない。増えては困るのは確かであるがそこまですべきであろうか?これが人を対象とすれば差別・暴力になってしまう。すべてが人間中心で自己中心的なのである。宗教も普遍的な視点を失い、統治者の言うままである。
新しい思想と、王が生まれなければならない。
昨日は三時間ほどカート整理をした。疲れが残っているか?と不安であったが、今朝は、五時に起きた。もみ殻をポンコツ車に積み、コイン精米機によって、ぬかを三袋、取った。それからいつもの産直店」に行って、もみ殻とぬかとおろした。両方とも今月は売れ行きが良い。産直店の向かいにある精米所に行くと、うれしいことにもみ殻が残っていた。十五袋ほどとると、いつものスーパーに寄って、ビニール袋を三袋買った。それから、帰り道に先ほどのコイン精米機に寄ると、ぬかが二袋、取れた。それで帰宅して、昨日買ったトマトの苗を植えることにした。
こんな生活ですごしているが、健康でさえあれば幸福である。鬱になる時もある。足腰が弱り、布団から起き上がれない日が来る。働けなくなれば国民年金では生きて行けそうにない。スマフォの電話帳を見れば削除して去っていった知人が目に付く。もみ殻もぬかが売れない・・・。顔なじみの老人たちが施設に消えていく。自分の番がくるみたいであるが、金はない。
わびしい、寂しい時には句が生まれ、女を想い、心が文章になる。売れるものではないがせめてもの生きがいである。マイナスを肥料にして生きるのである。
昨日はカート整理の日であった。ポイントデーだったのでお客さんが多く、カート整理が間に合わない、自分が倒れるのではないか?と心配になったが三時間をやり終え、ウイスキーを買って飲んだ。掃除の女の人がいて、立ち話をした。わたしが火曜日に仕事をすることを知っていて、それを気にかけているようであった。あなたはどこか品があって、学歴も高くて、良いところのお坊ちゃんじゃない?と言われ、若いころは言われたことがあったが、年老いてからは初めてなので驚いた。わたしは自分の本当の姿を知っているのでそんな言葉は事実を当てていないし、嫌いであった。
助平ったらしい顔をしてる、とよく言われたというと、彼女は笑い、顔を赤らめた。その言葉を思い出すと、自分を嫌う女はそういったが、好きになった女は、色っぽい、といった。布団の中で目覚め、女の顔を見つめていると、助平ったらしかったのであろう、ビンタをくれたこともあった。
この歳になって誉め言葉をもらうとすごくうれしい。その言葉を思い出すと元気が出るのである。
来週会ったら、食事にでも誘ってみようか?春が来た、みたいである。
町内のカラオケ同好会に通うようになって3年ほどになるが、まだ続いている。どこに行っても喧嘩をするといわれたわりには続いている。公民館で毎週、歌っていて、楽しく過ごしている。ほとんど老婆ばかりであるが、化粧をしていて、老婆らしい女はおらず、男たちも元気がいい。十人程のメンバ^ーで活発である。午前九時から始まるが会長はその前からマイクを握って歌い、叫び、耳が痛くなるほどである。古参の女はいつも声高におしゃべりをするが、マイクを握ると笑い、泣き叫んで歌う。若いころにもどり、顔からしわも消えて、色っぽくなる。この前は、手が温かいわね!と言って私の手を握ってくれ、そんなことがうれしかった。もう一人の女は以前スナックで働いていたといい、心のこもった魅力的な歌い方をする。95点の点数が出ていた。自分はいつも八十点くらいである。もう一人の女は日本舞踊も習っている人で天を見て踊りながら、歌い、涙を誘われた。
自分は毎回、自分の歌を録音して、帰宅して聞き、点検し、、心で歌っているかどうか調べ、改善していっている。歌手と呼ばれる人たちは、歌い始めから心が入っていることがわかる。もう少ししかない人生だが、最後は町の施設のステージに立って歌いたい。一年前に、先輩が車いすに座って歌ったことが思い出される。
少し暖かくなったので、種をまいた。昨年収穫したゴーヤとかぼちゃの種が残っていた。どこにまこうか?と考え、土の軟らかい場所にした。畑の土は全体的には硬かったがそこだけふかふかに柔らかいのであった。よく見ると、あちこちに穴があり、モグラの掘ったあとだとわかった。モグラはミミズが大好物なので、そこにはミミズがいて土が肥えているのであった。モグラは堀跡は残すが、姿を見せることはない。カラスや野良猫に狙われているので警戒心強い。鍬を軽く入れるだけであっという間に耕した。とりあえず、二つの畝に50粒ずつまいた。石灰t化成肥料をかけてやった。
ゴーヤはつるを作ってやるのが面倒なので地面に這わせることにした。四月ごろには芽をだし、あちこちに這いまわるであろう。野菜高騰のおり、知人に分け与えれば、喜ぶであろう。先月、沢山なったレモンをわけあたえてやったら、はちみつ漬けにしたらおいしかったと喜ばれた。貧乏暮らしだけど人によろこばれることのある生活でもある。