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今日は今年最後の草狩りを、終えて、ほっとしている。三十年前まで住んでた家だが、借地であったために地主に返し、そこの草刈りを毎年頼まれている。春、夏、秋と年に三回刈って、4万円をもらい正月を超す貴重な収入源である。二百坪であるが、全面に草が生え、一回につき三度刈っている。
二週間前に入口の手ごわい草を刈り、疲れていたし、本宅の草刈り、野菜作りもしなければならない。長い草が草刈り機にしがみつき、三度、四度と刃を叩きつけねばならい。十分もやると汗まみれになり、十月末の今になっても酷暑は衰えない。昨日はススキの生えた場所に入り、四分の三ほどが軽く刈れて安心していた。今日は仕上げの場所であったが、枯れた子竹があちこちに放置され、刈りにくかった。
昨日、ブタクサの中に白百合が一本伸びているのを発見し、あさっての日曜日に教会に持って行こうと考えていた。セイダカアダチの黄色い花がブタクサと呼ばれていることを最近知った。何とも面白く、ブタクサと呼ばれて気の毒になっていた。人の背丈にも伸びる頑丈な草だが、人間にとっては邪魔になるだけである。その中に白百合がスタイルよく伸び、まわりのブタクサたちを見下すように咲いているのであった。やはり野草とはちがう高貴さがあって、人間世界を思わせる。枯れ木の幹に腰を降ろし、水を飲みながら、ゆっくり鑑賞したのである。
球根で増える花がなぜ、こんなところに生えているのか不思議であった。以前住んでいた頃の記憶にはなかった。球根系であるが、受粉をして種にもなるのである。鳥が食べたりあるいは風によって運ばれるのであろう。
よく考えてみると花はもともと野草であったが、人間に可愛がられて(花)に昇格したに過ぎないのである。故郷の空気や仲間の草たちを思い出しながら悦に入っていたにちがいない。白百合のまわりのセイダカを刈り取っていくと、白百合はもたれていた仲間を失い、倒れそうになっていた。まわりは残してやり、明日、切って教会に持って行こうと考えた。
心臓のバイパス手術を十年前に受けて以来、キリスト教に興味を抱いて、五年間ほど教会に通い、研究と信仰をしてきたが、近頃、神は人によってつくられたのではないか?と考えることがある。信者たちは聖書は神の言葉を写し取ったものだと信じて疑わないが、教会の勉強会で大学院の神学部を卒業した先輩が興味深いことを話してくれ、考えさせられた。聖書の原本は中近東の洞窟の中から発見され、壺の中に入れられた巻き物であったと言う。それはパピルスや羊皮紙に書き留められていたが、崩れてぼろぼろになった部分があり、それで削除された部分があると言い、写真に残ったそれらの個所を見せてくれたのである。
何度も編集をされ、出来上がっていった。
ようするに人の手が加わって聖書は出来上がったのである。伝承や噂話が含まれて、あれだけ偉大な聖書が出来上がり、すごい物語が書かれ、いまだに世界のベストセラーである。
キリストの磔刑、復活、人類救済の部分であっても、その話とは別な理由があったと考える。イエスが自分は神の子だと言った時、それはユダヤ教を乗っ取ることだと、ユダヤの教徒は考え、殺したのではないか?それが贖罪のために磔刑になったということになっている。
それに、神は食べてはいけない木の実の話をしたり、苦しみ泣く者たちの涙を救ってくれるたり、人にかわって復讐をしてくれるとか、ノアの洪水においては一度人類を絶滅させたり、いろんなことをしてくれるがそれはどこか人間臭いのである。奇蹟や予言など人類の希望や願望が加わっているように思える。
こんなことを書く自分はまだ聖書のことを知らないのかもしれないが、まだまだ未知の領域がありそうである。
柿の実が赤く色づかないし、青い実もふだんの三十分の一くらいの出来具合である。もうすでに色づく時期であるし、店頭には色づいたのが並んでいる。トマトもピーマンもキュウリも腐ったり虫に食われたりしてほとんど収穫ができなかった。梅の実もほとんど成らず、今の時期にカボス、はっさくは一個も成らず、レモンも小さいまま色づかない。年々少なくなっていたがこんなことは初めてである。
恐ろしくなった。もしかすると、来年の春は、果実が花をさかせず、あの本の表題どおり、自然は沈黙してしまうのではないか?
エアコンを使え、使え、とわめきながら、数十億の人間がエアコンを使ってしまったらどうなるか?マスコミは考えないのであろうか?ニュースか広告かわからないような記事を出すマスコミは、広告取りの金の事しか考えないのか?せめて節約してエアコンを使いましょうと言うべきである。
自分の命はあと数年だから、逃げ切れるとは考えたくない!
このブログの一つ前に、植物は近親交配をさけるために、一つの茎から出たおしべとめしべは受粉しないと書いているが、それから連想することがあった。近親交配をすれば生命力が弱り、劣性遺伝を繰り返すようになることを植物は知っているからであろう。花はなぜ美しいのか?ということもブログに書いているが、美しくなければ蜂も蝶も寄って来ないからである。そこで、結論を言えば動物も植物も人と同じく、考えたりk、感じたりすることができるということである。
広い屋敷の草刈りをほぼ毎日やっているが、そこでもいろんな発見をする。近頃は外来種のツユクサがはびこり手を焼いている。草刈り機で一振りでは切れず、茎は長くのび、その上、あちこちで根を張っている。草刈り機の刃に絡みついて離れない。
そして、おどろくことに国産のツユクサもそうであるが、切っても枯れないのである。水分をたっぷり体に蓄え、数か月でも持ちこたえる。さらに切られた茎から根を出して、地面にふたたび張っていく。刈った草を一か所のまとめておかないと数か月たてば元の木阿弥になってしまう。他の植物や動物ではとうていできないことをやっている。カヤやヤブガラシであれば一回刈れば数か月はもつのであるが、そのツユクサが前面を占領してしまえば大変なことになる。草まみれの家になってしまうであろう。
猫の動画をスマフォでよく見るが、アヒルの子供が親猫のあとについて行く光景が出て、わたしは熱心に見ている。普通であれば猫はアヒルを食い殺すのであるが、その子供をかわいがるなんて信じられなかった。
聖書に妖精や聖霊、霊の世界が出てくるがあれは本当のことだと思う。命はみな、兄弟姉妹なのである。
カラオケを歌うことは、老後の人生の中の大きな楽しみの一つです。十一月に、岡垣サンリーアイで歌うことになり、少し緊張しています。三度目の出場で、文化祭の一つのイベントで、出場は無料です。
何を歌おうか?と迷っていますが、(命くれない)にしようかと思っています。歌いやすいし、歌詞の内容も気に入っています。(産まれる前から結ばれていた。そんな気がする紅の花・・)という言葉は日頃考えていた男女関係にすごく通じるのです。
77年の人生の中で、自分の出来事も含め、いろんな男女の関係を見てきましたが、結びつきは生まれる前からきまっていた、というよりもともと一つであったものが分離してしまい、まわりまわって(よりをもどす)ことではないか?と考えていたのです。聖書の創世記の書き出しの部分においても、男のあばら骨から取り出されて女が産まれた、と書いてあるように、もとは一身同体であったのです。異性を求める必要もなかったのです。植物の世界にも見られるように、雄と雌が一つの株で生きていたのです。ところが一つの株のオスとメスは交配が出来なくなり、遠く離れた雌雄を求め、結ばれる仕組みに変わってしまったのです。そうすれば自然い運動能力が発達するからです。これは神の働きかもしれません。
人間世界においてもいくら努力しても結ばれないけど、ふとしたきっかけで結ばれ、離れなくなってしまうケースがあります。ところがうまくいかず、他人がいるる前でも彼らは大声で喧嘩をし、あるいは三十年間も家庭内離婚の状態にありながら別れない場合があります。これらは、生まれる前から結ばれていた、にちがいありません。
元のさやの中に納まったのだから、ある意味では幸福なのかもしれません。
七百坪の敷地の草刈りは一年中刈っても終わらず、始めの場所に戻ってしまった。そこの草の方が刈りやすく、少しでも成果を見せてくれるからである。残りは外来種のツユクサで一振りで刈れない厄介者である。また刈るわけであるがいつのなるのかわかりはしない。年中にはかたずけたい思いである。
椅子に座って、そんな事を考えていると、涼しい秋風が頬に寄せ、慰めてくれるように思えた。父母は亡くなり、一人ぽっちの屋敷で労をねぎらってくれる者はいない。地獄の釜茹でように暑かった夏がよぎり、秋風の優しさに思わず涙した。
札幌首切り事件、イスラエル戦争、台風災害、米野菜の不作、兵庫県知事の事件、など人間世界は相変わらず、混乱したが我が家は栗だけが順調に実をつけ、家計を助けてくれた。落ちてしまってそろそろ終わりを迎えそうであるが、体を開いて身を落とす栗をみると、心が温まる。栗は与えることによって、実を広がせ、生きているのである。
自分と同年配の者達は入院したり、杖をついて歩くようになったりしているが、まだ自分は二本の脚で歩ける。膝が痛むが一万歩も歩くカート作業もこなしている。
椅子に座った自分の背後では、使い古した鎌が草の中に転がっている。
(野垂れし鎌や刃先覗かす)
である。
今、世間で騒がれている斎藤・元・兵庫県知事の出来事と彼の対応の仕方を知ると、理解出来ないまたは不思議であると言う気がする。部下が彼の内部通報を知られて解職という報復を受け、悩みの末、自殺までしているのに元知事は次回の知事選に出るという。彼はその責任を取って失職し、県議会では議員全員からの不信任案を突き付けられたのにである。
自分は彼の言動に反発をおぼえながら、良い悪いは別にして彼の言動を理解出来ると考え、世間では度々起こっていることでもあることに気づいた。
結論を出すと、蚊帳の内と外という立場の違いである。知事のパワハラや仕事上の不始末が内部通報されたのだが、それは彼にとっては一緒に仕事をしてきた仲間の密告・裏切りであり、断じて許せず、死のうが生きようが知ったことではないのである。世間が騒いでもそれは蚊帳の外での出来事であるし、自分は仕事を一生懸命してきているではないか?と考え、蚊帳の中に籠っている。蚊に直接刺されることはない。
世間で事件が起こる場合はほとんどこの立場の違いからであり、それは平行宇宙の世界で交わることは少ない。こんな私であっても過去の出来事を振り返ると、四十年後の今になって、あれは自分い責任がある・・・、と思うことがいくつも出てくるのである。
教会に行って、花を花瓶に活けようとしたら、それは水揚げした方が良いわよ、と信者の女が言った。水揚げ?と言う珍しい言葉を耳にして、芸子に旦那がつくことだと思い返しながら、日本語の微妙さを考えた。花のよっては切ると水の吸い上げが悪くなるので、茎に斜めの切り目を入れて表面積を広くし吸い上げやすいようにしてあげるのである。
高校で習った物理学を思い出しながら、高い木が上の方まで水を吸い上げ、葉を実らせることに気づいた。誰の力で上の方まで吸い上げられるのだろうか?表面張力という言葉に思いつき、重力だとわかった。重力と言う日頃目に見えない力があるから、人は歩くことができ、いろんな行動ができるのである。重力のない宇宙では歩くことは出きず、浮かんだままである。
重力は誰がつくっているのであろうか?
考えると、
それは天地を造った(神)という言葉しか返ってこなかった。神という全知全能者を出さなければ、自然界の解決はつかない。不思議な力ですべての物や生命体に普遍的に作用している。
ペレシート バーラ エロヒーム エト ハーシャーマイーム ベエト ハアレツ
教会で、信者たちが合唱し、礼拝がはじまった。
花瓶に生けたヒマワリは水を吸い、元気になって建っていた。
(はじめに神は天と地を創造された)のである。
あの頃は金の取り立てのような集金業務をやっていたせいで、金まわりが良かった。月に百万円の給料をもらうこともあった。それに、株式投資でも儲けていた。
それに、若かった。ソープランドに、ほぼ毎週、通った。当時は博多の東中州にある店であった。初めて入る店だったので店長に、良い女をお願いします、というと少し助平ったらしい顔をして紹介してくれたのをおぼえている。
若い女が現れ、可愛い感じであった。エレベーターにのると、二人だけになりすでに興奮していた。自然に抱き合い、キスをした。風俗店にエレベータが多いのはムードを盛り上げるためではないか?と後に考えた。
部屋に入り、女の腰に手を回していると、当時としては珍しい黒のテイーバックをはいていて、それ見るとさらに興奮した。それから、ベットでたっぷり愛撫を重ねた。
そして、いざ挿入しようとした時、避妊具をつけて!と女は言った。
それはじゅうぶんいわかっていたが、女の体の奥に直接射精したかった。快楽の世界にそのまま行きたかった。押さえがたい欲望であった。
お願い、つけてよ!
女はまた言ったが、そのまま挿入して射精した。
三日後に陰部が痛み、性病をうつされたことがわかった。病院に通った。
現在、77歳になって、風俗店に行くことはないが、その出来事を時どき、思い出す。そして、札幌ススキの首切り事件と重ねてしまうのである。あれは、男がゴムをつけずに射精をしたことが原因であるが、それにしてもそれが首を切り落とすことまで発展したと言うのが信じられない。男の目玉をくりぬいて瓶に入れて眺めていたともいう。全く信じられない。性交をしたことで心は少しも結ばれていなかったのか?男は物としての対象でしかなかったのか?そんなことを考えるのは自分だけであろうか?
あの時、ソープランドの女は、店を後にして別れる時に、涙を流していた。あの涙は彼女の頼みをきいてくれなかった悔しさだったのか?性病うつしてしまうことへとの不安・心配であったのか?
そんなことをいまだに考え、思い迷っている。
罪深い人生の名残である。
メルトダウンになった毎日である。まさに原発から溶けだした核物質のように何もする気が起こらず、長椅子に横たわり、扇風機から出る暖気に当たり、死んでいる。台風がくれる雨に期待していたが福岡から逸れるだけで、雨は一か月以上ふっていない。ピーマンもしし唐も枯れかけ、草刈りに追われて放置していた。昨日、スーパーでピーマンの値段を見ると、なんと一個が百円であった。この流れが他の野菜に広がりそうである。カボスもレモンも柿も発育不良である。梅の実もビワもダメであった。
どうせあと何年かしか生きない身であるから早く死んだ方が良いのであるが、自分みたいな老人ばかりが増えていきそうである。循環がないから社会が力を失っている。安楽死を早く認めるべきであるが、政治家は選挙の票を気にして言い出さない。タンス預金ため込んだ者達が放置され、金もタンスの中で眠っている。本来であれば金も高い所から低い所に流れてエネルギ――になるはずである。
政治家やマスコミはは大きな問題点を出すべきであるのに、斎藤知事のスキャンダルにあるようにちまちました出来事を毎日飽きることなく報道している。大事なことは置き去りにされ、いつ地震になって大雪崩を起こすか怖くなってしまう。
自然界は規則正しく循環しているに人間社会はいつまでも滞ってしまっている。希望は崩壊の次に来る再生にしかないのであろうか?