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明け方に、夢を見た。自分はNHK営業に再雇用され、事務所で営業職員と仕事の打合せをしていた。その職員は四十年前にいた男であったので、顔も憶えていたが、なぜ夢の中に再登場したかはわからない。おとなしく優しそうな顔だった印象しかない。男の姿が消えたので、戸外に出るとそこは借家風の小さな家が点在している地域であった。四十年前、福岡市南区花畑を訪れ、ドアを叩いて回ったのであった。小さな花壇につつましい花が咲いていた。夢の中で、団地の端っこに行くと、なんとそこから先は絶壁になっていて、下が見えないほど高い位置であった。
二十三年間、集金人として働いたが、精神や体を壊した仲間は多く、自分がかかった心筋梗塞が多かった。ストレスの強い仕事で、客との言い合いになり、警察が呼ばれたことは三度、あった。いろんな職業の中で警察が呼ばれるものなんてあるだろうか?
じつは三日前に、集金人をしていた頃の仲間とぐうぜん会っていた。一時間ほどの立ち話であったが、十年前と同じく、元気そうであった。あの頃は、中村さんが一番の古株だったけど、ぼくが二十六年間勤務して、一番古くなりました、と笑顔で言った。百四十人いた仲間は減って、三十三人になりました、と付け加えた。自分はその数に多くの犠牲者の痛みを知った。自分が辞める頃から、NHkの搾取、締め付けはますますきびしくなっていた。集金人の与えられた地域を不動産屋にまかせたり派遣会社にまかせたり、わたしたちのの仕事を取り上げ、そのくせ、ノルマと首切りはきちんと残したのであった。数千億の利益になった。
その間、彼は労組にもはいらず、仕事上のトラブルもなく、成績もトップで、いつも笑顔をとおしてきた。わたしにとって別人種であった。トラブルが多く、成績はトップだが、団交の場で管理職を攻撃していた自分とは大違いであった。
彼はポケットからスマフォを取り出し、女の子の写真を自分に見せた。孫です、と嬉しそうに言い、自分には孫はいないこともあって、無感動な目線で眺めていた。金がたまったろう?と言うと、いろいろ出費が多くて、と言ったが、数千万円の貯金はあるはずであった。
自分は米ぬかをとって、産直店に出してる、と言うと、どこから?と訊いて来たので、そこからさっきとった、と目でさした。コイン精米所のヌカ取り場であった。自分の着た作業服はヌカにまみれていた。
改元の春に入り、コロナ事変が起こり、それから豪雨の被害、熱中症の猛暑、史上最大の台風、と休む間もなく災難がつづいた。が、何が何だかわからないうちに、秋風がよせ、鈴虫が鳴き、風呂に入ると湯の温みがせつなく感じられるようになった。自然は季節の変化をまだ忘れてはいない、それは有難いことだ。それらを振り返って見ればあきらかに自然の警告をみてとれるが、世の中はいかにコロナ前の経済に復帰するかにばかり目が向いて、のど元過ぎれば熱さを忘れる、状況である。
来年もまた、同じような厄難が起こるであろうが、つぎはどんな事変がおこるかわからないし、どのように備えればいいのかわかりはしない。
七十三歳の自分はまだ生きている。飽きもせずにしぶといやつだなと思いながらも、午前四時になると目が覚め、産直店に出すクリやトマトの包装をし、バイクで走る・・。いつかは倒れて大型トラックにはねられるだろう、と不安になりながらも生活スタイルは変わらない。
走り、走りつづけよう・・、倒れる日がくるまで。
昨日は、台風十号で倒されていたアイコちゃんの体を立て直してやった。支えが悪く、そのうえ、茎を十本も植えていたので苦労した。やはりトマトは、強い竹でやぐらを組むべきであった。一本に百個以上の子どもたちを産んでくれたので、売れた金で私の命を支えてくれた、と感謝し、伸び放題であった髪をかってあげた。だいぶ、すっきりしたが,それでも脇芽をきちんと手入れしなかったことを反省した。
そんな作業をしながら、じつはお前を今朝、嫁に出す決心をしていたのだ。九個の姉妹たちが嫁ぎ、お前だけを残していたのは、カラスにおまえを供えに出し、畑地に種をばらまかせて、来年、芽をださせることを考えていたのであったが、カラスたちは大声をあげるだけでお前を見つけず、飛び回っていた。
栗四パック、アイコちゃん二パック、シソを七袋包み終えると、また、畑に出て、お前の首を切ったのであった。畑地で、腐れたままになるお前を見るにしのびなかったのだ。お前の体は大きくならず、中くらいで顔も綺麗な丸顔ではなく、少し不格好であった。が、さもしいおれは値段を踏もうとしていた。七百円、と決め、たらいの水に入れて体を洗い、すべすべした肌と別れを惜しんだ。タオルケットに包み、拭いてやった。
厚地の手提げ袋にお前を入れ、片手に抱いて、バイクの箱に入れる時、おれはふと、思い返して、お前をまた出してやった。畑を見納めにさせようと、おまえの顔をスイカ畑に向けた。そばで向日葵の葉にとまったアゲハチョウが羽を閉じたり開いたりして、おまえを見送ろうとし、コオロギたちがそぞろに鳴いて、別れを惜しんでいた。
もうお前はこの畑に帰ってくることはないだろう、見納めだ・・。
夜明けの空に向かってバイクは走った。後部席のおまえの体は大丈夫か?と、心配になったが、バイクは俺の助手のように毎日働いてくれる。すでに走行距離は十万キロに近いのに、最近は三年間もパンクせず、俺の生活を支えてくれる家族の一員だ。
北九州に向かう国道三号線は、工場に荷物を運ぶ大型トラックが多い。その風圧で橋の欄干に押しやられようとして、体を踏ん張った。路面が荒くてバイクは揺れ、自分の加齢が加わって倒れるのではないか?といつも不安になる。出荷先のスーパーマーケットまで十キロはある。
丸いままのスイカはほとんで店頭になく、カットのものでも四百円で売っている。棚の上におまえをのせて、六百円にしようか?迷いながら、七百円の荷札をはって、店を出た。十二時には結果がメールでくるはずだ。
正午に、売れた、というメールが入った。
今頃は子供たちに囲まれ、おいしく食べられているだろう・・。
せめて、体にしめ縄でも巻いてやれば良かったのに・・。
ある知人男性が、彼の引っ越しをめぐって、不動産屋とトラブルになった。引っ越しの際に、知人男性の父親が所有していた農機具、クズ鉄類を勝手に売られ、代金の三万五千円を着服されたという。父親は畑作業も出来ず、怒り、困っているという。わたしはその話を聞いて、むずかしいトラブルだと考えた。それは知人男性が巨大宗教団体の信者であり、、三年前に脱会した。が、不動産屋の社長と貸主は熱心な信者で、幹部クラスであるからであった。
わたしは中に入って、社長もまじえて話した。
社長は貸主が、知人男性に洋服や電気製品をやったりしていろんな世話をやいてくれたことをしゃべり、理路整然とした話しぶりであったが、知人男性は話しがとびとびになって出来事の全体がぼやけ、わたしは客観的に理解しにくかった。帰宅してから、知人男性から電話があり、つっこんで聞いてみると、同じ信者であったことからいろんな便宜を図ってもらったせいで、公私混同になっていたのがわかった。
けっきょく、農機具とクズ鉄を売った代金をもらうか、あるいは農機具を買っててもらえばいいじゃないか、ということになり、不動産屋に求めたが、彼はそれらの処分の了解は得ていた、と言い、知人男性は了解はしていなかった、と言って、また、振出しに戻った。
処分費用を引いて代金は返してもらうべきだとわたしは言ったが、不動産屋は返さないという。わたしは(裁判に訴えろ!相手は信用を無くすから困る)と知人男性に言うと、彼は不動産屋にそれを告げたのであった。そこから先のことなのである。
警察でも裁判所にでも行ってみろ!おまえが逆に刑務所に入ることになるからな!おれたちの組織がどんなものか思い知らしめてやる。
不動産屋は言い返したのであった。
わたしは、正体を見せた、と思った。戦後大きく伸びたこの新興宗教はいろんな場面で強権力を見せている。四十年前まではマスコミにスキャンダルや不祥事をまき散らしていたが、その後、すっかり影を消し、新聞、テレビ、週刊誌などに姿を見せなくなった。見せなくなったのではなく、マスコミが圧力を怖がって記事にしなくなったのである。
ということは、今回の出来事が警察所や裁判所に出されたとしても、担当者がその信者であった場合、これは当人同士で話し合ってください、あるいは額が小さいから却下する、ともみ消される可能性がある。
極論すれば罪を犯しても報道されず、逮捕もされない、という怖いことが考えられる。世の中を自由に操れるわけである。
また、この宗派と犬猿の仲であった某政党は、互いに中傷しない協定を結んでおり、いっさい報道していない。それに某政党の裏面や不祥事もこの二十年間、マスコミに出ないのである。
多くの組織がこんなふうに関係を持ったとすれば、報道機関そのものが信じられなくなる。報道機関が報道しないことは圧力団体が国民を自由に操ることになり、ファシズム体制に陥ってしまう。
すでに陥っているのかもしれない。
昨日は、スーパーで、買い物かごの整理のバイトを、やった。店内では、夕方にはパンが売り場からすべて消えたのを、見た。今朝、産直店に出荷に、行くと、日用品を売る大型店の駐車場に車があふれ、台風にそなえて防災グッズに買い物客が集り、道路が渋滞していた。
コロナが落ち着いた動きになったと思うと、台風の出番が来たのである。史上最高の勢力を持っているらしく、九州を直撃するかもしれないという。六月に大雨被害にあった地域の復興がおさまらないうちに、また、災難が襲ってくる。想像もできない降雨量、海水温の上昇による風速の異常増加など、どちらも人間の自然破壊が原因である。だが、被害に備えての準備やかまえを訴えるばかりで、原因を追究し人間の生活への改善を訴えたりはしない。
あなたの宗教団体はコロナをどのように、解釈し、とらえていますか?とあるキリスト教の宗派にたずねた。女信者は解釈?と首を捻っていたが、もう一人の男信者は、政府の言うとおり、三密を避け、ネットでの集会をやっています、とこたえた。
同じことをもう一つの仏教系宗派にたずねた。その男性はフエイスガードとマスクをしていて、こうして感染が広がらないようにしています。政府のおかげで給付金をもらえありがたいことです。といった。
全国一の会員数をほこるある団体の雑誌を読むと、コロナを自分達の信念の中にとりこむのではなく、その発生原因を生物学に求め、学者に書かせていた。
それらを知って、わたしはすごく絶望した。どの組織として、コロナを自分たちの考えの中に取り込んで、思索してはいないのである。感染を恐れて、ネットで集会をしているなど、日頃、全知全能の神を持ち出す宗派がこんなありさまで、それが信仰を放棄していることと同じことであることに気がつかないのである。
人間社会がすべての信念を失った時、コロナが訪れたのである。数十年前に、終末思想が流行っていたがついにやってきた・・・。災難は忘れた頃にやってくる・・・。まさにその通りであった!
戦争でも起こればコロナは消えるかもしれない、と発言して、戦争を肯定するのか!と批判され、知事を辞職した市長がいる。が、それを問題提起として、戦争はなぜ起きるのか?どうすれば防げるのか、と議論を深めて本質を捉えようとはしない。戦争は悪い、暴力は悪い、セクハラは悪い、差別は悪い、と頭から否定して本質を捉えず、言論の自由を封殺しようとする組織が、まちがいなく、存在している。それはこのホームページのクリック数の異常な増加などで知った。その組織はSNSやフェイスブックなどあらゆる広報機関に二十四時間網をはって、獲物がかかるのを待っている。
童謡でさえ、その歌詞が被差別部落を書いているなどと批判され、テレビ・ドラマや映画などもその台詞にセクハラ、差別的表現があると言われて、上映ができなくなっている。
私たちは、日頃の会話や物を書く時のも警戒しなければならなくなっている。なぜ、そうなのかを議論しない限り、ますます社会や人間は縮んでいくばjかりで、ーそこに本物のファシズムが訪れることを知らなければならない。
今日も午前五時に起き、四枚切りの食パン一枚とブラックコーヒーで朝食を終えた。庭の畑に出て、まずトマトのアイコちゃんの収穫をする。真っ赤に完熟したのと真っ黄色のとでおよそ三十個であった。次に栗を拾い、実をヒバシでこじ開けて出すが、虫食いが多くて店に出せるのはおよそ二十個。次に。シソの葉をハサミで刈り取っていくと、十袋(小袋)になった。次がスイカである。予想してたように三個が残っていた。一個をハサミで切り取り、八百円で出すことにしした。
スーパーの産直コーナーに並べ置いて、帰宅する。もう一軒の産直店でもみ殻が全部、売れていたので精米所に取りに行くことにした。精米所は前回、コロナで店を閉めていたせいでもみ殻がほとんどなくなっていたので心配であったが、二十袋分はあった。袋に詰めていると、近くの老農婦がもみ殻を取りに来たので世間話をする。
もみ殻を産直店に運び、八袋置いて、帰宅。昼食をとって、スマフォを開くと、アイコちゃん、クリ、スイカは全部売れ、シソも二つ売れていた。
スイカはあと二つ、残っている。少し小さいので二個ともそれぞれ八百円で出そうかと、考えながら、スイカ畑が空になることに気づいた。商売にばかり熱心になった自分に気づいた。
鹿児島で昔、百姓が種を播く時、一粒は鳥さんのため!二粒はモグラのため!三粒目は人のため!と言って蒔いたこと思い出した。そうだ、一個は残しておこう。そうすればおまえは体を割って、種を出し、どうぞ、好きなように食べてください!と訴えるじゃないか!そして、鳥によって遠方に運ばれて子孫を増やすのだ。
三年前、カラスはスイカを突いたが、今度は気づかないようである。かれらも、ゴミ漁りも網がかけられてエサ取りがやりにくくなっている。畑で、空腹のせいだろう、いら立って大声で鳴いている。二粒目はカラスであげよう。
結局、一個は残しておくことにした。
もし、おれが来年の夏が迎えられないことがあっても、残った種が芽を出し、子供たちは夏の陽を浴びながら育っていくだろう。
それで良い・・。自然さえ残っていれば人間は生きられる。
おまえをタライの水で洗おうとした時、立ち止まって、両手に持ちかえたことを憶えている。あまりにも重いので、落とす心配があったのだった。つるつるした体は人の女のように滑らかだったが、背中に落ちない黄色い汚れが少しあった。バイクの箱の中に入れる時、割れたらどうしようか?と心配になり、厚い毛におおわれた手提げ袋に入れて包んだ。一か月前におまえの姉を運んだ時のように。
スーパーの裏口の暗い廊下を歩いていると、係の女が前に姿を見せた。お早うございます、と声を掛け、、今日も持って来た、何だと思う?と言うと、大事そうに持ってるからスイカでしょう、と笑顔で応えた。(いくらにしようか?)と言うと、(大きくして、良いわ)と言ったので、大きく?って何?と考えた。高い値段だとおもった。
産直コーナーの台におまえを座らせると、がらんとした中にお前がまさに生きた姿で現れていた。最初は横向けにしてみたが、立ててみると、すんなり立って、生きた姿を見せた、畑では寝転がっていたのにな、晴れの舞台をおまえは知ったのだろう。クリを三パック、トマトのアイコちゃんを三パック、シソの葉を八袋別の場所に並べると、仕事は終わった。おまえの体には、1100円、の値札を貼った。
正午に、メールがスマフォに来た。おまえもクリもトマトも売れ、シソは三袋が売れていた。
昼食を終え、いつもの山道を散歩した。放棄された野菜畑があった。戸建て団地の角にあって、高い畑地からカボチャがツルをあちこちから伸ばし垂れさせ、顔を見せている。持ち主は二、三年、野菜作りをしたが放棄してしまった。
ところが、カボチャは毎年、体を割り、種を落とし、実をならしているのである。三年目になっても、家族たちは枯れると、翌年には芽を出しているのである。
枯れ蔓の伸びし団欒夢の跡。
植物たちに不思議な生き方に、胸を打たれる。
嫁ぎ先の食卓で、おまえは供えもののように座り、飾られているだろう。家族に見惚られ、舌を鳴らされているだろう。
おれはその団欒を想像しながら、別れを惜しんだのであった。
あと二時間もすれば夜が明け、おまえはこの家から出ていくだろう。もう戻ってこないし、おれと顔を合わすこともなくなる。七百坪の敷地に産まれたおまえが、きれいな女になって嫁に行く朝がくるのだ。閻魔コオロギたちが忙し気に宴会をひろげる畑から、三十分も離れた街中に、おれのバイクで旅立つことになる。この家はおれひとりの淋しい家だったけど、十人の兄妹たちに囲まれてお日様を浴び、二か月間の幸福な生活を送ってきた。 兄妹たちの中で、姉は一か月前に嫁に出、幸福な家に住んで大事にされて過ごしただろうが、おまえの番がやって来たんだ。おまえも姉に似てきれいな縞模様を体に帯び、白い肌をしている。おれは毎日おまえたちの体を撫で、カラスにつつかれてはいないか?変な病気にかかってはいないか?と心配したけど、きれいな姿と顔で嫁に行けるなんて、おれは幸福に思う。
バイクの箱の中で揺られていくけど、おれが大事に運んでやるから心配しなくて良いよ。
九時になればお客さんたちが店に入り、(まあ、きれいなスイカだわね。今年は大雨の被害で全滅したところもあったけど)と、喜ばれるだろう。数千人のスーパーのお客さんの目にふれ、触られるけど幸福な家に嫁ぐんだから嬉しい日だよ。
前項のブログの中で、柿の実は虫に食われてしまう、と書いたが、じつは、生き延びるのである。柿の種は食べられても、吐き出される。食べられて動物の消化器官に入ったとしても、種そのものは消化されない組織になっていて、そのまま排泄される。大地に落ちて、芽を出し、生きていくのである。親とは離れた場所で、おまけに便を養分にして成長していくのである。
誰が考え出してそんな仕組みにしたのであろうか?考えれば考えるほど、不思議であり、神秘的というしかない。聖書の創世記に、神が生命に生き延びよ、と言った部分が鮮明に思い出される。ノアの洪水、にみられるように、生命は一度、滅び、再生することを述べている。今回のコロナ禍に対し、教会ではどのようにとらえ、どんなことを話しているか?およそ、の想像はつく。
だが、宗教的な考え方に興味があっても、(不完全な)人間たちの関わる宗教団体には興味はない。
今回のコロナ禍に対してどのようにむきあうべきか?マスコミは書きはじめているが、コロナ禍をきっかけにして、(生命)に対してどのように向き合うべきか?の視点を持つべきである。
昨日は、室温三十六℃の部屋の中で、扇風機にかかっていた。耐えられなくなって、庭の畑に出た。きゅうり、ニンジン、おくら、ウリ、スイカ、里芋、サツマイモ、うこん、ゴーヤ、カボチャなどは二週間も水をもらえず、葉っぱが黄色くなりはじめたのもあった。面倒見の悪い園主のために彼らは可哀そうである。さっそく、二十ほどの畝にホースで水をかけ始めると、あっちからもこちからも、ぼくにちょうだい!といってせがんでくる。植物たちは動くことができないので自分から水辺に行くことができない。
だが、彼らは動かなくても生きていける種を選んだのである。動物の道を選ぶべきだったか?と考えてもすでに遅い。人間世界はコロナ禍で大騒ぎをしているのに彼らはそんなことはない。だが、絶えてしまったり、病気にかかったりするものも多い。庭のクリ、柿などは毎年、虫に食われてしまう。他の植物みたいに悪臭を出したりして身をまもることをしない。柿など実が出る頃に食われてしまって、数個しか成熟しない。わたしはバカだな!と考えたこともあったが、それは人間中心主義の考え方であって、柿は人間の消毒に助けられていつまでも生き延びている。
神木と呼ばれるイチョウの木はさすがに立派である。虫に食われることもないし、木質はまな板に利用されるほど丈夫で、放置していても腐ることもない。今年もギンナンをたくさんつけているので、それを売れば生活の足しにもなってくれるであろう。
(何を信じて生きていますか?)
昨日は、そのことを考えていた。コロナ禍において、政治、経済、宗教、哲学などすべての権威が総崩れになっている。その中で、考えた私の結論は、自然の生き方に学び、それを信じて生きていきます、であり、このホームページの最初の趣旨でもある。大量生産、大量消費、多数決主義が終わり、、少数者の時代に変わっていくであろう。