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差別と区別は区別すべきである。

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日記
執筆 : 
nakamura 2021-3-28 16:14

  マスコミに、差別の事例が取り上げられない日はない。読者の目をひき、視聴率を稼ぐためだけだと考えたくなるほど、微妙な部分に入り込み、いつまでもモグラ叩きで収拾がつかず、もっと大事なことがニュースから置き去りにされている。例えば、ツユクサや黄色い菖蒲が近隣から姿を消し、何故なのか?ということなど、身近な異変は見過ごされているのである。

 それに大きな視点・観点を見失い、袋小路に入り込んで身動きが出来なくなり、いつのまにかコロナという恐るべき生物を人間社会が生み出し、いまだに右往左往していることである。

 差別問題に関しては、差別とは何か?区別とは何か?を考え、区別すべきではないか?

 身近な事例を考えると、まず、清掃人のことである。そこに男女の差別がからんでいるとは、誰も想像しないであろうが、実は存在しているのである。清掃人の募集をしても,女性の方を採用する。なぜなら、トイレの掃除があり、男は女子トイレを覗きたがる傾向があるが、女性にはほとんどないからである。

 これは逆差別というより、区別として判断すべきである。

 次にスポーツの分野。ほとんどすべてのスポーツは男女に分かれて競技をし、得点で順位が決まるのである。男女の差別、というのであればすべての競技を男女混合にすべきではないか?ここで体力的に女は男に劣っているから、などと発言すれば大問題になるから、このことに関わることは出来ず、タブーになってしまう。体力的に劣っていることを差別ではなく、区別と判断すれば男にハンディを与えて、公平に競技が出来るというものである。

 女子選手の下腹部や胸を写真に撮って公開することはセクハラである、と言うことになりはじめている。男子選手の場合はまだ、そんなことはないが性的少数者が増えてくればこれもセクハラということになるであろう。

 そろそろ、袋小路の世界から大局世界へ、方向変換すべきではないか?世の中からエネルギーが失われている。家の前に公園があって子供がうるさいから撤去させたり、保育園の子供の声がうるさいと、抗議をする老人たちのお粗末さを見せつけられるのは嫌になる。

昨日とは違う今日

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日記
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nakamura 2021-3-21 10:43

  幼い頃から、うつ病の気があったことが、今、わかる。調子にのって羽目を外したり、トラブルを起こしたりしたことはなく、おとなしい、優しい男として成長したようだが、自身は喜怒哀楽の激しい、人の好き嫌いの激しい男であった。

 73歳になったせいか、朝、目覚めて、と言っても午前二時ころに目覚めて、そのまま布団から出ずに、ぐずって考えているのである。産直店に出していたもみ殻が減り、車で持って行かねばならない、その帰りに精米所に行って、二十袋ほど、取って来なければならない、雨は降っている、明日にしようか?など思い迷っているうちに布団の中に居ることが耐えられず、起き出してしまう。

 車を出して、途中で、コイン精米機に寄るが、米ぬかはかすり取られた後であった。米ぬかも産直店に出しているのだ。産直店について、もみ殻を七袋補充し、米ぬかは五袋残っていることを知った。店内を見て回り、竹の子が出ていたが、昨年の五分の一くらいで、少なかった。一週間前、自分の山に行ったがイノシシに三十本ほど掘られていて、一本も取れなかったのである。年々、野生植物が減っていっている。

 帰宅して、四十畝ほどの畑を回る。敷地内にあるので楽である。フキが大きくなり始めたので出せば売れる。先ほど、産直店では、四本が百五十円で売っていたのでその値段にしてみよう。ニンニクや玉ねぎが大きくなりはじめている。玉ねぎは三個で百五十円で出してみようか?ホウレンソウも大きくなり始めている。二日前に、ナスの苗を十本、ミニトマトを八本植えたが、小雨にかかって、うれしそうであった。

 そんなわけで、今日も昨日とはちがう一日がはじまったのだ。午後四時からスーパーで買い物かごの整理のバイトをする。その前に女友達の家に寄って、ポストに、小説の続きを投函しようか?読後の意見、感想を聞きたいのである。

  明日の朝は、庭の畑からの朝日で、眼覚めるだろう。布団の中でぐずり、それから、八時に出る株の情報をみるためにスマフォを開けるだろう・・・。

せせらぎや永遠をつま弾く水光

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日記
執筆 : 
nakamura 2021-3-19 7:23

  この二三年の困窮生活から抜け出、新年を迎えた気分になった。昨年の秋にアルバイトを見つけ、三万円ほどの収入で、生活保護を受けなくていい、予想がついた。この二三年は苦しかった。そんなことを書くと、ちっともレアじゃない?と言われそうであるが、自死の覚悟もしていた。小銭も入り、健康なので、あと十年ほどは死にそうにない。

 でも振り返ってみると、諦めも肝心、ではないか?現代人は欲が強すぎる。貧乏すること、病気になること、いじめられること、首になること、交通事故を起こすことなどなど際限のない悩みに金持ちも貧乏人も犯され、心の休む暇がない。いっそのこと、諦めが肝心、そのままけっこう、という気持ちになることはできないのか?と、考えてもそのようになれないように仕組まれているのである。悩みが多いから、金貸し、医者、コンサルタント、斡旋業者、保険会社などが存在してるのである。資本主義は人間の悩みで成立している。

 近頃、アルバイトや野良仕事が忙しくなり、山歩きができなくなった。

 山歩きをしていた頃を思い出す。その時浮かんだ俳句、

 (せせらぎや永遠をつま弾く水光)

 こんな境地をまた、訪ねたい。

 

元の鞘(さや)

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日記
執筆 : 
nakamura 2021-3-12 20:32

  二歳児の、悲しい思い出。

 目を覚ますと、あばら家の雨戸の隙間から朝日がさしこんでいた。また、誰もいない、一人ぽっちだ。自分を置いて、母も父も婆ちゃんもどこかに出ていってしまった・・。

 起き上がり、玄関の土間に向かって、這いながらすすんだ。まだ、歩けなかった。框(かまち)まで来ると、傷みを予想して、すでに頭に痛みが走っていた。すると、頭から土間に落ちた。頭が割れるように痛み、耐えながら、じっとっしていた。玄関の敷居を這いこえて、庭に出た。誰もいない・・・。涙があふれてきた。

 (母ちゃん!母ちゃん!)と叫んだようだ。返事はなく、目の前には庭の地面が門扉まで続いているだけであった。誰もいない。まわりの家にも人はいない。

 大声で泣き叫び始めた。

 あまりにも泣き叫び続けたのでいつものように横隔膜がけいれんをはじめ、止まらなくなった。呼吸も苦しくなり、それに耐えた。

 それからどうなったか憶えていない。・・・眠ってしまい、何時間か後に母が戻って来たのであろう。

 七十三歳になった今でもこの出来事は鮮明に残り、横隔膜に痙攣が自分のドモリに悪影響を与えたのではないか、と思う。それから、小学校に入ると、夏休み、春休みには必ず、親類の家に預けられた。

なにか理由があったのか?と母にたずねてみようと思いながら、両親は亡くなってしまった。

 自分はその時、片割れだったと思う。母の体から産まれ出て離れ、外界に放り出されたのである。一粒種であった。だから、元の鞘に戻ろうと、泣き叫んだのである。この歳になっても、女が欲しいと思うのはその二歳児の頃のように、泣き叫びながら追い求めているのであろう。

 

他人の顔

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日記
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nakamura 2021-3-8 8:17

  キャッシュレスから仮想通貨の時代に変わりつつある。キャッシュレスの場合はまず現金を基本にしているが、仮想通貨の場合ははじめは現金でそれを買うが、それから先は、仮想通貨が市場で売買されることにより、価格が決まっていき、値幅の制限がないのでほぼ無限の値動きをする。それだけならまだしも、仮想通貨で車や食材を買うことになり、そうなると、金銭感覚はなくなり数字上の感覚でしかなくなる。

 その数字だけで商取引も成り立つわけであるから、初めにあった(金)は姿を消し、いつの間にか仮想通貨に乗っ取られた形になり、金は姿を消してしまう。虚が実を食う、である。

 これが時代の潮流になれば仮想国家、仮想恋愛、仮想家族、仮想職業などに広がり、すべての実世界を仮想が征服してしまうことになる。今はすでに、眉を濃いく、格好良くすることがブームになり、ほとんどの男女が美男美女に変身しているから、もう、その流れに皆がはまってしまっているのである。

 仮想顔で、仮想表情でメイクして、人々は今日も生きていくわけである。

 安部公房の傑作(他人の顔)の世界ではないか?

エロビデオに学ぶ

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日記
執筆 : 
nakamura 2021-3-6 9:03

  近頃、加齢とともに、下半身の興奮がさびしくなった。エロビデオは五十本ほど持っていて、部屋の中に散乱しているが、埃をかぶり始めたのもある。映像をかけて、観てみるが、あの頃ほど、興奮しなくなったものもある。それは下半身の元気がなくなったにしか過ぎない。逆に作り方がよく見えてくるようになり、自称作家として、画像の裏の世界が見えてくるし、小説を書く上においてすごく研究させられる。

 エロだろうが(純)だろうが、それはジャンルの違いにしか過ぎない。下半身を興奮させるか心を興奮させるかの違いでしかなく、エロだから(悪)で純だから(善)ではない。以前は悪書追放の張り紙が駅のゴミ箱にしてあったが、最近は見かけない。

 興奮させられるビデオは、監督が最初から作り方をよく考えているし、女優も男優も性行為をしながら、それを演じながら興奮しているのである。この作品は女優の下着にすごく凝ることによって効果を出す、この作品はなにげない女優の仕草、表情、言葉によって効果を出す、この作品は異常な場面を出すことによって効果を出す、など計算されていて、それはあらゆるジャンルの作品に共通することである。だから、素晴らしいエロビデオをつくれる監督は素晴らしい純作品をつくれるものである。

 それにもう一つ考えることは、創作のすごさなのか?現実のすごさなのか?である。実の母と息子の性行為をビデオに撮ったものを持っている。そばに父親が病床に伏して寝ていて、父親の目を盗んで行為をするわけであるが、あまりにも母と息子の顔が似ているので、驚かされ、興奮してしまう。ただ、カメラは一台にみで固定されているので一つの角度からしか撮られていない。母親はやはりビデオに録られていることを意識して落ち着かない表情をしており、息子は強引に迫っていく。

 すごく迫力があるが、創作をくわえて加工すればもっと素晴らしい作品になったとおもう。自分が書きかけていた(磁場)は書けなくなって、放棄した。もう一つの作品(贖い)の改稿のとりかかっている。ある程度の評価を得て、読んで泣いた女も三人はいる。これも体験したことであるが、体験と創作をうまく兼ね合わせていくことが求められている。

 さて、今年はこれにかけようと思う。

一目惚れ

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日記
執筆 : 
nakamura 2021-2-25 10:41

  その女友達は亭主を七十歳で亡くして以来、三年間は喪に服していたが、それからは男に走って行った。色気違いと噂されるほど積極的に求め、相手は十人ほどもいたが、死に別れ、生き別れ、の結果になり、誰とも結ばれなかった。一週間前、十人目の男をガンで、亡くした。彼女はその彼と亭主の位牌にお茶、コーヒーをあげ、手を毎日、合わせるという。二人だけでなく、十人も供養したら、仏壇にのせきれなくなるであろう。

 男と女の出会いの不思議さを、いつも、わたしは考えていた。自分が女にもてないこともあるが、七十三年間、生きて来て、ほとんどの難題は解きほぐせるようになったが、男と女の結びつきだけは解きほぐせない。

 彼女の男性経験をききながら、十人目の男性とはコミュニティー・バスの中でぐうぜん乗り合わせ、世間話をまじえ、そのまま別れたが一年後にまた、乗り合わせ、おしゃべりをして気心が合い、家に誘われて行ったという。男は妻を亡くした孤老であった。

 彼女はその男性の眼のきれいさにひかれたという。顔は不細工で色も黒く、どこがいいのか?と考えたが、一流企業の管理職をやっていたこともあって、頭がすごく良く、女にも持てる、という。癌で入院して以来、日に四度も電話を掛けて来た、という。風邪は治ったかい?昼は何を食べた?というような内容であるが、彼女は彼の言うことを良く聞き、年金生活で苦しい彼に月に五万円の金をやったという。

 この事例について、わたしは考えた。

   割れ鍋に綴じ蓋、という言葉である。それぞれの男女に個性があり、鍋にくぼみがあれば蓋は出っ張っていなければ、鍋が合わさって、、鍋の役目を果たさないのである。だから、その両方の部分は、水が高い位置から低い位置に流れるように、重力・引力の法則で引き合うのである。生物の体で言えばDNAが引力をはっきしてすごい力で相手を引き込むのである。人間の細胞は何十億の数があるのであるら、その力は目に見えなくともすごい力である。

 このようにして、男女は一目ぼれに近い形で結ばれ、一生、添い遂げるのではないか?そのように仮説づけると男女の結びつきは理解しやすくなる。この時間にも、多くの男女が世界中で相手・片割れを探しもとめているのである。

 

男の個性と女の個性

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執筆 : 
nakamura 2021-2-20 9:06

  今朝の毎日新聞に、「お母さん食堂」の名称についての論争がのっていた。反対派は女子高校生が筆頭になり、女に調理を押し付けている、という反対論だが、もういいかげんにしろよ、と言いたい。「お父さん食堂」より「お母さん食堂」の方が温みがあって良いではないか!

 紙面には賛否両論が出ているが、基本的には、性差に個性を認めるか?どうかである。反対派たちは男女の違いを認めず、すべてを同一にできると考えているのであろうか?体の構造からして差異があるのにそれを同一にしようなんて考えるのは無理であるし、多忙で調理の出来ない女に対して、社会は無責任だと言いはしない。

 差別はいけないが、男女のそれぞれの持ち分をわきまえないと社会は成立しない。今回のテーマ以前にあまりにもこんな例が多すぎる。男女の性差を認めるか?認めないか?それをはっきりさせないと堂々巡り、モグラ叩きに振り回されてしまう現代である。

自立を失った国民たち

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執筆 : 
nakamura 2021-2-11 10:46

  コロナ禍によってあぶりだされたものにはいろいろあるが、わたしの眼には自立を失った国民の姿である。民主主義体制であるから政府や行政に経済的な支援を求めるのはいいが、精神的な面まで求めている姿は情けないとしか言いようがない。

 コロナ禍と前後して、家庭内暴力やセクハラ、男女交際、自殺問題、認知症問題、個人的な悩みなどあらゆる難題を政府や行政に解決・支援をしてもらおうとしているのがわかった。その姿勢、時世はおかしいと考える。そのうち、自分の生き方や人生まで、どうしたら良いのか?と頼むようになるのではないか?自分でできそうなことは自分でやるのが民主主義であり、個人主義ではなかったのか?言論、思想、行動の自由を与えられているはずではなかったのか?それを放棄したのですか?と言いたい。

 幼児国民になっている?

 このような姿勢はますます権力の力を強め、苦労して手に入れた自由と個人主義を捨ててしまい、最終的には独裁国家を自ら国民がつくっていくことになるのである。中国がそれを待っているようだ。民主主義を手に入れるまで共同体は自らの力で出来る事は助け合って、やってきた。歴史をみればよくわかる。その姿勢は活気を生み、社会の力になっていたのである。

 ここで国民はもう一度、自立の精神に立ち返るべきである。

 やられたら、やり返せ、である。

負圧の力

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日記
執筆 : 
nakamura 2021-2-11 10:14

  週に二日ほど、大手スーパーで、買い物かごの整理のバイトをするようになった。三か月ほどたつが、意外な経験をした。84歳の先輩から、仕事がひまになったら、人に見つからないようにそこの客室で休んでいればよい、と言われ、それに従ってしまった。彼はそこでスマホのゲームをかくれて、やっていた。

 ところが自分のサボっている場面が、店次長に見つかってしまった。サボりを指摘され、謝ったが、それ以来、眼をつけられるようになった。名札がジャンパーの下に隠れていれば、不審者に思われるじゃないか!と、言われ、その時は不機嫌だったか、叫ぶような態度を見せた。申し訳ありません、気をつけます、と息子ほどの年齢の男に頭を下げた。自分の人生で年下の者に詫びたのは初めてで、もう、辞めようかと考えていた。つぎは、仕事が一段落ついて、商品の値段を見ている時であった。何をしているんですか?商品を眺めるのが仕事ですか?と背後から声をかけられ、ぞっとした。店内の監視カメラで監視されていたのであった。申し訳ありません、といいながら、辞める、という言葉が準備されていた。

 何度も謝まっていると、わたしもそんなことは言いたくなかった、辞められては困る、彼はと軟化してきたので、産直品を増やしてはどうですか?と、こちらもおだやかになった。退出の時、業務票に印鑑をもらいに行き、少し世間話をした。喧嘩っ早いはずの自分が低姿勢になり、機嫌を取るような口ぶりになっていた。不思議なことに、その状態に居心地の良さを感じ、正論をはいて闘うより、飼い犬のようにべたつくほうが楽だと考えていた。

 自分の負圧感を感じ、それが相手にも効果を与えたということであった。

 負圧とは車のキャブレターにも使われている技術で、マイナスの圧力によって相手を吸い込む力である。車が坂道などに出くわすと、負圧を生じさせて、濃い燃料を呼び込み、パワーアップさせるのである。

自分はそのうち、強い負圧をだしながら濃い燃料を呼び込み、爆発させるかもしれないが、その時のエネルギーはすごいものになるであろう。

 (勝つことばかり知りて負くることを知らざれば害その身に至る)

 とは徳川家康の言葉である。

 

 

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