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このホームページの趣旨は冒頭に書いているように、腹がへったらったらご飯食べに来ませんか?という簡単な言葉に集約される。が、およそ二十年間の活動を振り返ってみると、残念ながらその趣旨を達成できなかったことを認めざるを得ない。何をやってもダメだった東京生活をひきあげて帰郷し、いろんな団体に入った。労働組合、身体障がい者の会、日本共産党、俳句会、カラオケ会、年金者組合、キリスト教団体など渡り歩いたが、今に至るまで自分の考えにそったものには出会えなかった。
自分の考えとどこが食い違ったのか?ふりかえって考えてみると、どうやら、(共同体と個人主義)というテーマに落ち着きそうである。共同体のなれ合いと灰汁の強い個人主義は相いれないのである。
キリスト教団体では家族集会をやっていて、持ち回りで、家庭に招き、食事会を開いていて、それは、腹がへったらご飯食べに来ませんか?にもっとも近い形であった。が、貧乏人の私に多額の献金を強要したので脱退した。そこでみられたのは個人の生活より、組織の保全であり、どの団体でもそれが中心であるが、キリストはそんなことは認めておらず、貧しい者にはパンをあたえろ、と聖書にも書いている。
労働組合では、NHKとの団体交渉で管理職を攻撃していた。すると、組合の書記の若い男から、中村さん、そんな言い方はしないで部長のいうことを聞いて下さい、と大声で言われ、ショックを受けた。彼はそのことを反省することもなく、自分が退職してから、分会長になっており、上部団体の組合委員長の差し金であったことがいまではわかる。組合のいやらしさもじゅうぶんに知った。
・・・では受給額の格差が大きいので、生活困窮者を組織でたすけてはどうか?困りごと相談、不用品交換など日常生活に密着した活動をすべきではないか?入会を誘うより、会に入らせてくれ、と言われるような団体にすべきではないか?といったが、それは時期早々だと一蹴された。
どの会でも、期待外れの結果であった。
みな、私の考えとは相いれなかった。(行き場がなかったら、うちで居候でもしたら?)というようにはいかなかった。こんなわたしは、実は、利己主義で個人主義の強い男であり、誰からも相手にされず、はぐれ鳥になったのだろう。しかし、コロナ事変を契機にして利己主義・個人主義に疲れ、いやになっているのであるし、それは自分ばかりではなく他の人もそうではないか?と考える。ファシズムの北朝鮮が崩壊せず、ファシズムの中国共産党が世界一になりつるあるこの情勢はあきらかに、エーリッヒ・フロムの(自由からの逃走)であろう。
コロナ後の世界はコロナ汚染の国家対策に始まり、確実にファシズムの浸透を招きそうである。
日が暮れると、まず、酒のことを考える。ビールにしようか?焼酎か?ウイスキーか?と思うだけで幸福になる。ささやかな楽しみであるが、畑づくりをし、酒を飲めるなんて最高の幸せだと思う。
今日は二畝ほど耕し、草の根をとって、石灰、三八をまいて、ニンニクを植え、大根、ホウレンソウの種を播き、ネットをかけた。うまく芽がでるかどうかわからないが、楽しみである。ジャガイモは一か月前に植えている。
さて、コロナでの世界の死者が百万人を超えた。これは世界大戦なみの数値である。目にも見えない細菌がこれだけのことをするなんて、信じられない。だが、力は正義なのである。いま世界で一番強い者は誰か?と問えばまちがいなくコロナであろう。誰も立ち向かう事が出来ず、教会ではクラスターが発生し、集会も取りやめになっている。神は出番を失い、コロナに席をゆずったわけである。
コロナ教、をネットで調べたが、まだ、載っていない。
わたしはいずれ、コロナ教が産まれるだろうと予測している。聖書によれば、神が天地を想像したとあるが、コロナ元年と名付けられれば、創世記を真似て、コロナが陸や海やもろもろの生物をつくった、となるかもしれない。
わたしが二十代の頃、左翼運動が盛んな時代に、(危険な思想家)という本が出版されたことがあった。興味をそそられながらも、その本を手に取ることはなかったが、今はもしかするとこのブログに書いている記事が当てはまるのではないか?と気になって、ネットで調べてみたら、よくわかった。(ウイキペディアはよく書いてくれているので助かる。)そこには日本共産党も暴力革命をとなえ、危険な思想とみなされていたが政党になり、危険な思想から外された、とある。
今では、政党の手順を踏まなかった旧オーム真理教や新左翼の残党が指定されているであろう。
要するに民主主義の手順やルールにのっとって行動を起こすか、直接的かの違いに過ぎないのである。ゆるやかなのか、烈しいかの違いであるが、体制側の秩序に従うことは次第に骨抜きにされていく危険がある。他方、その方が国民を納得させる利点があるかもしれない。
次のようなことをここに書けば、危険な思想とみなされるであろうか?
産業革命以降の人類は発明発見にいそしみ、商業主義を発展させて、物質的な繁栄の中で生きるようになった。だが、それは自然破壊をもたらすことであった。資本主義体制の中で、生存の安泰、快楽と利便性を吹き込まれた人類は、そのベクトルの後を振り返ることなく、自然を搾取・破壊しながら、ついにコロナの出現を招いた。森林の中で生きていたコロナは人間の伐採によって追い出され、人間を餌にして生きるしかなくなった。
神は川や海や山や生き物を作り、人類が自然を管理して安楽の内に生きるように整えていたが、人類は(禁断の木の実を食べて)自然破壊をはじめ、神の教に背きだしたのである。神はコロナをサタンに変身させ、人類の破滅を命じたのではないか・・。
令和二年のこの年を、歴史家はなんと名付けるであろうか?と考えた時、体制側の彼らはまちがいなく令和二年と名付けるであろうが、わたしは、ちがう。まず、最初に、令和と言う文字の想起させるイメージがなんとなく冷たく権威的であったことから良い印象を抱かなかったこともあるが、心にうけいれにくく、馴染めなかった。その矢先、コロナ事変である。
これまでの人類の権威が蹴落とされたといっても過言ではない。科学、医学、政治、経済、教育、宗教、文化などすべての分野がコロナにひれ伏し、アイデンティティを失墜させられた。今、それらの分野でコロナを自分たちの業界の中でどのように位置づけるか?どのように受け入れるか?コロナが何を提起しているか?とらえきった者がいるだろうか?いはしない。ともかく、単なる病気の一種なのだから、政府の言うとうり三密をさけて、マスクをし、手を消毒しようという構えしかないのである。すっかり反体制精神を失ったというよりもとよりそんなものはなかったのである。
キリストの誕生が西暦0年だから、それを考えると、今はコロナ0年なのである。
聖書によれば、神は人間に、永遠の楽しい人生を与えるつもりであったが、最初の人類であるアダムは神の教えにそむき、食べてはいけない木の実を食べ、楽園から追放されたのである。蛇のように地面を這いずり回る試練を与えられた。それから二千年の後、コロナが訪れた。それは(ノアの洪水)のように生き延びる者と死ぬものとの選別・淘汰が行おうとしているのではないか?
実は、人類はコロナ元年を迎えて、歴史の折り返し点に立ったのである。世界は人間中心主義の頂点を極めてしまい、前にはもう進めない。人はちがう道を進むしかない。それは繁栄とは異なる方向を向いている。
毎日新聞が書いてるようにコロナ負債によって、国債の信用度はワンランク落ち、ランクを取り返せるかどうかわからず、国家破産がいつ来るかわからない、と書いている。信用度が無くなれば国債を買う者はいなくなる。
現代は自然界の競争原理を否定していることにも問題がある。階級制度はいけない、差異はいけない、差別はいけないといって均質原理を求め、差異や序列の起こすエネルギーをうしない、全体主義的な平等原理の歴史を作り始めた。街を歩けば、ほとんどの女が植毛眉毛とマスクで顔をつくり、素知らぬ顔で行き来している。笑顔もなければ歓びもない、マネキンたちである。阿部公房の小説・(他人の顔)なのである。
文化も滅びることになる。
新聞の人生相談に、つぎのことが載っていた。若い女性だが、どんな仕事についたら良いのかわからずぶらぶらしている。母親から、いつまでそんなことをしているのか?と責められて苦しい、という。わたしはある人に倣って、質問だけを読み、自分で答えを考えた。それから回答を見ると、さすがに高橋源一郎さんはていねいに彼の体験を持ち出して答えてくれている。感動した。
あんたはいったい何になりたかったんな!
三十年前、叔父が生きている頃、わたしによく、言い、俺の血筋から集金人が出たのは初めてばい、と私の仕事を非難した。彼は県庁の課長補佐でありながら、わたしの就職の世話を一度もしたことがなかった。
わたしはNHKの仕事ができると、喜んでいたのに水をかけられたのだ。今でも叔父を恨んでいる。
自分が何になりたいと考えて、職に就ける人間が何パーセントいるだろうか?学校の授業ばかりさせられて社会を知らないのに何になりたいと決められるのだろうか?
わたしは自動車の組み立て工、土方、集金人などをしながら、社会や人間を学ぼうという意欲は強かったので、それらの職業についたことを決して後悔はしていない。出世コースを歩んだ者以上に社会や人間を知っており、小説に書こうと考えていた。結局、自称・作家で終わるであろうが、玉石混交の体験は夢の中で夜空の星のように散りばめられて、よみがえり、つきることはない。
今なら、叔父にこたえられる。
おれは世の中の探検をしたかったのだ。73年間、飽きるほどした、文句があるか?
昨日、街中の信号を渡る時、ほとんどの人がマスクをしていることに気づいた。コロナ事変の時代である。店に入る時も人と話をするときもマスクをすることが当たり前になっているが、そのうち家の中でもマスクをするようになるのではないか?自分などは一人住まいだからすることはないが。
おしゃべりをしない歌を歌わない笑顔の白い歯を見せない、そんな時代になった。仮面の時代である。童謡(歌を忘れたカナリア)を思い出すが、歌の中では歌を忘れたカナリアは、山に捨てられる運命が待っているのである。人間たちも非接触を長く続けると地球から捨てられる運命が待っているかもしれない。
カラオケ店も閉鎖されカラオケ練習会もなくなり、自分は歌を歌うことがなくなった。生来ドモリのうえ、言葉も出にくくなった。それに人々はソーシャルメディアなどでの言葉にすごく神経質になり、生贄を待ち望むようになった。軽々しくしゃべれなくなった。差別だセクハラだパワハラだと騒がれて血祭りにされ、仕事や地位を失うことはふつうになった。
感情を出せない、言葉を出せない、笑いや大声もつつしまねばならない、そんな時代であるから、(昭和)と言う時代がすごく輝いて思い出される。当時、街の広場からはフォークソングのギターが聞こえ、公園ではアベックが抱き合い、酔っ払いが酔いつぶれ、若者の殴り合いや叫びが起こり、デモ行進がはじまり、アジ演説がはじまり、騒乱の熱気がうずまいていた。
もうそんな時代に戻ることはありえない。はるか昔に遠ざかって行くだけである・・。
(内向の世代)という言葉がその頃、はやったが、今はコロナ事変を深く考え、内向して、マスクの奥にこれまでとはちがう方向性を持って、真理を求める時代ではないか?
菅氏が総理大臣になり、実像がマスコミのライトに明々と照らされるにつれ、政界や有名人たちに関心のないわたしも新聞の紙面に食い入るようになった。法政大学卒ということは知っていたが、自分より一歳下であり、剛柔流空手部の副将をしていたことを知って、ネットを検索して調べた結果、彼は体育系空手部で自分は同好会の沖縄空手道剛柔会であったことがわかった。体育系は大学公認で、比較的穏健で、剛柔会はハングレ集団みたいな組織で、無抵抗な自分のみぞおちを十回も殴って失神させた過去は決して忘れはしない。
そんな大学にしか入れなかった自分への嫌悪感が強かった。大学は新左翼の騒乱場と化し、卒論もレポート提出で、卒業式にも出ず、卒業通知も来なかった。就職もせず、臨時工で食いつなぎ、無頼漢のような生活を送った。
他方、菅総理である。東北の高校を卒業し、集団就職で上京した。二年間働いて金をため、政治家を志望して自分と同じ法学部へ入った。(安保反対!国会解散!)の怒涛が渦巻く大学で、その攻撃対象である自民党へ進む道を選んだのである。新左翼の考えにどのように反応したのかわからないが、菅氏の父親は町議をつとめた人なのでなんらかの意見は聞いていたかもしれない。自分は半ば新左翼に共感していて、父親は日教組に入っていて、いつも政権批判をしていた。
ほぼ同期の二人であるが、菅氏は頂点に立ち、自分は、ホームレスみたいやない?と言われた老人である。好対照であろうが、自分は菅氏の人生に劣っているとは考えない。
俺には俺の人生がある、のだ。
明け方に、夢を見た。自分はNHK営業に再雇用され、事務所で営業職員と仕事の打合せをしていた。その職員は四十年前にいた男であったので、顔も憶えていたが、なぜ夢の中に再登場したかはわからない。おとなしく優しそうな顔だった印象しかない。男の姿が消えたので、戸外に出るとそこは借家風の小さな家が点在している地域であった。四十年前、福岡市南区花畑を訪れ、ドアを叩いて回ったのであった。小さな花壇につつましい花が咲いていた。夢の中で、団地の端っこに行くと、なんとそこから先は絶壁になっていて、下が見えないほど高い位置であった。
二十三年間、集金人として働いたが、精神や体を壊した仲間は多く、自分がかかった心筋梗塞が多かった。ストレスの強い仕事で、客との言い合いになり、警察が呼ばれたことは三度、あった。いろんな職業の中で警察が呼ばれるものなんてあるだろうか?
じつは三日前に、集金人をしていた頃の仲間とぐうぜん会っていた。一時間ほどの立ち話であったが、十年前と同じく、元気そうであった。あの頃は、中村さんが一番の古株だったけど、ぼくが二十六年間勤務して、一番古くなりました、と笑顔で言った。百四十人いた仲間は減って、三十三人になりました、と付け加えた。自分はその数に多くの犠牲者の痛みを知った。自分が辞める頃から、NHkの搾取、締め付けはますますきびしくなっていた。集金人の与えられた地域を不動産屋にまかせたり派遣会社にまかせたり、わたしたちのの仕事を取り上げ、そのくせ、ノルマと首切りはきちんと残したのであった。数千億の利益になった。
その間、彼は労組にもはいらず、仕事上のトラブルもなく、成績もトップで、いつも笑顔をとおしてきた。わたしにとって別人種であった。トラブルが多く、成績はトップだが、団交の場で管理職を攻撃していた自分とは大違いであった。
彼はポケットからスマフォを取り出し、女の子の写真を自分に見せた。孫です、と嬉しそうに言い、自分には孫はいないこともあって、無感動な目線で眺めていた。金がたまったろう?と言うと、いろいろ出費が多くて、と言ったが、数千万円の貯金はあるはずであった。
自分は米ぬかをとって、産直店に出してる、と言うと、どこから?と訊いて来たので、そこからさっきとった、と目でさした。コイン精米所のヌカ取り場であった。自分の着た作業服はヌカにまみれていた。
改元の春に入り、コロナ事変が起こり、それから豪雨の被害、熱中症の猛暑、史上最大の台風、と休む間もなく災難がつづいた。が、何が何だかわからないうちに、秋風がよせ、鈴虫が鳴き、風呂に入ると湯の温みがせつなく感じられるようになった。自然は季節の変化をまだ忘れてはいない、それは有難いことだ。それらを振り返って見ればあきらかに自然の警告をみてとれるが、世の中はいかにコロナ前の経済に復帰するかにばかり目が向いて、のど元過ぎれば熱さを忘れる、状況である。
来年もまた、同じような厄難が起こるであろうが、つぎはどんな事変がおこるかわからないし、どのように備えればいいのかわかりはしない。
七十三歳の自分はまだ生きている。飽きもせずにしぶといやつだなと思いながらも、午前四時になると目が覚め、産直店に出すクリやトマトの包装をし、バイクで走る・・。いつかは倒れて大型トラックにはねられるだろう、と不安になりながらも生活スタイルは変わらない。
走り、走りつづけよう・・、倒れる日がくるまで。
昨日は、台風十号で倒されていたアイコちゃんの体を立て直してやった。支えが悪く、そのうえ、茎を十本も植えていたので苦労した。やはりトマトは、強い竹でやぐらを組むべきであった。一本に百個以上の子どもたちを産んでくれたので、売れた金で私の命を支えてくれた、と感謝し、伸び放題であった髪をかってあげた。だいぶ、すっきりしたが,それでも脇芽をきちんと手入れしなかったことを反省した。
そんな作業をしながら、じつはお前を今朝、嫁に出す決心をしていたのだ。九個の姉妹たちが嫁ぎ、お前だけを残していたのは、カラスにおまえを供えに出し、畑地に種をばらまかせて、来年、芽をださせることを考えていたのであったが、カラスたちは大声をあげるだけでお前を見つけず、飛び回っていた。
栗四パック、アイコちゃん二パック、シソを七袋包み終えると、また、畑に出て、お前の首を切ったのであった。畑地で、腐れたままになるお前を見るにしのびなかったのだ。お前の体は大きくならず、中くらいで顔も綺麗な丸顔ではなく、少し不格好であった。が、さもしいおれは値段を踏もうとしていた。七百円、と決め、たらいの水に入れて体を洗い、すべすべした肌と別れを惜しんだ。タオルケットに包み、拭いてやった。
厚地の手提げ袋にお前を入れ、片手に抱いて、バイクの箱に入れる時、おれはふと、思い返して、お前をまた出してやった。畑を見納めにさせようと、おまえの顔をスイカ畑に向けた。そばで向日葵の葉にとまったアゲハチョウが羽を閉じたり開いたりして、おまえを見送ろうとし、コオロギたちがそぞろに鳴いて、別れを惜しんでいた。
もうお前はこの畑に帰ってくることはないだろう、見納めだ・・。
夜明けの空に向かってバイクは走った。後部席のおまえの体は大丈夫か?と、心配になったが、バイクは俺の助手のように毎日働いてくれる。すでに走行距離は十万キロに近いのに、最近は三年間もパンクせず、俺の生活を支えてくれる家族の一員だ。
北九州に向かう国道三号線は、工場に荷物を運ぶ大型トラックが多い。その風圧で橋の欄干に押しやられようとして、体を踏ん張った。路面が荒くてバイクは揺れ、自分の加齢が加わって倒れるのではないか?といつも不安になる。出荷先のスーパーマーケットまで十キロはある。
丸いままのスイカはほとんで店頭になく、カットのものでも四百円で売っている。棚の上におまえをのせて、六百円にしようか?迷いながら、七百円の荷札をはって、店を出た。十二時には結果がメールでくるはずだ。
正午に、売れた、というメールが入った。
今頃は子供たちに囲まれ、おいしく食べられているだろう・・。
せめて、体にしめ縄でも巻いてやれば良かったのに・・。