ブログ - 20240722のエントリ
昨日の日曜日は、日曜礼拝で、この文句の説教があった。
自称小説家のわたしは、(コリントの信徒への手紙3・4・11)にある聖書のこの言葉を聞いて思い当たることがあった。言葉というものの不思議さとその力である。小説作品のその場面でどんな言葉を出すかはむずかしくてやりがいがあり、的確な言葉が出ると満足し、不適格の言葉しか出ないときは自信を失う。プロの作家もそうであろう。最近の小説は単行本にするのにページ数を要求されるせいか無駄な言葉や安易な表現が多すぎる。それでは作家は大量活字生産者になってしまう。なってしまっているかもしれない。消すことによって書く、と習ったわたしには書き込み過ぎることによってますます臨場感から遠ざかってしまうことがわかる。
例えばセクハラだとかパワハラだとか発達障害とかの俗語で形容したとすれば、その場面やキャラクターはその言葉に閉じ込められて殺されてしまうのである。文学作品ではなく、単なる俗文になってしまう。聖書のその部分は伝道で使う言葉が人々を神から引き離すことになったと述べている。
言葉は道具であり、本心を現せないから、霊の世界に戻るべきだといっている。言葉になる前は想いいであり感情であり夢・希望であったものが言葉に変えられたことで本質を失うのである。異言や聖霊が消されていくのである。
だが?と考えた。
日本古来からある言霊はなんであったのだろうyか?
言葉に霊が宿り、信仰にまでなっているのである。ふしぎなことである。これからその謎を勉強しようと思う。