ブログ - 202406のエントリ
先日、大手スーパーに仕事で入ると、もうこんな時間から仕事ですか?と若手従業員が声をかけてきたので、家にいると熱いからね、ここはエアコンが入っているから涼しいんよ、とこたえてやった。えーまさかエアコンがないわけじゃないでしょう?、金がないから買えないし、なくても扇風機でじゅうぶん、と答えてやると不思議と言うより不審な顔を浮かべた。
そのことを思い出してこの日記を書いているが、この二、三日、閲覧者数が日に二千件ほどにもなっておどろき、死んだが勝ち、というこの前のブログが人気になったのか?と考えながら、レア・変人の考えに精を出している。
どこに行ってもエアコンがはいっており、もしなければ犯罪者に近い迫害を受けそうな気がする、変な時代であると言う考えは出ず、、ファシズム的な時代である。異端たちは追いつめられて破壊衝動に駆られるのは当然であろう。それはエアコンだけの分野にとどまらず農薬使用など限りない分野にまたがっている。文明病なのである。
五十年ほど前、エアコンがなかった時代、その頃は運動場で子どもが日射病にかかって数人倒れたというニースはでていたが、今の時代は熱中症で倒れ、救急車の搬送が間に合わない、数十人が死んでしまうのである。
わたしは大手スーパーで三時間、一万歩、歩きっぱなしの労働をしているが、休みの日は草刈り機で刈らないと家が草で埋まってしまうのである。近頃は膝を大事にしなければ歩けなくなると考えて、ニ、三時間の労働で済ませているが、汗まみれになり首タオルはびっしょりになる。
それでも熱中症にかかったことは一度もないし、スポーツ選手や戸外労働者がかかったと言う話も聞いたことがない。エアコンの生活をしていると、交感神経・副交感神経の働きが鈍くなり、体温調節が出来なくなって熱中症にかかるのである。だが、なぜそのことを訴えて、エアコンの使い過ぎに気を付けましょうという注意をだして防ごうとしないのであろうか?電力の使いすぎにもなっているではないか?
政治の公約にも出す政治家もいないし、政治家はどんな公約を出せば当選するのか?としか考えていないようである。だからこんなj国ができてしまう。
ひと夏エアコンのない生活で、扇風機だけですごしてみませんか?快適ですよ。たまには手・扇風機→団扇を使ってみましょう!
週に一度、要介護者の家に弁当を配っている。昨日、仕事前に仲間たちと雑談をしていたら、妻の母が癌で死にかけているが世話が大変で本人も苦しんでいると言う。慰めたり助言をしたりしていたが、わたしは、死んだが勝ち、という言葉が口を突いて出た。するとまわりは黙り込みながら、一理はある、という雰囲気になった。
二十年前、宗像市の自由が丘団地を集金で回っている時、その言葉をいつも出していた老婆がいたが、すでにその人は勝ち組に入って、もうしめたものだとほくそ笑んでいるであろう。自分はあの頃は仕事もバリバリやって金を稼いでいたが、今は生活保護受給寸前の生活になってしまった。足が痛み、歩けなくなるのではないか?という不安がいつもある。
国政の選挙、都知事選挙、アメリカ大統領選挙と目白押しであるが、安楽死のことはタブーであるから誰も言わない。本当の政治家であればいうはずであるが、ブローカーたちにとっては禁句なのである。
特に日本人は戦争にやられて以来、絶対に死を認めなくなった。死そのものさえその必然性、存在すら認めようとはしない。昔は死んだが勝ちという言葉はほぼ日常的に使われ、そこに救いを見出してもいたのである。死は生まれ変わるためにも必要なのである。聖書にも、一粒の麦、と言う言葉があり、死を肯定している。これは死は神からの罰であると言う考えと矛盾するのであるが、言葉はそのまま残している。
特に死を待っている自分などにとっては、いつどのようにして死ぬのかわからないこともあって、切実なテーマである。死に対して決着をつけてくれる人が出てくるのを待ち望んでいるのは自分だけではない。本当の政治家が現れて、実現してほしい。
もう一つは少子化の問題である。妊娠したり子を産んでも育てる自信のない人の子は国や行政がひきとって育てるべきである。そうすれば堕胎も減り、人口減少に役立つはずである。
本当のことを言う政治家がうまれて欲しい。
昨日は宗像市の産直店に行って、もみがらとヌカを五袋づつ置いて来た。三百円で出していたものを四百円にしたせいか売れ行きが悪くなっているが、月に二万円ほどの貴重な収入源である。それから、そばのカラオケボックスに行って歌って、来た。自分の住む街にはカラオケ店が消えてしまい、淋しいばかりである。恋人よ、天空の城、北の浜唄、を歌い録音して聞いた。恋人よ、は自分の持ち歌にして、発表会で歌って挑戦してみようと考えているが、ともかく歌いにくく、いつも自分の力を作り上げる気持ちである。帰宅して、草刈りを一時間ほどして、入浴、夕食をとった。
今日の明け方、夢を見た。いつものように夢の中でNHKの集金業務にはげんだわけである。福津の住宅街でたずねたあのおばさんに会って来た。主人の暴力から逃げて、その家に住んでいた人で、主人は特攻隊員であったが、戦後のそのころまで覚醒剤を打ち、暴力をふるったと言う驚くべきことを話してくれた。テレビはその時にはなかったが、まだテレビは買っていません、と何度も、NHKに電話を入れてくれた。
テレビを買ったので契約しますと、電話があったその日、行った。
手続きが終わると、あなたは腰痛があると言っているから、お灸をしてあげましょうか?と言い、布団を敷いてくれたのであった。時間を食いそうだったので、お礼を言って、帰り、受信料は口座払いになってしまった。行く理由がなくなったが、気になっていた。あの時、もし、布団の上に横になって、彼女が体を寄せてきたら?どうなったか?
それが気になっていたが、そのうち忘れてしまったが、主人が特攻隊員で暴力をふるったとか、お灸をしてあげましょうか?と言う言葉は絶対忘れなかった。
振り返って見ると人生の半分以上は夢の中にいることがわかる。
こんな短歌をつくってみた。
紋白やまつわりながら花めぐり草の臥所に月夜こぼるる
人間の不幸は、不幸はいけないことだと考えていることから生じている。不幸でも良い!と考えられれば不幸はなくなるのである。警察に逮捕された重大犯罪者でも、平然としている者がいて、それが不幸だと認識するのは見ている者が不幸だと思うからにすぎない。当人の心内の反映なのである。それは現象学からも導かれるし、ほとんどの人は世間の価値基準に支配されているにすぎない。
かくいう自分の現状は、誰が見ても不幸であるし、自分がそれに支配されていると気づく余裕はないことが多い。だが、一歩振り向いて、冷静にみれば不幸でもないことに気づく。妻子が去って独りぼっち、国民年金と月に五万円ほどのアルバイトで食いつないでいる老男が幸福であってはならないのである。
が、最低限の金で生きている。生きていることはまちがいないのである。
(恐怖の報酬)という外国映画があったが、ポンコツ車を運転して、ただでもらうもみ殻やヌカを運ぶときはいつもその映画を思い出す。走行距離が十万キロを超えるとタイミングベルトが切れても保証はしません、とメーカーが言い、その車のハンドルを握って道路を走っているのである。タイミングベルトが切れて走行中に突然止まったらどうなるか?考えただけでも震えるのであるが、交換する金の五万円がないのである。(恐怖の報酬)はニトログリセリンを積んで砂漠を走る映画であったが、それに近い恐怖である。
だが、最近は、どうなってもいいや・・・、と言う考えが湧き、少し鈍感になって来た。そして、そのうち、車が道路の真ん中で立ち往生するかもしれないが・・・。
五万円の金が入って修理をしたとしても、今度はちがう悩みが生じるに違いない。堂々巡りに過ぎないのである。神よ、我に不幸を与えたまえ!