ブログ - 20240414のエントリ
その若い男性とはある会で知り合い、友人にも近い関係になっていたが、身内というほどのものではない。近頃、彼はその会に何か月も姿を見せないので、電話を入れると、ウツになっていると言い、わたしもウツ気味のことが多いので、アドバイスをしてあげた。すると、これから家に行きますけどと言い、自分も話し相手が欲しかったので、いいよ、というと、何か食べるものありますか?と聞いてきたので、カレーの残りならあるとこたえてやった。
かれは家に来ると、わたしのつくったものを食べ、お代わりをする。それは嬉しいことであるが、食べるものはないか?と聞かれると、少し、踏み込み過ぎではないか?と思った。手土産を持って来たことは一度もない。
だが・・・?と思い返した。このHPの冒頭に、腹が減ったらご飯を食べききませんか?とうたっているではないか?空腹の者に食べ物を与えることは自分も食べたことと同じ満足感がでるのではないか?そうして、空腹の者に一般人がお裾分けをする社会が出来れば素晴らしいことではないのか?
そんなことを考えていた自分は初心を忘れていたのであった。
また、考えた。すべての住人が善意者になったとしたら、社会はどうなるか?幸福な社会になることは間違いないが、同時にその善意を狙って悪が入ってくる。そして、結果的に善意は破壊されてしまうのではないか?それとも善意者達が善意を守っていくだろうか?ウクライナ戦争をみればわかるように力の対決である。(力は正義なり)である。
今日は日曜礼拝にい行く。キリスト教は、神がすべての生命を作り、繁栄するようにしている、という部分ではすごく共感しているが、それ以外の部分では理解できないこともあるし信者達が困った場合にどんな行動をするか?にも興味があるのである。まわりがすべて信者になったらどうなるか?にも興味がある。だから、わたしにとっては観察と研究の対象でもある・・・。