ブログ - 202404のエントリ
今から四十年前、わたしは東京で遊学生活を送っていた。大学を卒業したみたいであったが、定職にはつかず臨時の肉体労働で飯を食っていた。アパ-ト住まいをしていたが、隣家の主婦が、あなたのお母さんの顔を見たい、と言い、言葉通りのことだと考えていたら、大学を出てそんな生活をしていることへの批判だったのである。
ろくでもない大学にしか入れなかったことで、入学式にも卒業式にも出なかった。
アパ-ト住まいを始めた頃、二人の女と関係が出来てしまった。隣家の主婦はそのことでも私を軽蔑していたのであろうが、それは隣部屋に越して来た女ともう一人であった。関係はつづき、そのうち、二人の女がほぼ同時に生理がなくなったといい、わたしが唖然としていると、妊娠したみたいだと言い、また唖然としたのであった。けっきょく、想像妊娠みたいであったが、わたしは不妊期間を計算していたので妊娠するはずはないと考えていた。
そこでイエスの話になる。マリアはヨゼフと結婚するが、性行為はしなかった。彼女は原罪のことはしっており、人間の子は罪深いので避けたのである。純粋な神の子が欲しいと考えながら、想像の中で妊娠したのではあるまいか?聖書には聖霊を通して神がマリアの体内に入ったとある。
医学的にはありえないことであるが、宗教の世界はちがう宇宙、多次元宇宙の中の一つだと考えるので納得はいく。神話の世界は現実をなぞるような部分があるので興味がつきない。やがて、科学と神話・メタフィが一致していくであろう。
今回の猫騒動はIさんが、通りがかりに声をかけてくれたのが原因であった。ーお宅の屋敷に三毛猫がうろうろしてたけど、この前、見たら大きかったお腹が小さくなっていた。家のどこかでこ子供をうんでるんじゃない?
その言葉に、二人で倉庫の床下など探したが、見つからなかった。すると、ある時、農具を入れてる小屋の中に三匹の子猫がいたのであった。驚いた。猫は大好きであったが、飼うとなると世話をしたり避妊をしたりで面倒なことが起こるし、自分が入院などしたら一人住まいなので面倒をみる者がいない。
そこでキリスト教会、カラオケ同好会、配食の会などで飼ってくれる人を探したが見つからなかった。すると、昨日、カラオケ同好会で欲しいというNさんが現れた。ところが、子猫は最初に声をかけてくれたIさんが引き取っていたのであった。そこで、たくさんの猫を飼っているMさンに、子猫が欲しいと言う人がいるとメールすると、車で四匹の子猫を持って来てくれた。彼の奥さんは猫好きで十匹も飼っていたのであった。猫を欲しがっていたNさんも連絡していたので、めでたくお見合いの場が成立した。二匹持っていけば良い!と言ったが主人が一匹で良い、と言っているといって、一匹しか持ちかえらなかった。産まれて三週間の子猫は眼があいたばかりですごくかわいくて、何度も抱きしめてやったが、残念ながら自分は飼えない。
ところが、Mさんからメールが入って、Nさんが子猫を返しに来たという。びっくりして、メールで聞くと子猫がミルクを飲まないので、死んでしまうからいったん返すということであった。Nさんからも電話があって、その事情を話してくれた。実の母猫の乳でないと、子猫の免疫力が落ちてしまうというのであった。残念だと思ったが、子猫が乳離れしたころにもらえばいい、と二人は決断した。
そこで、不思議なことに思いついた。人でも野生動物でも乳母が変わっても乳を飲むではないか?猫はなぜ、飲まないか?という疑問であった。自分を産んだ母しか信じていないのではないか?DNAでも傍系より直系の方が強い。血は水より濃いいということである。
子猫の表情や仕草は人間が失った純粋さを留めている・・。神のように感じるのは自分だけであろうか?
もし、つれ合いができたら、彼女と一緒に猫を飼いたい・・・。
これは東京で大学生活を送っていた頃、友人がつぶやいた言葉であり、今でも記憶に残っている。貧乏学生が慰めのために使った言葉でもあろう。
今日の朝食はさきほど食べた。肉まんを二個、食べたのだが、蒸し器で蒸してたべたのですごく美味しかった。こんな時は神に手を合わせてしまう。生活困窮者の生き方をしているが、考えてみれば、庭で新鮮な野菜もそして山では竹の子も取れるのでグルメの生活を送っている。
NHKの集金をしていた頃は、弁当や外食が多く、ゆっくりとは食べれなかった思い出がある。だいたい、公園で弁当を食べていたが、仕事が忙しく、午後6時から8時ころまでは食べる時間がなかった。次から次に行かなければならない所が待っていて、バイクで走りながら食材が脳裏に浮かぶことがあった。それでも仕事を続けていると、空腹感が胃を責めてくる。はやく食べ物をくれ!と、叫びはじめ、コンビニなどに通りかかると、弁当に手を伸ばそうとしている自分がわかるのである。あと、三十分で食べれる、と胃にいい聞かせながら、九時ころには帰宅し、飯を食べるのだが、その美味しさは何を食べたかわからないほどの味であった。まさに、空腹が最大の味覚を作ったのであった。
年金とアルバイトの生活に入った今、陽が暮れ始めると、胃が酒を求め始める。まず、安ウイスキーをコップに半分ほど胃に与え、ピーナツをかじり、ほろ酔いかげんで夕食の支度を始める。鶏肉と竹の子を煮付けて、食べ始める。
酔いと満腹感が出、そのまま布団の中にもぐりこむこともある。夜中に目ざめ、空想にひたり、また寝ることもある。
(憩いの里)というこの町の公共施設で日本舞踊をみているときであった。客席から浴衣姿の男が立ち上がり、舞台に上がっていくではないか?変な男だな!と思っていると、かれはよたよたと動いて踊るような仕草をはじめたのであった。酔客が即興をはじめたと考えたが、すっかり酩酊しているようであった。ふらふらとしながら、倒れんばかりに踊っていた。
じゅうぶんに踊ったのだろう?と考えていると、男は舞台の袖口から楽屋裏に消えた。・・役者だったのである。
今のおれはそんな生活をしているのかもしれない。老い先がチビた鉛筆のように短くなり、夢も希望も縁が薄くなってしまった。まもなく、舞台の袖口からどこかへ消えそうである。楽屋裏では何が待っているのだろうか?
十年くらい前のことだったと思うが、近所の小川のそばを散歩していた。そこの下流ではシジミがとれ、小鳥が飛び、土手には白水仙が咲く、のどかなところであった。カメラを持って被写体をさがしていると、気になる川の流れに出会った。城山からにじみ出た清流がうねって流れるふつうの光景であったが、川の端っこでおかしな動きがあった。そこでは水が堰き止められて迂回して、さかのぼり、また戻り、ゆっくりと回っているのであった。
(方丈記)の書き出しを思い出した。(ゆく川の流れは絶えずして、しかもとの水にあらず・・・)とその文言を反芻しながら、自分の辿って来た人生を見返して、いや、ちがう!と考えたのである。川の流れの構造・仕組みは同じである。山の水脈から重力の法則に従って低い所に流れ込み、海へ向かって集まって流れる、のである。
だがそれは同じ水ではないか?
自分の人生を余命をひかえた今、ふりかえってみる。飢えることなく税金も払い、生きて来た。結婚し、二人の子供とは疎遠であるがなんとか育ててきた。
事件に発展することのなかったトラブルも残し、いまだに尾を引いているのもある。
小学校の頃、こんなおれが生きていけるのかな?と、一人帰り道で悩んだこともあった。東京に遊学し、バイトをし、女と付き合い、部活でリンチを受け、学生運動の嵐に揉まれ、定職につけず、帰郷してNHKの集金人になり、心筋梗塞をおこして、やめ、今、少ない国民年金とアルバイトで食いつないでいる。
そんな自分は小学校の頃と同じようにまだ悩みを持ち、生末に不安を抱いていて、その頃の自分なのである。回遊しているだけである。ゆく川の流れはたえずして、しかし、もとの水なのである。
動的平衡の世界であり、同じものが同じ場所を、動き続け、同じ場所にとどまっているだけである。死んでもその動きを慣性でつづけるだろう。
昨日、竹の子を茹でるための廃材を農小屋に探している時であった。以前、小屋は母が四人の人たちに畑をつくってもらっていたので四個あったが、その一番小さい小屋の中を覗いていたら、暗い中に顔見知りの三毛猫がいて、驚いてとびだして来た。肩を激しく、小屋にぶつけて出て行った。すると、そこに三、四匹の子猫がいて、おれの顔をしずかに見ているではないか・・・。
おどろいた!
時々、倉庫のそばに食べ残しをおいてやったが、ここを居所にしていたのか?ここは見つかりにくいから移ってて来たのかもしれない・・・、考えながらどうしようか?と迷った。例の野良猫支援をしている主婦に頼もうか?と考えたが、まず町役場に電話を入れた。猫犬係の男が出たが、いともあっさり、町では関わっていませんと言う。昔は野良犬を捕獲したりしていたが難しくなってやめたに違いない。
それから、弁当配りのバイトをしながら、どうしようか?と考え、仕事仲間にも相談したが、放置するしかないと決めるしかなかった。エサもやらない方が良い。食べ物は蛙とかコオロギとかネズミ、モグラくらいしかいないが、餌をやって増えすぎると困る。
猫を飼いたい、と思っていたおれは豹変し、見るのも苦痛になっていることがわかった。
飼おうとすれば病害虫の駆除、避妊手術など金がかかり過ぎる。それでなくとも自分が飯を食うだけで精いっぱいなのである。
やはり、野生のままに生きさせるしかない・・・。
今日の朝、農小屋には桜が舞っているいるのが見えた。あれから、母猫はどうしたかな・・・?人間なら御目出度いことのはずであるが、子猫たちに楽な人生は待っていない・・・。
先日、門扉のそばのインターホンが鳴った。部屋を出て、行ってみると、見知らぬ主婦が立っていて、しゃべり始めた。ーお宅の屋敷のまわりで三毛猫をよく見かけたけど、最近、見なくなった。この前見たら、お腹が大きかったけど、次はお腹が小さくなっていたのでどこかで子を産んだのではないか?もしかしたら、この家のどこかで産んでいるかもしれない。引き取ってやらないと死んでしまうかもしれない。わたしは保護猫の活動をしている、と言った。
わたしは少し驚いて、自分もその猫を時どき見かけて、魚の骨などあげたりしていたが、そう言えば最近は見ないし、ここで子どもを生まれたら面倒なことになるとこたえた。
主婦は私たちは野良猫を見つけたら避妊をして返すようにしているとも言い、彼女が近所の知り合いの奥さんであることもわかった。
わたしは猫は大好きで、ユーチューブでいつも見ていて飼いたいと思いながら面倒をみる自信がなくて、実行には至らない。
食べ物の残りを与えるくらいで良いかな?と思いながらその三毛猫が子供をぞろぞろ連れてきたらどうあするか?と考えてしまう。
だが、待てよ!猫の避妊を人間が勝手にしても良いのか?ヒットラーの時代に断種法と言うのがあって、人間の劣等種が去勢されたことがあった。今でもそのことが問題視されているではないか?猫と言えども生き物である。それに人が手を加えて良いのか?
猫たちがこのことを知ったら、すごく怒るに違いない。
ジョージオーエルの小説(動物農場)を読めばそんな出来事が小説化されて面白そうである。果たして猫の気持ちはどうか?人間に飼いならされて生きる道を選ぶか?野良や野生の道を選ぶか?である。
その若い男性とはある会で知り合い、友人にも近い関係になっていたが、身内というほどのものではない。近頃、彼はその会に何か月も姿を見せないので、電話を入れると、ウツになっていると言い、わたしもウツ気味のことが多いので、アドバイスをしてあげた。すると、これから家に行きますけどと言い、自分も話し相手が欲しかったので、いいよ、というと、何か食べるものありますか?と聞いてきたので、カレーの残りならあるとこたえてやった。
かれは家に来ると、わたしのつくったものを食べ、お代わりをする。それは嬉しいことであるが、食べるものはないか?と聞かれると、少し、踏み込み過ぎではないか?と思った。手土産を持って来たことは一度もない。
だが・・・?と思い返した。このHPの冒頭に、腹が減ったらご飯を食べききませんか?とうたっているではないか?空腹の者に食べ物を与えることは自分も食べたことと同じ満足感がでるのではないか?そうして、空腹の者に一般人がお裾分けをする社会が出来れば素晴らしいことではないのか?
そんなことを考えていた自分は初心を忘れていたのであった。
また、考えた。すべての住人が善意者になったとしたら、社会はどうなるか?幸福な社会になることは間違いないが、同時にその善意を狙って悪が入ってくる。そして、結果的に善意は破壊されてしまうのではないか?それとも善意者達が善意を守っていくだろうか?ウクライナ戦争をみればわかるように力の対決である。(力は正義なり)である。
今日は日曜礼拝にい行く。キリスト教は、神がすべての生命を作り、繁栄するようにしている、という部分ではすごく共感しているが、それ以外の部分では理解できないこともあるし信者達が困った場合にどんな行動をするか?にも興味があるのである。まわりがすべて信者になったらどうなるか?にも興味がある。だから、わたしにとっては観察と研究の対象でもある・・・。
今日のヤフーのニュースに、刑務所の中学校に入学、と言う記事が出ていた。ほう、教育業界も少しは、変りはじめたな?と思った。自分の人生を振り返ると、小学校から受験奴隷にされ、大人になってからもいつまでも進路が決まらず、うちの家系から集金人が出た!と叔父からいわれながら、何とか働いて一生を終えようとしている。
名門と呼ばれる進学高校に入りながら、担任と進路について話し合ったことなど一度もなく、二次志望大学に落ちた時には自殺をはかろうともまで考えた。教育行政にはただ恨みしかなく、今では実態が見えてくる。教育とは教育関係者たちの生活の糧にしか過ぎないのである。受験や就職のレールを作り、その仕事で飯を食う、業界なのである。教育とは本来、生きるkとを教え学ぶ学問ではないのか?
刑務所の中学校に入学、の記事で学校をもっと民営化して欲しい。退職した老人でももう一度勉強したいと考えれば、小学校でも高校でも入学できるようにすればいいじゃないか?若者たちの非行はすべて教育に原因があるといっても過言ではない。自分の生き方や進路が見えてくれば非行に走ることなどないはずである。変わっている若者が入れば、変っていることは素晴らしいことだと自覚させ、その方向を教えてやれば良いことではないか?
レア学校、が出来ることを祈っている。
このタイトルは、(男らしさ・女らしさ)としていたが、差別感を感じて、逆にした。それでも、フェミニストたちは(男らしさ・女らしさ)という言葉自体に反感をおぼえるであろう。それを突き詰めていけば、(男)や(女)の本質を捨てることになるのではのではないか?と、考えてしまう。
基本的に男と女は共通項もたくさんあるが、差異もあるのであり、それをもって違いがないとは言えないし、そのように言えば無理が生じてしまう。まず、肉体的な差異があり、精神的な差異がある。能動的、受動的という言葉で置き換えてみれば日常的な部分で理解出来るはずであるし、能動的が良くて、受動的が悪いと言うわけではない。物理学でも正圧、負圧という言葉を使うではないか?近頃は、美容整形が流行ってこの前のニュースには高校や大学受験に受かったから、お土産に顏の整形をしてあげると言う記事がのっていた。わたしなど、髪は薄く、禿げあがり、眉毛もすっかり消えてしまったので、金に余裕が出来たら、毛染めでもするか?と考えたりするが、どんないいじっても変わり映えしないのだからこのままでも良い、とも思う。
男にも女にも色気というのがすっかりなくなってしまった。それは肉体の内部から出る歓びや快感、悲しみであるのだが、感情自体も縮んでいるので貧しく消えていったのである。
昨日、あるカラオケ会の発表会があった。行こうと考えていたが、アルバイトもあったので行かなかったし、興味も強くなかった。三年間ほどそのカラオケ教室に通い、きたえてもらったが、最終的に自分の考えとの食い違いが出てしまったのであった。指導者である女先生は、わたしの歌いかたが、しゃくり上げている、といって肩を強く叩いたが、今考えればしゃくって歌うことのどこが悪いか!と言い返してやりたい。しゃくる、とはいったん音程を下げてあげるように歌うということであるが、歌手のように歌わなければならないということはなく、自分の歌い方で歌うべきなのである。女先生は九州大会で優勝経験があり、音楽大学の先生の指導を受けていると言っていたが、本人はきれいな声で鳥がさえずるように歌いかたをしていた。わたしはその考えとはまったくちがう。その歌の世界の生活や人生を歌いあげれば良いと考えていたし、今もそうである。
最初の話に戻ると、今の時代はあまりにもきれいきれいな社会になりすぎて、本当の美や生から遠ざかってしまっている。それが少子化になり、社会の活力を失わせているのである。根本に戻って取り組むべきではないか?と思う。