ブログ - 202504のエントリ
母は二十年前に亡くなったが、自分の生き方にはいつまでもついている。精神的にも肉体的にも彼女から育て上げられた。母であると同時に女であった。男は頭がよく、ハンサムで、背が高く一流の仕事についていなければならないと考え、自分を付属中学校に入学させ、進学高校に入れたのであったが、成績は悪く、三流大学を出ても臨時の肉体労働をして生きてきた。そして、末期を迎えようとしている。母の希望とはまったく異なる生き方をし、世の中に反抗する考えを持ったわけであるが、後悔はしていない。
自分が女を見る場合、常に母の目線を感じ、意識し、彼女の理想像を基本にしていた。それが強すぎて緊張しておどおどしなたが性への好奇心は強かったのであった。今の若者はそのあたりはどんな考えなのかわからないが、基本的には同じではないか?と思う。そして、女の場合はどうなのか?にも興味がある。
昔のそのあたりの仕組みはかなりわかるが、例えば札幌すすき野殺人事件など、記事に書かれている親子関係なんて、なかなか理解しにくいのである。両親が愛する娘の言うままになっていることがわからない。自分の息子が高校に遅刻ばかりしていたので、根性入れて頑張らんとやっていけんぞ!というと、そんな大昔のことを言うて、と言い返され、言葉を言うしなったことがあった。それが原因であったのかわからないが、今は音信不通である。
若いころ、女と付き合っていて、言われたことがある。体に迫ろうとした時、あなたとは心を大事にしたいから、そんなことはしたくない、と言われた。三人ほどから言われた記憶がある。我慢できずにかなり強引い交わり、付き合いを続けた。結局、その女たちとは結婚には至らなかったが、考えさせられることがあった。わたしはケチでスケベで欲深い男だから、女たちにプレゼントの一つもせず、ある女とは結婚式も上げなかった。多分女たちは私をもっと見極めようとしたのではないか?そして、結婚式を挙げなかった女は私を今でも恨んでいる。
だが、性欲はだいじにすべきものである。神が与えた最高の快楽であるから、大事に取り扱わないとひどい目に合う。性欲は女を美しく見せてくれるし、エネルギーの源である。インポになった今でもかすかな性欲はのこっており、生きてる楽しさの一つである。
もし、女から体の関係を求められたらどうなるであろうか?魅力のない男であるからそんなことはありえないが、まちがって求められたら、あなたとは心を大事にしたいからもうしばらく待ってね!と言い返してやりたい、昔、言われたみたいに。
昨日の日曜日は、憩いの里、という町営浴場に行って、ステージで歌った。松島アキラの(湖愁)という歌で、ほとんどの者が知らず、観客も四、五人であったが、自分にとっては大事なイベントであった。よく通る声をしている、と褒められるのであったが、加齢のせいか出るはずの声が出なくなっていたのである。練習もおろそかになっていたので、前日に、家の中で何度も歌った。声がかすれることに気づき、蜂蜜をなめた。
出場者は十人程でほとんどが老婆ばかりであったが、化粧をし髪を整えて来たので、女らしくなっていた。自分も珍しく茶の迷彩模様のシャツを着、白のスーツを着てステージに立った。ここで歌うのは久しぶりです、と言って歌い始めるとスムーズに声が出て、高い部分も軽く出た。(悲しい恋の亡骸は・・・)歌っていくと気分も若返っていった。
控室に戻ると、良かった!と皆がほめた。
ある女がいつまでも前に立っているので、手を握ってやった。笑顔を見せた。
彼女は自分がそのカラオケ教室に入ったころ、自分のそばに寄ってきて、弁当をくれたり、長い髪が頬に触れんばかりに近づけたのであった。ところがある時、電話口で、デートしない?と誘うと、忙しい!と激しい口調で一蹴したのであった。それで離れたのである。
後追いはしないのでそれであきらめたが、もっと若ければ後追いをしてストーカーになったかもしれない。
ここが判断の難しいところで、惑わされて、彼女の家を訪れたり、待ち伏せをするかもしれない。そして事件を起こすのである。ここの誤解が男にも女にも解けない。猫の中にもそんな猫がいる。甘えてくるので指を伸ばすと、爪で引っ掻くのである。
引っ掻かれないためにはその場を離れるしかない・・・。
小説を書き始めて、また、筆が停まっている。毎度のことであるが、進めない。ストーリーをあれこれ変えながら、迷いの中に落ち込んでいた。苦しかったが、今、吹っ切れた。要は起承転結を考えすぎていたのである。一般の小説はそうであるが、そうでなければならないというのではない!カフカやベケットの小説を読めばわかる。カフカの(城)では主人公が測量士の仕事を求めて城の周りを彷徨し、ラストは闇の中で虚空を見上げる場面で終わり、ベケットの場合は(名づけえぬもの)に見られるように、同じことを何度も繰り返すばかりである。これは作者の狙いであった。
だから、今書いている(時の谷間)という作品も、ラストで主人公が安楽死の列車に乗っていくことになっているが必ずしもそのラストにもっていかなければならないわけではないのである。人間の一生であっても死ねばこのよから消える定めになっているが、霊になっておなじ人生を霊の世界で繰り返してることだって考えられる。
芸術にはそれだけの広がりがあるのである。これで書き進めることができるようである。
セクハラ!だと騒がれる今の時代においてはそのせいで失職することもあるので、女の心を十分に知っておかなければならない。彼女があなたに気のある時は近づいたり、遠くからでも見つめたりするのであり、そんなときは肩を軽くたたいたり、体に少し触れることがあって大丈夫であるし、気があれば顔が明るく輝くのでもある。そんなこともわからずに強引にでれば失敗する。それと女が短いスカートをはいたり胸を露出しがちに見せる場合があるが、それはそれが恰好いいということであって、誘惑しようとする気があるからではない。また部屋こ来ない?と誘って、来たからと言ってそれは体を許すことを了解したからではない。そこで体に触れようとして、セクハラ!だと言われることはある。
もてる男をよく観察していると、特別に良い男ではないのである。女心に問うてみれば、彼のそばにいると心が落ち着きいい気分になるという返事が返ってくることがある。わたしの持論はもともと一つであったものが二つに分かれてしまい、それがまた一つになろうとしていると考える。聖書の創世記には女は男の肋骨であったという箇所があるのである。
若いころ、女にガツガツしてすけべったらしい目をしているといわれたわたしは、今では時々物を見るような目で女を見ている時がある。もう一度、あの頃に戻りたいと思うが、このままでもいいとも思う。ずいぶんひどい目に合わせたし、ひどい目にあったこともあるが、それが、生きる、ことであったのである。
七十七歳の今になっても女の心には理解できない部分が残っている。男と女は肉体的にも精神的にも異なるので、その特性を尊重しあって生きるべきだと考えていたが・・・・。日常生活での言動は理解できるが、性と愛の領域においてはわからないのである。
ある女と付き合っていて、初めてアパートを訪れると、部屋の戸はすべて開け放って寒い風が入っていた。それは自分が変な気を起こさないようにするためで、彼女は既婚者の男とは一切性行為はしないという方針だと分かった。それはトラブルになって問題を起こさないためで、そのことは理解できた。それから、何か月か後に浜辺の海鮮料理店で食事をした帰り、後になって、あの時、いくらでもチャンスはあったのに手を握ってくれなかったね?とつぶやいたのであった。
それほど警戒心の強い女の手など握れるはずはないし、そんな気にもならないはずなのにである。そのことが彼女にはわからない。結局、彼女はそれから何人かの男と付き合いその時の性行為の中身を自分にくわしくしゃべったのであった。腹立たしい思いで聞いていたが、おかしな女だとも考えていた。彼女は今、認知症になって老人ホームに入っているが、見舞いに行きたいなんて思いはしない。
これに似たようなことはたっぷり経験してきたが、今、自分のテーマになっているのは、(愛と性)の関係である。愛があって性に続くのか、性があって愛に続くのか?過去の経験を振り返りながら考えても結論は出なかった。教会の先輩・女信者に問うと、信仰一筋でやってきたのでそんなことには興味も関心もありません!という者がいたが、結婚して夫も子供もいるのにそんな答えはないでしょう!と言いたかったが、言葉を止めた。
両者は関係がある場合もあるし、関係がない場合もあるというのが答えではないか?二者択一的に処理しようとするからわからなくなってしまうのである。量子力学的に、シュレディンガーの猫の言葉にあるように、猫は生きてもいるし死んでもいるのである。それに聖書では、初めに言葉があった、言葉は神である、というのは間違いである。初めに動きがあった、言葉はそれを説明するために用いられたが、言葉は不完全で本質を見失った、ということではないか?
若いころ、自分は共産主義にはまっていて、王や神はことごとく否定していたがいろんな経験を積み重ねるうちにことの道理が見えてきた。NHKの集金人をやっていた頃、労働組合を立ち上げて活動し、23年間戦ったが、結果的に組合員からはしごを外され、送別会さえしてもらえなかった。それは自分が会社の言う通り、仲間の受け持ち地域に入り、仕事を奪ったからであった。そのことを追及されたが、自分の地域は自分で守れ、と言って無視した。仕事を奪われて首になった仲間もいたのである。
退職して貧乏になった今、そのことがはっきり見えてきた。
今の政治家たちに政治家と呼べる者がいるだろうか?人相からして極悪人たちである。
民主主義は利益供与して票を取るブローカーになってしまった。政治的人間、というのを政治学科で学んだが、ここに橋をつければ皆のためになる、と言って政策にし、土地の値上がりを手に入れるのが政治家なのである。
どんな国も組織も集団になれば運営するものが必要になり、結果的に統率者が出ることは否定できない。ピラミッド型のスタイルができてしまう。それが急角度の傾斜になるのかなだらかな民主主義のかたちなのか?の違いだけである。
貧しい者に分け与えるような人物が出るのは期待できないのであろうか?
今の時代をどんな言葉で言い現わせばいいのか迷ったが、このタイトルに落ち着いた。現代の混迷ぶりはウクライナ戦争、ミャンマーの地震・内乱、トランプの関税政策、環境破壊と際限がなく、将来の不安に満ち溢れ、希望の光が見えない。毎日のニュースを見ても、トランプ氏、プーチン氏、金正氏、習近平氏と毎日、顔が並び見てる者にとうてい幸福感を与えそうにはない。逆に嫌な気分になる頃が多い。
なぜなのか?
彼らには人を包み込む笑顔がないのに、なぜだか一国の王の地位が定まっているのである。昔の統治者には王としての余裕と風格があったのに、失礼な言い方になるが彼らの表情は犯罪者に近いのである。トランプ氏がなぜ高い関税をかけるのか誰もが理解できないし、逆にそのことによって相手国の首を絞めあうことになる危惧は持たないのか?不思議である。不法侵入者を自国に追い返してもいるが、彼らを自国民として育てようとは考えないのであろうか?以前は同化政策と言って自国民にする政策があったではないか?
環境政策においても野良猫に不妊手術を施すことしか考えない。増えては困るのは確かであるがそこまですべきであろうか?これが人を対象とすれば差別・暴力になってしまう。すべてが人間中心で自己中心的なのである。宗教も普遍的な視点を失い、統治者の言うままである。
新しい思想と、王が生まれなければならない。