ブログ - 202304のエントリ
春になって体が元気になったが、自然を相手にする仕事も増えた。昨日は一キロメートル先の山にバイクで竹の子掘りに行った、坂道を上り、あちこちに伸びている竹の子を鋸で切り取り、皮をむいて肥料袋に入れる。一時間ほどで袋に一杯になり、帰宅して庭で火を焚き、一時間ほど茹でる。冷まして、冷蔵庫に入れ、翌日の朝、袋につめて賞味期限の紙を貼り、店に持って行った。すると午前中に、二十袋が完売で4500円になった。
うれしかったが、次の日は足腰が痛んで軽く動くことが出来なくなった。敷地内の庭には夏野菜の植え替え青しなければならないし、それより雑草が伸び放題になり、刈らねばならない。
虫の数が減って、ちょうちょもテントウムシもいない。異常な状態である。大気汚染だけは順調に進んでみな花粉症に悩んでいる。おれたちが自然を破壊したのだ。
畑にゴミムシさえいなくなった。全く見ない。昔はこのタイトルの俳句を読んだのであるがそれは遥か昔のことになってしまった。これから先、自然や世の中はどうなるのであろうか?どうしなければならないのであろうか?
肥えたんやない?と言っただけでセクハラ扱いにされるそんな状況から変えねばならない。蝶もゴミムシも猫も顔をぬぐうが顔を綺麗にするためなのか?掃除のつもりなのか?わからない。だが、どう考えても彼らには美醜の感覚があるのではないか?と思ってしまう。花だってどんな色・形にすればきれいなのか?知ってるにちがいないし、知っていなければ神の教えに従っているのかもしれない。
ただ人間だけは美容整形などして、自然本来の美を忘れてしまい、人工的な考えに頼り、ここでも人間中心主義なのである。
レア、はそれだけで素晴らしいことなのである。奇形であろうが不具合であろうが変わっていようがそれだけが多様性の生命世界・異種混合の世界において活気を産んでいることにきづかあねばならない。
肥えたんじゃない?と言われて、セクハラだと言い返し、私の肩をつねった女は勘違いしてるのである。わたしは肥えたから醜いという気持ちではなくたんに肥えたというつもりであったのでであるが、女は肥えたと言われると醜いと考えてしまうということに気づかなかった自分にも責任はある。区別と差別の微妙な境界線であるが、今の世の中はその線引きの部分で混乱している。背が高い低いも同じである。
差別には優劣の視点がからんでいるが区別にはそんなのはない。区別がいけないということになると言葉を発することはおろか表現すること自体が出来なくなるし、今ではすでに作家や芸術家などの世界において彼らが表現の窮地に陥っていることはまちがいない。出版社自体が表現に対してすごく神経質になり、とうぜん表現者も出版契約の条項の中で微細な締め付けをうけている。
外国の政治家などもセクハラ・パワハラで裁判に訴えられ、多額な賠償金をとられている時代である。無名なわたしだってこんなブログを書いていて、いつ訴えられるかわかりはしない。恐るべき世の中になってしまった。だが、この揺れ戻しはくるし、こなければ世の中は消滅してしまう。多様性は世の中の活気を生み、変革作用をおこしているのである。独裁国家と自由主義の国家を比較してみればよくわかる。
わたしたちは先人たちが苦労して勝ち取った自由と民主主義をまもり、育てなければならない。
二十代の頃、東京で十年間ほど生活したが、女から体をつねられたり突かれることはなかった。ところがこの町に帰って来てから、そんなことは四、五回はある。直近では前のブログに書いている通りであるが、その前にはカラオケ教室で気性の激しい女先生から歌い方が上手くならないと言って、肩をつねられたり叩かれたりしたのであった。年上の男である自分にそんなことをするなんて!と腹が立ったが、励ましの意味だと解釈して黙っていた。その前はカラオケボックスの受付女であったが、図書館で司書としゃべっていると、(どこかで聞いた声)だと思ったと言って、背中から肩を突いて来た。また、公共施設のソファに寝転がっていたら、従業員の女から背中を強く突かれた。ちがう男も、そんなことをされて殴ったということもあった。
個人的にいえば、それだけの親しみがあったのだ、と考えて問題にしなかったが、今回、体が肥えたんじゃない?と言て、セクハラだ!となると黙っておられなくなった。世界的にもセクハラがニュースになってしまっているが背後でその流れを操っている者がいるとかんがえればほっとくわけにはいかない。言論統制、だという者もいて、あるいはそうである、と考えてしまう。批判的、否定的な発言が出来なくなってしまい、言葉の美容整形ばかりが進んでいる、それは恐るべきことである。
それに男の体を突くなんて、男を見下げていると考えるのは自分だけであろうか?
昨日もその店に、もみ殻を置くために行った。値札をプリンターから出していると、そばの倉庫でその女が野菜の袋づめをしていたが、声は掛けなかった。店内に入って出された野菜の値段を見、前日出した玉ねぎはどうなってるか見て回っていた。そこで、その女の背後に近づいてしまい、さてなんて声をかけようと考えながら、お嬢様!とかけてみた。三度目に気づいて振り向き、またわたしになにか言いに来たのね?って言うから、ようするにほめればいいんやね、お嬢様ってどう?ときくと、うーんと考え、あんまり的外れだとからかいになるわ、と言うので、奥さま!はどう?というと、まあまあね、と言った。ふーん、自分がお嬢様だと思ってるんか?と考えながら、彼女がきちんと化粧をして長い髪も輝いているのを見ていた。この前は顔がたるんでいたが化粧のせいで細くなっていた。俺の言った言葉が相当きにかかっていたのだろう。それを知り合いの男にしゃべると、そんな言葉を女にいうたらいけん、あそこの店ではなあ、女の従業員に仕事以外の長話をしよったら警察を呼ばれたんばい、と言った。ほんとうかどうかわからないがしつこく、自分みたいに声をかけたらそんなこともあり得ると考えた。バイパス手術で入院してた時に看護婦たちからつきまとってると言われたことがあった。
近所に同姓同名の男がいた。年老いて認知症になり、女を見ると誰にでも抱きつくようになり、最後は精神病院に入れられて亡くなった、という噂を耳にしたkとがあった。
今度はおれの番かな?なんて冗談に考えているかもしれないが実現する可能性がないことはないだろう。
その店にはもみ殻を出荷しているので、週に2回は行く。先日、もみ殻を出し終えて、レジの女としゃべっていたら、もう一人の女が事務所から出て来たので、声をかけ、「この前から気になってたけど、あなた、顔が大きくなったね?肥えたんじゃない?」と軽口をたたいた。すると、「そんなことないわ。お腹だってでていないし・・」と言って、「その言葉はセクハラよ」と付け加え、私の肩をつねったのであった。一瞬びっくりしてやり返そうと相手の肩をつねってやると、硬い筋肉質であるのがわかった。彼女は挨拶もきちんとする女で副店長になっていた。入社した頃は細面の美人であったが、十年たってたるんだような顔になっていたのであった。この前、彼女はは配達に出ようとしていて私に気づき、遠くから、中村さん!と大きく叫んで手を振ってくれた、おれに気があるのか?と期待していたが、セクハラ!と言われてがっかりしていたのである。
彼女との会話を聞いていた年増の女(差別用語?)は話を聞きながら笑っていたが、先日私がトイレから出てくると、戸はきちんと閉めてね!というので、わかったとこたえると、「立派なものを持っとらっしゃるやろうけど・・」と言い、後で思い返して、「もっとるよ」と言い返してやれば何と答えたか?と思ったのであった。
今日も、その店に行ったが、朝の七時ころだったのでその女とは出会えなかったが、今度、会ったらどうしようか?と考えるのである。別に気にするような言葉ではない、といえばそうであるが、この前のヤフーのニュースで背が低いと言われて、差別だという記事がのっていたので気にかかるのである。近頃、セクハラ、パワハラなどの言葉が異常に出てくるので、自分で何とも思っていない言葉が上げ脚を取られることはありえるのである。
それにこの流れがこのまま進んでしまえば、美しい、醜い、背が高い、背が低い、など形容詞が使えなくなってしまい、美容整形された言葉に占められてしまう。それは差異の否定と消滅であり、雌雄別種から雌雄同主、単細胞への逆戻りになる。それはやめさせなければならない。多種多様の共存性をすててはならないのである。
コロナ禍が落ち着きをとりもどしたか?に、見えるが、人間にとってコロナはなんだったのか?という疑問は残されたままである。宗教界はもとより、哲学界、文学界、または有識者の世界においても収束の声ばかりで本格的な答えを求める気配は見られない。また、第二、第三のコロナあるいは予測も出来ない厄難が待ち受けているようにしか考えられない。
莫大なエネルギーと金を費やしながら、すべてが人間中心主義から派生しているのでいつもの堂々巡りでしか終わらないのである。
数学の仮定法ではあるまいが、全知全能の神を仮定しなければ方程式がとけないように、ほんらいは神を持ち出さなければならないはずである。聖書をひもとけば神はすべての人を救う、と啓示してありながら、人を生贄として殺す逸話がある。ソドムとゴモラの話、アブラハムの息子殺し、ノアの洪水など書かれており、キリストの磔刑においても神が人類を救うために、子であるキリストを犠牲にしたのである。
突き詰めるならば神にとってコロナは悪ではなく単なるウイルスであり、ウイルスは神の子なのである。すべての生命が神の子であるから、すべて平等に愛されているのである。神はなぜコロナを世に送り出したのか?
コロナは人を殺そうとしているのではない。自分が生きるために生命に取りつかなければならないからそのようにしているのであり、それが結果的に人の体を破壊してしまうのである。人が生命を食べなければ生きていけないのと同じなのである。
人が他の生命をどれだけ破壊しているのか?を、考えればそして、コロナに殺された人の命はどんなものなのか?を考えればコロナ禍において、もっとちがう発見が出来るはずである。